純粋とは何か

物事の実相が素直に観える人は、心が澄んでいます。心が澄んでいるというのは、あるがままを感じることができるということです。言い換えれば、純粋な心のままということを言います。しかしこれはどのようなものか、改めて純粋ということの意味を深めてみたいと思います。

まず純粋という字を辞書でひくとまじりけがなく、邪念私欲がなく、一途さやひたむき、打算や駆け引きがないことなどが書かれています。そしてこの字の生い立ちを見て見ると純はたばねた髪飾りをつけた幼児の象形でまじりけのない美しさの意味を表します。そして粋も完全に精米した米の意味から、まじりけがないの意味を表します。これらはまじりけがない存在のことを純粋としています。つまり全体から感じるイメージは「まじりけがない」ことが純粋さのことであろうと思います。

しかしまじりけがないとは何か、何がまじることなのかということです。まじるというのは不純物が入ることと思われます。しかしちゃんとまじるものこそが純粋とも言えます。それは混然一体のまじりけこそが純粋そのものなのです。つまり何でも素直に受け容れることができる、それが純粋でいうところのまじりけがないということだと私は思います。つまりまじりけがないということは、すべて丸ごと混じらせることが出来るという意味です。

だからこそ純粋な人とは、素直で寛容な心を持つ人だとも言えます。さらに心が開いているオープンな人でもあります。これは言い換えれば、子どもの純粋さと同じです。子どもに善悪はなく、こどもに正否はありません。心のままにあるがままにありとあらゆることをそのままに感じる素直なままの存在です。それが大人になると次第にその心が閉じていきます、閉じないためにはあるがままの全てをあるがままに受け容れて味わっていくことで子ども心は維持されていくのです。一円対話の妙味も其処に尽きるとも言えます。

詩人で書家である相田みつおさんにこういう詩があります。

「あなたの心がきれいだから なんでもきれいに見えるんだなぁ」

これはきれいをきれいと感じている人の純粋さを語っているようにも感じます。つまり心がきれいかどうかもありますが、そう味わっているんだと思えるということです。

他にも「雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中を」があります。これも同じように自然のままに純粋に味わっている姿があります。「体験してはじめて身につくんだなあ」などもあります。同じく詩人坂村真民さんは「万巻の書を読んでもその姿勢が正しくなかったら何の価値もない 大切なのは人間を見る眼の人間に対する姿勢の 正しさにある 真実さにある 純粋さにある」と言います。このお二人のどの詩にも物事の実相のことが素直に語られています。

このありのままのことをあるがままに感じる感性、それを素直さとも言い換えてもいいと思いますがこれを磨いていく人こそが純粋性を保つ人のように思います。いちいち味わうことをしないために知識で塗り固めていたら、大切なものを感じる素直な心も次第に消失していくものです。どんなことも丸ごと受け容れる、どんなことも善いことだとして受け容れる、そういう味わい深い生き方の中にこそ純粋さはあるように私は思います。

子どもを守る仕事、子ども心を見守るのだから大人になっても老人になっても一生涯常に自らを素直に省みて万物渾然一体自然一円観に純粋な日々を歩んでいきたいと思います。

素から直す~陽明学~

日本に影響を与えた人物に中国の王陽明がいます。王陽明の生き方や思想、その生き様は日本では中江藤樹や吉田松陰をはじめ様々な人たちが影響を受けてその学問を深めていきます。

王陽明の思想は、「心即理」であり私の解釈では心とは知良致であり、明徳であり、直毘霊であり、大和魂であり、現代の解釈では素直であるということです。王陽明は、「抜本塞源」という言葉があります。これは「根本から誤りを是正しなければ意味がない」ということです。「素直」という字も、「素から直す」と書きます。そもそもの中心になっているものを見直し、原点回帰しなければ直るものも直らないということです。そしてそれは素直になることであり、素直の能力を磨くことでしか本来の心は出てこないと言い切るのです。

そのために必要なのは、「事上練磨」という日々の実践をどう磨き己に克ち続けるかと言います。素直を磨くために境遇に一喜一憂せずに只管に真心を練磨していくための実践を行うことだと言います。学問のための学問ではなく、まさに自分の真心を盡すために生きることを言います。それを吉田松陰は「至誠」と解釈し、環境や状況に有無を言わずただ一心に真心を盡すのみと人生を生き切ります。この生き方こそが王陽明と同じであり、陽明学の真髄はこの至誠に尽きるようにも思います。

王陽明という人物は、文人としても武人としても立派な人であり荒廃した村に学校をつくり人々を導き徳のある村にしたり、戦では一滴の血を流さずに戦争を終結させたり、政治がとても乱れて賄賂も横行していた慾に乱れた世の中においても私財をなげうって貧しい人たちに寄り添い続け義を貫いた生き方を実践しました。

陽明を慕う人々は、何よりその純粋な生き方をみて感じ入るものがあり素直に生きること、心のままに行動し実践することの美しさを感じるように思います。今の時代、美しく生きるということが難しくなってきていますが本来の先祖たちが目指した生き方はこの「心即理」に適っていたように思います。

ではその心が理から離れるのはなぜか、それを王陽明は山中の賊になぞらえてこう例えます。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」

自他の中に賊あり、その賊が邪魔をして素直な心はかきけされていきます。たとえ山にいるような山賊を倒すのは容易でも、心の中にある賊を倒すのは難しいということです。実践を通じて自分がブレていることに気づきそのたびに根本に回帰し、素から直すことを繰り返しながら、本来の心のままでいるための克己の工夫をどう磨いていくか、日々は事上練磨ですから今日も真心を盡して素直のままの心を育てていきたいと思います。

 

素直の能力を使うとは何か

人は最も分かっていないのが自分のことだとも言います。他人から指摘されてはじめて人は自分のことが分かります。自分でいくら分かった気になっていても知らず知らずのうちに自分のことを思い込み勘違いするものです。そしてその自分の価値というものを歪ませていくものです。人間にはそれぞれに価値観というものがありますから、価値観を自覚していないまま自分を知ったと思っていてもその価値観自体を見つめることなしに自分を分かるということはないのです。

しかしこの価値観を見つめるには、価値観を超えたものの見方ができるようにならなければ価値観に縛られてしまいます。私が伝えている聴福人の実践、「人の話を素直に聴ける能力」も、そのために必要な自己修養の要なのです。この素直さというものは能力ですから、使う人と使わない人がいるだけです。このもって生まれた素直さという能力を活かす人はその素直の能力を使って話を聴くことができます。そこで自分の価値観を超えた見方を知るのです。素直の能力があるのに使わないというのはもったいないことですから常に自分を見つめるためにも素直の能力を使いその力を伸ばしていくといいと思います。

しかしその素直になれないのも自分の価値観に固執するからです。その固執した分、周りとの軋轢は発生します。自分の存在価値をどのように捉えているか、そこに価値観の固執から抜け出すヒントがあると私は思っています。アメリカの実業家で著述家にジェリー・ミンチントンがいます。その人の言葉の中に存在価値のことが分かりやすく解説しています。

「生まれつき価値のある存在なのだから自分の価値を他人に証明する必要はない。」

人はそもそも生まれつき存在価値があるものです。何かができるとかできないとか、成功とか失敗とかでその人の存在価値が変わるということはありません。いちいちそれで存在価値を変えていたら面倒なことになります。人の存在価値とは生まれつきのものです。しかし周りを見渡せば、存在価値ばかりを気にして自分ができなければ存在価値がないと思っている人も沢山います。自分が存在価値がないと思っている人は、同じような人のことも存在価値がないと見なすものです。これも一つの「価値」観念ですがそこに気づくことが最初の入口かもしれません。

他にもジェリー・ミンチントンは、自分の価値観を正しく知りその価値観を超えた見方をするための言葉を記しています。ここでは価値観のことを「思い込み」と認識するといいと思います。

「何かが真理であると思い込むと、それが実際に真理であるかどうかは関係ない。私たちはいったん思い込みにとらわれると、まるでそれが真理であるかのようにふるまうようになる。」

「私たちは知性、善悪の判断、倫理、道徳、正義、善良さ、礼儀作法などの面において、自分が他人よりも優れていると思い込んでいる。自分のやり方が正しく、他人のやり方は間違っているというわけである。もしそう思い込んでいないなら、自分が他人を評価できる立場にあるという無神経で独善的な思い込みはしないはずだ。」

思い込みというのは、自分を正当化していくものです。しかしもしも謙虚であれば、ひょっとしたら間違っているのは自分ではないかと素直の能力を活かして振り返れるものです。そしてその姿勢になってはじめて人の話が聴ける自分、価値観を超えたところで物事の実相に気づく境地に入るとも言えます。思い込みが外れないのは、価値観に固執し感情に呑まれるからです。その理由は自分の正当化に他なりません、自分を正当化するからこそ周りを変えようとするのです。

「私たちが他人に向かって、『あなたのせいですごく腹が立つ』と言うとき、実質的には『あなたのせいで私はすごく気分が悪いのだから、あなたは変わる必要がある』と言っているのだ。しかし、たとえ他人が私たちの感情的な問題の責任を受け入れてくれても、満足のいく解決策にはならない。症状を取り除いても原因がそのままである限り、同じような問題がまた発生するからだ。」

「自分の気分が悪いことを他人のせいにすることは便利だが、他人にそんなに大きな力を与えてしまうと、自分の立場が弱くなるだけである。そうなると、私たちは他人が親切にしてくれるを期待しながら、生きていかなければならなくなるが、そんなことは実際に期待できるはずがない。」

「注目すべきことは、私たちが他人を変えようとして、様々なテクニックを駆使することではなく他人の不快な行動を変えさせるために私たち自身がかなり不快な行動をとっているという事実である。」

そしてこうも言います。

「現実を直視しよう。変えることの出来ない現実は、受け入れる以外に方法はない。」と。

今、起きてることの現実を受け容れないところに問題があるのでありそもそも問題は自分の価値観から発生してくるものです。なぜならある人にとっては造作もないことでも、ある人にとってはトラウマと向き合うほどのこともあるからです。現実の直視もまた素直の能力が必要です。しかし問題は決して悪いことではなく、問題があるから物事の本質に気づき直すこともできます。結果ばかりを心配してプロセスを味あわなければ気づくことができません。

人は気づくことで初心を思い出しますし、気づくことで改めて自分の何を変化させていけばいいかを発見しますから価値を自分で勝手に決めてはならないのです。

そしてジェリー・ミンチントンはこう勇気づけます。

「かなりひどい過ちも含めて、過ちを犯すことはきわめて正常である。私が犯した過ちは、私の知性や人間としての価値とは関係ない。」

「私たちはどんなに愚かな過ちを犯しても、それをすすんで認めるべきである。私たちは死ぬまでつねに過ちを犯しつづける存在なのだ。過ちを犯しつづけるかぎり、自分がまだ生きて学んでいることの証である。」

失敗や成功がその人の値打ちを決めるものではありませんし、その人ができる人かできない人かがその人の存在価値を決めるものでもありません。その人の存在価値は、何もしなくても何もできなくてもそのものが価値なのです。それが存在するということであり、その存在そのものが価値であることに気づくことが本当に自分を知ることなのです。

今の時代は、かつての教育を刷り込まれその課題で苦しんでいる人たちがたくさんいます。しかしこれも気づくための善い最良の機会と捉え、一緒に歩んでくれる人たちや信頼する人たちともに新たな価値に気づき素直の能力を磨いていく砥石にしていけばいいと思います。

分からないことがあっていい、知らないこともあっていい、そしてできないことがあっていい、あってもなくても両方善いのが一円観です。引き続き、聴福人の実践を味わい盡していきたいと思います。

福の修行

昨日から新潟の春日山に来て、上杉謙信を深める機会がありました。春日山神社、毘沙門堂、その後、林泉寺に参拝しました。上杉謙信の生き方や思想は、この地に多く遺っています。上杉謙信の「謙信」は、法号であり戒名を不識院殿真光謙信と言います。そして林泉寺には「第一義」という謙信の座右が山門の入口に掲げられています。この法号のはじめにある「不識」というのは禅の達磨大師の言葉です。

「不識」には林泉寺HPにこう紹介されています。

『仏道修業に励んでいた謙信公は、林泉寺八代目の益翁宗謙大和尚「達磨大師の言った不識とはどういう意味か」と問いました。苦修練行数カ月の末、ついにその本旨に達しました。不識の中味に合致した生涯を見出した謙信公は、自ら「不識庵」という号を名乗りました。不識というものの意味は、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉です。不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」ということです。』

自ら毘沙門天を志し、戦国時代に生まれ義を貫くことを覚悟し生きた謙信にとってこの「不識」というのは人生の大きな課題だったように思います。何がもっとも善いことなのか、何を信じて生きるのか、その時、経典の中にあった良し悪しをも全て忘れ、無心に私我を手放し捨て去っていく中に「第一義」があったように思います。私も理念で「子ども第一義」としていますが、この第一義はそのまま、あるがままという意味があります。つまりは、子どものままを貫くともいい、子ども心のままともいい、常に子どもの側から物事を観続けるという意味でもあります。

また毘沙門天というのは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」と言います。言葉としては「全て丸ごとを聴く」という意味を表しています。そして毘沙門天は七福神の一人に数えられています。私が実践を重んじる「聴福人」というのはこの毘沙門天の生き方、つまり如何に全てを聴いて信じて福に転じるかを徳目に実践するということです。

「義」というのは、古来から続く日本人の生き方を貫くときに顕現するものです。そのあるがまま、自然、かんながらの道の上には義は燦然と輝き子孫たちへの道しるべとして風土の彼方此方に文化として継承されていきます。

毘沙門堂で四方の自然を感じながら毘沙門天を念じ続け、神人合一しようとした謙信の祈りが聴こえてくるかのような感じがしました。人間の世界での筋道もありますが、人間よりも先に自然の筋道というものがこの世には存在します。その人間の小我を手放し、自然の大我を悟るというのは第一義の実践によって実現するように私は思います。

常に自然を優先しているという意味が、「謙」でありそれを「信」じるものとして自然あるがままであったその生き方に私は「義」の本質をいつも感じます。義と言えば、日本には義将と呼ばれる風土自然を顕現した武将たちの生き様や真心がいまでも語り継がれています。

古来から大切にしてきた忠義という言葉も、今の時代は色あせて別の意味で使われます。そのうち自分の価値観に囚われて思い込み、忙しさに流されて大義を忘れて自分をも亡くしてしまっている人も増えたように思います。

こういう時代だからこそ毘沙門天から福の徳目を学び直し、もう一度「第一義」を座右にしていくことが必要になってくると思います。引き続きカグヤは「子ども第一義」を掲げ、この時代に温故知新した福の修行を積み重ねていきたいと思います。

 

 

表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。

形骸化の意味

形骸化という言葉があります。これを辞書でひくと「誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうこと」(大辞林)とあります。

形骸化というのは、そのものの本質や実体が別のものに変わってしまうということです。目的意識をなくしてただやってるだけのものは、形骸化であって本質的ではありません。よくマンネリ化という言葉もありますが、なんとなく続けているうちに何も変化がなくなってただやっているだけということも形骸化の一つだと思います。

これらのことは質の問題であり、質を求めることをやめた状態とも言えます。何のためにやるのかを忘れる人は、物事をすぐに形骸化させていきます。主体性というものは、自ら積極的に本質を深めていきますから主体性が喪失してくると形骸化するとも言えるのです。

如何に形骸化しないか、それは言い換えれば如何に活性化するかということですがそれは常にスクラップアンドビルド、日本語では温故知新し続けていかなければならないのです。

改善という言葉もありますが、これはやってみたことをフィードバックしてそれを改善していくことです。よく勘違いしている改善は、先に計画を立てて計画に合わせて修正していくことを言いますがこれは改善の本質ではありません。改善は、まるで植物や野菜の種を蒔いて育ててみて一通り終わってからそこから蒔き時や収穫時期、草刈やその他の寄り添いなどを全て観直しそれを次の年、また次回に反映させていくことです。

つまり自分の思い通りにいかないのを修正するのが改善ではなく、次回に向けて謙虚に見直しをかけてそれをまた新たに挑戦していくことが改善なのです。本来の改善は何のためにあるか、それは常に目的が本質から外れないようにあるのです。

それが改善を怠り目的が本質から外れたらすぐに人間は形骸化をはじめマンネリ化が進みます。そうするとわけのわからないまま意味のないままの業務が増えていくだけですから業務省力がまったく進まなくなるのです。本来の業務省力は、本質を維持するための改善を続けて革新を連続していくことです。そのために、フィードバックは欠かせない大切な実践になり、それを行うことで次への課題が明確になり改善が進み本質が維持されるのです。

何のためにと行動する人は、業務省力が出来ている人とも言えます。世の中、業務過多になれば心が忙しくなり、丹精が籠りにくくなります。そうやって仕事を増やし続けていたら大切な本質までも見失ってしまうかもしれません。

子どもの仕事をするからこそ、常に本質からブレない実践を積み重ねていきたいと思います。

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

場とは何か

日本の文化の中には、「場」という概念があります。最近ではパワースポットなどとも呼ばれ、その「場」にいくと不思議な力が宿っていてそこで何らかの力が引き出されていくと考えられています。

この「場」には何があるのか、そこにはその「場」を創りだしている意志があります。それを少し深めてみたいと思います。

例えば、ある組織の集団においてその集団をファシリテーションする人の存在はとても大きなものです。学校でいえば先生などがそれにあたります。幕末の松下村塾などは、吉田松陰という人物が志を掲げ塾を通して「場」を顕現しました。その「場」には志士が誕生し、沢山の同志たちが集まってきました。それもまた吉田松陰という生き方や意志が「場」に反映されているとも言えます。

先ほどの組織に戻れば、組織をファシリテーションする人物の思想や生き様、生き方や信念、その姿勢や実践がその周囲に「場」を産み出していきます。この「場」というものは、直接的に発生するのではなく間接的に発生していくものです。それは言い換えれば、祈りによって物事が成就することにも似ています。祈りというものは、神仏に祈るのですが祈っているうちに信じる力が備わってくると自分以外の他力によって物事は解決していきます。ここには直接的に自分がやってあげたり自分が何かをしなくてもその祈りによって時間が自然に物事を解決していくのです。そういう体験をしたことがある人は少なからず存在しているように思います。

これなどは先ほどの「場」に意志が働き間接的な力が引き出されて物事が好循環していくのですがその場作りをする人の意志がとても重要になるのです。

別に特別な力を感得していなくても、産まれてきたことや育ててもらったこと、今生きていることや授かっている全てが「何ものか」によって与えていただいたものだと感じるときそこに御蔭様といった「間接的な力」を感じることができるはずです。

この間接的な力は、意志によって左右されます。その人の理念、信念、初心、生き方、生き様、覚悟、大義によって「場」が創出されるのです。この場のことを別の言葉で言い換えれば「想念」と呼んでもいいのかもしれません。

どのような想いとどのような念を抱き生き続けているか、その意志を継ぐ者たちによって場が永遠に受け継がれて益々場はチカラが漲ってきます。パワースポットには、その太古から連綿と続いてきた意志の場が遺っています。その意志の場に自分を運べば、その意志の力の影響を受けて自分の内面にあるものが引き出されてきます。そこには間接的な力の密集地帯であり、その間接的な力を得て人は元気を取り戻すのです。

私たちが取り組む聴福人の実践もまた、この「場」をファシリテーションしていることと同じです。どのような場を創出するか、それは聴福人をする人物の想念に懸っています。その想念をどれだけ真摯に抱き、そこに「場」を創出するか、それはそこで働く人たちの気づきの集積と理念の反復、そして素直な内省によって育まれていきます。

「場」さえ出来上がってしまえば、あとはそれを受け継いでくれる存在が永遠に発展させてくれます。常に間接的な力によって物事が動いていくことを信じて、どんな想念を持つか、そしてどんな場をつくっていくか、日々に御縁を味わっていきたいと思います。

伸びるチカラ

変化と成長というのは、日々に地球が廻る様に私たち人間も前進していくことに似ています。自然界も同じく、変化成長を已みません。同時に私たち人間も日々の仕事や出来事、様々な御縁や出会い、挑戦によって変化成長していかなければ時代の流れに取り残されてしまいます。

結局、変化とは人格形成をしていくことであり如何なる出来事に対していかなる人格を磨いたかということが変化と成長には深く関わっているのでしょう。

先日、お客様から興味深い御話をいただきました。

常に物事はその良し悪しや好き嫌いに関係なくどのようなことが起こったとしてもそれは自らの人格を高めるために起きた出来事だとし、その出来事に素直に向き合ってその出来事を受け止めるということです。

そのために必ず行わなければならない3つのことがあるといいます。

  • 人や環境のせいにしないこと。
  • 人と比べないこと。
  • 人の悪口を言わないこと。

つまり言い訳をせずに誰のせいにもせず、何ものとも比較しないということです。これは斜に構えないという言葉の代わりでもあるように思います。何でも斜に構え受け止めないで流していたら、いつも物事の本質やその物事が発生した理由などは考えず、現実から逃げ言い訳ばかりに終始していたら自分が変わる機会を失ってしまいます。

人は自分にとって都合が悪い出来事があるのは、自分の自我欲や執着に気づきそれを手放す機会でありそして自分のとって面白くない出来事があるのは、自分に沁み付いた生き方の癖を直す機会です。

そういうものを如何に受け止めるかで人間の変化と成長が変わってくるように思います。そしてなぜ人間力が必要か、それは周りは変えられず自分の見方を換え変わるしかありませんから徳がいるのです。この徳というのは、人が道を歩み続けて変化成長を已まないことで磨かれて研ぎ澄まされていきます。この徳が磨かれて高まれば、どんな出来事があってもそれを丸ごと前向きに信じることができ、そしてどんな事件があったとしてもそれを全て有り難い御蔭さまと感謝で祈ることができるようになるからです。

人間は産まれてから死ぬまでずっと精進が必要なのは、変化成長こそが生きる意味につながっているからです。もし世の中に成功の秘訣があるとするのなら、それはこの変化成長を已まないことのように私は思います。誰かのマイナスや、言い訳、そして比較をするとき人は「必ず停滞」します。それは変化成長を自らがとめてしまっているとも言えます。だからこそ、誰かのプラス面を観る、そして言い訳をしないで受け容れる、さらには自分の信念や天命を優先し、理念を自分らしく遣り切れば必ず成長と変化の流れが進み時間が物事を解決してくれるように思います。

時間も流れ世界も循環しますから、大事なのは成長と変化をし続けることのように思います。この変化と成長、つまり伸びるチカラこそ変化成長の根源です。日々に来たものを選ばずに、ど真剣に全てのことにニコニコ顔でいのちがけでやってみてそれをじっくりと省みて味わっていきたいと思います。

自然の暮らし

神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。

今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。

人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。

しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。

最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。

言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。

自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。

私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。

その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。

刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。