世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。

小僧の心~未熟者の真価~

人に限らず、全てのいのちは発達していくものです。例えば、植物の実が未熟から成熟していくように時間を経過することで実もまた完成していくものです。実が熟すときは種が落ちるときとも言えます。

そして人を未熟で例える言葉に「小僧」という言葉がります。

これは仏教語で坊主に対して未熟な修行中の姿のことを言います。小僧といえば、「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺もありますが、人は自分の置かれている環境によって、無意識に影響を受けているという意味でつかわれます。ひょっとすると環境で自分がいくら経が読めても小僧は小僧、未熟者であるという自覚がないと自分が坊主と錯覚してしまうこともあるのかもしれません。

社會は結局は、未熟者たちが集まって運営していますが自分が小僧の自覚がなければそれぞれがなぜこんなに大変なのかということにも気づけなくなります。知識偏重の評価ばかりを気にして何かをやってはできたできないと一喜一憂していたら、未熟であることすらも忘れてしまうのかもしれません。

小僧というのは、別の言い方では青臭いや世間知らず、くちばしの黄色いなどの言い方をされますがつまりはそもそもが未熟であるということです。

人はできるできないの二者択一の考え方しかもっていないと自分が強く出るときは人を責め、自分が弱ると自分を責めても、そのものが未熟であることはなんら変わりがあるわけではありません。結局は未熟である自分を認めることがいつまでもできないから、成熟の意味が分からなくなるのでしょう。

本来、未熟という言葉は悪いように使われていることが多いのですが言い換えればこれからの伸びしろがあるということです。まだ伸びる可能性があるという風にも理解できます。成熟していく過程が未熟ですから、自分を責めるのではなく、まだまだ成長の余地があるのだと何が課題かを見つめてその改善を怠らなく努めていけば必ず成熟した人物に近づいていくのです。

人は理想が高く、自分が理想に近づきたいと思うものです。

しかし実際はその理想に対して現実は厳しく、必ず成熟するにはそれ相応の時間を要します。一足飛びにいこうとしても、小僧が経は読めても何も実になっていないではその経の有難さを感じることもないように思います。

本来、小僧の心で学ばせていただけることに感謝することが何ものも責めず自他を許しつつ互いに学び合っていく仕合せな関係のように思います。できない自分を責めたり、できる自分を錯覚するのではなく小僧の心で真摯に学び続けていくことが何よりも責めない実践になるようにも思います。

急いで速く熟したいと焦っては、自他を責め罰し、焦燥感と自己嫌悪感をまき散らしても結局は前に進んでいるわけではありません。目標が高い分、当然苦しみも増えますがそうしているうちにまた責めては今の心から離れてしまえばそれは単なる被害妄想に変わっていくだけかもしれません。

悟れることなど一生ないのだから、今できることで自分の体験したことを周りの人たちのために役立てていくことが責めない実践、福に転じていく生き方なのかもしれません。

自分の体験が必ず誰かのお役に立っている、そう信じて歩むことこそが小僧の心なのでしょう。人生には一切の無駄もないと認めることができるなら、人は一生小僧のままで学び続けられるのかもしれません。私も小僧の心を忘れないように、日々の体験を学びに換えて誰かのためにと役立てていきたいと思います。

 

美化~善いところ探し~

人は物事の捉え方で物事の観え方を変える生き物です。

自分がどのように観るかで対象となるものの見え方が変わってくるからです。私たちは物事を観るとき、足りない方を見るか、足りている方を見るかでその見方が異なります。以前、「コップの水の話」を聴いたことがりますがこれはコップに半分水が入っているとして半分しかないと思うか、半分もあると思うか、もしくは水があって有難いと思うかという物の捉え方の話に似ています。

同じ物を視るのなら「美化」した方がいいと思うのですが、実際には減点法で足りていない方ばかりに目を向けては自分のことも美化できずに苦しんでしまうのです。「美化」を辞書でひくと、「美しくすること、美しく変えること」とあります。自分自身を美化するというのは、自分の善いところを探し、自分の善いところを認めるという努力のことです。

以前、「美化」という言葉を知るとき斎藤ひとりさんが「幸せのデコレーション」というたとえ話をしていたのを聴いたことがあります。これはケーキのデコレーションのように、そのケーキをどう飾ってあげるかで幸せが何倍にもなるという話です。とても素晴らしいたとえ話だと感動したことを覚えています。

そもそも美化するというのは、「善いところを観る」という実践です。そのものの持っている持ち味を見つけたり、そのものを尊敬して徳性を発見したりするものです。

人のいいところを探して褒める人は、それだけで人を美化してその人の優れたところを引き出していきます。よく褒めて育てると言いますが、言い換えればその人を美化して育てているということです。善いところを見つけられるのは、自分の善いところを認めているからです。自分の悪いところばかりみてしまうのは、自分に対しても人に対しても減点法で足りないところばかりを探してしまうからです。

「成功する人くさる人(寺田本家23代目当主寺田啓佐)KKロングセラーズ」の中で美化に関してこういう一文が紹介されています。

「美化って、やっているうちに楽しくなって、意識しなくても、自然と美化できるようになるんだね。ただ、今まで美化をしてこなかった人だと、やりはじめの頃は『自分は、まだ相手の欠点ばかり探しちゃうんだ』とか、『自分はまだ人を冷静に判断して、正しいことしかいえないのか』とか、思ってしまうことがあるの。そんなときは、『美化してこなかった自分が美化を心がけようとしている。成長したじゃないか』とか、自分で自分を美化してね。自分を美化することも大事だよ。できない自分で美化すれば、人一人救ったことになる。なおかつ、たいがいのことは美化できるようになるからね」

最初はなかなか美化できず、悪いところばかりを探してしまうけれどそのうちに人の善いところを観ようとしているうちに自分が変わっていくものです。その間も、自分は善いところを探そう、自分はもっと人を認めていこうと努力しているのだから、以前の自分よりも成長しているじゃないかと自分を褒めていくことが美化そのものになっているということです。

競争社会の中で、様々な人から足りないところばかりを指摘され、標準で平均、常に誰かの評価が入って点数をつけられてきたトラウマはそう簡単には拭いされません。しかし善いところを探そう、美化していこうとすることで自他は認められ自他のいのちはより一層光り輝いていくように思います。

素直になりたい、謙虚になりたいと思っても、その初段になるのも一生かかるものです。子ども達のためにも、足るを知り、善いところを認めるところから精進を続けていきたいと思います。

 

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

心のやわらかさ~一生青春~

人間は色々なことを悩みすぎると心が硬くなっていくように思います。一つのことに思い煩いそこに感情が呑まれればどうしてもその執らわれから抜け出すことができなくなります。そうやって自分自身への思い込みが強くなってくると、次第に心が硬くなっていくように思います。

魂を如何に消耗させないでいるかは、常に青春を続けていくことのように思います。

しかし年々、様々な柵が纏わりついてきますし人間はどうしても様々な人たちとのかかわりの中で利害なども発生していますから悩みはつきません。相田みつおさんが「一生勉強一生青春」の中で「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、頭が固くなること、心が固くなることです。心が固くなると、感動、感激がなくなります。一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」と仰っています。

心のやわらかさというものをどう持ち続けるか、そこに魂を消耗させないヒントがあるように思います。

河合隼雄さんが「冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。」とも言います。

心のやわらかさを思う時、この”笑う”ということを思い出します。笑っていられる心のしなやかさ、そして果報は寝て待てではないですがその時が来るまで面白いことや好きなことにでも没頭して待つこともまた心のやわらかさかもしれません。視野が狭くなり心も硬くなってしまったら、見守りや御蔭様、周囲からの応援にも気づけなくなってしまうかもしれません。

そう考えてみると、「一生青春」というものはあらゆる出来事を楽しむ境地にあるように思います。どんなことがあっても笑っている、何があっても笑って歩んで往く、そういう「笑う門にはいつも福が来る」ように思います。

時折、大切な人のことが理解してあげられず、そして自分がどうしてあげていいのか分からず、ただただ悲しみ、無事を祈りつつも実際は何もできない自分に苛立ち、独り悔しい思いをすることが幾度もあります。しかし本来は丸ごと信じているのだから先に自分の心が硬くなってしまえば、かえってもっとも身近で応援しようとしている自分がその人の邪魔をしてしまうかもしれません。

だからこそそういう時こそ常に明朗快活に心をやわらかく、子どものようなしなやかな姿のままに笑って福を待つことで正直に生きていきたいと感じます。正直さというものは、まっすぐで潔白というイメージもありますが同時にとても柔和な側面もあるように思います。

心に正直に、人生の醍醐味を和らいながらその時が来るまで日々粛々と実践を怠らず天命を待ちたいと思います。

本心本来の自分自身

人は自分の心のことがなかなか分からないものです。頭では分かっていても、自分の心となるとどこにあるのかそしてどうしたいのかが観えなくなってしまうものです。なぜなら人には感情があり理性もあり、そういうものが自分のやりたいことと、本当に本心からやりたいことを入替えてしまったりするからです。

そもそも自分の本心とは何かということを知るというのは人生の一大事であろうと思います。自分の本心が分かり覚悟が決まるなら、迷いも消えて目の前のことに没頭し打ち込んでいくこともできるのでしょう。いや、目の前のことに没頭し打ち込んでいるからこそ自分の本心に出会えるとも言えます。『無になりたいなら頭で考えるな。 目の前のことに没頭さえすれば、 おのずと無になることができる。』と禅の世界では語られます。本心本来の自分自身に出会うというのは無になっていくということなのでしょう。

そして以前、その無の顕現でもある「天命」ということについて神渡良平さんが書いた文章に出会いました。そこにはこうあります。

「天命とは」

現在の仕事を離れて

天から降ってくるものではない

現在の仕事に没頭していれば

自ずから導かれていくのだ

天はそれぞれに

最高の人生を約束している

誰もが持ち味を発揮

できるようになっている

腐ることなく

めげることなく

倦むことなく

努力していこうではないか

自分の仕事に打ち込んでいる人は輝いている(神渡良平)

今の目の前のことに無我夢中に没頭できるというのは”信じている”からに他なりません。この信じているという気持ちは、謙虚で素直な心の在り様です。そして真心を籠めて与えてくださったものを選ばずに全身全霊を懸けて取り組んでいくことで自ずからご縁は導かれて”なるようになっていく”ということのように思います。

そしていつの日か、自分の持ち味が存分に発揮できる日が来るかもしれません。そうやって信じて念じて、信仰のような心持で真摯に没頭している人は周りからみても輝いて観えるのでしょう。独りが輝けば周りもまた輝いてきます、それは天の星々のように満天の宇宙でそれぞれの光を放つ星空のようにです。持ち味のすごさというのは、八百万の神々のようにそれぞれが唯一無二の役割を果たしあういのちになれることです。

つまり天命を知るには、どれだけ真摯に目の前の志事に没頭するかに懸っています。

頭で考えることも大切ですが同時に頭で考えることなどは全体の一部も分かりません、こころのままに、本心のままあるがままに御蔭様御蔭様でと与えてくださったことをさせていただける仕合せと感謝でどんな仕事も取り組むことができるなら人は天を敬いつつ命を天に預けていけるのかもしれません。気づきというものもまた、天に預けているからこそより研ぎ澄まされていくのでしょう。

素直や正直さというのは本心でいることであり天の真心と同じ姿であるということです。

子ども達に天を敬う生き方が譲れるようにあの植物たちや動物たち、虫たちなどの自然な姿から自分の心を静かに見つめ、天と一体になれるように日々を真摯に精進していきたいと思います。

 

地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。

地球人財3~一円融合、結和の人~

今回のシンガポール視察で改めて実感するのは、人々の往来のスピードが加速し国と国の国境がいよいよボーダレス化し、多様な人種の接点が急増するとき、世界の一人ひとりが今後どう和して地球全体のために貢献していくかということが問われている気がすることです。

それはアジアのリーダーとしての人財をアジアからどう排出するか、あるいは世界のリーダーをどう自国で育てていくか、そこには人類の未来がかかっているということです。混沌とした夜明け前の人類は今、一つの地球の中で人類の理想の地球人財という徳才を兼ね備えた本物のリーダーたちの出現を待ち望んでいるようにも思います。

先日のIB(国際バカロレア)の教育理念は「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」と書かれます。

その上でグローバルに活躍するリーダー像、つまり世界人財として必要な徳才は「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を挙げています。

世界に出てみれば多様性や柔軟性はすぐに求められます。しかしこれは世界に出ていなくても常に自己を変化させ順応する力というのはリーダーには必須の徳目だと私は思います。つまりリーダーは、道を切り開き徳を広げていく人物であるということが自明してきます。

正解のない問題に如何に立ち向かっていくか。

21世紀はそれぞれに正解が存在していく時代であるように私は思います。だからこそリーダーは人々をファシリテートできる人物であり、全てのことを善いことへと転じ一円融合することができる”結和”の人であることが大切ではないかと私は思います。

つまり地球に棲むすべてのいのちの心の声に深く耳を傾け、あらゆるものを尊重し共感しつつ思いやり、その存在の価値を認め、その全てを福にしていけるようなリーダーが結和の人ではないかと私は思います。

今、世界が必要としているのは正義を対決させていく力よりも対話により一つの正義に結和できる力ではないかと私は思います。畢竟、グローバル人材というものは人として一人一人が如何に地球人としてのモデルを示すかということに他なりません。

対話を日々に行うことも、実践を常に怠らず高めることもすべてはこの地球人財である自分を自覚するところからはじまります。子ども達はこの先、正解がない世界で白紙から自分で未来を創造していかなければなりません。その手本としての私たち大人の生き方や働き方は必ず子どもに大きな影響を与えていると思います。

自分自身がグローバル人財ではなしに、グローバル人財を育てることなどできません。自分自身が地球人財であるからこそ、はじめて周りを地球人財にしていくことができるのです。

常に自身が世界人財のリーダーの責任者であることを自覚し、そのお手本になれるよう様々な実践に真摯にチャレンジし続け自己変革(イノベーション)を続けていきたいと思います。