努力の本質

今の時代は「努力」というと、何か無理をして一生懸命に頑張ることであると認識している人が多くいます。特に努力は実るという言葉あるように、必死に努力をすれば必ず結果が出るようなことを語られます。そのためか、努力しても努力しても結果が出ない時はどうせ無理と諦める人も増えたように思います。現在、使われている努力の意味は学校で教えられたものですが本来の努力とは何か少し深めてみたいと思います。

そもそも努力というものは、何処から来るものか、それはその人が何かやりたいことがあって自然に湧き出てくるものです。例えば、吉田松陰に「やむにやまれぬ大和魂」という言葉があります。分かっていてもとめられないほどにやりたいという気持ち、つまりはそこまでしてでも成し遂げてみたいと根底から湧き出てくる素直な心のことです。

素直な心を持つ人だけが、本来の努力をし、素直な心が出なければそれは努力とは呼ばないと私は思います。

幸田露伴にこういう言葉があります。

『気づいたら自分の行いが自然と努力になっている。それこそが努力の真髄であり、醍醐味である』

つまり、努力は無理にするものではなく気が付いたとき自然に努力になっているというものです。本来の努力は自然発生的に素直な心から発生するからこそ、その人の主体的なやりたいことを尊重することでその努力が本来の努力となり結実するのです。そしてその結実の意味は結果が出るということではありません。醍醐味という言い方をしていますが、深い味わいがあるということです。そして努力の解釈としてこう続きます。

『努力には、1.直接の努力、2.間接の努力、2種類ある。目の前の課題、今やるべきことを精一杯頑張るのが直接の努力であり、物事の準備や頑張るための基礎的な力が間接の努力。人間、時に努力の結果を云々しがちだけど、努力は自発的に頑張ることであり、自然な行為。結果は気にせず、努力すべし。もし、努力が思う通りの結果にならないのであればそれは努力の方向を間違えている。もしくは、間接の努力が足りないから。準備し、やる気を高め、意志を持ち、努力を継続する。』

自発的にやっているからこそ結果が気にならない、それが自然の行為なのです。自然にやっている人は、別に誰かのためにやるのでもなく自分のためにやるのではなくただ好きだからやっているのです。私も何でも好きになる性格らしく、すぐにのめり込んで深めていきます。特に集中すると労苦よりも、努力していることが味わい深くやめるにやめられなくなっていくのです。そして幸田露伴はこうも言います。

『「好んで為す」といっても、そのあいだに好まざる事態が生ずるのは人生にありがちな事実である。その好まざる場合が生じたときに、自分の感情に打ち克ってその目的の遂行をするのが、すなわち《努力》なのである。』

勿論、努力は好きで楽しくても時折とても苦しいときがあります。そんな時は、自分の感情に呑まれるときで価値観を壊す必要が出てくるときです。そういう時には、感情に呑まれていようがいまいがそれにすぐに気付くために実践を続け、実践を通して感情に打ち克ってその上で平常心を取り戻す、それがすなわち「努力の本質」であると私は思っています。

努力とは素直から出てくるものだから、如何に平常心を維持するかということが何よりも優先されるのです。平常心は、感情を揺さぶりますから大事なのは感情よりも理念や初心が優先されるだけの胆力を磨くということでしょう。

本来の努力、自然のままあるがままに楽しみながら日々を精進していきたいと思います。

素直の能力を使うとは何か

人は最も分かっていないのが自分のことだとも言います。他人から指摘されてはじめて人は自分のことが分かります。自分でいくら分かった気になっていても知らず知らずのうちに自分のことを思い込み勘違いするものです。そしてその自分の価値というものを歪ませていくものです。人間にはそれぞれに価値観というものがありますから、価値観を自覚していないまま自分を知ったと思っていてもその価値観自体を見つめることなしに自分を分かるということはないのです。

しかしこの価値観を見つめるには、価値観を超えたものの見方ができるようにならなければ価値観に縛られてしまいます。私が伝えている聴福人の実践、「人の話を素直に聴ける能力」も、そのために必要な自己修養の要なのです。この素直さというものは能力ですから、使う人と使わない人がいるだけです。このもって生まれた素直さという能力を活かす人はその素直の能力を使って話を聴くことができます。そこで自分の価値観を超えた見方を知るのです。素直の能力があるのに使わないというのはもったいないことですから常に自分を見つめるためにも素直の能力を使いその力を伸ばしていくといいと思います。

しかしその素直になれないのも自分の価値観に固執するからです。その固執した分、周りとの軋轢は発生します。自分の存在価値をどのように捉えているか、そこに価値観の固執から抜け出すヒントがあると私は思っています。アメリカの実業家で著述家にジェリー・ミンチントンがいます。その人の言葉の中に存在価値のことが分かりやすく解説しています。

「生まれつき価値のある存在なのだから自分の価値を他人に証明する必要はない。」

人はそもそも生まれつき存在価値があるものです。何かができるとかできないとか、成功とか失敗とかでその人の存在価値が変わるということはありません。いちいちそれで存在価値を変えていたら面倒なことになります。人の存在価値とは生まれつきのものです。しかし周りを見渡せば、存在価値ばかりを気にして自分ができなければ存在価値がないと思っている人も沢山います。自分が存在価値がないと思っている人は、同じような人のことも存在価値がないと見なすものです。これも一つの「価値」観念ですがそこに気づくことが最初の入口かもしれません。

他にもジェリー・ミンチントンは、自分の価値観を正しく知りその価値観を超えた見方をするための言葉を記しています。ここでは価値観のことを「思い込み」と認識するといいと思います。

「何かが真理であると思い込むと、それが実際に真理であるかどうかは関係ない。私たちはいったん思い込みにとらわれると、まるでそれが真理であるかのようにふるまうようになる。」

「私たちは知性、善悪の判断、倫理、道徳、正義、善良さ、礼儀作法などの面において、自分が他人よりも優れていると思い込んでいる。自分のやり方が正しく、他人のやり方は間違っているというわけである。もしそう思い込んでいないなら、自分が他人を評価できる立場にあるという無神経で独善的な思い込みはしないはずだ。」

思い込みというのは、自分を正当化していくものです。しかしもしも謙虚であれば、ひょっとしたら間違っているのは自分ではないかと素直の能力を活かして振り返れるものです。そしてその姿勢になってはじめて人の話が聴ける自分、価値観を超えたところで物事の実相に気づく境地に入るとも言えます。思い込みが外れないのは、価値観に固執し感情に呑まれるからです。その理由は自分の正当化に他なりません、自分を正当化するからこそ周りを変えようとするのです。

「私たちが他人に向かって、『あなたのせいですごく腹が立つ』と言うとき、実質的には『あなたのせいで私はすごく気分が悪いのだから、あなたは変わる必要がある』と言っているのだ。しかし、たとえ他人が私たちの感情的な問題の責任を受け入れてくれても、満足のいく解決策にはならない。症状を取り除いても原因がそのままである限り、同じような問題がまた発生するからだ。」

「自分の気分が悪いことを他人のせいにすることは便利だが、他人にそんなに大きな力を与えてしまうと、自分の立場が弱くなるだけである。そうなると、私たちは他人が親切にしてくれるを期待しながら、生きていかなければならなくなるが、そんなことは実際に期待できるはずがない。」

「注目すべきことは、私たちが他人を変えようとして、様々なテクニックを駆使することではなく他人の不快な行動を変えさせるために私たち自身がかなり不快な行動をとっているという事実である。」

そしてこうも言います。

「現実を直視しよう。変えることの出来ない現実は、受け入れる以外に方法はない。」と。

今、起きてることの現実を受け容れないところに問題があるのでありそもそも問題は自分の価値観から発生してくるものです。なぜならある人にとっては造作もないことでも、ある人にとってはトラウマと向き合うほどのこともあるからです。現実の直視もまた素直の能力が必要です。しかし問題は決して悪いことではなく、問題があるから物事の本質に気づき直すこともできます。結果ばかりを心配してプロセスを味あわなければ気づくことができません。

人は気づくことで初心を思い出しますし、気づくことで改めて自分の何を変化させていけばいいかを発見しますから価値を自分で勝手に決めてはならないのです。

そしてジェリー・ミンチントンはこう勇気づけます。

「かなりひどい過ちも含めて、過ちを犯すことはきわめて正常である。私が犯した過ちは、私の知性や人間としての価値とは関係ない。」

「私たちはどんなに愚かな過ちを犯しても、それをすすんで認めるべきである。私たちは死ぬまでつねに過ちを犯しつづける存在なのだ。過ちを犯しつづけるかぎり、自分がまだ生きて学んでいることの証である。」

失敗や成功がその人の値打ちを決めるものではありませんし、その人ができる人かできない人かがその人の存在価値を決めるものでもありません。その人の存在価値は、何もしなくても何もできなくてもそのものが価値なのです。それが存在するということであり、その存在そのものが価値であることに気づくことが本当に自分を知ることなのです。

今の時代は、かつての教育を刷り込まれその課題で苦しんでいる人たちがたくさんいます。しかしこれも気づくための善い最良の機会と捉え、一緒に歩んでくれる人たちや信頼する人たちともに新たな価値に気づき素直の能力を磨いていく砥石にしていけばいいと思います。

分からないことがあっていい、知らないこともあっていい、そしてできないことがあっていい、あってもなくても両方善いのが一円観です。引き続き、聴福人の実践を味わい盡していきたいと思います。

福の修行

昨日から新潟の春日山に来て、上杉謙信を深める機会がありました。春日山神社、毘沙門堂、その後、林泉寺に参拝しました。上杉謙信の生き方や思想は、この地に多く遺っています。上杉謙信の「謙信」は、法号であり戒名を不識院殿真光謙信と言います。そして林泉寺には「第一義」という謙信の座右が山門の入口に掲げられています。この法号のはじめにある「不識」というのは禅の達磨大師の言葉です。

「不識」には林泉寺HPにこう紹介されています。

『仏道修業に励んでいた謙信公は、林泉寺八代目の益翁宗謙大和尚「達磨大師の言った不識とはどういう意味か」と問いました。苦修練行数カ月の末、ついにその本旨に達しました。不識の中味に合致した生涯を見出した謙信公は、自ら「不識庵」という号を名乗りました。不識というものの意味は、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉です。不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」ということです。』

自ら毘沙門天を志し、戦国時代に生まれ義を貫くことを覚悟し生きた謙信にとってこの「不識」というのは人生の大きな課題だったように思います。何がもっとも善いことなのか、何を信じて生きるのか、その時、経典の中にあった良し悪しをも全て忘れ、無心に私我を手放し捨て去っていく中に「第一義」があったように思います。私も理念で「子ども第一義」としていますが、この第一義はそのまま、あるがままという意味があります。つまりは、子どものままを貫くともいい、子ども心のままともいい、常に子どもの側から物事を観続けるという意味でもあります。

また毘沙門天というのは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」と言います。言葉としては「全て丸ごとを聴く」という意味を表しています。そして毘沙門天は七福神の一人に数えられています。私が実践を重んじる「聴福人」というのはこの毘沙門天の生き方、つまり如何に全てを聴いて信じて福に転じるかを徳目に実践するということです。

「義」というのは、古来から続く日本人の生き方を貫くときに顕現するものです。そのあるがまま、自然、かんながらの道の上には義は燦然と輝き子孫たちへの道しるべとして風土の彼方此方に文化として継承されていきます。

毘沙門堂で四方の自然を感じながら毘沙門天を念じ続け、神人合一しようとした謙信の祈りが聴こえてくるかのような感じがしました。人間の世界での筋道もありますが、人間よりも先に自然の筋道というものがこの世には存在します。その人間の小我を手放し、自然の大我を悟るというのは第一義の実践によって実現するように私は思います。

常に自然を優先しているという意味が、「謙」でありそれを「信」じるものとして自然あるがままであったその生き方に私は「義」の本質をいつも感じます。義と言えば、日本には義将と呼ばれる風土自然を顕現した武将たちの生き様や真心がいまでも語り継がれています。

古来から大切にしてきた忠義という言葉も、今の時代は色あせて別の意味で使われます。そのうち自分の価値観に囚われて思い込み、忙しさに流されて大義を忘れて自分をも亡くしてしまっている人も増えたように思います。

こういう時代だからこそ毘沙門天から福の徳目を学び直し、もう一度「第一義」を座右にしていくことが必要になってくると思います。引き続きカグヤは「子ども第一義」を掲げ、この時代に温故知新した福の修行を積み重ねていきたいと思います。

 

 

表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。

鐵から学ぶ

私たちは明治期に諸外国の技術に追いつくために、それまで永らく先祖たちが磨いてきたそれまでの技術を一旦捨てました。例えば、製鉄法でいえばたたら製鉄という砂鉄を炭で熔かして純鉄といった玉鋼を作る技術から、西洋のコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた炭素との合金である銑鉄を作る技術になりました。

それまで少量ですが質の高かった技術よりも、質が下がっても大量に便利につくれる効率の良い技術の方を優先したとも言えます。産業革命はそこから発生し、大量生産をした戦争の武器を含め、様々な鉄製の道具が作られました。

世の中の道具を見渡してみると、車も船も飛行機も、それに身近な建物から生活道具に至るまで鉄は利用されています。

地球の3割は鐵でできていると言います。マグマの鉄がなければ磁場を作り出すことはできませんし、磁場がなければ地球は紫外線や太陽風を避けられず生命は存在できません。さらに生育の観点から見れば、血液が赤いのは赤血球が赤いからであり、その中のヘモグロビンなど鉄イオンがなければ酸素を肺から身体の隅々にまで送ることが出来ません。他にも植物をはじめすべての動物には、体内に酸素を供給する鉄分の補給が欠かせません。つまり光合成、呼吸、窒素固定、DNA合成、等々、地球上のあらゆる生命体はこの鐵がなければ生きていくことできないほどかけがえのない存在なのです。

地球は鐵の塊であり、その周りを水で覆っているだけとも言えます。水の惑星とも見えますが本質は鐵の塊が星の姿であるのです。その星の根本が隕鉄で生成されて、私たちは星の熱にいのちが暖められ地上でいきることができています。

話を戻せばその鐵の生成において、単に効率を優先して大量に生産すればどうなるか。鐵を生成する本物の技術が消失するということは、本来の鉄の質が低下していくということです。

例えば、日本刀でいえば慶長年間以前に製作された刀を古刀とんでいますがこの年代を境として日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があったそうです。慶長年間以降の日本刀を新刀と呼びますが不思議なことに鉄の精錬技術が未熟であったはずの古刀期の日本刀の方が刀鍛冶同士の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多いといいます。戦争により大量生産がはじまることで優れたものが消失してきたとも言えます。これは明治以降と同じ状況です。常に質は戦争によって下がっていきます。

大量に生産するということは、質を求めていくこととは異なります。ここでの質とは本質の質のことです。つまりは「それは何であるか」が失われていくことです。本来の鐵が次第に鉄ではなくなって別のものになっていく、それでは自然から得た智慧をも失っていくとも言えます。

先人や先祖たちは、そのものの性質を見極め、そのものの性質に合わせたものづくりを大切にしてきました。もっとも理に適った方法で、もっとも理に沿ったものを作ったとも言えます。それは自然循環に逆らわず、地球が喜び、生き物たちが活かされる技術でした。人間都合でだけの技術は、質が低いものとして扱わず大切にしてきたからそのものの伝統技術が今に光っています。

鐵は今、まさに過渡期にきていますがこれは人もまた過渡期になっていることを意味します。如何に明治時期に失った技術を温故知新して今の時代に譲り遺していくか、これは生き方を含め真摯に向き合う必要がある様に私は思います。

鐵を深め、鐵から学び直していますがそこに観えてきたのはいのちを活かすという自然の智慧を鐵が持っているということです。歴史の中で変えてはならないものが何で、変えていくものが何か、本質を維持するために今の世代の責任者として今できることを子どもたちのために遣り切っていきたいと思います。

 

 

形骸化の意味

形骸化という言葉があります。これを辞書でひくと「誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうこと」(大辞林)とあります。

形骸化というのは、そのものの本質や実体が別のものに変わってしまうということです。目的意識をなくしてただやってるだけのものは、形骸化であって本質的ではありません。よくマンネリ化という言葉もありますが、なんとなく続けているうちに何も変化がなくなってただやっているだけということも形骸化の一つだと思います。

これらのことは質の問題であり、質を求めることをやめた状態とも言えます。何のためにやるのかを忘れる人は、物事をすぐに形骸化させていきます。主体性というものは、自ら積極的に本質を深めていきますから主体性が喪失してくると形骸化するとも言えるのです。

如何に形骸化しないか、それは言い換えれば如何に活性化するかということですがそれは常にスクラップアンドビルド、日本語では温故知新し続けていかなければならないのです。

改善という言葉もありますが、これはやってみたことをフィードバックしてそれを改善していくことです。よく勘違いしている改善は、先に計画を立てて計画に合わせて修正していくことを言いますがこれは改善の本質ではありません。改善は、まるで植物や野菜の種を蒔いて育ててみて一通り終わってからそこから蒔き時や収穫時期、草刈やその他の寄り添いなどを全て観直しそれを次の年、また次回に反映させていくことです。

つまり自分の思い通りにいかないのを修正するのが改善ではなく、次回に向けて謙虚に見直しをかけてそれをまた新たに挑戦していくことが改善なのです。本来の改善は何のためにあるか、それは常に目的が本質から外れないようにあるのです。

それが改善を怠り目的が本質から外れたらすぐに人間は形骸化をはじめマンネリ化が進みます。そうするとわけのわからないまま意味のないままの業務が増えていくだけですから業務省力がまったく進まなくなるのです。本来の業務省力は、本質を維持するための改善を続けて革新を連続していくことです。そのために、フィードバックは欠かせない大切な実践になり、それを行うことで次への課題が明確になり改善が進み本質が維持されるのです。

何のためにと行動する人は、業務省力が出来ている人とも言えます。世の中、業務過多になれば心が忙しくなり、丹精が籠りにくくなります。そうやって仕事を増やし続けていたら大切な本質までも見失ってしまうかもしれません。

子どもの仕事をするからこそ、常に本質からブレない実践を積み重ねていきたいと思います。

徳の貯金

世の中には一般的に目に見える利益というものと、目に見えない利益というものが存在するように思います。それは目に見える給与と目に見えない給与というものがあることと同じで、直接的に得られるものと間接的に得られるものがあるのです。

今はあまり語られることがなくなってきましたが、「徳」というものがあります。直接、銀行に現金を貯金をするものとは別に、間接的に天に徳を貯金をするということがあります。本来、先祖が働いて貯めてくださった徳の貯金を使って私たちは今の時代を生きられるのであり、子孫は同じく今の私たちの徳の貯金を使って生活していけるとも言えます。

もしも自分の世代だけで、先祖の徳を使い切ってしまえば次世代の徳の貯金は枯渇し目に見える直接的な利益も目減りしてきます。例えば、自然の資源も次世代のために豊かな自然環境を残してそれを育めばその恩恵は次代に譲れます。しかし今使い切れば、次代は恩恵はありません。そうなれば今のような食べ物もなく、今のような材料もなく、今のような多様な環境もありません。

今、かつての歴史においては最高に豊かで贅沢な時代だと言われています。平和も続き、食べものも豊富にあり、ありあまる富の中で私たちは生活しているとも言えます。しかし、これがこの先どうなるのか、子孫たちはこれを維持していけるのか、少し考えればこのままの生活が如何に徳の貯金を使い果たしているかが分かります。

天の貯金といえば、石油などの鉱物資源もそうです。地球の数十億年の歴史の中で蓄えられた地中深く累積した微生物の死骸の化石が、あっという間に使い果たされて枯渇しています。これでは次代は鉱物資源が使えずに、苦しい現実を迫られます。もしも持続可能な燃料にシフトして、大切に使っていけば次代へそのまま譲れますがそもそも自分の世代や自分のことしか考えないとなくなってしまうのは自明の理です。

本来、徳というものは思いやりや真心で損得抜きに行うものです。そういう行いの一つ一つが天にある徳の貯金を殖やしていきます。そうやって殖やした貯金を使って私たちは今の生活をするのだから、もっとも大切なのはその貯金を減らないようにすることと殖やしていくことを考えなければなりません。

どんな生活を送ることが徳の貯金を積むことなのか、どんな生き方をすることが徳の貯金を減らさないことか、そういうことを学び直す必要があるように思います。先祖たちが偉大だったからこそ、私たち日本は今のような裕福さを得ることができました。その先祖の遺徳を偲び、先人の偉業に感謝していくなかにこそ、その徳を継承するヒントがあるように私は思います。

引き続き、先祖たちの生き方から徳を見出し、徳の貯金を子孫へ譲っていけるように温故知新した様々な生き方の実践を伝承していきたいと思います。

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

明るさとは

人は向き合うことで成長しますが、向き合うというのはとても前向きなことです。なぜならそれは素直であるときにはじめて向き合えるからです。素直さとは何か、それは物事の善い方をみて全てを必然としてその境遇を受け容れて感謝に高めていくことのように思います。

素直ではない人は、物事のマイナス面や悪い方ばかりをみてしまいます。そして不平不満や文句、言い訳をします。もしくは自分に都合の良い解釈ばかりをしては思い込みの中に閉じこもっていくものです。しかし実際に起きた出来事は、自分を磨くための砥石であり本当の自分に出会うキッカケでもあります。

その一つ一つのどのように向き合っていくか、そこには素直さや明るさ、前向きさ、そういうものが必要なのです。つまりは素直というのは根が明るいことをいい、従順であることが素直というわけではないのです。

根が明るいというのは、どんなことがあってもどんな境遇化でもそれを学んでいこう、もっと善いことにしていこう、きっと善いことになるといった信心を優先しているということなのです。なんでも楽しんでいく心は、発酵する心と同じです。どんなことがあっても笑っていく、どんなことがあっても嬉しい楽しいしあわせと唱えて歩む人が素直なのです。

稲盛和夫さんにこういう言葉があります。

『常に明るさを失わず努力する人には、神はちゃんと未来を準備してくれます。』

これは前向きに明るく信じている人は、信じているうちに必ず次の準備をしてくれているということです。後ろ向きで暗く、疑いを持っている人は疑っているうちに自滅したり自暴自棄になって未来を先に放棄しているのかもしれません。

しかし誰しも最初から素直になるのではありません。強く優しい人に成るために、徳を磨き立派な人格を醸成していくために様々な出来事を通じて素直を学んでいくように思います。

つまり人生の中で七転び八起きしながら素直を磨いていくということです。そこで何よりも大切になるのは、「明るさ」だということです。明るい人の周りには明るい人が集まってきます。仕合わせな人の周りにも仕合わせな人が集まりますし、楽しい人の周りも楽しい人が集まってきます。暗い人には人は寄ってきませんし、自分も寄り付きたくありません。

自分の生き方が、自分の周りも決めていきますから自分の人生を自分の運命をどのように生きていくか、その時々にどのような生き方を優先するか、何を選択するかは自分のことだから自分次第なのです。

ここでの明るさの定義は、どんな時でも明るい太陽のような真の明るさです。太陽のような陽徳をもてるように、日々にお天道様に祈り、お天道様の教えや導きを感じ、お天道様をお手本に強く明るく逞しく生きていく人には常に希望に満ちた未来が見えているように思います。

先人たちの生き様から今の生き方を学び直して、素直を磨いていきたいと思います。

 

 

フツウとは何か

世の中には「フツウ」という刷り込みがあります。自分は人とは違わない、もしくは同じであると思い込み、自分はフツウだと信じているものです。何がフツウなのか、毎回フツウの話をしていると疑問に感じるものです。世の中ではこのフツウのことを、常識的にはとか、こうするのが当たり前、平均的にはとか、無難に考えるとという前置きがあります。

しかし、世の中をもう一度ゼロベースで見渡せばこのフツウなるものは存在せず全てのものはフツウではないのです。それに誰かが信じているフツウは、人それぞれでフツウではないのです。このフツウを押し付けはじめると、組織を含め人間関係では本質的な対話が難しくなります。フツウという概念を自分が持っていないか、そこを見つめることから自分の刷り込みに気付いていくのがいいように思います。

例えば、日本では常識であることは他の国では非常識であることがあります。本人が産まれ育った環境の中では一般的だったことは、別の環境に移ればそれが異常であることがあります。これは誰にしろ言えることで、家庭環境が違ったり今まで育ってきて身に着けてきた価値観がその人の中の常識になります。

しかし一歩外に出たり、新しい環境の中で何かをやろうとすればそれぞれに常識をもっていますからそれがぶつかり合うのです。御互いに自分が間違っていないと相手を変えようとすれば相手は頑なに変わらず、こちら側も苦しい思いをするものです。そして相手も自分が間違っていないと常識に縛られれば相手の異常さに辟易するものです。御互いに常識という武器を使って相手に負けまいとして常識の声はどんどん大きくなります。どこからか世間一般、その他大勢の理論をかざしても、本質からズレていたらその常識は結局は通用しないだけではなくあべこべなことを言っているだけになるのです。

このみんなこうしているや、自分は常識的だとか自分を思い込むところにフツウの落とし穴があるように思います。最初から自分は変わっているからや、みんなそれぞれに価値観が異なり個性があるからや、持ち味が違うからと信じていればあまりフツウであることに固執することはありません。

人はフツウという言葉で大事なものを失っているように思います。与えられたものや授かったものに感謝することや、他の人とは異なる自分の天命があることを知ることや人がそれぞれに異なる生き方があっていいと寛容に許すことなどが失われているようにも思います。

一斉画一にフツウを押し付けるのは、それぞれの人たちが持つ大切な役割を気づきにくくするだけではなく変化を恐れさせる理由にもなります。フツウはと思うのではなく、本質的にはどうか、理念から考えたらどうかと自分の刷り込みを取り払うことから常識は崩せるように思います。

変化は常識を壊すことですから、常に自分の中にあるそれまでの認識を刷新していく挑戦を続けていくことで温故知新していけるように思います。時代は変わっていきますし、日々に変化は已みません。だからこそ周囲も色々というし、周りの人たちのことを考えて周りの目をみてやらないことは思いやりではないかもしれません。敢えて自分から変人になっていくことは怖いことだとも思いますが最初の一人になる勇気を出して新たな常識を産み出していくところに社會の変化成長、進化があるように思います。常に自己革新はフツウをなくしていくことだとし、新たな変化を創造し続けていこうと思います。