ご縁を伝える

先日から英国の方が聴福庵に来られ、暮らしを味わっていただいております。ひょっとすると私以上に、日本の文化や古いものに興味がある方ですべての道具や環境に感激され一つひとつを感受され喜んでいただいております。

奥様は日本人の方で英国から来日しすでに30年以上こちらで生活をされておられるそうですがその日本文化を学ぼうとする新鮮な感性に私自身が学ばせていただくことが大変多く、このタイミングのこのご縁に有難い気持ちになりました。せっかくの一期一会の旅の思い出にと、おくどの間の壁の竹炭貼りを体験していただきましたが私にとっても貴重な思い出になり、心が満たされる楽しい時間を過ごすことができました。

こうやって何かの足跡を残していただいたり、一緒に体験した感動の絆を深めて事あるごとに思い返せることが生きている仕合せを味わう一つの工夫になると私は思います。日々に忙しく過ぎていく毎日ですが、ご縁を感じ一つの思い出をそこに刻み、それを刻んだ方のことも忘れず、刻まれた方も時折楽しさと共に思い出す、その「美しい絆の思い出」によって心が穏やかに充たされていく。私たちは今の時代だからこそこのような心の豊かさを大切にしたいと思うのです。

またお別れのご挨拶に私から「ご縁」についての話をしました。しかしこの「ご縁」という言葉の英語訳が思いつかず、訳すこともできず、結局、どのように訳せばいいのかが整理できないままでした。

改めて日本語の持つ、哲学、思想、文化、歴史の奥深さを感じつつ、どのように異国の方々にそれを伝えようかと迷いました。そして一晩、深く考えてみるとこれらは言葉だけでは決して伝わらないことを知りました。つまりこれらの日本の言葉は、逆説ですが「言葉では伝えられないもの」だったのです。

それでは言葉では伝わらないものはどのように伝えるのか。

それは言葉ではなく、行動や実践、想いを形にして体験していただいたり、経験を語ったり、心を寄せて共感したりするときに伝わるものです。特に「ご縁」というものは、不思議で奇跡的なつながりや調和性や共時性、そして運命や道といった全体との接点の連続のような感覚のものです。

だからこそ、それを「具体的に一緒に感じ合えるような物語や出来事が対になっている」必要があるのです。それは、感じる側の心と、伝える側の心、つまり「以心伝心」によってのみ伝え合うということです。

言葉にはならないものをどう受け止めることができるかは、お互いに絆を磨き合い、学び合う同士でのみ自他一体の心の対話で語り合えるものです。

ご縁もそういうものであり、そのご縁をつなぐ人もまたこのご縁の生き方をしている人でありご縁が観えている人だから対話ができるのです。

子どもたちへの未来は、今のご縁が結ばれ発展していきます。だからこそ大切なご縁をすべて大切に味わい、そのどれもを愛して前進していきたいと思います。私のご縁で結ばれる未来の形を楽しみに心待ちを豊かにしていきたいと思います。

 

自由自立

人間に限らずすべての生き物たちには感情があります。さらに突き詰めれば、自然物は感情を持っているとも言えます。それは例えば、無機質といわれる生物ではないと一般的に言われるものであったとしても感情を持つのです。

こんなことを言うと頭がおかしいと思われるかもしれませんが、一つ一つの道具でも磨いてあげて綺麗にしてあげると輝き始めます。特に自然物に近いもの、木や布などは天気の状況や置かれた環境で影響をすぐに受けてしまいます。たとえそれが限りなく自然物でない人工的なものであったとしても粗末にすれば機嫌を悪くしますし壊れます。身近であればパソコン一つ、扱い方が悪ければ壊れますし携帯一つでも雑にすればすぐにダメになります。

この感情というものは、動物であれば天気のよい清々しい朝は鳥の鳴き声や虫たちが活き活きと活動しています。もしも天気が荒れている暴風雪や暴風雨などの日は、みんなおとなしくじっとしています。天気のように感情や機嫌も波状のように起伏しますからそれが感情がある証とも言えます。

この感情というものは、私たちが地球の一部である証でもあります。天気気候が万物普遍的に変化するのに対し、私たちの感情もまた同時に普遍的に変化します。それがある意味では生きている証であり、私たちのいのちが何を感受して感得して生きている実感を感じているかを味わう一つの感覚になっているのです。

この感情というものを向き合うことは、いのちと向き合うことに似ています。逆に感情を押し殺して無感情になろうとするといのちを避けていることになっていきます。

大切なのはいのちを丸ごと味わうことであり、感情を受け容れることで自然一体になっていくことがこの世で生きる仕合せにつながっているように思います。

色々ないのちと一緒に生きていく中に自分のいのちがある安心感はかけがえのないもので、どんなに感情を避けても自分の中のいのちや魂のようなものはどんな今も味わおうと積極的に生きています。それは身体が自分を生かそうとするように、自律神経が目覚めて活動しようとするように自然に湧き上がってくるものです。

自分に正直に生きていくということは、自分の感情を素直に味わい受け止めるということでもあります。自分のままでいい、素のままの自分が許されていることに気づくことが感情を愛することになるかもしれません。

一歩一歩大人になっていく中で、自分との出会いや付き合いは次第に深まっていくものです。自分というものを知り、自分というものを許し、自分というものを尊重し、自分のままであることに誇りを持つようになること。

自立とは、いのちの歓びでありこの人生への感謝です。

歴史に学び、先人たちの真の教えに触れ、一度きりの人生を生き子どもたちにその自由な背中を譲り遺していきたいと思います。

長崎街道3

昨日は、嬉野宿から塚崎宿、北方宿、小田宿、牛津宿、佐賀宿まで来ることができました。ここから数日は雨が続く予定で今回はここで一度、休憩をし次回また続きを行う予定です。

現在までで約120キロ、残りは約100キロを残すところですが実際に長崎街道を通ってみるとそのほどんどは開発され古い家がほんの少し残るばかりでほとんど面影がありません。長崎街道を半分まで来て振り返ってみると、その当時のままに残っているのは神社仏閣や石仏たちでした。

伊能忠敬が残したむかしの地図を見ていたら、今とはまったく風景が異なります。具体的に異なっているのは、西洋建築や近代住宅、また大型のチェーン店、舗装されつくした道路です。特に道路は、長崎街道の狭い道はところどころが閉鎖され隣に作られた国道を通るようにできています。国道に面した住宅は、人通りもない歩道があるだけで車の大きな騒音が響き迷惑を感じていることと思います。

かつては、長崎街道の細い路地を毎朝毎夕たくさんの人たちが往来して賑わっていたのがわかります。ほんの少しですが、閉店した店店の様子からそこで野菜や果物、また魚や肉などを軒先で販売していたのを感じます。近隣の農家や漁師、そのほかの職工や武士などが宿場町で買い物をしたのを想像したりできます。

明治頃まで街道には、庄屋や酒屋、廻船問屋や米問屋など大きな商家が並びその界隈はたくさんの人たちが盛んに行き来したのです。今ではその気配がかすかに建物の大きさから感じるくらいです。

街道を通りはっきりと主役が変わったのは人から車になったことです。旧街道は人が優先ですから車は危険ですからゆっくりしか走れず路地も狭くみんなで協力して車を通すしかありません。しかし国道の大きな道は、車優先ですから人は車の邪魔にならないように歩道を歩き、横断歩道も信号を待ってからでなければ進めません。

街道が廃れたもっとも大きな原因はこの何を優先するかが変わったことです。ここから将来は、人間の優先順位がますます下がり、人工知能やロボット優先となればさらに道は変化していくでしょう。

政治や経済が変われば道が変わります。道が変われば往来の速度や規模もスピードも変わっていきますが、人間の暮らしや生活もその道に大きな影響を受けてしまいます。地域を語るとき、この道の廃れているものが何かを見極めるのは大切なことです。

引き続き、長崎街道を辿りながら温故知新の智慧を子どもたちに伝えていきたいと思います。

等価交換できない存在~徳循環~

この世の中は、なんでも等価交換できるわけではありません。価値に見合ったそれ相応のものと交換するというのは、あくまで人間の狭い視野で行われるものです。例えば、この自然界でいのちを活かしているあらゆるものと同等のものを用意することはできません。

人間が水や空気、太陽の恵みや大地とどう等価交換するのか。いくらお金があっても、それをお金とは交換できません。人間が作り上げた価値と交換はできても、自然や宇宙などのすべては本来交換することができないものです。

何でも価値や価格でばかりにそのものを測ろうとし、損をしたとか得をしたとかいうのはとても料簡の狭いものです。そのものの価値は、そのものの本当の価値を見出せる人にはわかります。それはお金では測れず、世の中の常識でも量れません。

むかしからそのものの価値を知る人たちは、善を行い徳を積みました。それは等価交換できないことを知り、少しでもその恩恵に報いようと感謝を循環させていったからです。

この世の理として、私たちは自然の大きな恩徳によって生きることができそれが失われればこの世を去るしかありません。さも人間が自然を牛耳っているように錯覚したとしても一度の災害ですべてを失う可能性もあるのが自然の猛威です。

だからこそ謙虚に交換できないものの価値を認め、いくらそれが宗教だと揶揄されようと、妄信的だと馬鹿にされようと、そういった交換できない価値のために祈り、その恩恵をいただける存在に感謝しながら生きていくことで私たちは傲慢になるのを抑制しみんなで平和を築いていくのです。

大前提として、等価交換できない偉大な存在をどれだけ身近に感じているか。ただ感謝のみという存在にどれだけ報いているか。ここが何より私たちの社會の在り方や暮らしの根本と深くかかわっていることを忘れてはいけません。

子どもたちは生まれながらに、その価値の偉大さに気づいています。お父さんやお母さんの存在、自然の存在、あらゆるものへ感謝の気持ちで生きています。価値を測ったりすることもせず、ただその偉大な存在に甘え、偉大な存在と共生し、自分もその恩恵に報いるようにすくすくと成長をしていきます。

私たちの身近にいつも寄り添い、見守る存在はすべて「徳」です。この徳に貢献していこうとすることこそが「利子」を増やしていくことであり、その利子によって私たちはまた恩恵の一部に感謝というもので還元されていくことができるのです。

徳の循環の仕組みは、この価値を変換し無価値にし徳に還元することです。

子どもたちのためにも、このプロジェクト、覚悟をもってやり遂げたいと思います。

発達の最適化

先日、ある会議で脳科学の話しになり「シナプスの刈り込み」という言葉を知りました。脳科学辞典にはこのように記されています。

「シナプス刈り込みとは、必要なシナプス結合だけが強められ、不要なシナプス結合は除去される現象である。発生、発達期の動物の脳内ではある段階になると神経結合(シナプス)が形成され始める。生後間もない時期の動物の脳では、過剰にシナプスが形成され、その密度は成熟動物でみられるよりもずっと高い。生後の発達過程において、このうち必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。この過程は「シナプス刈り込み」と呼ばれており、生後発達期の神経回路に見られる普遍的な現象であると考えられている。」

そもそもこのシナプスとは、神経細胞と神経細胞との接続部、その接続関係のことをいいます。この神経細胞のことをニューロンといい、それをつなぎ伝達される興奮の増幅や抑制をシナプスが司っているわけです。

人は生まれてから最初に脳の神経細胞を発達させ膨大な量のシナプス結合をしていきます。果てしなく膨大な結合をしていきますが、ある一定のところまで発達したら今度は不要なものだけそぎ落としていくという具合に最適化していくのです。

そうすると自分の人生に必要なだけの神経回路を構築し、その結合部の通り道を標準化して成熟した場所を用意していくのです。まるであらゆる混乱した雑多な都市を、シンプルに自分に最適な都市計画通りに新たな都市を構築するかのようにです。

それでも数百億個のニューロンを維持するのに、人間は大変なエネルギーを消費していきます。人間は意識を維持し活動するエネルギーの20パーセントは脳で消費されているとも言えます。膨大な情報を処理する脳のことを改めて科学で知ることは私たちの人類の発達の仕組みを知るためにも効果的なことです。

話をシナプスの刈り込みに戻しますが、このそぎ落としていく作業というのは人生においても同様に人格を磨く中で同じことが行われます。幼少期、少年期、青年期、壮年期、老年期などをそれぞれの人生の期間において様々な体験をし、自分に必要なものかそうではないものかを刈り込んでいきます。

膨大な体験を通して、自分に必要かどうか、不要かを自己認知してそれを最適化していくなかで人格が成熟していくからです。その刈り込みを、誰かによって刷り込まれると本来刈り込む必要があるところをそのまま残し、そうではない不要なものばかりが残ってしまうこともあるように思います。

脳がバランスを崩すのは、本来の最適化が阻害されるからかもしれません。子どもたちが安心して発達するには、この刈り込みを自然に行われていくための工夫が必要ではないかと私は思います。それはそのままでいい、素のままでいいという状態において、本人自身が善悪是非を問わず、自らそれをやり遂げたときに成熟に向かっていくからです。

安心した環境や見守られているなかで信じられていればいるほど、刈り込みは自然に和していくように思います。それが抑圧されたり、恐怖を与えられたり、不安な状態は刈り込みもまた歪になっていくのかもしれません。

子どもの発達と脳科学を参考にしながら、本来の人間の成長を洞察してみたいと思います。

岐路

国連から提案された「SDGs」というものがあります。
このSDGs「SustainableDevelopment Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を取った言葉で、2015年9月の国連総会(連加盟国193国)で採択された具体的行動指針のことです。すでに2001年に策定されたミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)の後継として国連で定められ2016年から2030年までの国際目標として認知されています。具体的な行動指針は、17のグローバル目標と169のターゲットからなり、飢餓、貧困、気候変動の進行、生物多様性の劣化などすぐにでも解決したいと思われる項目が入っています。
日本政府も「SDGs NOW! 17 Goals to Transform Our World」の動画で告知を展開しています。17の項目と169のターゲットは、総務省のサイトからPDFをダウンロードできます。この共通のキーワードの「持続可能」というものが何度も提言されるのは、言い換えれば近い未来に持続不可能な社会が訪れようとしているということです。
持続不可能な社会とは、では何かということです。それは人間がこの地球上で生活することができなくなるということでしょう。その理由は様々にありますがもっとも大きな原因は、自然と人間が乖離している世の中にしているからだと私は思います。
そもそも人間も自然の一部であり、自然物です。その自然物であったはずの人間が、人工物を創り上げ自然から乖離した都市というものを形成しました。そしてその都市というものを、自分たちの中で快適な仮想空間にしそこに消費を通して資金が流通するような仕組みを構築しました。都市の中で行われていることが自然とは別物ですから、その都市に運び込まれる様々なものは自然を搾取したものになります。
大量に生産し、大量に消費する、そこで都市を機能させますから消費されて捨てられていく自然の破壊の量が明らかに自然が創造するスピードを超えたとき持続は不可能になります。
自然の利子で暮らしていた時代から、自然へ借金して暮らす時代へと移ったことが今の持続不可能な社会を実現させてしまいました。しかし人間の欲望は果てしなく、自転車操業のように走り出したら止まれない今の世の中で如何に方向を転換しようかとそれぞれの人たちがそれぞれの場所で向き合っています。
自然と共生していた時代の懐かしさは、今のグローバリゼーションの波の中で消えかけているように感じます。もはや、このまま人類は滅亡に向かっていくのか、それともここで自然に帰るのか。もしくは第3の自然と共生する世の中にするのか。それは現代の世代の一つの大きな使命であることは間違いありません。

だからこそ、私たちは何をもって自然と共生するというのか。そしてどのような暮らしが自然を尊重して自らを立てることになるのか。
人類の自立に向けて、みんなで協力し合ってその答えを生きていくために挑戦を続ける必要があるのです。

子どもたちが100年後も1000年後も安心して、楽しく豊かに生きていくことができる社會を遺してあげたいとみんなそう思うはずです。
手と手を取り合い、子どもたちのために協力していきたいと思います。

花の生き方

花を見て美しいと思う心が人間にはあります。なぜ美しいと感じるのか、そしてなぜ大自然を観て人は心を揺さぶられ感動するのか。心がそう思うのは、そこに確かな宇宙の法則のようなものがあることに気づきます。

この世に生まれてきて、私たちはいのちの価値を知ります。そのいのちの価値は、今を精いっぱいに生きているものによって気づかされます。私が花を見て美しいと感じるのは、今を精いっぱいに生きているからです。

そして百花繚乱の美しさを放つものを観て感動するのが、それがみんなが活き活きと豊かに仕合せに生きている姿を体現しているからです。花が美しいのは、その精いっぱいな姿。

よく私は道端のたんぽぽを観ては足を止めるのですが、それはたんぽぽが太陽に向かって一生懸命その精いっぱいに生きている姿に心を打たれるからです。そしてその精いっぱいな姿はいのちの美しさをそのままに表現しています。

人生は一度きりと知ってはいても、人はあれこれと雑念を持ち、今を生ききることをやめてしまいます。そうやって今を精いっぱい生きていないものは、美しさが翳ってくるものです。どんな境遇にあってもどんな環境であっても、あのたんぽぽのように生きていくことは美しく、私の理想の存在です。

最後に松下幸之助さんはこんな言葉を遺しています。

『今というときは、この瞬間しかない。この一瞬一瞬を精一杯生き切る、その積み重ねが充実した人生をつくり、躍動を生み出すのである』

充実した人生と躍動感、まさに花の生き方です。

花に学び、いのちの花を精いっぱい咲かせていこうと思います。

弱さこそ強さ

人は弱さを否定して強くなるよりも、弱さを肯定して手に入れる強さの方が本当の意味で真の強さを手に入れることができるように思います。弱いものがダメで強いものがいいということが叫ばれる競争社会の中で、本来の強さとは何かということを一度向き合う必要があるように思います。

大前提に競争社会の中にいれば、弱さはまさに命とりになります。強ければ生き残り、弱ければ消滅する。弱肉強食であると教わってきましたが、実際には自然界は人間が言うような弱肉強食をしていません。

むしろ共存共栄をして助け合って存在しているのです。

そのために、確かに見た目には弱肉強食をしているように見えますが実際には弱さを力にして強みに替え、強さを謙虚に必要最小限で生きていきます。人間の言う身勝手な弱肉強食は、個としての強さ、権力的な強さ、能力的な強さこそ力だというような言い方をして弱さを否定します。ここでの弱さは、個としての弱さであり能力及び、あらゆるものが非力であることがダメであるとしその逆を強さと呼ぶのです。

自然界は、弱さを強みにして、その弱さを絆にしてつながり合っています。例えば、一人ではできないことはみんなで力を合わせます。これは弱さが強みになった瞬間です。

チームや仲間を形成するのは、それだけ私たち人間が弱い存在であったからです。特に恐竜の時代も含め、私たちは非力な存在でした。一人ではどんな動物にも負けてしまうほどの弱さがあったのです。それを強みにするために、私たちは協力し協働して弱さを絆に結び付きました。

現在では、身体的な武器が弱いからこそ道具を発明しここまでの科学を発展させたのも弱さを強みに替えたのです。

弱いからダメという発想は、本来の私たちの人間の真の強さの否定になっています。その証拠に、現代は個ばかりが強調され協働することや仲間と共生することなどが蔑ろにされています。

本来の私たちの最大の持ち味まで捨てて、単なる目先の力に頼ろうではあまりにも視野が短く狭いように感じます。未来の子どもたちは、もしかしたら今よりも大変な自然災害や人災に巻き込まれることもあります。その時、どのように乗り越えていくか。私たちがそれを繋いでいく責任があります。

弱さは私たちの最大の武器であったことを、正しく伝承して大変なときこそ力を合わせて乗り越えてほしいものです。子どものためにも、私たちは古に学び、今に智慧を甦生させていきたいと思います。

全体を活かすための環境を創造する人~管理とは何か~

組織には管理職というものがあります。この管理とは「よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと」と辞書にはあります。

この管理の語源は「管轄辨理(かんかつべんり)」という言葉が略されてできたものだといわれます。「管」は門を開閉する鍵であり「轄」は、車輪が外れないようにするためのくさびのことであるといいます。つまりもともとは権限によって支配するという意味があったようです。

現在の管理職に対するイメージが一般的に支配的なものになっているのは管理社会など、管理とつくと権限で支配しているようになっているからです。海外ではこの管理職をマネージャーといいます。そして管理することを「マネジメント」といいます。

このマネジメントというものの意味は、アメリカでマネジメントと父と呼ばれたP・Fドラッガーは「組織に成果を上げさせるための道具、機能、機関」であるといいます。そしてその管理者をマネージャーといって「組織の成果に責任を持つ者」と定義します。つまり組織に成果を上げさせるための仕組みがマネジメントであり、組織が成果を上げるように働きかけその責任を持つ人をマネージャーというのです。

さらにそこからマネージャー(管理職)の役割の代表的なものを具体的に記します。一つ目が「組織が果たすべきミッションを達成する」こと、そして二つ目が「組織で働く人たちを活かす」こと、最後が「社会に貢献する」ことだといいます。つまりみんな会社の目的や目標のために協力しながら、それぞれが尊重され自己実現も同時に行い、一人ひとりが活かされるように全体最適と全体快適を創造し、長期的な眼差しで短期的な日々の仕事をコントロールしながら社会全体に善い影響を与えていく仕事ということです。

私の今の言葉でシンプルに定義すると管理職とは、「全体を活かすための環境を創造する人」ということでしょうか。

これは私たちの会社で現在、むかしの田んぼを一緒に運営している不耕起栽培の農家の達人の方々が稲が育ちやすいようにあらゆる管理をしていることがモデルです。その管理の考え方は、自然の道理に精通し、もっともどうすれば稲が活き活きと生長するかを中長期、そして温故知新した自然と科学の技術を駆使して見守っています。その管理はまさに「全体を活かすための環境を創造」をしています。

例えば、多様な虫たちが活動しやすいように活かす智慧。そして稲たちに厳しい環境と慈愛の真心をかけてはしっかりと稲自身が最高の一生を送れるようにサポートする智慧。そしてその育ったお米は、社会全体に対する大きな影響を与えているのです。

私のイメージし定義する、管理職や管理者、マネジメントやマネージャーはこのむかしの田んぼを一緒に運営する農家の実践のことです。

みんなが安心して活き活きと生を全うしつつ、田んぼも自然も同時に見守っていくには組織をどう活かして成果を出していくのかの様々なことを改善し取り組んでいく必要があります。

ただ単に、一方的に肥料や農薬をまき機械で管理するという農業もありますがこの時の管理者は全体を活かし環境を創造したのではありません。同じ成果でも、プロセスが異なれば管理職や管理者の定義がまったく異なることをマネージャーは理解しなければなりません。

育てるということがどういうことか、育つということが持つ意味は何か。そこをまずしっかりと学び直し定義することで、これからの多様化社会の在り方を見つめ直す機会になると思います。

子どもたちが安心して新しい環境や社会を創造していくためにも、そのモデルになっていきたいと思います。

 

物語の意味

物事には必ず物語がついてきます。その物語は、短期的にはわからないものですが長期的になればなるほどその物語の本質が現れてくるものです。

これをご縁ともいいます。

そのご縁は決して偶然ではなく、先祖代々、長い時間をかけて刻まれてきたもので同時に結ばれてきたものです。それを時空を超えて、今の私たちが体験してつながりを確認するとき物語が現れてくるのです。

なぜこの人と出会うのか、なぜこのような体験をするのか、突き詰めて深めていけばその原因は必ず過去の何かに行き当たります。だいぶ前、つまり生まれる前のこともありますから思い出すのは難しいものがあります。しかし辿っていけば、偶然とは呼べないあまりにも不思議なことに巡り合うのです。

まさにここに物語があります。

物語があるということは、ご縁があるということです。だからこそ大事なのは、物語があるということを感じる感性を磨いていくことです。その感性が磨かれている人は、ご縁を大切にします。そしてそのご縁の意味を時間をかけて丁寧に紡いていきます。そして現れた意味に対して素直に従い、結実させていくからです。

良いか悪いか、正しいか間違っているか、メリットがあるかどうかなどは物語においてはたいした問題ではありません。物語があることにこそ意味があり、物語を紡いでいくことこそが人生の意味になる。

一期一会というのは、その時に生まれた言葉なのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にして子どもたちに繋がりを託していきたいと思います。