脚下の実践

人は、自分自身を如何に磨き練り上げていくかということに全生命を注入していくことのように思います。これを修身ともいい、人間は自立することではじめて人格と徳を兼ね備えた人物になるように思います。つまりは、人間が目指す理想の姿が修身によって人徳になるということなのでしょう。

しかし実際は人間はつい環境によって怠惰に流されますから、己と向き合い己を正すことは難しく、日々の自己との対話や正対をもって修練や修身をもって錬磨していくしかありません。

森信三さんは、自立ということについて様々な言葉を遺した方でした。この方の言葉には修身とはいかなるものかということが明快に記されています。

「いったん決心したことは必ずやりぬく人間になることです。」

「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」

「できないというのは本当にする気がないからです。」

「己を正せば、人はむりをせんでも、おのずからよくなっていく。」

「道徳とは自分が行うべきもので人に対して説教すべきものではない。」

「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」

「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」

自分自身、自己研鑽と自分の霊性を高めることこそが本来の自分のやるべき挑戦ということです。誰かと比較したり、自分の中で平均と調整したり、ここまでやったらとか評価を気にするのは、自己とはあまり関係のないことです。

自立というものの本質は、自分自身の初心や覚悟を磨いて人格を高めていくこと。そしてそのためにも人は協力し合うことで通してその学び合いの場を醸成していく必要があるのです。

自立と協力は、人間が学び高めていくために欠かせないものです。

子どもたちにどのような場を用意していくことが、もっとも人間として高まっていくのか。脚下の実践から、深く味わい創造していきたいと思います。

景観とは何か

以前、ドイツに訪問したときにその街並みの美しさには感動したことがあります。ドイツでは、戦後の復興の際に戦争で破壊された街を時間をかけて元通りの美しい街並みに復興するために都市計画を立てたといいます。

それを着実に数十年取り組んできたことで、今ではドイツらしい温故知新に取り組み街並みもそれに応じて美しく変化したのかもしれません。

歴史を調べると日本では関東大震災後にアメリカの都市美運動の影響を受け、都市計画関係者の間で「都市美」という言葉がしばしば用いられたようですが激化する戦争、戦災からの復興、高度経済成長という過程の中では合理性や経済性が優先され景観への配慮といった要素は主観的なものと考えられ軽視されるようになったといいます。

そして高度成長期以降は生活様式の変化で自然、都市や農村の景観も大きく変化し、鎌倉、飛鳥、奈良、京都といった日本の文化史上特に重要と考えられる地域まで合理性と経済性が入り込み景観が壊れていきました。

長い目で観て復元をしてきたドイツに対し、日本は目先の損得が押し切られ様々な法律が裏目に出るようになり古い町並みや古い建物は復元することもできず凄まじい勢いで壊され便利な建物、便利な街に変化していきました。田舎にもフランチャイズの店舗や、大型マンションが建ち、どこもかしこも画一的な街並みになっていきました。

2003年には国土交通省から「美しい国づくり政策大綱」を策定されました。そして2004年(平成16年)に景観法が制定され「美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現」が目的にされています。しかし具体的にこの景観法が何ら規制を行うものでないためそれぞれの自治体が景観計画などを定める必要があるといいます。

みんな我先に、自分さえよければいいと好き勝手に利益ばかりを追い求めてしまうと街並みが壊れていきます。これは自然の中に都市を勝手につくり、様々な生き物たちが追いやられていくことに似ています。

本来の都市とは何か、その土地の風土の中で共生していくとは何か、そういうものよりも経済合理性のみを追求してきたツケが子孫たちに残されていきました。長い目で観て、経済合理性だけではない道徳的なものを如何に大切にバランスを保って維持するか。

世界が今、取り組んでいるSDGsも同様に持続可能な経済をどう保つかはこの経済と道徳の一致を目指すからです。

まとめればつまり、景観にはその景観に生き方が映るということです。その景観が美しく豊かであればそこの人々の生き方が映ります。そしてまた景観が懐かしく新鮮であればまたその場所の人々の生き様が映ります。

都市計画とは、生き方計画でもあるのです。

子どもたちがどのような街で暮らしていくか、子孫たちにどのような生き方を伝承していくか、私たちは今こそ、戦後復興のプロセスから学び直し、本来の復興とは何か、原点回帰してまちづくり、国造りをしていく必要を感じています。

今、私にできることから取り組んでいきたいと思います。

田圃の暮らし

昨日は、千葉県神崎町にある「むかしの田んぼ」で草取りを行いました。今年は日照時間が少なく、成長が例年よりも芳しくないのですが田んぼに入るとそれでもすくすくと元氣に生きている田んぼや稲から多くの力を貰って気がします。

この田んぼの「んぼ」は、「田圃」はもともとは当て字であるといわれます。田面(たのも)や(たおも)が音が変化したともいわれています。例えば、田圃道と書けば(たんぼみち)となります。

田畑という言い方もしますが、これはむかしに田んぼと畑の両方で暮らしを営んでいたことが関係しています。田を畦で囲った田圃に対して、その田(た)の端(は)で作物(け)をつくるという意味で「畑」となったという説もあるようです。私は、てきりアメンボは、雨の坊であり田んぼは田の坊というように生き物に見立てていたのではないかと思っていました。

日本には、むかしから妖怪といった人間でも神様でもない不思議な存在が様々なものに宿っていたと信じられてきました。道具が妖怪になっていたり、天気が妖怪になっていたり、様々なものの不思議を身近に感じて暮らしてきたとも言います。

田圃と共に生きている様々な存在もまた、私たちの暮らしの一部です。

そして昨日の草取りでは、ヒエ、ホタルイ、オモダカ、クサネムなど稲の生育の阻害するものをできる限り手作業で取り除いていきました。今では、除草剤という便利なものを使って田んぼに人が入ることがありませんがそれは稲にも必ず悪い影響を与え、田圃の生態系も崩れていきます。

私たちのむかしの田んぼは、収量を優先せず生きものたちの豊かな場づくりを優先してお米作りをしています。そしてその場で暮らす私たちもその一部として一緒に田んぼの中で生きていきます。

こうやって田んぼと共に暮らすことはとても豊かなことで、それは金銭では得られない喜びや仕合せがあるのです。これを徳という言い方をします。二宮尊徳がかつて「報徳」という言い方をしていましたがこれはこのむかしからの恩恵の中心であった田んぼから学んだものかもしれません。

現代に必要な大切な教えは、すべてこの田んぼが持っています。

田圃の暮らしを通して、子どもたちに大切な真心を伝承していきたいと思います。

手入れの生き方

全ての道具には「手入れ」という方法があります。その道具に合わせて、様々な手入れ方法がありその通りに手入れをしなければかえって傷んでしまうことがあります。しかし現代は、大量生産大量消費の時代の流れの中ですぐに新しいものが出ては古いものは捨てますから手入れすることがなくなってきました。

そのうち手入れする手間をかけるよりも新しく買った方が早いし安いという風潮が広がり、今ではほとんど手入れ道具も手入れ方法も知らない人たちばかりになってきました。

どんな道具も、物も手入れしなければ長持ちすることはありません。それは道具は使えば使うほどにすり減っていき、摩耗摩滅していくからです。末永く大切に使うものは、摩滅する瞬間までそのいのちを使い切ります。

以前、民藝品を見学したことがありましたがその民藝の道具たちはみんな手入れによって美しく輝ていました。私が今、古民家で活用している和包丁も明治のものや江戸のものがあります。

今でも研いで手入れすれば、大変な切れ味で料理をおいしくしてくれます。他にも、革製品、紙製品、木製品、土製品、すべての自然物を加工したものは手入れさえしてあげていればいつまでも美しく輝き続けるのです。

この道具や物たちの摩滅するまでの期間に私たちが取り組むべき実践は「磨く」ということです。磨くからこそ摩滅しますが、磨くからこそ美しく光ります。この光らせていくという実践は、それぞれが丁寧に心を籠めて努力していくことです。

これは自分自身にしてもそう、所属する会社や仕事でもそう、そしてまちづくりや国造り、地球への貢献や自然との共生においてもそうです。

どれだけ真摯に自ら磨こうとしたか、その努力を惜しまなかったかが全体を調和させ、平和を永続させていくのです。そしてこれは「生き方」であるとも言えます。

現代の問題は、この手入れする生き方が失われてきたことです。

もう一度、子どもたちに大切な生き方が伝承されすべてのいのちが大切に扱われそれが未来の平和を持続させていけるように手入れの生き方を伝承していく必要があると私は思います。

引き続き、実践を楽しんで続けていきたいと思います。

問処の道得

「問処の道得」という言葉があります。これは「正蔵眼法」古仏巻にはこう記されます。

「国師、因僧問、如何是古仏心。師云、牆壁瓦礫。いはゆる問処は、這頭得恁麼といひ、那頭得恁麼といふなり。この道得を挙して、問処とせるなり。この問処、ひろく古今の道得となれり。」と。

道元禅師は、問処の言葉が、そのまま仏の道理の表現になるともいいます。つまりは、「自問自答」こそが仏との対話であるということです。

この自問自答には、深さがあるように思います。どれだけ透明な心で自問したか、そしてどれだけ信じ切り時を待ったかという深さによって得られる答えがが変わってきます。純粋であればあるほどに、時空を超え時節を超え真実に到達します。

歴史の偉人たちが純粋な心で取り組んだことは、何百年何千年を超越して私たちの心にその問いを与え続けています。そして私たちはその答えを探し続けながら日々に心を研鑽していくのです、

心の研鑽はまさにこの問処の道得のようです。

私も日々に早朝に起きては内省をし、問処をし続けます。自分自身の純粋な魂が何を臨んだか、そして心は何を味わったのか、頭はどのように整理したのかと、それぞれに一つ一つ問いを発していきます。そして自問自答を繰り返しまた新しい一日を迎えていきます。

この夢のような日々の中で、感謝に包まれながら歩むことができる日々と対峙しながらその意味を深めていくのです。まさにこの問処の実践をすることこそが、仏の道理になるというのは共感するところです。

問処の実践は、流されるけれど流されず、風に吹かれるけれど吹かれないというような今との向き合いが必要です。それはどれだけ心や魂の声に従って自分を活かしきったか、そして全体に対して目的を忘れずに初心を貫いたか、というような主人公としての主体性が必要です。言い換えればいのちを使い切る努力が必要です。

特に今の時代は、なんでも物がそろい溢れ、情報化の中で現実世界(地球の循環)から遠ざかる生活が増えてきています。だからこそなお一層、自然を身近に感じ、自然に近づき、自然と一体化していく努力がいるのです。

地球に住むすべてのいのちは、問処の道得を実践しているように思います。

子どもたちに道理が伝承できるように、自然の生き物たちのように今にいのちを使い切っていきたいと思います。

ブロックチェーン

ここ数年でブロックチェーンに関するニュースが劇的に増加してきています。インターネット革命の次に来るといわれるこのブロックチェーン革命は、これからの新し時代の価値観をけん引していくことになるだろうと私は予測しています。

このブロックチェーンは、インターネット革命のときと似ていて発明はされたもののこれから応用されることが見込まれている技術でもあります。思いかえせば、インターネットの時も電話の方が早いのではないかと思うくらいの遅い速度で通信技術も貧弱でした。

今では、5Gの速度で通信でき明らかに電話よりもインターネット介した方が映像や動画、画像などあらゆるものがインターネットが進んでいます。その回線速度が劇的に革命が起きているようにこれからこのブロックチェーンの技術も劇的に変化してくるでしょう。

今現在は、ブロックチェーン技術はまだ仮想通貨をはじめ金融のところでの利用が中心になっていますが他分野へも次第に移行がはじまっています。この暗号化技術があれば、セキュリティ面での心配がなくなってきてより安定して平和な環境が構築されていきます。

現在は、インターネットは不特定多数の人たちが参加していますからセキュリティ問題は常に話題にあがります。このセキュリティ問題はまるでいたちごっこのように永遠にきりがなく安全と危険を行き来して膨大な労力を使っています。

実際に、むかしは村の中の人のことをみんな知っていましたから誰がいなくなっても、誰が問題を起こしても、みんなが観ている中で暮らしてきました。犯罪率も低く、みんなが観ているということが何よりの抑止力にもなっていました。しかしインターネットの世界では、ブラックボックスだらけで心配なことばかりになっています。少し前までは、クレジットカードの情報や個人情報などを一切に出ないように細心の注意を払っていました。

しかしこのブラックボックスが可視化され、それを記録されているとするのなら改ざんすることができなくなります。むかしのように、みんなが観ている状態を創り上げることができるようになったとも言えます。

仮想の世界で、誰がどのようなことしたのかがわかるというのはある意味不正を防ぐ最大の方法でもあります。確かにいつも誰かに見られているというのは息苦しさがありますが、昔の人たちは天が観ているとして恥ずかしいことをしなようにそれぞれが戒めていました。

ITの進歩により、よりむかしの道徳にフォーカスされていきます。人間がむかし構築してきた平和のシステムを、ITによって実現しようと試みられています。そう思うと、温故知新というものはひと昔前のシステムを新しい科学の発見によってブラッシュアップしていっているだけだとも言えます。

しかしその廻る一つの温故知新の中で、人々は改めて本質を維持するために学び改善を続けていくのです。人類の本質を高めていくことは、私たち今の時代に生きるものたちの使命でもあります。

子どもたちのために、新しい挑戦を楽しんでいきたいと思います。

本物の経済とは

私たちは、商売を通して生計を立てていますから経済に関係しているとも言えます。しかし現在の経済は、本来の経世済民の意味から遠ざかり世の中が偏ってきているようにも思います。

この経世済民は、本来は二つの熟語から構成されていて「世の中をうまく治めることを意味する”経世”」と、「人々を救うことを意味する”済民”」から成り立っています。ここから経世済民は「世を治め、人々を苦しみから救うこと」になっていたのです。

本来の経済の本質が時代の変遷と共に変わってきています。特に明治を過ぎたくらいから、経済の意味は変わってきました。19世紀前半の思想家である正司考祺の「経済問答秘録」に「今 世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と記されています。このころより「経済」=「貨殖興利」となったと言っているのです。

つまりは世を治め、民を苦しみから救うではなく単に利益だけを増やし続ける活動が経済になったということです。現代の経済学も、徳の話や治世の話ではなく単なる経済現象だけを学ぶものになってしまっているように思います。

経済学者、18世紀後半のイギリスの経済学者であるアルフレッド・マーシャルは、「経済学を学ぶにはクール・ヘッド(冷静な頭脳)とウォーム・ハート(温かい心)が必要だ」と言っています。弱者に対する温かい心がなければ、経済学をいくら学んでも意味がないとも。そして同じイギリスの経済学者ケインズの『人物評伝』にはこう記されます。

「クールヘッド(冷静な頭脳)とウォームハート(温かい心情)を兼ね備え、社会的苦悩に取り組むために最善の能力を進んでささげようと志して自らの力の及ぶかぎり努力しないことにはいられない人々の数をいっそう多くすることこそが私の念願なのです」と。

経済の本質を知る人は、その意味を理解しています。現在、ブロックチェーンをはじめ様々な新しい技術が新しい経済を築こうとします。しかしその根本にある思いやりや真心、先ほどの経世済民の祈りや願いのないところに本物の経済はありません。

本物の経済を願い育ててきた日本の先人たち、先輩たちの生き方に倣い、子どもたちのために今できること、自分の生き方で示していきたいと思います。

世界人類の心の洗濯

横井小楠は、世界の中で日本という国の在り方をつねに見つめていたように思います。自国だけがよくなることを考えていたのではなく、如何に世界が善くなるかをこの自分の足元を変えることで実現しようとしていたように思います。

その志は、遺った言葉の中に垣間見ることができます。例えば、

「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学無きがゆえに人情にわたることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めてまた賞金和好となる。人情を知らば戦争も停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」

「和とか戦いとかいっても結局偏した意見であって、時に応じ勢いにしたがって、そのよろしきを得るのが真の道理である。信義をもって応接し、我が国に義があれば、万国を敵に回すようなことはない」

私の意訳ですが、まずモラルがあって学を活かさなければ人類は平和にはならない。そして偏らず常に中庸であることが善きものになるのが道理。だからこそ常に信義を大切にしていくのなら敵はいないのである。

このように日本的で、日本人らしく、日本から世界に何を発信するかということを深く掘り下げて理念をもって国家の未来を創造していきました。横井小楠は、幼いころから努力の人物で13歳の時にその理念の主軸である「経世済民」に出会います。政治の根本に気づき、それを世界人類国家の本来の姿について真実を確信するのです。

私も現在、ゆえあってまちづくりに関わり始めていますがその根本はこの経世済民の思想です。今の時代はエコノミーといった経済ばかりが優先され、かつての経世済民の意味ではなくなってきています。しかし本来政治とは何か、それを深く理解していなければ世界の中で日本という国を役立てていくことが難しくなるのです。

歴史の偉人たちが言う独立自尊というのは、日本人が日本人らしい政治を実現して世界の模範になることです。そしてその世界の模範になることで、世界に影響を与え人類すべてにその思想を共有していくことに私たちの風土文化の意義があるように私は思います。

横井小楠はこうもいいます。

「堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす  なんぞ富国に止まらん なんぞ強兵に止まらん  大義を四海に布かんのみ 」

日本国は尭舜や孔子の実現しようとした道を明らかに示し、さらに西洋の科学技術を学びそれを使いこなすこと。それは単なる富国や強兵にとどまるのではなく、その独立自尊した日本の姿を見せることで世界に本来の人類としての大義を示すことが本当の使命であるのだと。

まさに、日本は世界の手本になるべきであると喝破するのです。この言葉を聴いた当時の維新の志士たちは魂が揺さぶられたことは間違いありません。私たちが創ろうとする日本人の純粋無垢な真心の政治、そして真の強さと優しさを兼ね備えた生き方を世界に示そうとしたのです。武士の鑑である楠正成を尊敬し、自分もまた日本人の鑑しての生き方をしようとしたのです。

改めて偉大な人物であることに感銘を受けました。

最後に、横井小楠がもっとも言葉にした一文を噛みしめたいと思います。

「天下一統人心洗濯希うところなり」

この横井小楠の大義、世界の人たちの心の洗濯こそ目指すところであるという願いはこれからもずっと私たちの生き方に影響を与えていくのでしょう。子どもたちにツケを残さなくていいように、今を洗濯して洗浄し譲り渡していきたいと思います。

手入れ

「手入れ」という思想があります。これは一般的には、よい状態に保つために、整えたりつくろったりして、手を掛けることをいいますが私にとっては「磨く」ということと同じだと定義しています。

人はどんなことでも「磨く」ことで愛着が湧き、さらに磨く面白さがわかっていきます。この磨く面白さは、手入れの面白さなのです。少しずつ手入れをしていくうちに、取り組んでいることの本質を知ったり、そのものの価値を学び直したり、さらには関係性の中でお互いに尊敬、尊重しあったりすることができます。

これは人と物との関係もですが、人と人との関係もまた同様です。手入れをしていくことは、それ自体が関係性を結んでいくことであり、お互いのご縁の存在を磨き光らせていくのです。

磨くために大切なこと、手入れのためにもっとも重要なことはそのものの存在を深く知ることからはじまります。五感を総動員し、また第六感までも使い、そのものの存在に触れていきます。そうすると、そのものが何の役に立ちたがっているのか、なぜこの存在が生まれたのか、どこで活かすことができるのかが少しずつ見えてきます。

そして場数を経ることで次第に、お互いの善さがもっとも引き出し合える場所を見つけることができます。その場所を大切に守り、それをいつまでも手入れし続けることでさらに関係が磨かれ珠玉の輝きを発揮しだします。

だからこそ手入れを怠らないようにすることが、人間が人間らしく生きていくための智慧になるのは間違いありません。

一人一人が手入れをし、磨き続ければこの世はそれぞれが光り輝いていきます。そうやって輝いていく人が増えていけば、この世は明るく平和になっていきます。手入れすること、磨くことは、私の人生の大テーマです。

引き続き、子どもたちに手入れや磨くことを伝承していくために私自身が楽しく豊かに磨きを楽しんでいきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。