天からの贈り物 プレゼント

英語の諺に「Yesterday is history, Tomorrow is a mystery, Today is a gift. That’s why it is called the present.」というものがあります。これは意訳すると、「昨日はもう歴史になっているし、明日はまだ神秘に満ちている。だからこそ今日この一日こそが天からの贈り物(プレゼント)。」というのです。

もしも人がすべてのことを天からの贈り物と思えば、その試練もまた天からの贈り物であり、日々のすべては天が自分が本当に望んだものに対して与えてくださった大切なご縁(プレゼント)ということになります。

このプレゼントいう意識は、感謝の心が大前提になければ感じることはありません。日々に彼方からやってくる出来事に対してそれを避けようとはせず、また有難いご縁、有難い贈り物を与えてくださってとお礼をする感謝の心の積み重ねによってプレゼントを感じる心は醸成されます。

神社にお参りにいくとき、私たちはお礼参りをしにいきます。ないものに対する不平を願うよりも、いただいているものすべてに感謝をする方が心豊かです。あるものを活かそうという発想もまた、この感謝の心の醸成によって磨かれていきます。

よく考えてみれば、この生まれてきた体も、そして子どもたちも、さらには自分に与えていただいた感覚のすべてもまた天からの贈り物です。それを贈り物だと思って大切に扱っていく人は、いつまでも天からの恵みや恩恵に包まれ、どんなご縁であってもすべては尊いいただきものだと感じられるものです。

そうやって感謝の心が積みあがっていくとき、その恩に報いたいという心もまた同時に育っていきます。天からの贈り物とはこの感謝報恩の心のことをいうのかもしれません。

もしもその感謝の心を忘れ傲慢な心が育てば、不平不満は単なる身勝手な我儘になり文句や言い訳ばかりをいってはせっかくの一日も貧しくつらい面白くない日々にしてしまいます。そのうち「もういらない」といただいたものを撥ね退けてはせっかくいただいたものまでゴミ屑のように粗末にしてしまうかもしれません。自分の欲しいもの以外はいらないという強欲さは仕合せを一層遠ざけてしまいます。

自分が今回与えられたご縁(プレゼント)が如何に偉大であるか、その天からの贈り物からお役目に気づき生きられる人はとても仕合せな人です。

人生はすべて生き方が決めますが、ものの見え方が変わっていればそれは生き方も変わったということですからどのような一日を過ごしてどのような見方をしたかの連続で一生はつくられていくはずです。

日々はかけがえないのない天からの贈り物としてその贈り物を感謝の心で授かる心、つまりはすべてを丸ごと受け取る感性を磨き幸運を伸ばしていきたいと思います。

和の甦生

以前、国際人のことを書きましたが今の時代は国際化の中で自分たちがどのように生きるのかを見つめる時代でもあります。私は若いうちからヨーロッパや中国に留学した経験がありますからその国の文化に触れ、どのようにこれから自分が生きていくかを考えたのを覚えています。

日本は島国だからか自国のことばかりになってしまうことが多く、世界のニュースや世界の動向を意識する人が少ないような気がします。今はこれだけITや流通が発展し、それぞれの国に人が行き来する時代になって国境がなくなり国際化したのだからもっと自分の国の文化に対する意識も高まっていなければならないのに自分の国の文化や歴史に興味を持っている人が圧倒的に少ないように思います。

先日、日本の保育についてメンターと話し合う中で「日本をもう一度見直そう」という話がありました。その中で「異なった文化の人たちが如何に協力するか、世界と和していくことが日本をよくすることだ」と仰っていたのが印象的でした。

現在、一つ一つの伝統を紐解き初心伝承を磨き深めていますがその根底には和の精神というものが根付いています。自然と共生し人々と和する・・その和の精神とは何かといえば、それは「平和」のことです。

大震災や大災害があったとき、日本は世界から尊敬されます。それは見事なほどに他者を思いやり、自制し自律し、他を受け容れ、助け合う姿を見せるからです。私はこれは日本独自の文化と歴史の結晶ではないかと感じます。

協力や協調、調和は私たちが実践する一円対話、そしてコンサルティングの本筋に定めているものですが日本の文化の後押しがあるからこそより大きな効果が現場で発揮されているのです。

明治以降、日本文化の価値が見捨てられ零落しその本当の意味や崇高さが伝統的な暮らしと共に衰退していきました。しかしこれからの子どもたちが国際化の中で如何に国際人として羽ばたいていくかと慮るとき、日本独自の文化が忘れ去られていくのは平和を世界に広げていく精神もまた忘れ去られるということであり、今、ここで何とかしなければという義憤に強くかられます。

私たちは親祖の初心が悠久の歳月を経て文化になったことを決して忘れてはなりません。

改めて日本を見つめ日本を見直し、古来からある日本文化を学び直し、それを転じて甦生し世界へ日本の文化を発信していく必要性を感じています。使命をもって、子どもたちのためにも和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

心田を耕す

二宮尊徳の教えに「心田を耕す」というものがあります。そもそも人間のあらゆる荒廃はすべて心の荒蕪から起こると説きました。荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで土地が手入れされずに荒れていることをいいます。荒廃は家屋などでいえば、荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。

この荒廃は心の荒蕪が問題であり、それを解決するには心田を耕すしかないといいました。私は自然農や古民家甦生を通して感じたものは、暮らしが失われることでこの心田もまた失われ荒廃していくということです。

本来、田であれ家であれ人が手入れを怠ればあっという間に荒んでいきます。なぜ荒むかといえば日々の暮らしを怠り忙しさにかまけて心の手入れをすることを忘れてしまうからです。

都会に住めば、忙しい日々を送る中で暮らしは消失していきます。特になんでも簡単便利に頭で考えたようにできる世の中になってくると、本来は有難かったことも当たり前になり、自分の都合よくいかなければ不平不満などが出てきます。それに拍車をかけてお金でなんでも解決しようとするあまり、さらに心を用いる苦労の方や、心を慮り丹誠を籠めるようなことがなくなっていきます。

古民家を一つ丁寧に建て直し、手入れをし甦生させていくともう十数年も置き去りになって雨漏りがして屋根が崩れ荒れ放題になっている隣家が気になってきます。一つ家を直せば、町並みは美しくなり隣の家が気になってくる。田んぼも一つ美しく手入れすれば荒廃された隣の田も気になってくる。こうやって一つ一つのことを手入れしながら、一つ一つ荒蕪を開墾して耕して手入れしていく以外に人々の心を直す方法はないのです。

二宮尊徳のいた時代は、大飢饉が続き食べ物がなくなり農民たちは重税で苦しんでいました。その中で村々は荒廃し人々の心もすさんでいたといいます。今は時代は変わり食べ物は豊富にありますが、都市一極集中で地方は少子高齢化が進み田畑や古民家は荒廃が進んできています。人々も重税がかかり、格差は広がりますます時代背景が似てきています。

一人一人が覚悟を決めて、暮らしを立て直し心田を耕すことによって荒廃を転じて幸福に目覚めていく必要があると私は感じます。

何をもって心田を耕すのかは、もう一度本物の暮らしとは何かと見つめ直すことからではないかと私は思います。本物の暮らしは、日々の心を耕します。かつての伝統的な日本の暮らしは感謝に包まれ謙虚に自然と一体になって日本人の心と共に慎まやかに継承されてきました。

文明が進んでも、生き方までは変わらず時代の進化は正常に行われてきたものが明治頃からそれまでの道から離れ戦後に様々な影響を受けて今に至ります。今一度、原点回帰し日本人としての生き方、つまり日本的な暮らしを甦生させ、本来の日本人としての心を耕していく文化を再興する必要を感じます。

そのためにも一人一人が目覚め、まず独り荒れた田に入りそれを開墾し、荒んだ家に入りそれを甦生させる、その真心を磨いて人々の心に潤いを与えていけるような実践を積み重ねていくしかないと思っています。

先人の尊さには頭が下がります、二宮尊徳の積小為大を実践をしつつ子どもたちのためにも暮らしを甦生し心田を耕し続けていきたいと思います。

自律と自由と自分次第

昨日、自由の森学園の体育祭を見学する機会がありました。子どもたちがのびのびと自由に自分たちの体育祭を楽しんでいる様子にほのぼのとした雰囲気がありました。いろいろなことを外から強制せずに自分たちで物事を主体的に取り組むようになるには、自分自身と向き合う必要が出てきます。

自分自身と向き合う中で、どのようなルールを自らで設定するか。ここに自律を学ぶ意味があるように思います。

私の会社も自由にしていますが、その自由の意味が最初はわからず周りから与えられたルールに従ってきた人たちは困惑して最初は何もできなくなるものです。しかし周りを見渡して、誰かから与えられたルールではなく自分自身が決めたルールに従うことで得られる自由に気づきます。

それでも与えられた自由のことが忘れられず、誰かに決めてもらおうとしたり、責任者に自分の管理を押し付けたり、会社のせいにしたりトップのせいにしたり、もしくは権利ばかりを主張してきたりするものです。

本来、自由というのは自分で決められる自由です。それを最初からできないものだと決めつけて自分で決めようとはせず、誰かによって決められたものでそれは決して自分では決めてはいけないものだと考えるほど不自由なことはありません。

無理をして限界がくれば会社を辞めればいいと努力している人もいますが、こんなのは誰かの決めたルールに従って無理に働いているだけで自分から成長を楽しんで働いているのではありません。

自分で決める自由というのは、誰かがそれを決めていたとしても自分が納得していればそれは自由です。それが主体性を発揮しているともいえます。例えば、私も疲れた時や大変な苦労の時に、なぜこんなことをと思う時もありますがよく考えてみると自分で選んだ道ではないかと思い直せばその柵から自由になり前向きに明るく取り組むことができています。

これも先ほどの自律と自由の話の一つで、自分が決めたことを自分でやりきることほどの自由はなく、誰かにやらされて仕方なくやる不自由とは異なるものです。自分で選択したことに責任を持つというのは、決してつらいことではなく、よく覚悟を決めることは大変なことだと勘違いされていますが本来の覚悟を決めることは自由になることを意味するのです。

自由というのは、自分の人生に自分が責任を持つということです。決して誰かのせいにするのではなく、すべての人生は自分が主体的に創造する主人公であるのだとこの自分が創造する世界の全責任を自分が持つということです。

物事をどのように感じるのかもその人次第ですし、出来事や機会に対してどのように接するかもその人次第、時間の使い方も人生の使い道もまたその人次第。どんな境遇にあったとしても、それをどう活かすかはすべてその人の責任、その人の自由なのです。

そうしてみると、子どもたちがこの自分で決める自由を学び社會に出ていくというのはとても大切なことのように思います。不自由の中で一生を終える人と、不自由は自分自身が決めているのだと悟り、自分が主体的に世界の責任を持つと決めて自分ルールを持ち自由に生きていくのではその社會の未来も変わっていきます。

引き続き、子どもたちの可能性を感じつつも子どもの憧れる会社を目指しているのだから社會と自分自身と向き合い、どのようなすばらしい社會にしていくかを掘り下げ、世界のモデルケースを研究し、どんどん楽しいルールを会社で創り自律を高め、新しい自由を社業を通して世の中に広めていきたいと思います。

伸びる感性を持ち続ける

物事にはすべてに調和、バランスがあります。対立したものが調和して物事は一体になっていきます。それは光と闇、火と水のように相反する性質のものがちょうど中間で折り合いをつけてバランスを取りちょうどいい具合に変化していくのに似ています。

この相反する性質のものを活かすには、どちらにも固執しないようなしなやかでやわらかな感性が必要になるように思います。古語にはそのバランスがあるものを中庸ともいいますが、この中庸は頭で理解できるものではなく心魂を磨き徳を備え、万物の調和の感覚を得ている自然と同様な生き方をできる柔軟性を持つ人たちが得ているように思います。

それはなんでも好いことに転じて活かす感性です。物事や事物を消極的に捉えるのではなく、それを楽観的に前向きに明るく捉えて味わい挑戦していく能力とも言えます。

自分のやりたいようにもっていこうとしたり、自分の思っている方へと向けようとしたり、自分を手放さなかったり、自分のできないことを避けようとしたり、自分に固執すればするほどにその柔軟性は失われて頑固になっていきます。

この時の頑固さとは周りが変化しているのに自分だけが変化しないでいようとすること、そして自分が変化しなければならないのにいつまでも周りにばかり求めようとすることです。

この頑固さを手放し、周りの変化に合わせて自分の方をさらりと変えていくのが自然の姿であり柔軟性を持ったということです。そのためには変わることを悪いこととは思わず、新しくはじまることを好いことだと信じ、常に挑戦していくのを楽しもう、どんな未来になっていくのかをワクワクしてやってみようと好奇心を発動させていくことで柔軟性はさらに磨かれていくものです。

この柔軟性がなくなってきて固くなれば死に近づいていきます。あの新芽の若い新緑の木々たちのような柔らかな姿、新しい環境に自らが喜んで周りと一緒に成長していこうとする豊かな姿。成功や結果よりも、「成長する喜び」に生きようとするものはすべてにおいて柔軟性を発揮していくように私は思います。

マジメニチャントヤロウとするよりは、成長していこうと機会をチャンスととらえてその機会を活かすような生き方をすることでいつまでも若い瑞々しい柔軟性を磨いていくことが変化そのものになっていくことのように思います。

あの三つ子の魂たちのように、イキイキワクワクと成長していく仕合せと伸びる歓びのままに純粋に生きている子どもたちのような姿こそ柔軟性でその子どもたちのあこがれるような生き方を志すのなら決して忘れてはならないものがこの伸びる感性を持ち続けることなのです。

常に成長を信じてやっているか、常に変化を味わって好奇心で取り組んでいるか、自分の好奇心が枯れて干からびていかないように常に変化の水分を吸収して明るい光をもって伸びていきたいと思います。

失われていく文化

昨日、佐賀県鹿島市にある創業100年以上続く漬物蔵「漬蔵たぞう」に訪問してきました。聴福庵の風呂に使う樽を譲っていただくことになり選定と発送作業を一緒に行いました。

その樽はすでに50年以上経過しており、15年前から使っておらず今では蔵の中の大きなモニュメントとして活躍していたものです。蔵を拝見すると、その空間には発酵蔵として長年生き続けてきた息遣いを感じ発酵場があることを実感します。

私も自宅裏の森の発酵場で伝統の高菜漬けを種から育てて漬けていますが発酵場独特の空気感や酵母の醸す香りや佇まいには癒される思いがします。この蔵の中に置いてあった樽には、100年間漬物一筋に手作りで手掛けてきた人との思いや、その中で共に暮らしてきた菌たちも樽に住み着いているように思います。

その樽を使わなくなった理由をお聞きすると、桶職人さんがいなくなったことが一番大きいと仰っていました。これだけの巨大な樽のたがをしめることができる桶職人がこの地域からいなくなりメンテナンスができなくなったそうです。

この地域は、肥前浜宿といって長崎街道の脇街道として酒造を中心に栄えた宿場町です。本来は酒を醸造するために大きな樽がたくさんあったものですが、その樽も次第になくなり桶職人さんもいなくなって今に至ります。

本来、伝統文化というのは職人さんがいてこそ成り立つものでそのつながりの中で様々な伝統が維持できていきます。大工、左官そして鍛冶師と研師が一体であるように、この樽や桶と酒、漬物、味噌、醤油などの発酵師たちもまた一体なのです。

意味があってあった職業が今では西洋のものと挿げ替えられ、伝統のものを修繕したり修理する技術も失われていきます。消えていく文化というものは、連綿と続いてきた先祖の知恵が消えていくということです。

先祖の知恵によって数千年も生き続けてきた私たちはこの風土の中で生き残るために真摯に改良を重ね今も存在できていますが海外から入ってきた風土にそぐわない技術に安易に便利だからと飛びつけば取り返しのつかないことを未来に残してしまいます。

たとえ小さな種火であったとしても、その種火が遺るのならその種火からまた火を大きくしていくことができます。私が取り組んでいる伝統の高菜も種があるから続けられ漬け続けるから子孫へと継承していくことができます。

こんな時代だからこそ忍耐力が求められますが、何をもって成功というのか何をもって成長というのか、失われていく文化と向き合いながら子どもたちのためにもあらゆるものを甦生させ活かしていくために発明に挑戦していきたいと思います。

ご縁いただいたこの樽は、これから福岡県八女市の松延さまの手によって聴福庵のお風呂として甦生します。このお風呂の一つの物語が子どもたちに伝承され、末永く心に残っていく風景を醸し出すようにと祈り見守りたいと思います。

・・・義を見てせざるは勇無きなり。

たとえ目のくらむような巨大な壁に怯みそうになっても、失われていく文化を前に今、自分にできることから実践していきたいと思います。

生きる道~生き方と生き様~

一般的には人は職業によってやっていることが異なるものです。職業の違いで立場や役割を分けたりしては、その立場を守りその役割を果たそうとします。しかし現代に入り、ますます多様化した社会と合わせてAIなど人工知能の出現でこれからの職業は大きく変わっていくように思います。

そもそも職業から私たちは先入観でこういう仕事だと思い込みますが、職業がそうだからとそこから生き方まではわからないものです。医者をはじめ教師、もしくはなんらかの職人であってもその人の生き方次第では同じ職業であったとしても全く異なることがあるからです。

私たちが本来、大事にしないといけないのはどのような生き方をするかを決めるのであってどのような職業に就くかというのではないと私は思います。職業に就いたからそうなったのではなく、どのような生き方をするかと覚悟を決めたからこそ人は為るからです。

人物というのは、世界のどの場所にも存在していてそれは職業で分かれているのではなくやはり生き方で存在します。どんな生き方をしているかを観て、そこに自分が共感し、その生き方を尊敬して自分の生き方に反映させていくということ。

これが生きる道であり、どんなにAIや人工知能、また社会が多様化して時代が変化してもこの生きる道は変わることはありません。

生きる道とは生き方のことです。

「あなたはいったいどんな生き方をしますか?」

この問いは、一日の時間の中でどんな生き様をするかということ。自分の決めた生き方が生き様になりますから、どんな生き方をするかがその人の人生そのものになっていきます。

職業の別や方法論に入る前に、自分の生き方に出会うことが自分の生きる道を見出すということです。後ろから歩んでくる子どもたちのためにも誰が何と言おうと勘違いされようと、自分の生き方は自分で決めて自分で貫くような人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

好きになること~時間の使い道~

人は時間の使い方を観ればその人の生き方がわかるものです。その人が一日24時間を何に使っているか、また一週間の168時間を何に使っているか、さらには30日、1年とその時間をどう過ごしているかでその人の生き様が観えてきます。

例えば、一日の仕事を好きでやっている人は一日中好きなことに没頭していきます。好きでやっていることだからそれは単に時間を浪費しているのではなく、好きなことをするのに大切な時間を使っていることになります。

私も好きなことややりたいことが山ほどあって寝たくないけれど寝ないといけませんから寝ますが、寝ても覚めても好きなことのことを考えています。もちろんそれは単に趣味に没頭しているというものもありますが、やっていることがすべて一つの目的につながっていると感じることができればすべてのことが好きでやっていることに気づくのです。

やりたくないことや大変なことがあったにせよ、この時間は二度と戻ってこないものです。その時間をどのように大切に使い切るかは、その人の問題意識に由るものです。この体験はきっと誰かや未来に役に立つ、この経験はきっと何か大切な意味を含んでいると深めて内省を続けていれば後になってやっぱりあれはとても大切なことだったと気づきます。

そういうことが連続で起きてくると、好悪で仕事を選ぶのではなくそのすべてを愛せるようになってきます。よく考えてみると、好きになるというのは単に好き嫌いの好きではなく嫌いなところがあっても好きであるということです。つまりいろいろな欠点や問題があったにせよそれでも好きなっているということです。

一日の時間の使い方の中で、どれだけ好きなことに没頭できるかでその人の一生は決まるように思います。それは嫌いなことを排除しようとする努力ではなく、好きになっていく努力、それほどまでに好きになるほどに時間を大切に生き切ったかという自問自答の集積だと私は感じます。

時間をどのように使うか、それはその人次第です。

少しの時間も無駄ではないとその時間そのものを楽しんでいけるようになるには、自分自身の人生を好きになると同様に時間を好きになるということです。与えられたものに文句を言うのではなく、与えられたすべてのご縁を好きになること。

つまりは自分にとってもこの時間はもっとも相応しいものであると受け止め、それを真摯に時間に還元し時間に尽くしていくことのように思います。

この時間は二度とないからこそ、どの時間もかけがえのない大切な人生です。出会いを好きになり、ご縁を好きになり、経験を好きになり、ありとあらゆるものが好きになったとき、人は自分自身のことを本当に好きになるように思います。

自信と誇りは時間の使い方次第です。

引き続き、子ども第一義、すべての時間をその一点に集中して歩みを刻んでいきたいと思います。

理念の共有

誰かと何かをやるときに理念の共有というものは大切なことです。特に組織でいえば全体を一緒にカバーしていくような柱の人たちはこの柱を支える役割がありますからその柱がちゃんと立っている必要があります。

もしも柱がどこかにいってしまったり支えていなければ、それは全体の家を支えることができなくなるからです。だからこそこの理念の共有は、柱を支える人たちにとってはなくてはならないものだともいえます。

家であれば柱が傾けばその柱に重みが一点に集まって乗ってしまうことはわかります。傾いた柱に重みが乗ればあっという間にその全体の重量がかかり家が傾いてしまいます。そうならないように周りの柱も一緒に支えることで家は立っています。

例えば他にも重たい石やものを持つときにも、持ち上げる際には一人よりもみんなで持ち上げることで持ち上がります。その際は、一緒に息を合わせて持ち上げることで持ち上がります。これもまた先ほどの理念の共有と同じく、みんなで支えて持ち上げなければなりません。

自分だけでやろうとするのではなく、みんなに協力してもらって持ち上げていくこと。そのためにも理念の共有は欠かせないのです。大黒柱がもしも家からなくなってしまえば、その家は少しの災害でも倒壊してしまいます。同じくチームの中での大黒柱がなくなればそのチームも同様に崩れてしまうかもしれません。大黒柱とそれを支えるチームの人たちが如何に目的を共有して一緒に組織を支えるかは、その目的の共有の質量に由るのです。

目的の共有とは、何のためにやるのか、誰のためにやるのか、なぜこれをやるのかという意識の共有のことです。意味があってやっていることであっても、その意味が分かっていないのでは目的が共有されているのではありません。

一回言ったからいいではなく、何回でも耳に胼胝ができてでもその目的を伝え続けなければなりません。それが本質であり続けることであり、本来の目的に対して誠実にみんなで力を合わせて取り組んでいくことになります。

柱が多ければ多いほど、また真っ直ぐに凛として立てば立つほどにその家は強く逞しくなっていきます。自分が支えているものが何か、何をすることが支えることなのか、その経過を理解し合い持ち合うことが家を守ることになります。

幹部というのは木の幹、根幹の幹ですからこの経過を常に確認することはチームや組織において何よりも優先していく必要があると私は思います。

引き続き、お客様の理念がブレずに目的に向かえるように理念の共有を説いていきたいと思います。

 

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。