善種を蒔く

人間は心にゆとりがなくなってくると、不足やないものねだりが始まるものです。すでにあるものを観る心境には、ゆとりや余裕が必要です。心が荒めば荒むほど、人間は忙しくなります。

忙しくなるのは、心のゆとりを見失っているからです。

では、心のゆとりとは何かということです。それは「信じる」ということに通じているようにも思います。またその逆は、「荒む」ということです。思い通りにならない執着や、自分勝手得手勝手にできないことへの不満、そういうものが積もり積もっていけばいくほどに心は荒み余裕は失われていきます。

心の余裕とは、融通無碍であり穏やかな気持ちで信じて待っている心境です。そして何があっても物事の善い面を観て、善くないところは改善していこうとする素直な心が働いています。

人間、素直でないから心が荒むのであり、素直な人は心穏やかです。この素直さというものは、その前提にすべてのご縁を丸ごと信じて待つという実践が行われています。なぜなら心の余裕やゆとりとは、素直な心と一体であるからです。

何があってもすべては意味があると信じて、今を磨き、自分を高め、機会を活かす人は運に恵まれていきます。運に恵まれるから、運に任せて最善を盡していきます。善いも悪いもなく、まさに一円観です。

心が荒むというのは、道徳的な社會が荒廃するということです。二宮尊徳が活躍した時代もまた、財政がひっ迫し、貧困や飢餓で村々が廃村していきました。この廃村は、決して経済だけが荒んだのではありません。先に心が荒み、次第に経済も荒廃していったのです。

現代の日本の状況に非常に類似していると感じるのは私だけでしょうか。

だからこそ、先人の智慧や仕組みを学び、この時代も同様に心田開発をしていく必要があるように私は思います。二宮尊徳は幕府の仕事を引き受ける際に、弟からの誉のお祝いの言葉にこう厳しく返答します。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまきひろめることにあるのだ。ところが今度の命今は土地の荒蕪の開拓なのだから『私の本願にたがうことはそなたも承知のはずではないか。それなのに遠くから来て、この命令があったのを祝うとは何ごとだ」と。

そもそも何のために二宮尊徳は、報徳仕法を実践し人心の荒廃を甦生させていったのか。その兄弟間のやり取りからも、その本質や本懐が観えてきます。

どの時代も、人類のリーダーは同じ理想を見つめていきます。私も、自分に与えられた使命に生きていきたいと思います。

甦生の本質

私は現在、古民家をはじめ、あらゆるものを「甦生」という取り組みをしていますがこれは価値がないと世の中が捨てたものを拾い、それを磨いて見立て直し新しいいのちと役割を持たせるということになります。

日本的な概念としてこれは「有難い」や「勿体ない」などと同様に、私たちの先祖が大切にしてきた文化の一つです。

現在は、まだまだ活かせるものをその用途がなくなれば価値がないと切り捨ててすぐに廃棄してしまいます。本来、もっと活用できるものを活用しようともせず役に立たないと決めつければ、いくら資源が豊富にあっても使われなければ無価値になりますから無価値にしたのはその時代の人たちの生き方の問題です。

二宮尊徳に、甦生について遺された文章があります。

「世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。これが私が小さい頃から行ってきた道である。 」

二宮尊徳は、田圃の端の誰も使わないような土地に菜種を植え、菜種油をとりその油の灯で勉強に励んだといいます。他にも捨ててあった余り苗を拾い植えてそれによって別の収入を得て蓄財していきました。世の中が要らないと捨てたほんの小さなものを敢えて拾い、それを積み上げて価値にして活用したのです。

彼が行ったのは、私の取り組む「甦生」と同じ概念であったのは間違いありません。私の世の中が捨てたものを蘇られ、息を吹き込み、磨き上げ新しいいのちとしてそれを活かす。これは単に便利な道具を別の使い方にしてさらに便利にするわけではありません。経済合理性や効率を優先するための智慧ではなく、徳を活かし、徳に報いるといういのちの在り方、そして生き方の仕組みなのです。

シンプルですが、人が見捨てるようなものの中に価値を見出し、それを経世済民の甦生の柱としてそれを積み上げ、磨き上げ、災害に備え、蓄財をし、家を再興する。まさに、徳を使った循環の仕組みを上手に生かした本質的なコンサルティングを行っており、単に分析や評価だけをするのではなく文字通り「甦らせる」というコンサルティングを行ったのです。

私は、本業が「場道」のコンサルティングですからまさに「甦生」するかどうかが私自身の中心軸であり、根源的な成果の基準になっています。だからこそ、二宮尊徳のように「復興」にこだわり、甦生にいのちを懸けて実践をするのです。

今はまさに捨てることが当たり前、捨てることこそが価値があると信じさせられている大量消費の時代、甦生などというとあまりにも荒唐無稽な可笑しなことをやっているように思われますが、これが徳を循環し、人間社會を本当の意味で仁徳溢れる世の中にするための唯一の方法なのです。

先人の生き方から、本来どうあるべきか、子どもたちのために見つめ直したいと思います。

本物の暮らし

人間は時代時代にそれぞれの集合的な価値観があり、その価値観に左右されて生きているものです。例えば、戦争時は戦争にどのように勝利するかという価値観で社会は彩られその価値観が蔓延します。平和になれば、どのように平和を維持するかという価値観が蔓延します。

結局は、対立的な概念で社会は動いていますから時代の歩みにあわせて価値観は右往左往しているだけだとも言えます。現代は経済戦争の時代ですから、お金のために競争し少しでも経済効率を高めて収益をあげるかという価値観が蔓延しています。

アメリカや中国が、経済戦争真っただ中で日本も負けじと追い付こうとしていますが人口の減少と、高齢化によって働き手が少なくなり、外国人などを雇いいれていましたがいよいよロボットやAIまで投入して競争に突入する様相になってきました。

人間の仕合せというものは、本来は時代の価値観が変わっても変わらないものですが現代は盲目に目先の損得を幸福だと思い込む価値観が蔓延する時代ですからそれに右往左往しながら人間の本来の仕合せを見失っている人が増えているのも仕方がないことかもしれません。

しかし、現在、このような経済戦争の中で働くことができない人が日本には1000万人以上を超えているといわれ、心身を病んでいる人で薬漬けになって引きこもっていく人が増えていく一方だと言われます。これはなぜかということをもう一度、私たちは深く見つめる必要を感じます。国家は何をもって本当に豊かだというのか、世界の価値観が変わる時代だからこそ深く見つめる必要があるように思います。

実際には人類が永続して大切にしてきた幸福感は古代から何も変わってはいません。自然の中に入り、自然と共生しながら身近な美しい暮らしを体験すれば人間本来の価値観に目覚め、本当の仕合せとは何か、何を失っていたのかに誰しもが気づくはずです。

時代の変わり目というのは、価値観の変わり目ということです。

価値観が変わることで、時代もまた変わります。私たちは時代を変える存在でもあり、同時に時代に流されていく存在でもあります。だからこそ、その生き方の真ん中にある先人の紡いできた伝統や伝承を静かに見つめる必要があり、私たちは暮らしを立て直すことで生きていく意味や本当の価値を覚醒させて次世代へとつないでいく役割を持っているのです。

子どもたちのためにも、温故知新し洗練された本物の暮らしをつないでいきたいと思います。

お餅つきの意味

先日、100年以上前の木臼に百日紅の杵と60年くらい前の木製の蒸し器と90年くらい前の銅のおくどさんと鉄のカマドで炭を使い自然農法で無農薬のもち米を蒸して子どもたちと餅つきをしました。修繕を繰り返して年代を重ねてきた古参の道具たちばかりですが、その道具のいのちが相極まって美味しいお餅をつくることができました。

現代では、お餅は買うものになっていますが本来はお餅つきというようにお餅は自分たちでつくるものでした。

そもそもお正月にお餅つきをやるのは稲作文化があるからであり「稲の豊作」を祈って神様にお餅を奉納し一年の豊作を祈っていたからです。そして歳神様が鏡餅を依り代にするとされそのお餅を食べることで神の霊力を体内に迎えることでいのちの甦生をするという意味があったからです。

日本人の先祖たちは、何度もハレの日にはお餅を食べる習慣があります。それはお餅には稲の不思議な力がすべて入っており、縁起が良くそれをみんなでつくり食べることで元氣を取り戻し、仕合せな気持ちになることを自覚していたからです。

機械で簡単につくって食べるお餅と、下準備から丁寧に時間をかけてお餅つきをしてできた餅ではまったく味が異なるのはお餅つきをすれば誰でもすぐにわかります。日本人が次第にお餅を食べなくなってきたのも、シンプルに言えば「美味しくなくなってきた」からだと私は思います。伝統文化もみんな「いいと思わなくなってきた」理由は、みんな本物だったものが本物風になったからです。和が和風に便利さを優先することで入れ替えられてきたということです。

お餅つきは、お餅つきの準備から作るところまでも大切な味になっています。みんなで息を合わせて声を出しながら湯気と活気の中でせっせとこねてはつく、そしてまたひっくり返してはつくというようにその一連の取り組みが美味しさに化けていくのです。

また道具たちも、便利な機械ではなく先人の智慧が入った自然のものでできていると素材を毀さず、いのちをそのまま増幅させ、甦生させていくチカラが入っていきます。改めて、私たちは正月からそのように「和」の空気を味わいながら新年を迎え、その一年の協力と団結、信頼と平和、また元氣や和來を体験することで結束やご縁に感謝するのです。

お餅つきは、日本人にとって大切な伝承文化でありこれを失ってしまうと日本人の甦生に多大な影響を与えてしまいます。私がむかしの道具たちと共に、本来のお餅つきにこだわるのは子どもたちに日本人の思想や生き方を伝承していきたいからです。

現代では、ばい菌が入るとか、不衛生だとかで、ほとんど手に触れずに機械で簡単につくっておいて杵で形だけ1,2回ついたお餅を保育園では食べているといいます。伝統文化を伝承すべき保育園が、本来の行事の本質や意味もわからずに形式的にだけ取り組んでしまえば、伝承はそこで歪んでしまい、日本人の甦生が循環することができません。

私はこだわりが強いからと他人には言われますが、そうではなく本物をやらなければ本質が引き継がれないことを自覚しているだけなのです。行事はそもそも何のためにやるものなのか、伝統とは一体何なのか、そういったものを突き詰めていかないで単に行事をTODOリストを消していくかのようにやっても意味がないどころか、意味が不明になっていくだけだと私は思います。私が本物にこだわるのは義憤があるからに他なりません。

すべてのものには必ず大切な意味があり、伝統が続くのはその意味を伝承する必要があるからです。何百年も前から続けられてきたことは、それだけ先祖たちの実体験と経験によって検証された偉大な価値があったからであり、それを現代の短い間にゆがめて別のものにして捨てることは本当に残念至極なことであり、子孫のためには決してあったはならないことです。

暮らしの甦生は、生き方の甦生ですから子どもたちのためにも引き続き変人やこだわりが強いなどと言われようが本物や本質、伝統を尊重して生きていきたいと思います。

2020のテーマ

昨年を振り返ると、多くの同志や仲間に出会うことができた一年だったように思います。今までの自分では、出会うこともなかったような人たちとの出会いによって視野が広がり、そして考えが深まり、志も厚くなりました。

一つのことを究め深め続けることで求心力は高まりますが、多くのことを究め深め続けることで遠心力が高まります。地球が自転しながらも円を保ちながら、宇宙で星々と一定の距離を保ちいのちが廻るように私たちもまた求心力と遠心力を合わせていのちを輝かせていくものです。

出会いにもまた、一つことと、多くことがあり、そのバランスを保つ中で新たな使命や役割をいただけるように思います。

昨年も恩師と共に振り返りをして色々とあったことなどを語り合いました。その中で今年のテーマは「種蒔きばかりをするのではなく、実るものをとって種籾をつくる」ということになりました。

私たちは必ず老いていきます。特に人生の中盤以降はその老いを身近に感じていきます。しかし老いの側面として、老いることで私たちは奥行きが出てくるとも言えます。老いていくからこそ、優先するものに絞ることができ、その選択肢が狭ければ狭いほどに実際にはその奥行きの先にある選択肢もまた広がっていくのです。

自分でできることが減ってくるからこそ、同志たちや仲間に託していくものがある。そしてそれが次の時代を担っていくのです。その時には決して実らなかったものも、時を経て時代が変われば実ることになります。

そして目的を狭めれば狭めるほどに明瞭に明確になっていくことがあります。実現しようとすることに対して広げるばかりではなく敢えて徹底的に狭くすることでその奥行きを待つ境地も得られるのかもしれません。

生きるための学問は、心の世界を学ぶことでもあります。心は今、どのような機微を感じるか、そして心はどのように観応し、成長をしているか。はたまた絶望をし、未来を懸け、深い悲しみや喜び、それによって磨かれ、さらに眩い光を放ちます。

私たちの心は、まるで一つの玉のようであり、その玉が光り輝くように生きているだけのようにも感じます。この生もまた、今回限りです。

自分の役割や役目に生き、今年も一期一会の悔いのない一生にしていきたいと思います。

居場所の本質

人は、自分が今、何処に立っているのかという自覚があってはじめて自立の本質を理解していくように私は思います。何処からきて、何処にいくのか、そして自分とは何か、自分が何処にいるのか、この自分というものを深く理解していない限り、人は絶対的な自立の境地には達しないように思います。

禅の言葉に、「主人公」というものがあります。

これは無門関に書かれたもので「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚 び、復た自ら応諾す。乃ち云く、惺々著。他時異日、人の瞞を受くること莫れ 」と記されます。

私の解釈では、他人や相対的な自分に流されるな、絶対的な自分で居続けよという意味だと思います。

世の中では自分らしさとか、自分探しとか色々と流行っていてそれによって自立からかえって遠ざかっている人が増えているように思います。それは自分というものの理解を、他人との比較や自分という誰かから刷り込まれた前提の意識のままに自分というものを考えようとしているからに他なりません。

そもそも相対的に、誰かと比べたり、他人の評価軸によって自分らしさを出したとしても、それは本当の自分らしさではないのは明確です。誰かと比べての自分らしさではなく、本物の自分らしさ。つまりは絶対的な自分というものを持つとき、人は自分らしさの本質に目覚めるように思います。

自立というものは、本来、自己をうち立てるということです。それは主人公になるということです。本来の自分に目覚めている日々を過ごしているということです。本来の自分は、先ほどの何処から来たのか、何処に居るのかという二つの問いに常にこたえられる状態に心や魂が座っているということです。

現代の日本では精神的に病んで働けない、引きこもっている人たちが1000万人以上いると報道されていました。その根本原因は何か、教育者はもっと真剣に自立というものの理解をあらゆる方面からよく議論し子どもを見守る必要があると私は感じています。

居場所がなくなるというのは、人間が自立する環境が整っていないということです。自分というものの居場所を確認するには、自己を確立していかなければなりません。そのためには、一人一人を主人公にしていく必要があります。

いつまでも比較競争の教育をするのではなく、本来の自立、主人公としての自分を学び、心身魂ともに自由にするために「場」を教育の柱に据えるべきだと私は思います。

私の「場道」の本質は、現代の教育観念に楔を打ち込み本来の自立の意味を価値観事転換することです。地球の生態系が崩れてきている原因は何か、いつまでも相対性理論や目に見える形のものばかりを追いかける物質的な価値観をそろそろ諦め、絶対的で本質的な生き方を取り戻し、人間が主人公に目覚め、子どもたちが安心して生きていくための居場所を創造していく必要を感じます。

私のかんながらの道も、そろそろ大きな曲がり角、実践を究めていきたいと思います。

 

 

永遠のいのち~場~

私の青春時代は、尾崎豊の詩を聴き、唄を感じて歩んできた記憶があります。今でもどの曲でも、歌詞を見ずに歌うことができます。それだけ私は尾崎豊の声を心身で聴いていたように思います。

人間は不思議で、頭で覚えたものではなく心身で覚えたことや魂が共鳴したことは忘れることはありません。単なる暗記的な記録ではなく、まさに魂に刻まれる記憶は時空を超えていつまでもその記憶として永遠に残ります。

この記憶はそのうち自己の中にある居場所と繋がり、自分の立っているところを気づかせてくれます。

自分が何処からきて、自分が今、何処にいるのか。

このシンプルですが、自分というものを深く理解し、自分というものの本質を認識することが自己を真摯に生きるための最初の問いになるのです。

尾崎豊の詩に「永遠の胸」というものがあります。

『永遠の胸』

作詞・作曲
尾崎豊

一人きりの寂しさの意味を
抱きしめて暮らし続ける日々よ
見つかるだろうか
孤独を背負いながら生きてゆく
心汚れなき証示す道しるべが

色々な人との出会いがあり
心かよわせて戸惑いながら
本当の自分の姿を失いそうな時
君の中の僕だけがぼやけて見える
ありのままの姿はとてもちっぽけすぎて
心が凍り付く時君を
また見失ってしまうから

人はただ悲しみの意味を
探し出すために生まれてきたというのか
確かめたい
偽りと真実を
裁くものがあるなら僕は
君の面影を強く抱えて
何時しか辿り着くその答えを
心安らかに探し続けていてもいい
いつまでも

受け止める術のない愛がある
消し去ること出来ぬ傷もある

忘れないように
全ての思い出が与えてくれた
心の糧を頼りに生きることを

そこには様々な正義があり
幸せ求めて歩き続けている
欲望が心をもろく崩してゆきそうだ
人の心の愛を信じていたいけど
人の暮らしの幸せはとても小さすぎて
誰一人心の掟を破ることなど出来ないから

今はただ幸せの意味を
守り続けるように君を抱きしめていたい
信じたい
偽りなき愛を
与えてくれるものがあるなら
この身も心も捧げよう
それが愛それが欲望
それが全てを司るものの真実
なのだから

断崖の絶壁に立つ様に夜空を見上げる
今にも吸い込まれてゆきそうな空に叫んでみるんだ
何処へ行くのか
大地に立ち尽くす僕は

何故生まれてきたの

生まれたことに意味があり
僕を求めるものがあるなら

伝えたい
僕が覚えた全てを
限り無く幸せを求めて来た全てを

分け合いたい
生きてゆくその全てを

心に宿るもののその姿を
ありのままの僕の姿を
信じてほしい
受け止めてほしい

それが生きてゆくための愛なら
今 心こめて

僕はいつでもここにいるから
涙溢れて何も見えなくても

僕はいつでもここにいるから

・・・

誰一人、心の掟を破ることはできないという言葉は私たちは宿命的に自分を生きることに全身全霊であり、同時に誰もが共に生きていくことに全身全霊であるという心の描写を感じます。

すべてのいのちは、自立することで一生を全うします。私たちは個としての自分でありながら、同時に全体としての個でもあります。自個を認識しながら、一体であることも認識するのです。

自他一体の境地に入るとき、人はそこに宿命的な心の深淵を覗き、その場所が絶対的な存在であることに気づきます。つまり宇宙の中にいる自分と出会うのです。その認識は、現代では物質的ではないため認識されることがありませんが私たちが産まれる前から、そして死んだあとも存在する「場」であることは間違いありません。

場を守るということは、自分を認識しその自分が自他一体でいるということです。

場の学校がどのような展開になっていくのか、時代の分水嶺にいのちを全うしてみたいと思います。

私のブロックチェーン哲学の原点~徳循環~

京都の鞍馬寺で私は「羅網」という仏具を拝見して貫主様から教えていただいたことがあります。その「羅網」こそ、私のブロックチェーンの哲学や思想の原点になり、この教えそのものを具現化して徳循環の社會を形成しようと志を持つに至りました。

その鞍馬の教えにはこう書かれています。

「「山川草木悉皆成仏」という教えにあるように、非生命から生命まで、森羅万象の全てが宇宙生命エネルギーである「尊天」の顕現です。鞍馬山一帯は、大自然の宝庫で、往古から社寺林として守り継がれ、「京に最も近く、最も深い自然」と称されてきました。人の手の加わらない鞍馬山の自然は、 動植物が網のように相互に関係しあって複雑な森林生態系を形成しており、鞍馬山ではその響きあいを「羅網」として表し、「共に生かされている命」を共感し、様々な命が支え合い響きあい、生かし合っていることに気づき、私たちの「いのち」が本来、光り輝く宝珠であることに目覚めて 欲しいと願っています。」

いのちの輝きが響き合う世界、自然界のありのままの原型を羅網は表現しています。そしてその環をこのように教え諭します。

「いのちの環」

「自然を敬い、自然に感謝し、自然と共に生き、
自然に教えを聞き、自然の中に自分と同じ命をみつける。

草木も鳥も虫も木も細菌も石も互いに捧げあい、
助け合いながら、互いにせっしゅし合い、
消滅しながら、共に生きるいのちの環

めぐる大自然の環の中に
わたしたちも生かされている。

大きな力、大きな働き
それは宇宙の大霊、尊天
すべてのいのちと共に
尊天のお働きによって
わたしたちは生かされている。」

私たちには、いのちというものが循環しその循環の恩恵によって生きていくことができます。私はこれを徳循環と呼びます。それぞれが恩徳に報いることで自然界は調和し、それぞれのいのちはその徳を伝導して共鳴し合い、響き合っていきます。

私たちの箱器(ブロック)の中に何を入れるか。その繋がっている鎖(チェイン)に何を通すか。まさにここが「いのちの輝きの元」になっているのです。

その箱器の鎖に、私は「徳」を入れてこそ人類は甦生し現在の自然から乖離した暮らしを取り戻してさらにいのちをもう一段次元を高めて輝かせることができるように思うのです。

私の取り組みにおいて、この鞍馬寺との出会いは大きなものです。

子どもたちが安心して居場所ができ、いのちが輝けるように現代社会に徳積で踏み込んでいきたいと思います。

お山の意志

昨日から京都の鞍馬山に来ています。私の人生においてこの鞍馬山との出会いは大変に大きく、人生の方向性を決めてくれた出会いであったのは間違いありません。

このお山は、日本の中でも私が深く敬愛するお山の一つであり自然の原型や原点がそのままに存在しているお山です。自然の原型というものは、自然のはじまりともいいます。いわばお山こそ、いのちの母であり、父です。そのお山からいのちの存在そのものを学び、私たちは自らを真に活かす道を学びます。

この鞍馬山といえば牛若丸に兵法を授けたといわれる天狗「魔王大僧正」が有名です。後に日本の八天狗に数えられた大天狗である「鞍馬山僧正坊」、もしくは魔王大僧正の配下が鞍馬山僧正坊であるとも言われるものです。

鞍馬山にある鞍馬寺の縁起は、奈良時代に艱難辛苦の末に唐から日本に渡り帰化した僧である鑑真の弟子・鑑禎(がんてい)が、ある夜に山城国の北方に霊山があると告げられる霊夢を見ます。鑑禎がその霊山を訪ねて行くと、山の上に宝の鞍を載せた白馬が見え、そこが鞍馬山でした。鞍馬山に入った鑑禎は女の姿をした鬼に襲われ殺されそうになりますが、そこに枯れた古木が倒れてきて鬼はつぶされ助かります。翌朝、そこには毘沙門天の木造があったことから、ここに毘沙門天を祀る鞍馬寺を建立したといいます。

鞍馬寺がはじまるずっと以前から、このお山は不思議な意志をもって働いているように思います。私たちが信仰するお山というものは、お山自体が一つの生命体であり、意志があるように思います。

日本の霊山の数々には、そのお山の持つ使命や個性があり今でも私たちを見守り導く存在です。私たちの先祖は、お山に入りお山から学びその教えを人類の道しるべとして下山し人々へ指導してきました。

私たちの先祖は山のことを単なる山とは思わず、お山であると尊敬し、お山を尊び、お山から得た様々なインスピレーションを生き方にまで昇華させていったのです。お山には、悠久の自然があり、雄大ないのちの循環があります。

短いスパンでだけ物事を考えて、目の前のことばかりに忙殺されているような日々において人間は時折、悠久の流れや自然の歴史を忘れてしまいます。どうでもいい些事に追われて大切な一度きりの人生やいのちを使い切ることを忘れてしまいます。

私たちはお山に入ることで、何か忘れてはならない大切なことを思い出し学び直すように思います。登山ではなく、まさに山人合一の境地に入るということでしょう。

鞍馬は、魔王尊がご鎮座するお山として「クラ+マ」というのではないかと思います。魔王とは、地球のいのちのことでしょう。地球のいのちの根源を感じるこのお山にくれば、自然に太陽な月の存在を身近に感じます。

三位一体の遺志を持つ、この鞍馬山から私は何よりも深い地球人として生き方を学びました。

「月のように美しく、太陽のようにあたたかく、地球のようにちからづよく」

まさにいのちの姿そのもの、尊天のままであることをお山で感じます。このお山で学んだことを、下山し人類の未来に向けて伝道していきたいと思います。

ご縁を大切にする人たち

目に見えないつながりというものが観える人たちがいます。この人たちは、ほとんど目には観えない方のつながり方だけを観て物事を判断していきます。言い換えれば、ご縁を大切にして生きている人たちです。

ご縁というものは、目に見えない糸のようなものです。同じ糸を手繰り寄せていきながら、みんな引き寄せられていきます。一見、何も関係がないように思えてみても実は大きな意味があります。それを知るには、悠久の時が必要です。しかしその悠久の時を味わいながら生きる人たちがいます。まさにこれもご縁を大切にする人たちです。

また一期一会といって、今此処この瞬間のみを生きる人たちがいます。常に生き方を優先し、頭で考えたような他人との比較や評価などを気にせず自分の魂の声に従って自分自身の判断や行動を決めていきます。他人からどう思われるかではなく、自分はどうありたいかという信念に生きています。だからこそ今というものを一期一会に味わい盡します。これもまたご縁を大切にする人たちです。

ご縁というものは、奇跡的で不思議なものです。

あの時、あの瞬間、あの出会いがなければ今がありません。

これを逆算すれば、今までの人生、すべてその出会いと別れが決めたのです。出会いや別れにこそ真心を籠める人たちもまたご縁を大切にする人たちなのです。

そう考えてみると、ご縁を大切にする人とは生き方を優先する人たちのことです。生き方を大切にするからこそ、ご縁もまた大切にされていきます。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に出合って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を活かさず。大才は、袖すり合うた縁をも活かす」があります。

袖すり合うた縁をも活かすとは、常に生き方を優先する人物こそが大人物であるということでしょう。私も、思い返すとご縁に活かされ続けた人生でした。ご縁を大切にしこれからも生き方を磨いていきたいと思います。