鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。

日本人の忘れもの

現在は、新しいものがなんでも価値があるとし、古いものは価値がないという認識をあちこちで耳にします。

しかし本来、古いものというものは、自然の篩(ふるい)にかけられた古いものであり、それだけ長い年月、あらゆる淘汰に耐えて今まで残った本物とも言えます。古いもので残ったものはすべて価値があるものであり、決して古いものが価値がないわけではありません。

よく私の暮らす「場」に訪れる人たちから、私が古いものを使いあらゆる新しいものを行うのを観て感動されることがあります。古いものを新しくするというのは、そこにある発見をしているということでもあります。

当たり前すぎて気づかないことでも、古いものをよく観察しその智慧を現代に活かそうとするのなら必ずそこには普通では気づかない発見、もしくは発明をしているということになるのです。

古来からあった忘れられたものや、当たり前すぎてやるのをやめたもの、それは今の日本人の忘れものなのです。

私たちは、新しいという言葉を使う時、何をもって新しいというのか。今まで見たことがないものを新しいというのか、もしくは今まであったものを再発見した時に新しいというのか。

私にとっての新しさは後者であり、私が取り組むブロックチェーンもその後者の智慧を最大化させたものです。まだ見学に来られない人には、私が取り組んでいることがよく分かっていないように思います。

決して私はコードをかくわけでもなく、そして何かの論文を出すわけでもありません。しかし、私が取り組む古い偉大な智慧がすべてこの新しい技術に注ぎ込まれるとき、真の新しいものが誕生します。

そして私はこのプロセスを仲間たちと味わうことで、この「場」に未来を創造しようとしているのです。ご縁のある方々と、この今を深く味わいながら新たな暮らしを独創しています。

忘れものを思い出すのに、古いものを触るだけではなくその古いものを活かして新しい技術に活かしきるとき、そこに日本人は忘れたものを思い出すと私は信じています。先人たちの生き方、残してくださった遺志を守り、子どもたちのためにも道を切り拓いていきたいと思います。

広く明るい志

昨日、英彦山で友人のエバレットブラウンさんと一緒に法螺貝を立てました。不思議なご縁で、私に法螺貝をはじめる切っ掛けを与えてくださりさらに人生が深く豊かになりました。

まるで冒険するかのように生きるその姿に、感銘を受け新たにその生き方や学び方に私自身も多くのインスピレーションをいただいています。それにところどころ感性や豊かさ、個性に通じているところが多く、自分というものを客観視する機会にもなっています。

先日、私の役割について社内でみんなに聴いてみる機会がありました。

自分では思ってもいないようなことを言われ、驚きましたがそのどれもが道を切り拓くや、既成概念を毀すや、壁を打ち破るや、維新をするや夢に突き進むというイメージばかりでした。

確かに片時も休まずに作り続け毀し続けて歩んできました。もっといい方法はないかと、自分の直観を信じて歩み続けてきました。後悔する暇もなく、仕方がないと言い聞かせては前に前にと足を進める日々を送ります。

自分の志に嘘はつけませんから、今できる最善だけを盡します。

だんだんまた一人になり、そして孤高や孤独と生きていきます。それでも私の歩んだ後に道はできると信じて、子どもたちにつなごう、結ぼうと、誰も征かないところに向かっていくのです。

その旅路で出会う人たちは、どれくらい一緒にどこまでいけるのか。多くの人たちと出会いと別れを繰り返しましたが、長く一緒に歩める人がいたことは本当に仕合せなことです。

ここから先は、後を任せる人が出てくるのか。今はよくわかりません。しかし、法螺貝を天空に立て、大自然の山々と呼応し、その廻る木霊を聴いているとただ無意味のようなその一立てに志を立てることの永遠を感じます。

志で歩み続ける道を、自分がこの世に斃れ後人に譲るその日まで自分に与えられた天与の使命を明るく朗らかに生き切っていきたいと思います。

存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

自由に磨く

時代の変わり目には、様々な今までの価値観や固定概念が通用しなくなり新しい常識が誕生します。一年前まではマスクは、花粉症やインフルエンザの流行の時期の風物詩のようでしたが今ではマナーとして当然に身に着けています。

他にも、テレワークや在宅勤務などと言われていてそれが特別だったことが今では当たり前になってきています。他にも、色々とありますが以前とは変わってしまっている世界に生きているということです。

これは別にコロナだけではありません、この世にはじめてインターネットが誕生し広がればそれ以前ではないし、核爆弾が発明されたらそれ以前ではなくなります。人類はこうやって時代の影響を受けては、それまでの常識と思い込んでいた社会を刷新し続けてきたのです。

人間は現実的には、自然とは別に人間のみの常識の中で安心しようとします。不安を解消するために、あれやこれやと不安にならない便利なものばかりを追い求めていきます。大きな意味では、危機感からのものですがそれが本末転倒していることもたくさんあります。

例えば、核兵器をつくれば今度は核兵器が使われるのではないかという不安が来ます。ワクチンを開発したらそのワクチンが効かないウイルスが出てくるのではないかという不安が来ます。いたちごっこのようにいつまでも、その不安を解消するために永遠に同じことを繰り返しています。

むかしの人たちは、不安を解消するのではなく自由に生きることを目指していました。自然と調和する生き方というのは、これも自然であると丸ごと受け容れる生き方です。制限のある中での自由、自然の中で許されている範囲の人間社會を謙虚に生きていたように思うのです。

その理由に、里山の循環の仕組みや、日本的な和の暮らしを体験すればその意味が理解できていきます。心が穏やかで和やかに生きていくために、固定概念に縛られず自由に生きた先祖たちの生きざまに感動するのです。

この時代は、知識や思考が何よりも優先されることが多いように思います。そこから正義やルールや評価からあまりにも緻密に膨大に囲われており生きづらさを感じることも増えているように思います。自分らしく生きるためには、何かに没頭するものが必要なのかもしれません。自分自身に没頭するようなことを通して、如何に自己の中にある恒常性を疑い、本来の自然調和の中に実践をするのか。

子どもが子どもらしくいられるというのまた、常に新しい常識ばかりを生きようと心のままでいることを肯定されているからです。成熟していく社會のなかで、子どものように生きる人たちが否定されれば常識がますます固着していきます。子どもたちが憧れる社會を目指して、心地よい常識を自由に磨いていきたいと思います。

利休からの物語

徳積堂は、千利休の茶道を少し参考にして建築されました。私は設計士でもなく、数寄屋大工でもなく、建築士でもないので、まったくの我流です。しかし、千利休の目指した生き方には共感することが多く、私も座右が一期一会ですから私なりのおもてなしの道で自由に磨ききった建物を創りこむことができました。

利休は、これ以上削れないというところまで削り込んで侘びや寂びを表現しました。私はこれ以上、磨けないというところを目指して同様に侘びや侘びを表現しています。削ることと磨くことは、同一ですから私は茶法はよくわかっていませんがいつか観える景色は似たものになるのではないだろうかとワクワクしています。

今回の徳積堂は、主人の心得として利休七則にも共感することあったので参考にしています。その他には、私は徳積堂では「場」に主人の生き方の思想を組み込み、そのおもてなしに光を遊び、風を喜び、水の優しさに触れ、古材のぬくもりを大切にし、捨てないことの大切さを感じ、いのちある存在の中での心の落ち着きを味わうことにしています。

他にも、時間を忘れ、自然の音を愉しみ、清められ浄化された場を慈しみ、伝統文化に癒されるということも加えています。もっとも大切なことは、いかなるときも主人の生き方の心得として、真心であったか、正直であったか、今にいのちを注いでいるか、いのちを喜ばせたか、自他一体の境地でおもてなしたかということがあります。

最近は、何かの道を学ぶのにテクニックなど技法や評価ばかりが耳に入ってきますが本来は生き方のみを参考にすれば自由に自分なりに好きにやったらいいと私は思います。人間は自分自身の徳性に合わせて好きに没頭するとき、人は無我になるように思います。利休もきっと、好きでやっていたことなのでしょう。しかしその心には、どの時代であっても心の荒廃を和らげ、人々に真の豊かさ、足るを知ることの真髄をその生き様で語っていたのかもしれません。

何のためにやるのかがあってこそ、志があってこその好きなのです。

徳積堂での私の好きな一杯のお茶や珈琲が、人々の心の荒廃を和らげ、そして子どもたちの未来への自信につながるように利休からの物語を紡いでいきたいと思います。

無念無想の暮らし

先日、北海道からきてくれた友人と一緒に祐徳大湯殿の原点サウナを楽しみました。サ道の話で盛り上がり、この時代に必要な豊かさやゆとりの時間などについても語り合いました。

この方は、御実家が茶の湯のたしなみがあったようでお母さんの背中に茶の心のようなものを見てきたことがあったようです。私がこの原点サウナに5時間以上をかけてじっくりと炭火をいれて整えた話でまるで茶道のようだと感心してくれました。

また昨日、来られた方からは「一人ひとり、一件一件に真心を籠めて取り組まれている姿に自分の価値観も換えられました」と話をいただきました。1年半ほどのお付き合いになりますが、数字や時間のことなどは気にせず、ひたすら目の前の人にいつものように今を大切に取り組んでいるという印象だったようです。

今に心を籠めると書いて「念」といいます。

本当の念とは何か、それは無念無想のことだと私は思います。この時代でシンプルに言うと、何も考えないで今を味わうといっていいかもしれません。もしくは、ただ心のままに実践を続けるといってもいいかもしれません。

私にとっては無我の境地というものは、別に自我を捨てようとすることでもなく、中庸のようにバランスを保った状態であることなどではありません。自分の使命に熱中することや、ご縁を大切に一期一会を味わい盡すような中にこそ存在しているように思っています。

時代的によく呟かれる今を生ききるという言葉はきっと、心を籠めていきていくということでしょう。心を見失い、心が荒廃してきているからこそ、そういう生き方が憧れられるのかもしれません。

心は悠久であり、永遠のままです。

心を友として、心のままに歩んでいくとき、心は今にしか棲んでいないことに気づくものです。これからまもなく完成する徳積堂で茶の道にも入りますが、磨き澄み切った茶の湯に心を投影し月の雫のような深い味わいに挑戦していきたいと思います。

ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。