自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

仕事観

先日、「仕事観」について考え直す機会がありました。そもそも仕事とは何か、それは個々でそれぞれの価値観によって定義されています。仕事というもの自体をその人がどのように定義しているか、それが仕事観ということです。そしてその仕事観を聴けば働き方になり生き方が分かります。人生として働き方と生き方が一致させるにはその「仕事観」こそよく自分で再構築する必要があるのではないかと気づくのです。

たとえば、一般的な仕事観としてはどのようなものがあるか。それはやりたくないことをやるのが仕事、やらされることが仕事、生計を立てることが仕事、会社に行くことが仕事などというものがあります。こうなると、仕事が増えることは苦痛そのものであり自分に仕事が回ってくると損する気持ちになったり、面倒に巻き込まれたと思うのでしょう。次には、社会貢献することが仕事、お客様に喜んでもらうことが仕事、幸福を与えるのが仕事などというものもあります。こうなると仕事が回ってくると喜びや感謝、遣り甲斐や生きがいという気持ちがわいてくるのでしょう。

世の中には生き方が多様であるように個々人の生き様と同じく様々な仕事観があり、その仕事観によって人は日々の働き方を創造しているのです。もしもその仕事観が、やらされているものややりたくないものをやること、もしくは自分勝手にこれが仕事なのでと割り切っていたらそのうち一生その仕事をすることが自分の生き方になっていきます。

一生涯かけて取り組む仕事だからこそ、その仕事観は果たして一生かけてもいいと思っているものかどうかということを確かめる必要があるのです。なぜならそれが人生の幸福と密接にかかわっているからです。仕合せに生きるためには、仕合せに生きるための自分自身の仕事観をもう一度問いただす必要があるのです。

たとえば毎日の仕事が楽しくなくなってくるのは、その人の仕事観が歪んでいることが多いように私は思います。本来の仕事とは何か、それが根にあり芯が入っていれば多少の辛いことがあったとしても仕事が楽しくなります。しかし仕事観が本当に一生涯かけて取り組むことではないことをモチベーションにしていたらすぐに消極的な感情に呑まれて生き方や働き方を誤魔化してしまうようにも思うのです。

自分を偽り誤魔化す働き方をしていたら、それがそのうちに自分を偽る生き方になっていきます。自分らしく自分の生き方を貫くためには、自分が生涯かけてもいいと思っているようなことに今日も取り組んでいるんだという働き方を日々に磨いていく必要があります。

そのために、まず自分の仕事観や固定概念が果たしてどうなっているか。仕事だと割り切ったこと、常識だからと諦めたこと、過去の体験から刷り込まれたものをもう一度見直し、改めて「働くとは何か、生きるとは何か」という大前提の土台を創り直す必要があるように思います。

知ら知らずに私たちは誰かから教え込まれた仕事観というものを学校や社会から刷り込まれていくものです。責任の押し付けであったり、我慢して嫌なことを引き受けたり、健康を害してでも努力したり、そういうことをやることが仕事だと思い込んだりします。そのような仕事に合わせすぎているちに本来のチームであることができなくなったり、仲間であることができなくなったり、同志であったことを忘れたりもするものです。そういう時こそ内省によって何に合わせたか、仕事というものはこういうものだという固定概念に合わせなかったと気づけるかどうかで人生の歓びもまた変わっていくのです。

特に私が関わっている幼児教育の業界では「キャリアアップ」などという研修が流行りで行われています。まずキャリアとは何か、仕事とは何かを定義することなしに、単に補助金を配布するための知識を詰め込み直すような研修をやっていると現場の方々からもよくお聞きします。

子どもの仕事をするのに、なぜそれを本人の生き方や働き方と何ら関係しないつまらない仕事観に導こうとするのか。本来の子どもの仕事とは、生き方を与えるものであり保育とはその働き方で伝道していくものでしょう。

私たちは仕事観というものをまず見つめ何をもって生き方と働き方の一致というのかをそれぞれに問いてほしいと願います。私の働き方はふざけていて常識的な世の中から見ると自分勝手にやっているように見えるかもしれません。しかし「本当の仕事とは何か」が観えればこれが自分の目的に適っている仕事の仕方であることが観えるはずです。世のなかの仕事の常識を壊せるかどうか、この辺は簡単にはいきませんが遣り甲斐のあるプロジェクトです。

これからもカグヤは、その一点に集中して子どもたちの憧れる生き方と働き方に特化していきたいと思います。

聴福人の習慣

人の話を聴くのにおいて、「信じて聴く」ということは大切なことです。これはきっと善いことになっていくという信念で聴いているとも言えます。さらに話を聴くことの前提に、相手のことを丸ごと信じている状態になっている必要があります。

つまりは自分自身が聴ける状態であるか、それは自分自身が何を信じて話を聴いているか、自分の信じるということへの哲学や信念が聴くことに現れているのです。

よく話を聞くとき、正しいや間違いなどを指摘しようとするものです。それは信じて聴くこととはあまり関係がなく正しい答えを教えているだけです。正しい答えを聞くことはその人にとっては正解ではなく、その人たちが本当に欲しているのは信じてほしいということがほとんどです。

自分自身が生きていく上で、自分を信じられなくなる時、丸ごと信じて聴いてくださる存在に人は救われるからです。私もそれを幾度も体験しています。

今の自分があるのは、自分が信じることができなくなるような出来事で葛藤するときそれをじっと丸ごと信じてただ聴いてくださった方があったからです。

単に聞いて正論を教えてくれたことがあっても、それは長続きせずその場はわかった気になってもまたすぐに不安や心配になります。しかし丸ごと信じてくれた存在が見守ってくれていると思えると安心して不安も払拭していけます。

つまり心で聴くというのは、相手の心を信じるということと同義なのです。

聴くことができる人は、どんなことがあっても天の声だと素直にメッセージを受け取ることができます。そのメッセージは、「必ず天は最善にしてくださっている」といった全体善に原点回帰していくことを自覚するものばかりだからです。

だからこそ自分の心がどうなっているか、他人の話を聴く前に整えておくのが聴福人の実践なのです。そして聴福人であり続けるためには、日ごろの過ごし方に心を整える内省という習慣が必要になります。

丸ごと善で聴く、丸ごと信じて聴くというのは、日々の御縁を信じて前向きに明るく生き、生涯学習を続けて自己を修めていくという習慣を維持していくということです。私のこのブログもまた、聴福人の実践の一つです。

引き続き、子どもたちが安心して育ち、見守りを感じ続けられるように怠らず努めていきたいと思います。

自然から離れない

今年も自然農に取り組む中で思い通りにならないことばかりを経験しました。お米はイノシシに荒らされ収穫直前に全滅。高菜は3回種まきをし直しましたが1回目は育たず雑草にすべて負け、2回目は虫に食いつくされ、3回目はモグラに土の中を穴だらけにされ育苗が失敗しました。

今年は特に自然の厳しい状況を受けており、今まで以上に葛藤と挫折の中で心を何回もへし折られました。その都度、なんでこんなことにとイライラしては畑に怒りをぶつけます。しかし畑にぶつけても何の解決にもならず、どうしたらと次を考えてまた取り組むのみです。

自然はいつも自分の思い通りになることはありません。

自分が思い通りにしようとする傲慢さは何処から来るのか。それは頭で考えて計画を立てているところにあるように思います。人間は自分の思っている通りにする過程で、自分の考えた通りにしようとします。しかしその考えは自分の都合の良い考え方であり無理やり周りの方を変えようとしてしまいます。自分が周りを変えることで上手くやろうとする、ここに傲慢さが潜みます。

本来は自然に対してそれができるかといえば全くの不可能であり、自然に対しては自分が変わるしかありません。しかし自分が変わるというのは、自分にとっては不都合なことばかりが押し寄せてくるものです。

たとえば、時機を待つこと、寄り添うこと、よく観察すること、声を聴くこと、試行錯誤すること、自分勝手にはいかずどれも「自分から」主体的に関心をもって深くかかわり続ける必要があります。自分のペースを優先すれば自然のペースから乖離していきますから、自然のペースをまず理解する必要があります。

それは「焦らない」ということでもあります、言い換えれば天にお任せして信じるという心境です。

自然はちゃんと自然のスピードで物事を動かしていきます、間違っているのは自分のスピードの方と気づかなければならないのです。大きな成功も成長も、大きければ大きいほどに時間がかかります。高い山であればあるほどに登頂が困難を極めるようにそれだけ達成感も充実感もあるのと同じです。

自分が一体、何の目的に対して挑んでいるのか。それによって進む速度も歩む困難さも異なってくるのです。簡単に誰でもすぐに達成できるような目的ならそんなに苦労はありません。苦労が多いのは難しいことに挑んでいるからであり、それだけ偉大なものを動かそうと頑張っているからなのです。

自然農を通して何回も頭を叩かれて反省を繰り返すばかりですが、私の都合で何回失敗しても自然は丸ごと清濁全て受け容れて何度も挑戦をさせてくださいます。この大きな見守りの中で、自分を磨き謙虚さを学び直すことは自然がある故に実現できることかもしれません。

自然から離れないことこそ人類の真の発展と永続を約束するものかもしれません。

自然から学び直しながら、現代の人たちの苦しみに寄り添い共に子どもたちの憧れる生き方ができるように取り組んでいきたいと思います。

個性を学び続けるということ

人間は誰一人として同じ人はありません。そんなことは誰しもわかっているはずですが、実際には自分と同じような考えを持っていると信じ込んでいたりするものです。

一人ひとりみんな違うというのは、それぞれ一人ひとりに異なった考え方があるわけで本来は「そんな考え方もあるんだ」と学び続けることが人類の持ち味の活かし方のように思います。

それを自分の価値観が分からない人を裁いたり、思い通りにいかないことに不平不満を言うのが人間ですがそれだと多様な考え方や生き方、個性を学ぶ機会を失ってしまうものです。お互いの成長のためには、折り合いをつけたり認め合ったりしていく必要があるからです。

確かに表面上はいくらみんな同じようにしておいて、それをみんなで守ることで問題が起きないようにすることもできます。実際には、大きな組織や標準化された企業などは機械の部品のように周囲の平均に合わせておけばたいして違いが引き立たず気になりませんから自分の価値観をさらけ出すこともありません。

しかし個性尊重で多様性を優先する小さな組織や、持ち味を発揮しようとするのならそれぞれの考え方や違い、物の見方や性格、価値観などがオープンに出てきますからそれもいい、これもいいねと、異なりや違いから自分自身が常にお互いの関係性から学び続ける必要があるのです。これが人類の智慧の根っこです。

つまりこれが個性があるということを肯定することであり、その個性をみんなで活かそうという自他尊重を実践していくということです。しかし同時にそれは「なぜ」こうなんだろうという苦しみもつれてきます。たとえば、なぜわかってくれないのだろうや、なぜこんないやなことをするのだろうや、なぜ理不尽なことさせるのだろうなどと理解できない苦しみに出会うのです。

そんな時こそ、違うのは当たり前だと認識し自分の知らない価値観があったと学べるか、こんな考え方もあるのかと発見するのか、それは単一の価値観をみんなに無理に認めさせ一つの価値観でコントロールするのではなく、多様な価値観を尊重しながらそれぞれに考え方の種類を学びお互いの価値観を高め成長させ続け自分の器を成熟させていく機会にするといいように思います。

私自身も、信念が強くこうであるのは当たり前と突き進むばかりに軋轢や葛藤、そして挫折や歓喜を繰り返しますがその都度、「いろいろな人間がいるんだな」と省みて、その考え方を学び直して自分の価値観を醸成して発酵させ続けています。

人が個性があることは素晴らしいことで、色々な人がいるから人類はここまで生き延びてこれた。そして自然の一部として自分の存在価値の仕合せを味わってこれたように思います。世界は、まさに多様な文化や人種の坩堝です。そのいろいろな考え方を一方的に否定し迫害するのではなく、尊重して折り合いをつけて同じ地球上で仲睦まじく暮らしていくことに向けて私たちは何度も戦争や平和を繰り返してきました。人類のとしての成長は、身近な個性を尊重することなのであり真の平和はその実践を一人ひとりが実行することで創り出すことができるように私は思います。

近い将来、人類はそれぞれの国家のために生産し経済効果のためだけの人の使い方を見直し、生きとし生けるものの個性を尊重しお互いを認め合い持ち味を活かしあう関係の時代に入ってくると思います。世界はまもなく一つに融合していくからです。

未来の子どもたちのためにも、今の自分が個性を学び続け個性の魅力や素晴らしさを伝道していきたいと思います。

響き合いのカタチ

聴福庵の離れの土間を左官職人さんに仕上げていただきました。その土間には、炭を随所に活用したものになっています。装飾として菊炭を埋め込み、粒状の備長炭も混ぜ込みました。

極めつけは、古瓦を用いた音の出る犬走です。これは離れのむかしの造りを活かしたもので、雨樋を設置しなかった分、あちこちに水滴が落ちてはねてしまい周囲を汚してしまいます。それを通常は、砂利などを敷いて犬走をつくり工夫しますが今回はその水滴を活かしかえって綺麗な音が出るように瓦を土間に設置していただきました。

まるで水琴窟のような澄んだ綺麗な音が響き渡り、雨の日の外の音を静かに家の中で楽しめるようになりました。この水の音は、心を浄化し精神を安定させてくれます。

水滴と古瓦が奏でる懐かしい音は、今の機械音ばかりを聴いている心に清涼感を与えてくれます。その犬走の中には、備長炭を設置し水がゆっくりと水路に流れるようになっています。瓦の隙間にもまた粒状の備長炭を挟み込んで水路に塵や埃が落ち込まないように工夫されています。

左官さんとの協働作業でアイデアを湧かし、一つの芸術を実現するのはとても仕合せなことです。先日も、貝を装飾し磨き光らせる友人と一緒に考えて創った貝の首飾りもまた同様に一つの芸術になり仕合せを深く感じました。私は、どうも創作するのが大好きらしく心の情景を職人さんの技術とアイデアで一緒に実現するのが楽しいようです。

仕事もまた同様に、一緒に実現したい夢や理想に向かって協力してカタチになっていくのが楽しく仕合せを感じます。それがたとえ物ではなくても、その思想を顕現させていくような仕組みづくりやそのアイデアを活かした環境づくりなども大好きなようです。

改めて、自分自身が何によって癒されていくのか、そして仕合せを感じるのか。一つ一つの芸術が実現していくたびに近づいてきている気がします。顕現したカタチはお互いの心が響き合った芸術だからかもしれません。

これから聴福庵の伝統的漆喰の塗り直しと、おくどさんの竈の漆喰磨きを控えていますが一緒に復古創新する中で子どもたちに本物を伝道できる材料が集まってきたことにまた歓びを感じます。

子ども第一義の理念に沿って自ら信じた道を、直向きに歩み切っていく覚悟です。

暮らしのデザイン

昨日、友人の家の和室に備長炭を約500キロ投入し25キロの水晶を設置してきました。以前、聴福庵に来た際にとてもよく眠れたということで自宅もどうしても同じようにしたいということでお手伝いしました。

その他にも家のデザインのことを色々と質問されアドバイスをしました。友人からは仕事にした方がいいと勧められ、「センスはその人のものだからこのセンスを買いたい人がいる」と言われ何だか恥ずかしい気持ちになりました。

好きこそものの上手なれではないですが、何でも興味を持ち徹底的に没頭して深めればそのうちに知識だけではなく全体のイメージや具体的な方法、またそれができる職人さんたちと出会い、自分らしいデザインを創り上げていくことができるように思います。

このデザインという言葉はウィキペディアにはこう書かれます。

「デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される。日本では図案・意匠などと訳されて、単に表面を飾り立てることによって美しくみせる行為と解されるような社会的風潮もあったが、最近では語源の意味が広く理解・認識されつつある。態に現れないものを対象にその計画、行動指針を探ることも含まれ、就職に関するキャリアデザイン、生活デザイン等がこれにあたる。」

デザインはここにあるように決して見た目のところの装飾をすることに限らず、そのデザインするための哲学や理念、行動指針を含めたものを総称しているのがわかります。つまりデザイナーとは、その思想を体現させる職業とも言えます。考えていることを形にする、思想を人々に明確に表現できるようにする人だということです。一つのことを突き詰めて思想を磨ききっていくとそこにデザインは産まれます。そのデザインの産物が、一つの作品ということでしょう。

聴福庵という作品が認められ、その作品の質から具体的なデザインを直観され、具体的なお仕事をいただけるのもまた有難い成果の一つであろうと思います。

古民家甦生を通して暮らしに触れ、暮らしの道具に出会うことで本物とは何かということを知りました。こうやって体験したことがすぐに他の誰かのお役に立つというのは有難いことです。

引き続き、子どもたちのためにも学問を深め世のため人のために自分を活かしていきたいと思います。

棟梁の心構えと心意気

150年古民家、聴福庵の天井板の張替えを先週から行っていますが今まで見ることもなかった立派な梁が現れてきました。重厚で歴史を刻んだ雰囲気のある飴色の偉大な梁は、屋根を支えるだけでなく家全体のバランスを保つ力の中心です。

改めてよくよく観察すると、大変なエネルギーが漲っておりその梁が家を保ち支えているのを感じてこれこそ家守主人の力の源泉であることを実感しました。大黒柱、小国柱などのすべての柱を繋ぎ橋渡しをするこの梁は、家のいのちの最重要部分ではないかと実感するのです。

改めて「梁」を深めるとこの梁という漢字の成り立ちは、水に両木をかけわたす形であると書かれます。これは「川の上を木で渡す橋」の意味で家の場合は内(うち)ですから内張り(内張)になりそれが、梁(はり)となったといいます。また他にもつっかい棒のことを「ばり」ということもあるそうでこの梁もばりも「張り」から来ているともいいます。この張りは「腫れる」が語源で丸く膨れた状態をいいます。漲るという字も、先頭に立つ勢い、力が充ち溢れるという意味で張り(梁)と同義です。

家をあらゆる自然災害から守るのが屋根瓦でしたが、その屋根瓦のすべての重みを受け止めて支えるのが「梁」です。すべての柱の上に水平に横たわりその重みをグッと堪えて偲び支えていく。まさに組織であれば中心核、大工ではすべての職人をまとめる頭、会社であればそれは社長であり、国家であれば大統領の役目です。大統領という字の統領は、棟梁から翻訳されたものです。そして家を建てるには棟上げという祭祀があるように、棟は家の天辺にあり屋根を司り安定を保ち続けます。

この「棟と梁」は常に一家の建物を支える重要な部分であり棟梁は集団の統率する中心的人物ですからそこから家を支えるもっとも重要な人物が棟(むね)や梁(はり)ということでそれを親方ではなく、粋で匠に優れ最も尊敬される人物という意味も込めて人々から「棟梁」と呼ばれ神を祭ってきたといいます。したがって棟梁になれる人は一家、一国、一族、一門の統率者であり中心となる人物が選ばれていたのです。

梁がむき出しになった天井を、聴福庵をずっと手掛けてくださっている棟梁と一緒にその梁を眺めていると棟梁が「このままいつまでもずっと梁を眺めていたい」と小さく呟いておられました。私も、屋根裏で日ごろは天井板によって隠れて日の目を見ないその姿を観て心に深く染み入る感動と尊敬の念を感じました。

家をもっとも支える存在とは観えないところをしっかりと全員の橋渡しをしている陰徳的存在なのかと感じ、改めて本来のリーダーや総責任者、そして主人としての覚悟を学び直した気がします。

私はこの古民家甦生そのものが経営の師であり人生の先生になりました。これは決して人間ではないし言葉で教えることはないけれど、そこには確かに人間としての生き方の証が随所に智慧として伝承されていたからです。私は今もこの伝統的な家によって保育をしていただいています。

世間は私のことを古民家好きな人や、普請道楽、また骨董趣味やマニアックな人などと勝手に評されたりします。そして本業の仕事もせずに古民家ばかり没頭していると周りからもいわれます。しかし私はその家から自分自身の生き方の研修をしていただき、生き様のご指導をいただき、自分自身を苦労によって成長させていただきました。実践とはその境地で没頭するまでやっていることを言うのであり、事物一体に真剣に没入しなければ学んだことにならないからです。ご縁を活かすというというのはそういうことなのです。

私はこの家から棟梁としての心構え、そして棟梁たる陰徳の心意気の意味など家から学ばせていただきました。きっと傍から見ても変人のように楽しんでやっていますからただの古民家狂いに見えるかもしれませんが、私はその都度に職人や道具からむかしの人々の心と対話し、智慧を伝承し、それを子どもたちの生き方に伝道していこうと思っているのです。そしてそれが保育の仕事につながっているからです。

暮らしとは本来、日々の心の持ち方のことであり、それをどのように美しいものにするか。そして道徳とはまさにその生き様としての実践をどのように積み重ねていくかということの連続なのです。実践とは現場で努力して高い志で深く学び続けることをいい、知識を単に増やすことではありません。実践するには苦労して楽しく道を歩む必要があり、学問を深め正しく実行することではじめて前進するのです。

つまりやっていることが良いか悪いか、正しいか間違っているか、関係あるかないかではなく果たして学んでいるか実践しているかが大切なのです。まさに匠とはそういう人物のことかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念に沿って深く広く学んでいきたいと思います。

かんながらの夢

先日、御縁あって東京の泉岳寺にお伺いすることがありました。忠臣蔵で有名な赤穂四十七義士の墓があるところでもあります。墓地では年齢が多様な日本人の参拝者が多くあり歴史の篩にかけられても未だに忘れられてはいません。

今の時代ではこの忠臣蔵の出来事の本質を深めようとするような学問も少なくなり、道徳が荒廃すればするほどにこの義士たちの理念が忘れ去られていくように思います。道徳の荒廃は大げさに聞こえるかもしれませんが私たち日本の民の原点から守り続けてきた生き方が失われていくことでもあります。

日本人が親祖より最も大切にしてきた生き方を守り続けるということは、言い換えれば子々孫々まで親祖の理念を維持していくということです。神社のお役目も本来はそうであったはずで天皇もまた祭祀によって理念を守り続けていらっしゃいます。そして世界のそれぞれの国には日本と同様にそれぞれのはじまりがあり、多様な国家や民族はそれぞれにその場所でその風土で誕生した道を歩み続けています。本来の道(聖道)から外れるとき、その聖道は途絶えます。途絶えさせないようにその時代時代の忠義の人物たちが理念を守り続けるから私たちは先祖の遺徳に感謝していくことができます。その遺徳を顕現させるものたちこそが義士なのです。

この義士は、先ほどの赤穂義士でも使われますがその定義は「人間としての正しい道を堅く守り行う男子。」ということです。この人間としての正しい道とは、道徳に則った人物ということになります。この道徳は、天地の至誠とも呼び、天地にあって常に中庸を貫き真心を盡すということのように思います。

赤穂義士たちの師は、山鹿素行です。山鹿素行と言えば、古学を究めた人物ですがこのアジアの原点や根本を突き詰めて達した人物です。私の定義する「かんながら」はこの山鹿素行と同じく自然です。山鹿素行はこのことを「天地」と定義します。

「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」

この世のすべての生成者は天地であり、永遠の道もまたここにある。聖人とは、この道を守り続ける人物であるといいます。何が人間の自然であるか、根本を説いています。故に「天地これ師なり、事物これ師なり」と言います。本物の師とは、天地のことである、その天地に生きる私たちの師は出会いであるとも。だからこそこう続きます。

「天地ほど正しく全き師あらんや。ただ天地を師とせよ。天地何を好み何をか嫌う。ただ万物を入れてよく万物になずまず、山川、江河、大地、何ものも形をあらわしてしかも載せずということなし」

この天地とは、自然の真心のことで風土の顕現した道理のことです。古来人はそれを神と呼びました。現代の神は、どこか人間の価値観で勝手に作りこまれたものを言いますが本来の神とはまさにこの風土のことを言うのです。天地のことを風土と呼び、その道を実践することを「かんながら」と私は呼ぶのです。

風土を改善するという私の夢は、言い換えるのなら風土に沿うということです。日本人であれば日本人の道徳を、日本の経営であれば日本らしい経営を、まさにその風土を師として風土を体現することが私のコンサルティングの中心なのです。

なぜならそれは親祖の祈りであり、孔子や聖人たちが願い続けた理想の道だからです。人類の平和はまさにその「風土を師と仰ぎ中庸を保つ」ということなのです。不思議にも今回のブログは私の遺言のようなものかもしれません。

義士たちがいつかここにたどり着くことがあるのなら、ぜひ一緒に問いかけてほしいと願います。「義」とは何かと、「志」とは何かと、そして「道」を想い直し「徳」を思い出してください。人類の成長を見守るのが保育であるのなら、私が子どものために何をしようとしていたのかを伝道してほしいのです。

最後に山鹿素行は学校を創りました、その学校はカタチは消えても心の中に存在し今でも子どもたちを見守り続けます。その学校は何か、こういいます。

「学問は天子より庶人に至るまで、一にこれ皆身を修むるをもって本となす。これを為すに学校が必要であり、学校と云うは民人に道徳を教えて、その風俗を正すの所を定むる事也。学も校もともにおしうるの字心にて、則ち学校の名也。学校のもうけは、上代の聖主もっぱら是れをもって天下の治道第一とする也。学校は、単に学問を教え、ものを読み習わせる所ではなく、道徳を教える所であり、つまり、人間を作るのが学校の目的である」

将来、私は学校を創りますが世の中の人が一般的に思っている学校とはあまりにも異なるかもしれません。しかしいつの日か、自然と調和し、人類がそれぞれに正しい道を歩んでいくことができるようにかんながらの夢を念じながら前進し続けていきたいと思います。