経験する価値

今の時代はインターネットの普及によって何かの知識を得ようとすればすぐに手に入るようになりました。膨大な知識がいとも簡単に検索ができてわかるというのは、本当に便利なものです。

しかしその反面、知識は得ても経験の量が圧倒的に足りなくなってきて頭でっかちのように分かった気になっていることも増えてきました。知識を得ても経験していなければそれは本当の意味で自分のものになったのではなく、そのためには絶対的に必要なのは場数になります。この場数とは経験する質量のことで、経験を得る体験をどれだけやったか、実験をどれだけ試したかということです。

人間は習熟するためにはその場数が必要であり、熟練者や専門家と呼ばれるその道の達人は皆、場数を徹底的に熟して自分を磨き上げています。

体験や経験をすることは失敗を認めることです。そしてその間違いを学んで次回に活かしていくことです。失敗を怖がり評価を避けようとして場数が減ってくれば体験していませんから習熟することができなくなります。習熟というのは場数ですから、現場でたくさん試してみなければなりません。試行錯誤という言い方もしますが、失敗から学び次はどうするかという前向きな発想が必要になります。

そのためには、経験こそが価値であるということの認識が必要です。経験を良し悪しで自分で評価したり、知識が正しいかどうかの答えを先に思い込んで裁いたりしていたら一向に行動することができなくなります。

さらには自分の価値観の中から出ようとせずに、いつまでも思い込んだところで自分の都合でばかり物事を解釈し、自分の都合のよいことしか認めようとしない態度になればなおさら経験の価値がなくなっていくものです。

良いとか悪いとかではなく、その経験から何を学んだか。そしてその経験はどれだけ価値がある経験だったか、その経験にこそ価値を置いて学び続けていくのなら失敗こそが貴重な経験であることに気づけるものです。

どんな結果が待っていようが、それでも挑戦して取り組んだ経験の結果という価値がのこります。その価値は次の人や、周りの人、そして子どもたちに必要な価値としていつまでも遺ります。そう考えてみると、やらないことが無価値でありいつまでも経験をしていないことが本当の失敗であることに気づきます。

やってみようと思うことは、好奇心の一刺し、また振り絞る勇気のようなものです。やっているうちに興味も増えてそのうちそのことが楽しくなってしまえばしめたものです。楽しそうに遣っている人は、次第にそれが楽しいに変わってきます。マジメにやっていることで100点満点を目指すことがいいのではなく、経験することが楽しいと取り組んでいくことで1000点にも10000点にも制限を超えて可能性が無限に広がっていきます。

引き続き、子どもたちが学ぶことをやめないように本当の結果とは何か、何がもっとも価値のあることかを自分の背中を通して伝道していきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

歩く速度

古街道の町家に住んでみると、かつてはその通りにたくさんの人が往来しそこで商人や職人たちが仕事をして賑わっていたのが形跡からわかります。今ではインターネットを使ってどこでも簡単便利に品物も手に入り、物流も発達していますから修理なども郵送して行うことができます。さらに大型店舗ができることで、みんなそこに車で移動しその中で買い物しますし、大きな道に店舗はあっても車で立ち寄るようになっていますからそこに入ればまたすぐに他の場所へとさっさと移動してしまいます。

かつては、歩く速度で往来していた場所はほとんど廃れ、一部の観光地だけが残っていますがそこはほとんど土産物店です。本来の懐かしい商家や町家は、そこでの暮らしがあってその生活のために必要なものを販売されていました。数々の職人たちが住み、商人たちが人々が暮らしで必要なものを販売したり、または道具を修理したり、さらには休憩して情報交換する場所なども用意されていました。

この人が歩く速度というのが、もっとも人間には合っていてその歩く速度で物事を考えられたり、出来事を深く味わったりすることで私たちは仕合せや豊かさを感じるものです。

聴福庵のある場所も旧長崎街道ですが実際は観光地の場所だけ大型バスで乗り入れてそれが終わればまた大型バスで違う場所に移動というように歩くことなく去っていきます。本来は、じっくりと歩いてゆったりと観ていく場所ですが、かつてのような商家も職人もいませんから仕方がないことかもしれません。

京都に行けば、まだそのようなところは残っておりかつてのような佇まいを体験できるところもあります。日本にあったかつての民家がなくなっていくというのは寂しいものです。

民家の甦生は暮らしを実践することからはじまります。この旧街道に人々がまた往来するかどうかはわかりませんが、試してみたいことがまだたくさんあります。子どもたちに新しい生き方や世界が手本とするような働き方を遺し譲るために一つ一つを歩く速度で丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

思い込みからの脱却~聴く勇気~

人間は誰にも「思い込み」というものがあります。この思い込みは、過去に何かを体験した際にきっとまたこうだろうとその体験を思い出しては結果を先に決めつけてしまうことです。

先日、足を痛めすぐにまた元通りに歩けるようになろうとリハビリをしたところ歩くたびに激痛が走りそれを何度も繰り返しているうちに右足を出すことが怖くてビビッて尻込みしているうちにまったく足が出なくなりました。

一度そうやってまたきっと痛いだろうと怖がる心やビビる感情に苛まれると、どうせまた結果は同じだろうと先に答えを出してしまって思い込んでしまいます。それから月日が経ちもうすでに治っていたとしても、無意識的に心は感情と共に痛みを防御しようとしますから痛くなくても痛い感覚が思い出すのです。まるで古傷がいつまでも痛むように、治っていてもそれが痛いという感覚がずっと残ります。

そしてこれは単に体のことを言うのではなく、心のトラウマや古傷もまた「思い込み」によって痛みを感じているのです。

このように過去に何らかのことで心が傷ついたり辛いことがあったり、感情にインプットされた様々な痛みはいつまでも記憶の中に「思い込み」として残ります。それが邪魔をして怖くなり足が前に出ない、前に進めないという人は本当に多くいます。好奇心が旺盛な人はその体験を乗り越えてそれでもやってみたいという熱情が湧いてくるのでしょうが、いざ本番になると急に足がすくんでしまいます。

人が「背中を押してもらいたいや背中を押されたい」という願望は、この「思い込み」を乗り越えるための勇気をくださいという切望でもあります。

先ほどの足でいえば私の場合は出なかった右足を痛いかどうかではなく「勇気」の方に意識を集めて挑戦すると足が前に出て階段を無事にあがることができました。思い込みに意識を持っていかれる前に、勇気に重心を置いてみるという話ですがこれもまた単に体の話ではありません。

人間は過去の痛みを乗り越えるときもっとも大事なことは「勇気を出す」ことです。スポーツ選手が怪我を乗り越えて優勝したり、友情や愛情が困難を乗り越えて結ばれてるように、人間はそれみて感動し魂が揺さぶられます。それはすべて勇気によって得られるものです。今までの体験を乗り越えて新しい体験で過去を刷新し上書きするには勇気を出すしかありません。同様に先ほどの思い込みを抜けるにも勇気しかないのです。

ひょっとしたらまた傷つくかもしれない、もしかしたらまたあの時のような状態になるかもしれない、「それでも勇気を出して前に進もう」という気持ちこそが未来を変えていくのです。

私たちはそういう勇気を出したいと思っている人たちに寄り添って一緒に帆走したい、背中を押してもらえれば歩めるという人たちを心から見守りたいと、聴福人の実践を続けています。

人はみんな勇気を誰かに分けてもらって元気を出します。誰かの勇気が誰かを助けるのだから自分から勇気を出して殻を破ればそれだけで周囲の力になります。大変だけど一緒に思い込みに立ち向かおうとする仲間に出会えることはとても仕合せなことです。

その思い込みを捨てる練習は、「聴く」実践によって行われます。思い込みの強い人は誰の話も聞きません。痛いから怖いからどうせ無理だと最初から諦めているのでしょうが、そこを勇気を出して深く聴いてみる、きっと何か深い理由があったのだろうと聴く勇気を出してみること。話は最期まで聴いてみないとわかりませんから、相手を疑いから入る前に信から入る勇気を振り絞って自己との対話に挑戦していくしかありません。

聴福人の役目はそういう人たちが安心して皆で認め合って聴き合う場を醸成していきます。人生は自分らしく生きていくためにも、乗り越える力、英語ではリジリエンスといいますがこれによって勇気を磨くのです。

引き続き、勇気を出せる存在になれるよう私自身聴く実践を高めていきたいと思います。

真己を磨く

刷り込みを深めていると、環境のこともありますがそれに負けないような自分を如何に創り上げていくかという課題も同時に感じます。幼いころから自分というものを育てようとせずに外から誰かに一方的に教え込まれたままに大人になると自分のことが分からなくなっているものです。

この「自分を知る」ということがどれだけ大事なことか、改めて書いてみようと思います。

そもそも自分を知るために必要な問い「自分とは何か」、これとちゃんと向き合ってきた人は少ないように思います。漠然とした自分のことはわかっていても、本来の自分というものはほとんどわかっていないものです。人生は自分を知る旅だとも言えますが、日々に本心や真己と対話をし良心ともいうべき本当の自分に出会い続けることで自分のことを知っていきます。

素直な自分というか、自分を欺かず自分の心と向き合い自分の声に耳を澄まして自分でその今の事実を受け止めて決断していく連続において自分を知っていくとも言えます。

何のために自分を知る必要があるのか、それは誰も代わることができないたった一人の自分、たった一つの人生を、自分が責任をもって主人公として生き切っていくためでもあります。もしもそうでなければどうなるか、他人の人生を自分の人生だと思い込み、一度きりの人生を無責任に他人事のように流されていたら本当の自分に出会うことのないままに死んでしまうことになります。自分を知るというのは、すべての自立の根っこであり、自立するためにはまずその最初の登竜門でもある自分を知ることからはじめなければなりません。

そして自分を知ることができれば今度は自分を創ることをはじめていく必要があります。本当の自分から目を逸らさずに自分を見つめて自分を知れば、自分にはいろいろな感情や性格や性質、特性や徳性があることに気づきます。その中で如何に自分を全体のために発揮していくかを考えるとき、善いところを伸ばし、悪いところは目立たないようにしていく、そして今できないものは周囲を頼ってカバーしてもらうというように自分を創り上げていかなければなりません。

畢竟、教育の本質はこの自分を知る、自分を創るということでしょう。そして如何にその自分が社會に参画し世界を平和にしていくか。そのために私たちは日々に学ぶ機会を経ては己を知り己を磨き続けるのです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延し、あまり自分自身を知ることや自分自身を創ることをし自己を評価して改善する時間をじっくりと取るよりも、周囲の評価に合わせては見た目ばかりを誤魔化し忙しくすることで自分を知ろうとも創ろうともしない風潮があります。

どんな自分に仕上げていくかは、自分が自分を知り、自分で自分を創造していくしかありません。そのためには、自分を見つめることから初めていくことだと私は思います。日々に省みることは、自分を知るための最大最高の道です。真己を内省により磨き続けていけばそのうち穢れも洗い流され曇りも晴れて、本当の自分を知る出会いに巡り会えると思います。諦めないで続けていくこと、どんなことからも逃げずに向き合ってみること、いただいている有難いご縁に感謝することからはじめていくといいと思います。

引き続き、刷り込みを見つめながら子どもには刷り込みを与えないように、大人にはその刷り込みを毀すために如何に真己を磨くかを伝道していきたいと思います。

階層型組織から協働体組織へ

現在、キャリアパスなどを義務付けされ研修に参加することを法的に施工させるという現象が教育業界でも起こっています。そもそもこのキャリパスというのは経営学用語の一つであり、企業においての社員が、ある職位に就くまでに辿ることとなる経験や順序のことをいいます。職員や社員の視点では、将来自分が目指す職業を踏まえた上でどのような形で経験を積んでいくかという順序・計画を指し、キャリアプランなどを設定してはそれに沿って研修を受けて成長していくという仕組みです。

階層型組織、いわゆるピラミッド型組織で目標設定型で取り組んでいくような経営組織においては有効かもしれませんが今の時代のように多様化する変化に柔軟に対応していくような場合の組織ではこの階層型やピラミッド型の組織という戦略は私ならまずは選択しない方法論です。時代遅れというか、官僚型の仕組みをいまのような変化が大きな時にやろうとしてもニーズとの不一致は広がるばかりです。補助金を出すからキャリアパスをやれというのは、そもそもがおかしな話でこのような官僚型の発想で上から押し付けられたキャリアパスはやればやるほどに後の修正が非常に困難になるだろうと私は予測しています。

今の時代に必要な能力として欠かせないものは協働するリーダーシップです。それは社員一人ひとりにも必要となる協力する能力のことです。これをチームワークともいいますが、世界ではすでに戦略的に階層型組織をやめ協働体組織への変化にシフトしています。この協働体組織とは共異体組織のことであり、それぞれの徳性を伸ばし持ち味を活かし、皆で一緒にいることの相乗効果を最大限に発揮した組織のことです。

そのモチベーションの動機は決して個人の成長が優先されるのではなく、みんなの仕合せが優先されます。自分だけが良くなればいいではなく、如何にみんなが善くなるか、部分最適ではなく全体最適が行われることを最善とします。みんなが必要とし合い持ち味を活かし家族のような結束で豊かな社會を人間は本能で望んでいます。これは名君がいて平和に国が豊かに治まったような状態、それを実現した組織とも言えます。

古来より日本には、全体善という思想がありました。これは利己ではなく利他の精神であり、みんなが利他で思いやり助け合うことで豊かで幸福な社會を実現していくという考え方のことです。モチベーションを高めるために、馬の鼻先にニンジンをぶらさげるような場当たり的なキャリプランを設置しそんなものを与えてもやる気が永久に持続するわけはありません。もちろん短期的にはそれが合った人もいるでしょうが、視野を広げればそれで合ったはずはなく長持ちもせず組織も協働体になることはまずありえないでしょう。これで余計に個々のつながりが断たれバラバラになる仕組みが活発化し、その終息に数年から十数年かかるかもしれません。

自分でやったこともないことを絵に描いた餅のように施工するのではなく、実際にそのような協働体や共異体を実践して実現している組織の人物たちと一緒にどのように世の中を変えていこうかと話し合うことができるくらいに質を議論できるようになる必要性を私は感じます。いつも思いますが片方が一歩的に何かをやったりやらせたりするのではなく、正しく対話を行い一緒に考える中で磨き上げていくのが本質的な取り組みです。

日本では昨日ブログで書いた産学官連携においても、連携が既存の既得権益や悪しき風習によって学主導や産主導、もしくは官主導になっているだけの壁や枠が取り払われなければ本質的な協働などはまだ先の話のように感じてしまいます。ここの協働がまず成り立っていないところに問題があるように私は思います。

しかし批判してもはじまりませんから私たちは理念を同じくする仲間やパートナー、お客様と共に協働や協力を対話によって一歩ずつ実現する仕組みを地道に広げていこうと思います。

子どもたちのためにも、今の時代に合致した戦略、今のニーズに対応した対話の在り方を発明しつつ丁寧に実践を取り組んでいきたいと思います。