カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

信用第一(信徳目)

BAにある水風呂に甦生させた鉄の羽釜は、「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油でかつて醤油をつくるために用いられていたものです。このヤマサ醤油は、1645年から続いている老舗で業界第2位のシェアを誇ります。ホームページを拝見しても非常に徳の高い経営をされており、変化を恐れずに果敢に温故知新しているのがわかります。

そもそも老舗というのは、時代の篩にかけられても生き残っている企業ということです。それはどの時代にも必要であったということの証明でもあります。その企業の暖簾を守り続けてきた結果として老舗という称号を与えられます。

この老舗とは何か、私は「信用」であるように思います。

信用とは、確かなものであり、正直・誠実さの顕れでもあります。そこに頼めば間違いがないと、時代を超えて信頼されている徳のことです。

大切な理念や家訓、文化をそれぞれの時代の人たちが真摯に守るために挑戦を惜しまずに実績を積み重ねてきて生き残ってきた「信用」が商売になっているのです。

確かにその時代時代の流行があり、その時々ではあらゆる競合他社が産まれ時には倒産の憂き目にあうようなこともあると思います。しかし流行は過ぎてしまえば、風邪などのように元通りに落ち着きます。その時、人々はまた老舗の信用を安心して頼るようになるのです。

つまり老舗は、流行に左右されずに確かな存在として人々の安心基地になってきたということです。どんなに時代がブレても理念や初心はブレないというその生き方。その生き方を守る家人たちの働き方が、100年も500年もまた1000年も続く礎になってきたのです。

例えば、世界最初の畳油醸造の老舗に室次本店があります。その室次醸造の家訓にはこういうものがあります。

「良い醤油を造りたいなら、自分を磨け。 醸造にはごまかしはない。 誠心誠意がなければならない。 その人柄や性格がその味に香り、色に出てくる。」

これが理念になり文化になりそこで働く人たちが何よりも優先してきた生き方がこの醤油のすべてを証明して信用が確立され今に続いているように思います。まさに、良い醤油をつくるということがどいうことなのか。この人間としての「信用」を守り続けてきたからこその今があるのです。

どの時代においても歴史的に観返せば、企業は大きいか小さいかが問題ではなく、「信用」があるかどうかが本来の問題なのです。信用がない会社は長続きせず、信用がある会社だからこそ生き残ることができるのです。

生存戦略としてもっとも大切であり重要なのがこの「信用を守る」という智慧であることは歴史が証明しています。つまりこれは決して企業だけに限らず、人間社會において何よりも最も重要なのがこの「信用第一」ということでしょう。

信用を守るためには、変化を恐れずに果敢に挑戦を続けていく必要があります。そしてもっとも大切なものを守るために、あらゆるものを活かし未来を見据えて行動していく必要があります。

まさに現在は、時代の分水嶺でありそれぞれの企業が大きく試されるときです。私も信用という徳を守るために、日本を代表する先人たちの老舗に生き方を働き方を学びながら実践を積み重ねていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

自然のリズム~時間を味わう~

今回の新型コロナウイルスの終息後の新しい戦略をどのようにするかを、改めて今を見直しそれぞれのリーダーたちが見つめています。そもそも理念があり、ブレずに取り組んできている方々は、今回の機会を好機と捉え時代に合わせて自分たちの大切なものを守るために変化成長の大切な時を過ごしていると思います。

私たちもまた、今までやりたかったことをさらに発展させ新しい事業と取り組みの準備をはじめています。

特に昨年スタートした「暮らしフルネス」は、私たちの今まで保育で学んできたことの集大成を整理したものです。

子どもたちは、生まれながらに社會を創ろうをしていきます。赤ちゃんで産まれてからすぐに周囲の家族とコミュニティを形成し、その後は集団の中で友達をつくり自立した環境を創造していきます。

安心安全な環境があれば、自由に伸び伸びと子どもたちは自分たちのやりたいことを仲間と一緒に実現していくための社會を学び創造します。その環境の中には、生活のリズムがあり彼らにしか捉えていない時間軸があり、まさに時を味わい時と共に歩みます。これは自然界のリズムと同じく、私たちの生命は自ずから自立と協力に向かって成長しようとしていきます。

それが歳を重ねて様々な教育を施され知識が増えて現代社会の影響を受けるうちに大人になり時間管理をするようになり、次第に時間を味わうことが少なくなり忙殺されていくようになります。自然のリズムよりも人間の管理するリズムになっていくことで、心がうまく調律することができません。

本来、暮らしというものは自然の中に存在するものです。それを充分に味わうことは、暮らしを楽しむことです。時間というものの認識がズレてしまれば、自ずから暮らしは遠ざかっていくものです。

改めて、私たちは立ち止まった時、そこに別の時間が流れていることに気づくはずです。それが自然のリズムであり、そのリズムに沿って時間を大切に過ごしていく仕組みを私たちは暮らしフルネスの智慧として取り込みました。

これは私が保育で学んだこと、古民家で学んだこそ、自然農で学んだこと、伝統保存食で学んだこと、伝統工芸で学んだこと、そしてブロックチェーンで学んだこと、それらの徳がすべて凝縮されたものです。

時代は私の思っていなかった方向に進み、まだまだ大きなお役目をいただけそうな予感がしています。丁寧に、初心を忘れずに取り組んでいこうと思います。

時代のうねり

世界ではロックダウン後の終息宣言をする国家が増えてきました。医療崩壊を防ぎ、緩やかに感染を収めるという目標が達せられたところからアフターコロナでの新しい戦略が生まれ始めています。

まずは中国がいつものように今回の災害を活用して強かに経済活動を5Gに懸けて世界を席巻しています。なんでも使えるものは使い、どんな機会でも利を求めていく生き方はまさに大陸の産んだ文化です。

私たち日本人は、島国で育ち、自然と共生しながら質を追求してきた民族ですから利よりも暮らしの充実を求めていくようにも思います。自然に恵まれ、豊かな四季が暮らしを支えますから私たちは自然に心を研ぎ澄ませていきます。

コロナで世界が一度、立ち止まり、このあとどのように生きるのかをみんな向き合う機会を得ました。立ち止まり振り返った人たちは、コロナの前の元の姿に戻ることを求めず、コロナ後の新しい時代を創ろうとします。まさに私たちはコロナの御蔭で時代が変わる瞬間に立ち会ったと言えるように思います。

コロナ後の生き方と新しい働き方は、私たち人類の運命を易えるように思います。その運命には、つながるということの意味、一緒に生きる意味、集まることの意味、生きることの意味、働くことの意味が重なります。

今まででできなかったことを、新しいステージでもう一度やり直す。そしてそれは、過去の反省を見つめ直し、これからをよりよく生きる挑戦がはじまるという時代のうねりです。

この時代のうねりを活用して、私も子どもたちが100年後から振り返ったときあの決断の御蔭で今があるというようなものにしたいと思います。積小為大、まさにこれから私たちが取り組むのはその最初の一歩です。

アフターコロナの面白く豊かな暮らしフルネスを、カグヤと共に歩んでいきたいと思います。

徳積循環社會の実現

私は、徳を磨くことの一環として人が捨てたものを拾うことを実践しているように思います。それは決してゴミ拾いが好きだという意味ではなく、まだまだその徳が活かせると思えるもの、磨き直せばきっと何か徳が出てくると思えるようなもの、また寿命が尽きる最後まで一緒にお役に立っていきたいと思っているものを拾っているように思います。

それはそこに「徳」が残っているからです。

徳を捨てて私利私欲の得を取るのが今の世の中ですが、本来は得(私利)と徳(利他)がセットになってはじめて全体の道徳経済は一致していくように私は思います。資本主義が偏ってしまったのは、徳ばかりが失われて得ばかりが優先されてきたからに他なりません。

私は決して資本主義を否定するものでもなく、現在の経済も決してダメだとも言いません。実際に私もその恩恵の中で暮らしを育まれており、お金の御蔭で多くの味わい深い幸福も得ています。

しかし否定していませんが、本来の資本主義を完成させるためにも徳循環経済をもっと大きくしてバランスを取る必要があると思っているのです。だからこそ徳積財団を設立し、徳積の仕組みを発明し先進技術によってそれを実現しようとしているのです。

同時にこの徳積は理解がなかなか難しいものでもあります。なぜなら利益中心の世の中においては、無私の発想で放たれる徳の経済の考えは照らし合わせるものがないからです。

長い目でみれば、徳は必ず経済には必要不可欠であることはわかります。しかし現代のようなスピード社會では、その価値はなかなか理解されません。着眼大局、着手小局と先達の人物たちは取り組みましたがなかなかそのような人物が現代では巡り合うことがありません。

世の中の価値観に振り回されてしまい、また組織が大きければ大きいほど、その時代の価値観の影響を受けてしまい取り組むことができないからです。

だからこそ今は、小さい組織で信念で価値観を醸成できるチームを分散させ、その人たちによって草莽崛起するように徳循環の社會を創造していく必要を感じています。

まずはここで自分でやり遂げ、その志を継いでくれる人、仲間を集めてみようと思っている次第です。

引き続き、徳積循環社會の実現に向けて挑戦していきたいと思います。

二つが一つ

物事は冷静に客観的に分析すると本質が観えてくるものです。しかし実際には主観が入り、じっくりと待つことができず物事が歪んでいくものです。心を澄ませること、そして心を整えること、心の状態を平常心に保つ工夫がある人は本質的な生き方を維持していくことができるように思います。

私も人間ですから、日々に様々な喧騒の中で心が揺さぶられて波立つことがあります。波立たないことなどはなく、風が吹けばすぐに波立ちます。また人間には感情がありますから、肉体や精神が味わい深い複雑な体験を通して人生を感じます。

大事なことは、元の澄んだ状態にどう戻るか、元の穏やかで整った心境に如何に回帰するかということだと思います。天気が日々に換わっても、空はいつも碧く、夜空には星が煌めきます。月がカタチが変化しても、いつも本体は変わらずに地球を見守り続けるように私たちは心に月を持っているのです。

これは科学的に言ったら荒唐無稽のように思われるかもしれませんが、私は地球と月は一体であると思っています。つまりは私たちが思っている地球の生命には月もセットになっている。言い換えれば二つで一つであるということです。

私たちがその中で生命をはぐくまれ、人間が、また動植物が存在するのはこの二つの存在が生命を見守る環境が存在しているからです。

私たちは見守られる環境の中で初めて育つことができるのは、親がいて子がいることからも真実であることは見知っていることです。同様に、地球と月にも真実があり私たちのいのちは二つが一体になって存在できているのです。

科学者は住める惑星を求めて地球と同じ大きさや形の星だけで探していますが、本来の実相が観えていないように思います。二つで一つのものを探すことが、いのちに近づく方法だと私は思います。

善悪、陰陽、寒暖、生死、すべては二つが一つではじめて成り立ちます。物事の実相を見極め、本質を見抜き、真実のままに心を育てていきたいと思います。