お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

王道~美しい魂~

「王道」という言葉があります。これは孟子が「徳を以て仁を行う者は王たらん」すなわち仁義の徳が善政となって流露するのが王道であると説いたことが有名です。言い換えれば、この王道とは原理原則のことであり、人としての道、大義のことです。

色々なリーダーはいますが、本物のリーダーとは時代、場所、国家、様々な違いや異なりなどもすべては関係がなくこの原理原則を実践するものこそがリーダーの本質とも言えます。

色々なリーダー論があり考え方も無数にありますが、その大本にある真の根本はこの王道のことです。この王道が実践できてはじめてリーダーはリーダーと呼べるものです。刷り込まれ本質もわからず、枝葉末節の派手な理論や仕組みにいくら長けて世の中の流行にのったとしても、この原理原則や王道を知らないし、やらないのではそんなリーダーは本来の意味でのリーダーではないと私は思います。能力がある人ばかりがもしもリーダーになってしまったらこの世から王道が薄れていくばかりです。

しかし古今、世の中には様々なことをいう人がいますが粛々と大義を実践している人は本当にごくわずかですが存在します。そういう大義の本質を学び直して、克己復礼し、仁に帰す人があるからこそこの世に王道が消えることはありません。

そういう日本のリーダーの一人に稲盛和夫さんがいます。生き方や働き方をはじめ、本来の人生の歩み方を様々な著書で紹介しています。今の時代は、粛々と実践して長い時間をかけて積み重ねて磨き上げて道を歩もうとするよりも簡単便利にエスカレーターやエレベーターに乗り込もうとする人たちばかりになっています。そういう時に、改めて自分の足で歩くことの大切さを後ろ姿で見せてくれる人がいることは本当に有難いことのように思います。そういう人物をどれだけ発掘して見直し、この世に輩出していくか、それがこの国の未来の姿であり教育の要であろうと思います。

稲盛和夫さんは西郷隆盛の座右「敬天愛人」を京セラの社是にしており、常に社員は原理原則に沿って王道を往くことを何よりも重んじる経営をしておられました。稲盛和夫さんの著書「人生の王道」(日経BP社)中に王道とは何かについて書かれている文章にとても共感するので紹介します。

『一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。それは、「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の先祖がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも、自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。

私は、心のあり方、考え方が、人生においていかに大切かということを、社員によく理解してもらいたいがために、次のような「人生の方程式」というものを考えました。(人生・仕事の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力)

そして、何よりも大切なのが考え方です。考え方とは人が生きる姿勢であり、哲学、思想、信念、あるいは人間の志、心がけといってもよいでしょう。』

ここで何より大事なのは「心がけ」だと言います。考え方こそが生きる姿勢であるから、その考え方が原理原則、つまり王道に則っているかというのが自然体の人生において中心であるということを言います。考え方が間違い心がけを忘れると、どんなに熱意と能力があってもそれは成就しないということです。

なぜならそもそもの「考え方」が、邪道や覇道になり徳というものの姿を見失うならば人の道から外れますから自然の摂理や王道そのものから離れてしまいます。それは大きな目で観て地球が常に回転し廻るように、そして土や火、水がとけ合い循環する様に、御縁や出会いの繋がりによって自然が生成するように、本来の原理原則は悠久の時を永遠の調和のままに道を歩み続けている存在です。そこの中にあって生き活かされる私たち人間だからこそ本来の姿から目を離さず、王道の実践をもって歩みを已まない生き方と働き方を一致させていくことが「本来の人の道」、つまりリーダーのリーダーたる由縁なのでしょう。

そして文章ではこう締めくくられます。

『人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所なのだと私は思うのです』

・・・自らを磨き美しい魂をつくること。

美しい魂とは、生き方から出てくる王道の中にある原理原則の鑑です。

子ども達にどんな背中をみせていきたいか、それはこの美しい魂の中に存在します。王道を思う時、私たちの祖神、天照大神の八咫鏡のことを思い出しました。引き続き王道を志し、日々に精進していきたいと思います。

生き方を換える

人はそれぞれに生き方といった自分の習慣を持っています。今までどんな生き方をしてきたかがその人の生き様ですが、その生き様が働き方や生活の仕方、思考、行動のあらゆるものを決めているとも言えます。

自分がどのように行動するか、いわばそれは日々の行動パターンや思考パターンなどが習慣になりそれが生き方になっているということです。その習慣が身に付いてしまうと、自分の習慣に従って人生もつくられていくものです。

人生には、前進か後退しかなく中間はないという言葉があります。地球が廻るように日々は循環していますから止まれば下がり、歩めば進むだけですから確かにじっとしていることは後退になります。自分の生き方も同じで、そのままにしていたらそのうち時代に合わなくなったり周りの環境に順応しなくなっていくものです。

また場合によってはいつも悪循環になる人と、好循環になる人がいますがこれも生き方の癖、習慣が決めているとも言えます。例えば、何でも先延ばしにしたり、言い訳をしたり、迷ってばかりいたり、周りの目を気にしたり、比較や正解探し、自分の都合ばかりを優先したり我儘だったりする生き方は悪循環になることが多く、そのことから不自然なことの揺り戻しで苦労することがあります。そういう自分の悪循環の流れを断ち切るには、今までの習慣、生活習慣を変えていくしかありません。自分の生活習慣が変われば意識が変わり、意識が変われば人生が変わっていくからです。

基本的生活習慣を変えるというのは、今まで早起きできない人が早起きして朝練をしたり、遅刻ばかりする人が時間を厳守できるようにしたり、食べ過ぎを腹八分目で止めるようにしたりと、ちょっとした変化ですがこの生活習慣が変わることでその人の人生の癖もまた変化し生き方が変わっていきます。

生き方が変われば自ずから働き方も変わりますし、逆に働き方から変えていくことで生き方を変えることができるものです。それを分けて考えて、生き方はそのままでも仕事だけはなんとかやり過ごそうと思ってもその人の習慣が変わっているわけではありませんからその癖によってまた仕事にも影響が出てしまうものです。

人生は生き方と働き方の両輪をどう実践によって一致させていくか、それは人生そのものを本来の目指す理想や本来の目的といっ初心に近づけるために必要なことです。理想や初心がないのなら、習慣を変えてまで自分を変えようとはしなくてもいいのですが、今までの生き方がその理想や初心に反する習慣を身に着けてしまっているのならばそれを新たな習慣で上書きしていくしかありません。

習慣は第二の天性とも言いますが、習慣が変わらないのに自分の生き方や働き方、考え方や行動の仕方が変わっていくことはありません。習慣を変えるというのは、自分の生き方を見つめる一つのバロメーターです。習慣を変えることを恐れる人は、今までの生き方を変えることを恐れる人です。

変わろうと決めることがあったなら、それを実践に換えて粛々と習慣になるまで継続したものだけが新しい人生を手に入れるのかもしれません。習慣と向き合うには、自分のパターンを分析しそのパターンを見つめそのパターンを変えてみると今までとは異なった感覚に出会います。その異なった感覚を持ち続けてそれが普通になるまで遣りきることができればその人は変わります。違和感があるうちは、まだ受け容れていない証拠ですから当たり前になるまで実践できるかどうかが生き方を変えるキーポイントなのでしょう。

周りが合わせてくれないと嘆く前に、自分が実践により生き方を変えたどうかを見つめることが自分を変えて世界を変えていく方法なのかもしれません。子ども達のためにも、悪循環を改善し好循環になるような新たな実践と習慣に取り組んでいきたいと思います。

実践の本質~生き方と働き方の一致~

一般的に生き方と働き方というものを一致していくということは難しいことです。人は生き方と働き方を分けては、同じように様々なものを分けてしまいます。それは比較の概念と同じです。自分はそこまではできないと先に諦めてしまって、何もしなくなると生き方と働き方はさらに分かれてしまうものです。

そうなると自分の都合のよい方しかやらないというように「選ぶ」方を選択してしまいます。本来、自分の与えられている今に全身全霊を懸けて一筋に歩んでいけば天命に従い自ずから活路が見出していけるのでしょうが選んでいる時点で今を受け止められず未来や過去にばかりに執着し中途半端になってしまうことが多いのです。

だからこそ生き方と働き方を一致させる「実践」が必要なのですが、分かれてしまっている人は実践の意味もすぐにわかった気になるため実践もやろうとはしなくなります。実践した気になるということがもっとも恐ろしいことであり、実践して分かるものを実践しなくても分かった気になるというのは真理から遠ざかるもっとも大きな分岐点かもしれません。

森信三先生はこのように言います。

「人間は他との比較をやめてひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けてくるものです。」

「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」

「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」

私の思う「来たものを選ばない」というのは、生き方と働き方を分けないという意味です。選ぶというのは、今与えられている順縁を愉しめず、天命に従わないという自己中心的な価値観で自他を分けてしまう生き方だからです。

そしてそうならないために「実践」はあります。すぐにわかれてしまうからこそ、実践によって分かれないようにするのです。「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉通り、現場実践を遣り続けることで真理は存在できた状態になっているということです。

しかし実際は実践を怠ることで、真理が分かれてしまい自分の価値観の世界の中にどっぷりとつかってしまうと初心や本質に戻ることはなかなかできなくなります。そうならないために徹底した実践が必要になります。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたらもうだめなんだ。」

「できないというのは本当にする気がないからです。」

「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」

実践する覚悟があってはじめて人は自分自身になり、自分らしくいられるように思います。自分らしいということは、実践を徹底して続けている自分がいるということです。実践しないということは、初心を忘れた状態でただ生きながらえているに等しいと思います。

最後に、森信三先生の自銘の句で終わります。

「学者にあらず 宗教者にあらず
はたまた 教育者にもあらず
ただ宿縁に導かれて
国民教育者の友として
この世の「生」を終えむ  信三 」

不尽と名を改め、徹底した生き方を貫いた人の背中に如何に「実践」を遣り続け徹底することが大切であるのかを教えられます。本来の教えとは、対面で理解するのではなく同じ方向を観ているその背中から学ぶものです。いつまでもやらない人は対面から抜け出さず、同じ方向を向くこともありません。実践を常に優先し、まず自分自身のことをしっかりと立てて周りを立てられるよう精進していきたいと思います。

 

点

先日、新潟にある「点塾」にて理念研修をしていただく御縁をいただきました。この点塾は、清水代表によると共同創始者である藤坂さんという方と一緒に「輝く点になろう、点をつくろう」それを点塾の理念の原点に据えて開いたリーダー育成の塾です。

「点」という字には深いこだわりがあり、すべては点からはじまる、そして点があるから線もでき面にもなる、その点が何よりも大切だということを教えてくださいました。

真っ新な紙に、点が入る姿を創造しましたがとてもワクワクする塾の名前だと改めてその哲学と思想の深淵に触れて理念に感動しました。

ここでは「教えない教育」を柱に、様々なワークショップやアクティビティ、その他の研修が行われます。これは私たちの実践する、「見守る保育」と通じていて、和の心と繋がっているように感じ終始居心地のよい場の中で、沢山の新たな気づきや発見をいただきました。

特に印象に遺ったのは、「和のファシリテーション」です。私たちはファシリテーターを「聴福人」と定義していますが、ここでは和のファシリテーションとはどのようなものかを再実感することができました。

日本の伝統文化のエッセンスを盛り込まれたり、さらに自然を上手く活用し、あるものを活かしながらそれぞれの表現を通して顕れたその人らしさを存分に楽しめ味わえる仕組みになっていました。

点が光るということがどういうことか、全体のシナリオを通じて清水代表の持つ人生観や生き方も感じられ、一人ひとりが輝く経営、リーダーシップはどういうものかということを再確認できました。

同じ理念を持つ方々との合同研修は大変有難く、御互いに貴重な気づきを交換できて学びが深まるだけではなく学びが高まっていく実感がありました。巡り合わせの仕合わせを実感しつつ、同じ志、同じ義憤を持つからこそ、道の大義を盡していくぞと心を新たに覚悟が深まる有難いお時間になったように思います。

生きる力はそれぞれの点の中に具わっている。しかしそれを活かすかどうかは、その人の生活の仕方、つまりは生き方の中にあるともいえます。教えられ詰め込まれた教育の中で減退した自然の本能をどう呼び覚まし、これからの激動期を乗り越える力を引き出していくか、子どもの可能性を信じて次世代が次の世の中で如何にいのちを輝かせていきていくことができるか。これはかの吉田松陰の松下村塾でも同じ理念下で塾生を育成し挑戦してきたことです。

この世に教育があるのは、いのちを輝かせていくチカラ添えを与えるためです。子ども達が光り輝く点になり、あの星々のように夜空に瞬き煌き美しく流れていくように私たちも引き続き理念の実践を強く発揮していきたいと思いました。

ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

=個々をどう輝かせるか、それが点塾

不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

和訳~本質を伝承する真心~

慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。

雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。

先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。

「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)

意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。

本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。

そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。

しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。

また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。

最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。

まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

民具の魂

昨日、無事に自然農の御米の脱穀を行いました。今の農業では、機械で刈り取るときに同時に脱穀しますから脱穀している様子を見ることもなくなりましたが昔はずっと手作業で脱穀をしていたように思います。脱穀とは、稲の穂からお米の実をとりのぞくことを言います。

江戸時代に入り、千歯扱きという脱穀の道具が発明されました。それから大正時代に入り足ふみ脱穀機がでるまではそれが活躍していました。今では動力を使っての脱穀ですからあっという間に終えてしまいます。しかし昔の民具を使うととても時間がかかってしまいます。

不思議なのは、これだけ時間がかかっていても昔はそれでも画期的な民具として使用されていたということです。昔の手紙が電話になりメールになっているように、次第に昔のものは使われなくなっていきます。新しい発明品がでると、昔の発明品は色あせてしまいます。

昔は動力は人間のチカラだけで民具も自然に近い道具ばかりでしたが、今では動力といって電気、ガソリン、ガスを使い動かします。原子力発電などもそうですが、特殊な動力を使うことで大きな作業もできるようになりました。

しかし同時に、馬や牛、その他の家畜、また鍛冶職人や木工職人、その他の民芸職人はいなくなり今では機械で全部つくられます。

民具には時代時代の価値観が反映されているように思います。どんな民がどんな道具を創るのか、民具や民芸の中には暮らしが入ってきます。今の時代の道具にはあまり暮らしにつながっているものがなく、使い捨ての文化の中で次々と新しいものが発明されていきますが本来、新しいものだけが価値があるわけではありません。古いもののなかには、とても大切な人と人、人と動物、人と森林、人と自然、といった絆やつながりが切られていないものが残存していることに気づきます。里山もそうですが、民具はそういう暮らしの中で暮らしを壊さないようにつくられてきたとも言えます。

我が家は足踏み脱穀ですが、一家総出で協力して脱穀していると里山の懐かしい原風景が瞬時に顕れます。先祖たちはどんな暮らしをしてきたか、そしてどの暮らしを遺そうとしてきたかは民具の魂に顕れます。

古民具の持つ様々な魂に触れつつ、時代時代の暮らしを見つめてみたいと思います。