実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

自分の道を征く~天分を活かす~

人間は誰もが不平不満というものが出てきます。幸せすぎれば感謝を忘れ、与えられ過ぎれば御蔭様を忘れます。そして自分のことを心配しすぎれば、他人との比較をはじめます。今、あるものがもっとも自分に相応しいとは思わずにないものばかりを求めては努力をしなくなるでは不平不満も悩みも解決することはありません。

この「相応しい」という言葉は、私は実践することではじめて体得できるように思います。実践させていただける有難さ、今の自分のことを深く知り、それを受け容れるからこそ実践を積み重ねていこうと思う気持ちが湧いてきます。

老子にこういう言葉があります。

「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」

これは足るを知るということと、志を実践するということは同じであるという境地で語られた言葉です。足るを知るという言葉は、皆が知っている通り、ないものねだりをするのではなくあるものの方を観て感謝していこうとすることです。自分が天から与えられた徳やもっとも相応しい能力を使って、如何にそれを世の中に還元していくかを考えていこうとするものです。

自分が何を天から与えられているか、それを知るために私たちは日々に研鑽を積んでいるといっても過言ではありません。あれもほしいやこれもしたいなど、我欲もあるのでしょうが実際は天から与えられたものとはそれは合わないことがほとんどです。誰かの人生をみてはああなりたいやこうなりたいと憧れもしますが、実際は自分にしかない天命があります。孔子も、五十にして天命を知るというように、実践し研鑽を積み重ねてようやく50歳になった時に天命を知りました。そう簡単に、自分が天から何の命を受けているのかは自分自身も分からないように思います。

だからこそ志が必要です。志を持ち、精進を続けるという境地は自分の天命を信じて自分が何に向いているのか、どこに向かうのかを日々に怠らずに実践を続けることで自分の天命に近づいていくように思います。そこにはないものねだりはなく、あることが有難いと実践させていただけることに感謝の心があります。

以前、教育者の森信三先生が遺したある言葉に出会ったことがあります。そこにはこの老子の境地が書かれているように思い、如何に実践人であり続けるかの大切さ、豊かに富むことと、志を高めることの両輪の価値を再認識したのを覚えています。

『人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。』

天分を活かすというのは、まずその自分に不足がないと思うことからです。自分に与えられているものはすべて備わっている。だからこそ精進して引き出していこう、それをなんでもお役に立てるのなら立てていこうという心です。古今より、その天分は他人様のお引き立てにより引き出され活かされることが多いと聴きます。独り自ら粛々と実践を続けていると、それを憐れんで助けてくださる方々がいるように私は思います。それはまるで天が、陰ながら一生懸命に真摯に腐らずに素直に純粋に努力する自分のことを可愛そうだと憐れんでくれるかのようです。今の自分が最も相応しいと思えるのも、そういう境地を大切にしたいと思っているからかもしれません。また同時に生き方の先輩の凄まじい覚悟に、志がますます強くなるからかもしれません。森信三先生はこうも言います。

『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』

決して報われたかどうか実感できなくても、それでも信じて念じて祈り、そして本気で遣りきっていかなければ何事もはじまらないのだと仰います。これはまた有難い言葉で、大きな勇気と今の自分で相応しいと実践を心より楽しもうといった境地にも入れます。二度とない人生、どんな生き方をしたかどうかが天分を全うすることにつながっています。

この先の時代を生き抜いていく子どもたちの天命のためにも迷わずに自分の道を歩んでいく心の強さ、そして心の豊かさを真心で体現できる自分でありたいと思います。

犬の記憶~なるようになるさ~

先日、ある本の中でドリス・デイの言葉に出会いました。その本は、「犬が教えてくれたほんとうに大切なこと。」(シンシア・L・コープランド著)という本ですが、私も幼い頃から犬と一緒に暮らして犬から様々なことを教えて貰った記憶があったことを思い出しました。

幼少期から17年、その後は15年、今では6年、人生のほとんどを犬と暮らしています。その犬は単なるペットではなく、自分の人生のありとあらゆるシーンで時には親代わりになり、ある時は親友になり、ある時はメンターになり、またある時は家になるというように自分の心に如何なるときも寄り添ってくれました。悲しい別れもありましたが、それよりも一緒に暮らし散歩したときの当たり前の風景の中にあった倖せの感覚はいつまでも心の中に遺っています。

ドリス・デイの言葉ではこうあります。

「深く思い悩んだときには、ただ黙って献身的にそばにいてくれる犬こそが、他の何からも得ることのできないものを与えてくれる」

何もしてあげられないけれど心全部丸ごと惜しみなく寄せてくれることにどれだけ心は救われるか、犬は愛するもののために惜しみない愛情を与えてくれます。人間が与えているように錯覚していますが、実際に与えられ続けているのは私たちの方でそれに気づかなくなってくるだけとも言えます。感謝を常に受け容れる犬の姿には感動し、学び直すことばかりです。

またこのドリス・デイの歌う有名なものに「ケ・セラセラ」があります。これはスペイン語で「なるようになるさ」という意味です。激動の人生の中で愛を失わず全てを受け容れる、そしてなるようになるさと信じるということの価値を感じます。

歌詞を紹介したいと思います。

「幼い少女だった頃
私は将来何になるのってママに尋ねた
美しくなる? お金持ちになる?
そうしたらママはこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

成長して恋に落ちて
恋人に尋ねた
将来は何が待っているの?
日々虹に恵まれた生活を送るの?
そうしたら恋人はこう答えたの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

今は子どもに恵まれて
子どもたちは自分は将来何になるのって私に尋ねるの
美男子になるの?お金持ちになるの?
だから私は優しく答えるの

ケ・セラ・セラ
何事もなるようになるのよ
未来のことなど予測できないわ
自然の成り行き次第よ

ケ・セラ・セラ」

思い悩んでみてもどうにもならないものはどうにもならないもの。人生は丸ごと運任せ、流れる川に浮かべた舟のようなものなのかもしれません。流れ着く先がどこなのか、そしてこの先どうなるのかは何も分からないものです。自分らしくいられずに常識に囚われ不安になれば誰しも未来が心配になったりするものです。

そういうときは、自然の成り行き次第だから「なんとかなるさ」の心で寄り添ってあげたいと思います。自然界は常になんとかなるさで心を寄り添い支え合う仲間たちばかりです。その仲間の一員である人間、自分の存在を間違わないようにしていきたいものです。

今日もなるようになるさと明るく楽しく朗らかに感謝を丸ごと味わう一日を過ごし、心を自然の成り行きに任せていきたいと思います。

伸びる人~植物から学ぶ~

先日、「伸びる人」について考える機会がありました。伸びる人の第一条件とは何か、それは「言い訳をしない人」であると言います。言い訳をしないというのは、誰のせいにもしない人ということで自他のせいにしない人のことです。

確かに周りのせいにしたり何かのせいにしたり誰かのせいにしてたら、自分が変わろうとはしなくなっていきます。自分が正しいのに周りが合わせないのが悪いんだとどこかで思っていたら自分が伸びることをやめてしまいます。健やかな成長というものは、自分を直し続けることに余念がないということなのでしょう。

そしてこの伸びるということについて考えてみると、私たちの身近にもっとも参考になる先生がいることに気づきます。それは植物たちです。

植物たちは自然界の中で思い通りにはいかない日々を送っています。強烈な日差し、梅雨の長雨、強風や霜、豪雪から病害虫の到来、動物や人間からの奪取まで、数えきれない困難の中で自分の一生を遂げなければなりません。種から芽を出し、花を咲かせ実をつけてまた種になるまでに数々の困難が待ち受けています。

もしもその植物たちが「言い訳」を覚えるならばどうなっているでしょうか。少し考えただけでどうなるのかは明白です。

植物たちというのは、自然の恩恵の中で自分の方を変化させていきます。どんな天候であれどんな環境であれ一生懸命にその中で自分を変化させては伸びようとします。この伸びようとするというのはまるで自然界への不平不満で自然界の方が悪いんだと文句を言うのではなく、むしろ全て丸ごと恩恵感謝であることを忘れずに自然界に合わせて自分の方を正しく変化させていこうという素直な姿です。

その素直な姿があるからこそ、正しく直し続けようと伸びる態度が泉のように滾々と出ているのでしょう。植物たちのように一生涯、産まれ落ちた場所からほとんど動かないからこそ、自分を変化させることで自然循環の輪の中にピタリと入っています。

人間は言い訳をする生き物ですから、言い訳をしないように準備を怠らないようにしたいものです。心が着いてきているのと、心を亡くし追われているのではその伸びる機会をも見失っているのかもしれません。常に何が来ても順応するという柔軟性は、常に何がきても自分の方を変えるという準備を怠らないということでしょう。準備を怠らない人は言い訳することがありません。来たものを選ばずに、自分を変えるというのは真摯に伸びようとする自然の心、正直の実践です。

正直ものというのは、目先では損をしているようでもあの植物たちのように長い目でみたらみんな大変なことに適応し、徳を積み、長い期間この地球で生命たちの循環のお役に立っています。

植物の生き方を見習い、伸びていく尊さを大切に伸びる人の徳を積み重ねて成長を磨いていきたいと思います。

自分に正直~自他信頼の境地~

先日、自分との信頼関係の築き方が他人との信頼関係の築き方であるという話をお聴きする機会がありました。つまりは自己信頼=他己信頼といことなのでしょう。これを少し深めてみたいと思います。

たとえば、「他人のせいにする」という生き方があります。これは何かの事物があったとき、すぐに環境のせいとか、誰かのせいとか、忙しさのせいにします。これは幼少期から沁み付いてしまうもので、叱られて嘘をついたり上手くいかないときに言い訳をしたりしているうちに次第に甘えが入り自己形成に沁み付いてしまうのかもしれません。そしてこの「他人のせいにする」に落とし穴があるのは、他人のせいにはしないと自分で思っている人でも「自分のせいにする」ということも「自他のせい」は変わりませんから結局は同じ甘えに陥ってしまうことです。

自分への甘えが入ってくると斜めに物事をみてしまい、何を直せばいいかが分からなくなります。素直になれないと物事の実相は正しく顕れず、そのことから迷い惑い自分を見失ってしまいます。そういう時は一度立ち止まって、自分は今、正直かどうか、誰のせいにもしていないかと自分を見つめ直す必要があるように思います。

この「自分に正直」というのは、誰のせいにもしないということでありそれはお互い様なのだからお互いに素直に実践を積み重ねましょうという境地です。そして自分に正直であるというのは自己信頼にとって何よりも影響を与えます。自分というものをどれだけ丸ごと認め、自分を信じて実践を続けるか、そこには心が決めた覚悟に対してその自分の努力を肯定しています。誰のせいにもしないというのは、自分が甘えなければいいということであり、直すのは自分自身であると常に自己発奮し自助努力する心の態度を優先するということです。

人は誰もが目標に挑む際には、みんなそれぞれに足りない中でも必死に努力しているものです。そういう仲間や師友にめぐり会えることは稀ですがもしも得ているのならみんな自他一体の克己の勝負をそれぞれに続けているものです。誰かのどうこうではなく、自分はどうありたいかということを何よりも重んじ、自分がそうなっていくことに余念なく精進します。これが道であり、道は自分の足で歩むからこそ前進している実感があるのです。

自分の思い通りにいかないことを他人のせいにしたくはなりますが、しかし思い通りにいかないからこそ思った以上のご縁に出会える。そしてそこにはやはり自分を甘やかさない自己信頼があって同じように他人に対しても甘やかさない他己信頼があるように思います。ご縁に気づく感性というものも、この自分に正直である人でなければなかなか磨かれないように私は思います。

つまりは「自分に正直」であることこそが、何よりも「自他信頼の境地」でありそれは天に対しても誠であるという真心の実践者のことです。まさに孟子にある「仰いで天に愧じず、俯して人にはじざるは二の楽しみなり。」の嘘のない楽しい人生道場です。

自分の決めた自分の在り方に対して嘘をついたり誤魔化したり言い訳したりしないでいいように、初心で決めた実践を感謝で愉しみつつ、日々を精進していきたいと思います。

独りと仲間の合一

人間は一人ではできないことを仲間と協力してできるようになります。自分一人でできることなどは実際にはほとんどなく、多くの人たちの力をお借りしてはじめて事は為されていきます。人は傲慢や慢心になるとき、焦りが生まれそして役に立つということの本質を忘れてしまいます。感謝の心があるからこそ人は自分が何の役に立っているかを自覚し、御蔭様の心を知るからこそ素直に自分が役に立てていることの倖せを実感できるようにも思います。

人は自分と向き合い自分に打ち克つ孤独な精進を積み重ねていかなければ、結局は矛盾を受け容れられず刷り込みに負けてしまいます。本来の焦りや慢心とは、自己との対話や自己への内省といった本質からブレナイ実践を猛特訓して本来の自己や自信を確立していくしかありません。本当は何かと自ら深めているからこそ、ものの本質を見抜き見通し心が強くなり自分を強くしていくことができるのです。そこには自己への甘えを断つ必要があり、自分を自分で甘やかさないとった自律と自立の精神が必要です。根性もここが必要で根気をもって日々に実践をしていき、不満なら実践を高めて厚くし増やしていけばそのうちその人格が磨かれていくように思います。

しかし今度は仲間との信頼関係は、敢えて甘え合える関係を築けなければなりません。自分からどれだけ胸襟を開き、心をオープンにして、共感し、気遣い、他人ごとにせずに、絆やつながりを切らさないように助け合い、信じて、預けて、任されて、頼まれて、認められ、愛されて、感謝されるような関係を創造し築き続けなければなりません。それは仲間を心から信頼し、心から仲間に信頼されるといった絆を結ぶ心が必要になります。本来の思いやりもここで必要で、思いをもった人たちと一緒だからこそ、仲間の「思い」を大切に思いやり続けて真心で自分のもっとも得意なところや持ち味を最大限活用して貢献していくことに集中することでその人格が周りに認められていきます。

そもそも感謝の心というのは、猛特訓できる仕合せ、仲間がいる仕合せを感じているものです。自分が道に入り、道を歩けるのは果たしてだれの御蔭なのか、そして道を独立自尊して歩み続けつつも、そこに学問を朋にする同志が一緒に歩んでくださることも、それは本当に有難いことであると思います。

何を見失うから当たり前のことが観得なくなるのか、それは足るを知らず、ないものねだりをしては完璧を目指し評価ばかりを気にするから自信がなくなるのです。本来は足るを知り、自分に与えられた天分をどれだけ周囲に役立てているかは自分が自他をどれだけ自ら尊敬しているかに由るのです。

子どもに譲ろうとしている生き方と働き方があるからこそここに一切の妥協があってはならないと思います。譲っていく真心は、己を忘れ周りのために真心を盡すことで子々孫々へとその「思い」が継承されていくように思います。

日々に何を優先しているかはその人の生き方や働き方に出てきます。自分の生き方や働き方を日々に内省してチェックし、改善を続けてもっとも至善な生き方、もっとも自然な働き方にチャレンジしていきたいと思います。

負けない強さの本質~信託感謝~

先日、ブログのコメントで「負けない強さ」を教えていただきました。

『「負けずに生きていく強さ」が必要です。この「負けない強さ」というものも重要な強さではないかと思います。「打たれ強い」「辛抱強い」「我慢強い」「粘り強い」「根気強い」という言葉もありますが、何があっても「志を貫く強さ」が欲しいものです。仲間と励まし合って「倒れても倒れてもまた立ち上がる」そんな「何度でも戦える強さ」を持ちたいと思います。』

とありました。まさにこれらはチーム戦で使われる「仲間と励まし合う」言葉で、一人は皆のために、皆は一人のためにと協力しているときにこそ人は真の強さを持つのではないかと私は思います。

自分に自信があるとかないとか、自分は強いとか弱いとか、それぞれ個人のそれは比較対象の中で自分で認識しているものです。誰と比べて自信があるのか、誰と比べて勝負するのか、それはその人の我と評価から出ていることがほとんどです。

先日、ある仕事をする中で仲間の有難さと尊敬を感じた一面があります。

その人は、お客様のためにはどうやればもっとも善いかだけの判断で行動するのです。私のこともなんの躊躇いもなく活用し、お客様の倖せを信じて最善を盡すのです。自分の力があるとかないとかは別に関係がなく、常にゼロベースで仲間を信頼して新しいことに挑戦するのです。

そのエネルギーは、新しいアイデアや創造性、そして応援や勇気を仲間にもたらします。私自身もその行動する背中を見守りながら、自分が何をなすべきかが自明するのです。自分の強さなどは関係がなく、理想や理念のために仲間を信頼して大切な”みんなの思い”を守るのです。その唯一無二の仲間と一緒に取り組む倖せ、その最幸のチームとの一期一会、まさにこれが「負けない強さ」の本質ではないかと思うのです。

自分だけでやっていると思うのではなく、仲間がそこまでつないでくれたネガイがあることや、仲間が自分を信じて助けてくれたオモイがあること、仲間がいるというアンシンや、仲間とともに歩んでいるんだというココロがあるからこそ真の強さが持てるのです。

この真の強さがないものは、何かがあるとすぐに勝負の前に力尽きてしまいます。本来の勝ちたいというものも、何があっても勝ちたいという貪欲さからくるものです。しかしこれも仲間と守りたいものがあるから託されて負けるわけにはいかないから勝ちたいのです。もちろん自分一人、己に打ち克つ孤独も必要ですが、理念や目標を同じくする仲間があるからこそ信頼ができます。仲間との絆は甘えや弱さと勘違いされますが、信じて任されたという責任、その信託は厳しいものなのです。

背景に持っているものや背中に背負っているものが大きければ大きいほどにその人は負けるわけにはいきません。そして対するものが大きければ大きいほど自分だけでは乗り越えられないものです、つまりなにがなんでもと必死です。だからこそ人類はみんなで手をつなぎ、心を一つにして「仲間の信頼」という絆によって力を繋ぎ合せて一緒に負けない強さを持ったのではないかと思います。

仲間を信頼するものは逆境をバネにさらに強くなり成長して負けくなってきます。疑いこそが自分だけの力に固執し、信じることで我執を手放せます。信を中心にするチームは、いつも愛に溢れます。任せた、託した、命じた、これらの運命共同体の信託はチームの絆の証でもあり結束です。

人間はいつも極限の中で新しい自分に出会い今の自分を刷新していきます。その時に仲間の信託と仲間への感謝が基盤にあることは自分を一回りも二回りも偉大に成長させるうえで何よりも重要なことではないかと思うのです。結束なく戦うものはとても弱いように思います、なぜなら「結束」こそが人類が手にした自然の叡智であり力の源だからです。

この「信託感謝の強さ」を御縁を活かし丸ごと磨いていきたいと思います。

 

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

かけがえのない存在~労わり労う~

今の時代はよく無理をしてからだを壊す人が多いと言います。無理に無理を重ねては気が付いたら大変なほど酷くなっているでは、そこから回復治癒するのは長い時間がかかります。本来は、健康を維持するために未病といって自分の状態を早めに察知して病気を未然に防ぐようにできればいいのですが自分のからだを労われないことでなかなかそれに気づけないようにも思います。

この「自分のからだを労わる」というのは、とても大切なことで一番身近な自分との付き合い方が他人への付き合い方に出てしまうようにも思います。この自分を労わるとは何か、それを少し深めてみたいと思います。

そもそも私たちのからだは、精神や肉体、心が入った器であるという言い方をする人がいます。入れものの中に入っているのが自分という認識もあります。その入れものは、単なる「もの」ではなく、その「もの」の中には大切なものが沢山入っています。その一つ一つは無二のものであり、全部必要なものです。それがある御蔭で生きていることができますし、そのものに活かされている御蔭でこの世に存在していることもできます。

もしも身近な機械であったにせよ、道具であったにせよ、労い思いやらないで酷使させればそのものが壊れて崩れてしまいます。先日も、畑で根が張っている土を無理に耕す際に鍬や鋤などが壊れてしまいました。目標を達成するためにとそればかりに執着して無理に無理を重ねて壊れてしまっては、大切な道具が二度と使えなくなります。修理して使えるのならいいのですが、完全に壊れてしまったら修理することもできません。機械ならまだ修理ができても、もしも生き物なら死んでしまいます。機械であったにせよ、修理できないほどの故障ならばそれは機械の死を意味します。

失ったとき、私たちは気づくものです。これは決して「もの」なのではなく、その存在は「大切なもの」、言い換えれば「いのち」を使わせていただいているという感覚です。いのちが入ったものだからこそ思いやり労うことを忘れないでいられるものです。いのちは役に立ちたいと願うものですから、役に立てば倖せですが同時に労働すれば疲労も出てくるのです。

昔からお疲れ様やご苦労様といった言葉が、労働の周囲にあるのはそこには「大切な存在」であることを忘れない思いやりや感謝がお互いにあったということなのでしょう。

今のようにものが溢れている時代は、壊れたらまた買い換えればいいというような考え方や、壊れるものが弱いから問題なのだという捉え方や、結果さえ出ればそのものは使い捨てればいいという発想を持ってしまうのかもしれません。

しかし「かけがえのない存在」、つまりは他にはとって代れるものではないその人、そのもの、その存在は代わることはできない無二のものだからこそ労い、思いやることは何よりも大切なことだと思います。

自分というものの認識に於いても、代えはきかない人なんだという自覚を持つことが自分を労い労わり、そして同時に周りも労わり労うことになるように思います。

大量生産大量消費、一斉画一に平均をつくろうとした相対思想の中で求められてきた刷り込みは社會を「もの」で溢れかえさせ、ゴミや捨てる、消耗品などという思想を拡散させてきました。

大切な存在に対してどれだけ「もったいない」と感じているか。

決して何かをしなければ役に立っていないのではなく、あなたの存在そのものが役に立っているという自己認識が必要です。そう思えないのは刷り込みであり、一度それに向き合った後に、自らの存在そのものを丸ごと認めるときにだけ人は自他の存在を「もったいない」と素直に感謝できるのかもしれません。

また自分を取り囲むいのちへ対して「あなたは代え難い存在ですよ」という気持ちを籠めていつも「お疲れ様でした」という声を感謝でかけられる自分自身の真心を忘れない実践をしていきたいと思います。

 

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。