対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。

 

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

自然の道~御恩に報いる~

天地の間には自然の道というものがあるように思います。

これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。

例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。

全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。

太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。

自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。

今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。

それが自然の道を思い出させる初心なのです。

四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。

子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。

常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。

準備の本質~未来との向き合い~

物事を成功させるのに「準備」という実践があります。如何に平素から抜かりなく準備を怠らないかというのは危機感のことで、常に危機感を持って日頃から準備をしているかという心の持ち方のことです。

準備といえば色々な諺があります。

例えば、「転ばぬ先の杖」というものであったり、「備えあれば患いなし」、「遠き慮りなければ必ず近き憂えあり」、「後悔先に立たず」などもそうです。これは準備というものが如何に先々の未来に大きな影響を与えているかということの格言です。

あのイチロー選手も「準備というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく」といって日頃の準備を一切怠らずに鍛錬していると言います。その証拠に「ハイレベルのスピードでプレイするために、ぼくは絶えず体と心の準備はしています。自分にとっていちばん大切なことは、試合前に完璧な準備をすることです」とも言います。未来に先延ばしたくなる怠惰な怠け癖を自ら断ち切って、この先に起こり得る全てのことを本番同様の危機意識でシュミレーションして日頃の準備に臨むのです。

準備というものは、その人の持ち味を活かすための最大最高の実践です。事前にあらゆる未来を正面から逃げずに向き合い、もしもの最悪の事態の時にどうするかを考え抜く覚悟、または最高のチャンスにどのようにするかを考え切る覚悟、その上で何を用意しておくかを日頃から取り組むのが準備ができている人の実践です。実際の仕事でもほとんどが準備に費やすだけで本番で使うのは1割から2割の配分で準備したほとんどが使わないままになっていると思うと、本番とは常に平素であることを再実感するのです。

準備は実力の発揮と密接につながり、準備をしていればその時々で準備しているものを出せばいいのだから存分に自分の実力の全てを出し切れます。逆に準備が足りていない人は出せないからさらに言い訳はどんどん増えていくばかりで現実に苛立つばかりで停滞してしまうものです。

老子が「無為自然」の境地の中で、何もしないのが無為自然なのではないことを思想で語ります。無為自然の本質は、未来が来る前に全て準備済みで先に予測して未来を先取りしているからこそ現実が来た時に余計なことをしないという境地で実践するから結果的に何もしていないように観得るだけです。

これは自然農などと同じ仕組みで、未来は予測できると自覚しているからこそ予測できない全てに準備しておこうとする日頃から危機感を持つことではじめて全てを先取りし余計なことをせずにその作物が育つことができるのです。来たものを選ばらない生き方というのは、先取りの準備、その心構えと実践ができているということです。

そのために未来は分からないからどうしようもないではなく、未来は分からないからこそ準備しようと未来を正面から向き合う心の強さを鍛えるために準備の実践を積み重ねる必要があるのです。言い訳がでるときこそ、それは未来に向き合っていなかったということに向き合う必要があります。そしてそれは信じる力を育てるのと怠ったと戒めてまた信を鍛錬していくしかありません。信があれば人は未来と向き合えますが不安や不信は未来から逃げようとする言い訳になります。

自然界にいる彼ら野生の生き物たちのように常日頃からいのちを輝かせて危機感を育て、健全な自然の危機感と一体になり、大切ないのちを守り、自分を全体貢献に発揮できるように準備を怠らない実践を積み重ねていきたいと思います。

死生観~心の赴くままに~

人は本当は誰もが心の赴くままに生きていきたいと願うものです。しかし実際は、数々の刷り込みの中で自分の心を見失い自分の心が一体何かが分からずに迷い惑い悩み、そしてまた心から離れてしまい苦みます。その心が何か、その正体を理解するには深く自分の心を静かに見つめてみないと分かりません。

しかし実際の人生では日々の喧騒に追われ、静かに自分と向き合う時間をなかなか持てないものです。それが病を得たり、死を迎えたりするとき、はじめて自分の心と向き合うことができるようにも思います。

死生観というものがあります。

これはどう生きるのか、どう死ぬのかという心の在り方を見つめる観点です。これは自分の人生をどう死のうかと考え抜けば貫くほどにどう生きようかになってくる、つまりはどのように生きてどのように死ぬかという問いの中に自分の心を見つめられるのです。

この死生観というものは、時間を何に遣うか、その志を何にするかという自分の心との自問自答です。これを持つ人は、その後の人生の遣い方、時間の遣い方が変わってくるように思うのです。時間とは自分の与えられた人生ですから、それをどれだけ真剣に真摯に生きるかはその死生観が基本になっているかが左右するように思います。

吉田松陰が弟子に与えた有名な詩があります。

「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ」

私はこの詩を讀むとき、どうしても心に繋る言葉があります。それが「君たちはどうかいたずらに時を過ごさないように」という言葉です。

これはきっと吉田松陰が自分自身に常に言い聞かせた言葉だったのではないかと感じます。人生は短い、忙しさを理由にして自分の人生を無駄にはしないでほしいという願いでもあったのでしょう。

吉田松陰の遺書には、「人生には誰にも四季が備わっている」と書かれました。ここにも死生観が観てとれますし、また「生死は度外視してやりたいことをやりなさい」とも言いました。

純粋さというものは、如何に自らの心を静かに向き合い、その心を透明にし心の赴くままに透徹に生きることではないかとも思います。素直さや謙虚さというものは、自分の心に近づくための大切な人生修行実践目録の要諦のようです。

忙しさを理由にせず、言い訳を当然にせず、自分の決心した「志」に生きることが人生の仕合せ、出会いやご縁、そして「思い」に死ぬことかもしれません。志を持ちなさいといった吉田松陰の言葉を胸に、真心のままにかんながらの道を精進していきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

心の実践~誤魔化さない~

自分自身であるというのは、自分を誤魔化さないということでもあります。周りに合わせて自分をつくり自分の評価が下がらないようにいつも誤魔化していたらそのうち本当の自分のことも分からなくなってしまうものです。

例えば、最初から今の自分のようになったわけではありません。今の自分のようになったのは何かの体験や経験から今のようになっています。本来、幼児期の子ども達は自然の姿に近いものでそれぞれが自分のままあるがままが出ています。しかしそのうちに何らかの教育を施され、気が付いたら何かに合わせている自分になっているものです。

何に合わせているのかはその人の先入観と思い込みですから、合わせているものが取り払わられない限りいつまでも刷り込まれたものは残るように思います。もしもそれに気づいたならば如何に自分を自分で誤魔化さないかということが大事であろうと思います。

誤魔化すという字の語源は、二通りの説があると言います。ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。これは弘法大師空海の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからであり、もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説で「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによるそうです。

どちらにしても、正直ではないという意味です。自分の都合やとはいえを持ち出しては、心のままであることを我慢する。心が思ったことに正直であるよりも、世間の評価や周りの目を気にしては自分を出さないということです。

こうやっていつまでも誤魔化していると、そのうち誤魔化した方が自分になり、本来の自分が何だったのかすら忘れてしまうことになります。だからこそ、自分が心で思ったことを自らが実践していくということ。誤魔化さず、正直に自分の信じたように信じて行じていくということが本来の自分を取り戻す方法のようにも思います。

自分が心で思ったことを如何に行動に移したか。それはやってみたいと思ったことを周りに伝えて、思い切ってやってみた質量に比例するのかもしれません。周りに合わせて我慢してきた分だけ、自分自身を出せなくて苦しそうな人たちをたくさん見かけます。

刷り込みや先入観、常識に囚われて希望を持てなくなってしまう人もいます。子ども達、あの幼児期にはそんな子どもはほとんどいませんから後天的に沁みついていくのでしょう。その心の沁みつきに負けないように、自分の心の赴くままに行動してもいいと見守る安心できる環境があることでその人もまた救われるかもしれません。最初からあった自由をどう取り戻すのか、周囲の大人たちの目覚めに懸っているようにも思います。

心で思うことをカタチにしていくことは自分の心を解放していくことなのかもしれません。子どもたちのように心を解放し自分を開放していくことが、思いやりにつながり、絆を深め、みんなを安心させ、みんなのお手本になっていくのかもしれません。

日々の心の実践を優先していきたいと思います。

自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

常識という刷り込み

世の中には「常識」というものがあります。これは世間一般としてはこういうものだと自分が思い込んでいる制限の世界のことです。または自分が見聞きした中で定めた自分のルールと言ってもいいかもしれません。辞書には、健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別と言います。

これをアルバート・アインシュタインは、『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』と言います。

よく学校から社会人になって、最初の3年間に今まで学校で学んだことを御破算にしてやり直しなさいと新人教育する必要があるのもいつまでもこの常識に縛られて本当の社會人になれないから学び直しをしてもらうのです。学校の常識は世間の非常識とも言いますから、社會貢献や仕事の意義、考え方を見直してもらうために研修したりするのでしょう。

その人が持つ先入観の堆積物とは、それまでにその人が何を知識として思い込んできたか、何が刷り込みとして持っているかというその人の知識の副産物のことです。常識を破るというのはその知識で彩られた世界を勇気を出して毀してみる、恐怖があっても敢えて取り組んでみて新しい自分に体験を通して変わっていくことでその常識は新しいものに刷新されていきます。

しかしよく考えて観れば、18歳までに身に着けた刷り込みとは何でしょうか。そしてよく自分は常識的(普通)だという人の言うその常識とは何でしょうか。

それは世間一般の先入観に一番長けている、世間一般の常識に一番執着している、言い換えれば自分を合わせるのが得意だということにもなるように思います。自分を世間一般のものに合わせて造りあげてきて、その自分になりきっていて、その自分を維持していくのができる人になっているともいえます。刷り込みを持って他を刷り込んでいくのが教育だとしたら、誰かによってそういうものだと教え込まれて自分でその本質や答えを考えなくなればもうそれは先入観=常識そのものの人になっているということです。少し考えればそんなのは果たして自分そのものであるのかということに疑問が湧くはずです。

本来、人間は思い込みを取っ払ってあるがままに物事を素直に観たら本質や真理はその時々で変化します。百通りの真理があり、千通りの本質があります。それがその人らしいその人の観方です。それをこうでなければならないと、もっとも正しいと思い込んだルールを自分の中で頑固に維持し、それを他人に押し付けて周りが間違っていると矢印を他人に向けていたら気が付いたら自分が一番その思い込みや先入観に囚われてしまうかもしれません。

人は皆、誰しもその人らしさを持っていることで周りの勇気になります。自分らしさというのは、自分がオープンでフラット、何ものにも執らわれずあるがままに物事が観得る常識に囚われない自分でいることです。囚われない自分、それを自信といってもいいかもしれません。

だからこそ、まず自分自身の常識を疑ってあまりこうでなければならないという先入観に縛られないようにすることが自分自身であることや、自分らしい自分を信じる実践になっていくように思います。

世間の常識は常にその人らしさを奪っていきます。自分が勝手に思い込んだものを誰かを攻撃し否定するためにつかってはどうせ無理だと他人の自信まで奪うというのは、その人の常識の問題だということに気づいた方がいいかもしれません。むしろ、その刷り込みを使って人を非難し否定し攻撃するその心の態度が自分らしさを潰していることに気づく必要があるのです。

きっとこうだと自分勝手に思い込む前に、素直な心で新境地や新しい自分との出会い、未知との邂逅やご縁の有難さを心で求め遣りきってみたら見たことのない素のままの世界に出会えるかもしれません。

自分の殻とはこの自分の常識や偏見、先入観の事です。

その自分の殻を破っていく面白さが、人生の醍醐味であり愉しさでしょう。そういう人に出会っていくことや、そういう人に学んでいくこと、そういう人になっていくことではじめて自分自身に出会えると思います。またそういう人が語る言葉には大きな夢があります。できないのではないかと思うことに挑戦した仲間の行動から、勇気と自信を沢山いただけるのも、その刷り込みに真っ向から挑んでくれた面白さ、自分らしさに気づかせてくれたからかもしれません。

久しぶりにある人の講演を聴きにいきますが、あの頃よりももっと面白い自分らしい自分になっているか、偏見のコレクションをどれくらい捨てきったか、自分自身、色々と確かめたいと思います。