理念=経営

企業をはじめすべての組織には、その組織を創るための目的というものがあります。何のためにそれを創り、そして何処を目指していくのかといったものですが目的と方針、方向性こそがその組織の運命を決めていきます。

またその組織で働く人たちは何かの判断をみんなで決めて協力していくとき、拠り所にしていくものがあります。それは原点でもあり、物事のはじまりに決めた初心だともいえます。

こういうものを理念と呼びますが、その理念を持ったままにみんなで力を合わせて協力して働くことを経営と呼びます。

つまりは本質として「理念=経営」であり、「経営=理念」です。これを勘違いして理念と経営を分けている人がいます。それは分けたのは経営者であり、経営者は「自分=理念」だと思い込んでいるからです。

経営者も組織の中の一人であって目的に向かって一緒に働く全体の一部です。組織の目的と方向性をその組織のだれよりも鮮明に明確に観えており、みんなが判断に迷ったときにそれを示唆したり、導いたり、思い出させたりするのが経営者の役割です。

理念があって働ける仕合せは、日々の経営の生き甲斐とも言えます。生き方と働き方とは、言い換えるのなら理念と経営のことです。それを一致させていくというのは、言っていることと遣っていることが一致しているということです。まさに理念経営とは言行一致のことであり、偉大な目的に向かってみんなで協力してその目指したところまでを言語化し明文化して、一人ひとりがはっきりと自分自身で観えるようになるまで浸透していることで実現します。

これを誰か任せにしたり、自分は知らなくてもいいとしていたらいつまでもその目的が達成されることもなく、またバラバラになって組織は次第に崩壊していきます。さらには言行不一致になれば不平や不満、正直者が馬鹿をみる組織になり次第にみんな諦めてその組織は腐っていきます。

生き方と働き方が分かれているということは、生き甲斐と遣り甲斐が分かれているということです。そんなものは本来なく、生き甲斐と遣り甲斐が一致するからこそその両方は成立するものです。

だからこそ大事なのは、理念経営を実践することだと思います。

それを邪魔するものは、マンネリ化であったり、歪んだ個人主義であったり、経営者の独善であったり、伝えられなかったり、振り返りがなかったり、そんな時間すらも設けていなかったりと色々と理由がありますが、本来、その組織の本質に立ち返ることが理念経営にしていくということです。

経営という字の本来の意味は、続いていく営みです。つまり永遠の営みとも言えます。理念経営とは、理念が永続していく仕組みのことです。組織はその時々で変化してひょっとすると滅んでいくことがあるかもしれません、それは国家においても然りです。

しかし滅んでも滅ばないで続いていくものこそが理念であり、それを実践することが理念経営の本質です。大義や信念、そして道を子孫へとつなげていくのが今を生きる私たちの使命ですから自分の代の私腹を肥やすための理念経営などはありません。

引き続き、子どもたちのためにも目的に向かって生き方と働き方、生き甲斐と遣り甲斐の組織を世の中の広め社會をさらに豊かにしていく手助けに邁進していきたいと思います。

 

湿式工法の瓦葺き3

昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。

しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。

この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。

少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。

この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。

例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。

この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。

家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。

今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。

家主と大工棟梁

昨日は、御蔭様を持ちまして上棟式を無事に済ますことができました。早朝より祭壇の準備をし、お神酒やお米、お塩にいりこを用い東西南北を清めるために四方固めの儀を執り行いました。

思い返せば昨年4月より古民家甦生をはじめてから大工棟梁と一緒に古いものや捨てられているものを拾い、一つ一つ家が喜ぶように甦生に手掛けてきました。何回も諦めそうになるところを助けてもらい、譲ることができない理念や信条から出てくる身勝手な無理難題を何度も受け止めて手を盡していただきました。

そしてお金にもあまりならず、手間暇もかかり、現代の儲け主義の経済観念からは程遠い私の仕事を心意気で支えてくださっています。家を支えるのが大黒柱だとしたら、その家の主人を支えてくださるのが大工棟梁なのかもしれません。人間に掛かりつけのお医者がさんがいるとしたら、家の掛かりつけのお医者さんは大工さんです。この安心感はとても大きく、長く共に暮らす家には欠かせない存在です。

私のようなど素人がここまで古民家甦生ができるのは、周囲に支えてくださっているご縁があるからです。上棟式の御蔭様でそのご縁の尊さを改めて感じる有難く感慨深い振り返りができました。家や家の主人にとっては暮らしを支える伝統の職人さんたちが減っていくのは本当に悲しいことで何とかしなければと思います。

その後は柱を組み立てていきながら作業は続けられ、お昼の直来では手づくりの「おくどさん」にはじめてかまど鍋を用い「ハレの日」の初のお祝いとしてトン汁をつくりました。具材は地場産野菜、味噌も自家製の手作りのものを使いました。また竈でご飯も炊き、左官職人さんたちも合流して一緒に食事をしました。

夕方の上棟式では、クルーの一人も一緒に屋根に上り四方餅を撒き、祝杯と共に私たちの会社の創作祝い唄である「円満祝い唄」をみんなで唄いました。

大工さんや鳶職の方にも古来から木遣り(きやり)という労働歌の祝い唄があります。これは木遣り歌・木遣り唄ともいわれ、由来は1202年に栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされています。私たちの祝い唄も同様に、どんなに苦しくて大変でも笑っていこう、すべてのことは福に転じていこうという歌詞になっています。

これまでの苦労と仕合せを噛み締めながら唄う円満祝い唄が心に染みました。同時にこの日本人の精神や真心が、未来永劫子どもたちにずっと伝承されてほしいと願い、家に祈りました。

引き続き、これからはいよいよ古建築の智慧を学び直すため古来の工法の瓦葺きの挑戦に入ります。いただいているご縁を大切にし、恩返しに換えていきたいと思います。

聴福庵離れ上棟式

いよいよ今日は聴福庵の離れの上棟式を迎えることができました。ここまで来るのに1年半以上、復古創新の実践の一つとしての風呂場にするために古来からの智慧を結集して建築します。

風呂桶は60年前の大きな奈良漬けの樽と明治頃の炭で沸かす桶風呂を甦生し、建具は時代物の格子戸をはじめ蔵戸や板戸と甦生し、屋根は古建築の智慧を甦生し、床下は菌を用いた発酵床に備長炭と水晶を設置し、玄関の踏み石は古代の六方石を甦生し、壁面の塗料は柿渋と渋墨を用い、ご鎮座する神様は禅宗の跋陀婆羅菩薩をお祀りし、古材の板と水場は古瓦によって装飾されます。その風呂やシャワーの水は仲間と一緒に手掘りした井戸水を用います。そして明後日には屋根に上り呼吸する伊賀の土を用いて伝統の瓦葺きを仲間と一緒に行う予定です。

文字を並べただけでも数多くのご縁の賜物でよくもここまで集まったものだと感謝が湧きあがってきます。一つ一つを深堀りしていきながら、どのようなものが未来の子どもに本当に譲っていきたいか、生き方と働き方の一致を通して学び直してきました。

古からの先人の智慧を学び、それを伝承していくことはまさに連綿と続いてきた日本民族の生き方の踏襲であり、同じ道の上を歩んできた過去と今がつながる瞬間でもあります。どんなに世界や時代が変わっても、その風土で生きてきた暮らしは変わらずに存在しているのです。日本に育った私たちは風土とは切り離すことはできず、私たちは自然の一部として存在しているのだからその暮らしを守り続けるために常に今を温故知新し自分自身を毀し続けて本質を磨き直していく必要があります。

このように感慨深いものがありますが、話を戻して上棟式のことを紹介すると家などの建物を建てる際に末永く持つ堅牢で安全な家が建つこと願いこれから住む家族の健康や幸福を祈ります。そこから式典を設け工事の安全と建物の末永い神の加護を祈る行事として行われてきました。

この上棟(むねあげ)とは木造建築で柱や梁などを組み立てて、屋根の一番上の部材である棟木を取り付けるときのことをいいます。

最近では神主さんを呼んでまで行わず略式で施主と大工棟梁で略式で行うところや、上棟式をしないところも増えてきているといいます。式典というよりも大工さんへの労いなどもあって直来といって食事会を開きお互いに関係を結んでいくということもあるそうです。

私の幼いころは、近所で上棟式があるとお餅まきを目当てに子どもたちと一緒に必ず訪問していました。50円玉を躍起になって拾っては、お餅がいくつで小銭がいくらとみんなで数え合ってそのまま駄菓子やさんに直行していました。

今ではそういう場面を見かけることも少なくなりましたが、懐かしい風習がなくなっていくのは寂しいものです。今日は大安吉日、とても目出度い日ですから自分たちになりに、懐かしい未来を体験して味わい深い祈りの一日を過ごしていきたいと思います。

 

幸福の道

生きていく中で私たちが学ぶ大切なことに「感謝」というものがあります。この感謝は、自然に生まれてから備わっているものですがそれを磨いていく中で人格が高まり人生がよりよく仕合せに実現していきます。

しかしこの感謝は、性格の歪みによって別のものにすげ換ってしまうことがあります。それは「素直」かどうかがカギを握ります。性格が素直な人は、感謝しかない状態でその心境のままであるから無理をしたり頑張ることがありません。

文字通り素直に自分の心と言葉が一致しており、無理して頑張って感謝したりされなくても自然に感謝の状態を維持することができています。その素直さが謙虚さであり、感謝しかなく有難いと全てのことを感じているからこそその人物は自然体で人を信頼し、また周囲から信頼され、楽しく豊かな日々をみんなと一緒一体になって生きていくことができます。それこそが、真実の幸福であり自由であり自立した成熟した人間の姿です。

ただ幼少期から、自分以外の誰かの評価を気にしてはその評価がよくなるように頑張って評価される経験を積み重ねていくと自分の仕合せが歪んでいきます。無理して誰かのためにやることで自分が仕合せになると信じ込めば、感謝もまた評価の一つにすげ換ります。

本来、感謝は自分が仕合せを感じているのが先です。例えば、こんなに恵まれて有難いや、自分の好きなことをやってみんなが喜んでくれてとか、自分の遣り甲斐が誰かの役に立っていて幸せとか、まずは自分自身が自分自身であることに感謝していることが先であることが本来の感謝ということです。

しかし実際は性格が歪み素直でなくなれば、感謝のために頑張ろうとして感謝を忘れるという本末転倒することをしてしまうのです。

禅語に「足るを知る」がありますが、これは自分がまずその恩恵をいただいていることに感謝することです。不足を思うのは感謝ではなくなっているからであり、知足を感じるのは感謝の状態になっているからです。そこには無理な努力や頑張りは必要なく、いただいている感謝を活かしてもっとみんなの歓びになりたいと自然体になっていきます。

自分自身が仕合せかどうか、それを立ち止まって考えることは感謝を忘れない実践です。感謝を忘れていないのならば素直のままであるということです。素直だから事物は明察され鏡の如く真実がそのままに映りますからどのような判断もあるがままです。

人間は誰かのことをとやかく言う前に、自分自身はどうなっているのか、自分に矢印を向けて謙虚かどうか素直かどうか、また感謝のままでいるかどうか、「人間としての自然体」を常に自己反省して人格を磨き高めていくことが幸福の道につながります。

子どもたちを見習い、素直で謙虚で感謝しかない生き方を目指していきたいと思います。

変革の味

人間は基本的には、自分が体験したこと以外のことはわからないものです。その人の常識はその人が過去に体験してきたものの集積の結果であり、その常識は人によって千差万別です。

その常識とはまたその人の価値観になりますから、その人が生きていくうえでの価値基準とも言えます。どのような体験を積み重ねてきたか、その人生の深さや浅さで人間の価値基準もまた変わっていくものです。

しかしある時、人生の体験で今まで体験することもないような大きな出来事に出会うときその人の価値観が一変していくことがあります。それは例えば死ぬ目にあったり、見たことのないような疑いようのない真実に出会ったりすると人は常識と同時に自分の価値観が毀れて新しくなっていきます。

人間は常に体験次第で常識を変化させていく生き物ですから、イノベーションとは絶えず自分の常識を毀し続けることいいます。しかし実際は、自分の常識に縛られそんなはずはないと疑いももたず、いつまでも自分の常識にしがみ付いては無理矢理に自分の価値観に合わせていこうと真実を歪めていくものです。

いつまでも固着して固定概念に縛られれば縛られるほど変化することができなくなるばかりではなく、その体験の価値を気づけないままに時間を浪費していくものです。もっと自分自身を疑って本当は違うのかもしれないや、もっと自分の知らない世界があるのかもしれないと、その体験に全身全霊で丸ごと飛び込んでいけば自分を毀していくことができるように思います。

確かに自分の知らない価値観に触れることは、正解が突然変わってしまうのですから最初は何が起きているかわからず不安や心配があるかもしれませんがその貴重な体験を振り返っているうちに本当は何か、自分が知らなかったことは何かと、自問自答する歓びや、プロセスそのものがワクワクドキドキ楽しくなるといった喜びを味わえます。

つまり変革、イノベーションは本来は怖いものではなく体験できる仕合せ、プロセスが味わえる幸せを感じることなのです。

自分の常識や価値観、固定概念があるからこそ変化を怖がり、それを毀そうと自ら体験を味わいプロセスから学ぼうとすればするほど挑戦を楽しめます。

自分自身を知ることは、世界を知ることです。

引き続き、伝統と革新を組み合わせながらお客様の変化に寄り添って一緒に楽しんでいきたいと思います。

人情という理

先日、ある方の人生相談にのるご縁があり色々と私自身も考え直す機会がありました。その方とは、天神様の縁日で少し話をした程度でしたがその後すぐに人生が変わってしまうような出来事に出会い大変困難な状況をむかえておられました。

日ごろの人間同士の交友関係は私よりもずっと数が多く、相談する方もたくさんいらっしゃるだろうと思っていましたが天神様のご縁なのでととても他人事には思えず私も誠実に尽力していきました。

そういう困難な状況にあるとき、一体誰に相談するのだろうか、また精神的に苦しい時、誰に助けを求めるのだろうか、色々と置き換えて考えてみました。

作家の小林多喜二が「困難な情勢になってはじめて誰が敵か、 誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。」という言葉があります。言葉の重みはわかりませんが、大なり小なり状況や情勢がかわることで人は距離を置くのもわかります。

しかし本当に困っているとき、大変なときこそ傍に寄り添って助けてくれる存在は有難く、特に孤独を味わい精神的に落胆して目の前が真っ暗なときこそ手を添えて一緒に乗り切ろうと力を貸してくれる人が有難く思います。

そのような友人とはなかなか巡り合えることはなく、それはその人の人格や人徳にもよりますし日ごろの信頼関係もありますが、その相談する人物如何に由るものだとも思います。

アメリカの作家のマーク・トゥエインが「友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。」という言葉もあります。

これはさらに難しいことですが、その人物のことを思いやるからこその味方ができる人というのは少ないように思います。その人の人生や運命を丸ごと応援するという関係は、その人物の生き方に由ります。

人間は間違ってみてはじめて深く気づき、悟ることもありますし、間違うことが反ってその人を人間として大きく成長させてその後の本物の人格を身に着ける教養になっていくことだってあります。

しかし人間はどんな境遇においても諺にあるように「捨てる神あれば拾う神あり」といって見捨てられることがあっても、一方で助けてくれる人もいてたとえ不運なことや困ったことがあっても、悲観することはないというものです。

世間には見限って去っていく人もいれば、味方になって助けてくださる人もいる。「仏千人、神千人」ともいって世の中にはそれだけの神様仏様がいらっしゃっているということだと私は思います。

誰かだけの正義や正しいがすべてではなく、そして間違いがすべて悪ではなく、その人の人生であるすべてを受け容れられるような許しや認める心は人間の人情の中に存在しているのも事実です。自然の心の中には、善悪正否もなく天の理があるのみです。

今回は天神様のご縁でしたが、天神様から教えていただくことばかりです。引き続き、ご縁を辿っていきたいと思います。

 

真の国際人

世界にはそれぞれの風土に適した文化というものがあります。それはその風土で仕上がった環境が個性として生き物に顕現されてきたものとも言えます。その個性が風土そのものであるとき、私たちはそこに多様性を見出し、さらには世界に唯一の個性を実感するように思います。

現在、大量生産大量消費の経済優先の世界において画一化されていき風土の個性もまた消失して文化も失われていきますが本来はこの唯一の個性を発揮するからこそ国際的に必要になるわけでそれがなければ世界の中でユニークな自分を発揮していくことはできません。

白洲正子にこんな言葉があります。

「本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。」

自分自身を知るということは、言い換えるのならば風土を知るということです。その風土を知り、風土人であるからこそ世界でその風土の進化の過程が発展の原動力になっていきます。あらゆる生き物や道具は、文化を具備していますからそのものの値打ちや価値が分かってこそはじめて世界の同様に進化してきたものと渡り合うことができるのでしょう。

日本の文化というものは、私たちが今までどのような環境の中で育まれてここまで来たかというご縁の変遷のことです。そしてそれは景色や風景というようなものと一体になってどのように自然の姿そのままに暮らしを実現してきたかということです。

今は、渡来した文化に影響を受けかつての日本人としての個性や風土の文化を捨てて別の国の人のようにその国に存在していますが自分たちが何者であるのかを分からなくなった人たちが増えたように思います。自分が何者なのかを知るということは、国際人たる人物の入り口でありさらにはそこを掘り下げていくことが真の国際人になる道です。

最後に白洲正子の言葉です。

「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。」

もっとも日本の風土に長けた人物こそが、これからの時代で日本を代表して世界で活躍していくでしょう。引き続き、子どもたちに根がつながる暮らしを通して本物の日本人を伝承していくために命を懸けて文化事業に取り組んでいきたいと思います。

今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

精とは何か

よく精進や、精神、精通、精一杯、精を出すとか働くときに用いられるこの「精」という字があります。この精という字は、誠や魂、真心など目には観えませんがそのものの根源、そのものの本体、本性のことを指すように思います。

精神統一という言葉もありますが、これは自分自身のすべてが混じりけのない純粋なものになっている、雑念もなく澄んだ状態でそのものと一体化しているときにも使われます。

精の語源は、青はよごれなく澄んだ色をあらわし、精はよごれなく精白した米。(漢字源)とあります。自然体で無の境地、そのものの根源や根本、根元の力を使っていくことが精を出すということです。

働き甲斐や遣り甲斐、生き甲斐はこの精を出すかどうかに由ります。

そう考えてみると、どんな小さな仕事であってもどんなにわずかな行為であっても、その事物や出来事に初心や目的を忘れないで取り組んでいくことが精進とも言えます。

社会福祉活動家のヘレン・ケラーが遺した言葉に、「I long to accomplish a great and noble task, but it is my chief duty to accomplish small tasks as if they were great and noble.」があります。これは訳されると「私は素晴らしく尊い仕事をしたいと心から思っている。でも私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも素晴らしくて尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのだ。」といいます。

自分が取り組んでいる仕事は、どんなことでも目的や理念に通じる尊い仕事であると片時も忘れずに取り組んでいくことが精を出すことであり精進するということです。ただ闇雲に頑張ることを精進というのではなく、どんな物事や出来事に対してもその価値を自分の都合で決めて要領よく雑に取り組むのではなく常に真心でどんなことに対しても細心の注意と丁寧さ、いわば丹精を籠めて取り組むときその生き様は精進と呼びそして遣り甲斐や生き甲斐になっていくように思います。

マザー・テレサは、「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」ともいいます。日本語に昔からあるこの「精」という字は、同様に誠や真心を顕しています。

結果に対して云々ではなく、そのプロセスにどれだけ精神を傾けて誠を盡したか、それが日々の自己の創造に問われているのでしょう。評価ばかりを気にしている人はどうしてもこの精進することができません。

今の仕事に打ち込んでいくことで道は開けていきますから、子どもたちの未来のためにも常に今、全身全霊で事に当たり精神を磨いて真心を発揮し歩んでいきたいと思います。