日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

流域を見つめ直す

昨日、友人が流域を改善する必要性について話をする機会がありました。この流域とは何か、世界大百科事典大2典によれば「地上に降った雨や雪は,一部は蒸発や蒸散により大気中に戻されるが,残りは地表面や土壌中を流下し,場合によっては地下水を涵養した後に,河川水となって海に排水される。ある河川の河口に着目したときに,その河口から排水される河川水のもとになっている降水のもたらされる範囲を流域という。流域は河口についてだけ定義されるものではなく,河川のある1地点(たとえば,合流点,ダムの建設地点,架橋地点)をとった場合には,その地点に流下してくる降水のもたらされる範囲が,その地点からみた流域となる。」と記されます。

つまり河口から河川で海まで流れ辿り着くまでの範囲のことを指しています。この流域を再思考し観察することで自然災害と自然との共生を考えようとするということの話でした。

そもそも人類というか、すべてのいのちは水よりはじまり水に終わります。私たちは水を循環していのちを分け合い、いのちは水と共に移動してすべての生命を潤し身体も支えます。小さな微生物から昆虫、動物、植物、すべての生きとし生けるもの、無生物と人間が思っているものに至るまで水がなければ活動することはできません。水がすべての活動の根源です。人間であれば、すべての細胞は水を必要とします。その細胞一つ一つは生命があり、その生命を支えるものも水です。そう考えてみると、この流域で考えるというのは真に理に叶ったものであることはわかります。

そこから考えてみると、今の人間社会はどうなっているのか。

水などすべて無視して経済活動だけを優先しています。古代から大切にしていた水は、当たり前に水道を開けばどの家にも流れこみますしその水がどのように海に流れているかなどは考えることはありません。

以前、高島市にある里山の針江生水の郷を見学したことがあります。水路を中心にあらゆる生き物たちがその生活を循環できるように配慮されていて人間の食べ物のカスなどは魚が食べ、その魚もまた食べと小さな循環で生活を営んでいました。私も家で烏骨鶏を飼っており、野菜くずや虫たち、玄米を食べて一緒に暮らしをすると卵をいただきそれがまたお互いの共生を助けます。卵を産まなくても、一緒に暮らしていますから朝の鳴き声で眼を覚まし、日々の緩やかに安心して過ごしている姿に心も満たされます。

この小さな循環というのは、私たちが日々に実践できるものです。それを私は暮らしフルネスの中でも提案しています。人類は人口が増えて、今、宇宙にいこうとか、削減しようとか、バーチャルで乗り切ろうなどといっていますが古代の人はこれを聴いてどう思うでしょうか?知恵は使っていない知識の欲望に呑まれた人類を悲しく思うかもしれません。

本来は、人類の知恵は今でも私たちは先祖たちの御蔭で使うことができます。その知恵を使うことで、私たちは永続する未来を約束されていました。今、水の問題が地球から人類の進む方向へ警告がはじまっています。地球の声をどう聴くかは、知恵のある人たち次第です。

子どもたちの未来のためにも、今、できることから取り組んでいきたいと思います。

 

いのちの充実

食べ物には「いのち」というものがあります。いのちは充実することで溌溂とするものです。いのちが元氣な人は、いつもこのいのちが充実するような暮らしを行っています。いのちは、あらゆるものを体験し、さらに輝きを増していきます。そのためには、そのいのちの元氣を支えるための食は必要です。

例えば、いのちが元氣なものというのは自然に育成されたものです。その生のすべてを全うして存在しているものです。生を全うしたいのちであれば、そのいのちは充実し溌溂としますから元氣です。

この元氣溌溂としたものをいただくことで自分自身も元氣が甦生していきます。

今はこのいのちが充実する時間を食べ物に与えません。早く、効率よく、さらには便利に表面上の味わいだけを味付けしたものを食べさせています。元氣のないものを食べるから、さらに元氣はなくなっていきます。

植物でいえば、土が元氣なものはいのちが充実します。植物は土が化けたものであり、私たちは土を食べて元氣をいただているともいえます。海であれば、海が元氣なもの、山であれば山が元氣なものがいのちが充実するのです。

いのちの充実というものは、人間であれば何か。

人間であれば、自分の初心や目的に真摯にいのちを輝かせて生き切っている人たちが充実して元氣溌溂としています。その逆に、日々に流され初心や目的を見失ってしまうといのちは輝きません。人間は主人公として、独立自尊し自立するときに元氣が甦生します。

子どもも同様に、発達を見守りその自由に生きる喜びに生きるときにいのちは充実します。

生き方というのは、その人のあらゆるものに出てきます。どのような生き方を志すかはその人人の自由ですが、その生き方を通していのちを分け合い、尊重し合い、いのちを繋いでいくのです。

子どもたちのためにもいのちの充実する暮らしを紡いでいきたいと思います。

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。

 

1000年の暮らし

私たちが自立という言葉を使う時は、社会の中でということが前提になっています。自然界ではそもそも自立していないものはなく、すべてにいのちを精いっぱい輝かせて活かしあい生きています。これは循環のことを指しています。私たちが自立するには、循環の中にいる必要があるからです。

しかし実際の人間の社会では分断の連続で循環しなくなってきています。そうなると自立ではなく、依存や孤立、特に今の個人主義という思想による利己や自利によって本来の自立とは程遠くなってきています。

自分を大切にの意味も本来の意味とは異なってきています。他にも自己管理の意味も自分を閉鎖し、無理をし我慢することのようにもなっています。

自由の意味も拘束の中の自由となり、鎖に繋がれた範囲での自由を目指して結局は本来の自由を知りません。

自然界の持っている開放感は、何をやっても許されるという安心感です。そこには、自立というルールがあり協力し合うことで喜びを感じ合えるという仕合せに満ちています。

本来の循環は水のようなものです。すべての生き物、いのちを通って海に流れそして雲になりまた雨となって山に降り注ぎます。その途中も経過もすべて水はそのいのちを透過していきます。それを遮断するとどうなるか、ダムなどを見ても明らかです。水が澱めばいのちの循環途切れます。途切れれば、不自然なことが様々に発生します。例えば、その分何かの生物だけが無理を強いられたり元氣をいただくことができず弱っていきます。

つまり真の循環というのは遍くすべてと分け合うときに実現するものなのです。空気も同じく、海も同じく、遍くものに循環をしてはじめて真の豊かな自然は実現するのです。

人間の言う循環は、本来の循環ではありません。特に資本主義の循環などは循環とはもっとも程遠いものです。しかしだとしても人間が長い年月で暮らしてきた歴史は、真の循環の時もあります。これは人間の心の循環も同じです。何度も途切れたり繋いだりしながら3歩進んで2歩下がるような一進一退ですがそれでも人格が磨かれ徳が積まれていけばいつの日か、真の循環に近づいていくと信じてもいます。時代の流行もまた真実ですから、どちらかを否定するのではなく今あるものを使いどう徳を磨くかということが大切だと私も感じています。

子どもたちのお手本になるような生き方、人生の味わい方をバトンとしてさらに善いものにして渡していけるように1000年先を祈り実践していきたいと思います。

イワの信仰

先日、国東の両子寺にお伺いするご縁がありました。美しい参道とあわせて、岩窟があり両子権現がお祀りされていました。英彦山に関わってから、たくさんの岩窟に巡り会いました。この岩窟とは何なのか、少し深めてみようと思います。

そもそも岩(イワ)という言葉を調べてみると少し見えてきます。この岩は、山が連なったという象形文字です。ヤマという言葉もまた、山の上に岩々が連なった様子のことを指します。つまり石で連なった場所のことを岩(イワ)と呼んだのがはじまりではないかと思います。

そしてこのイワは、一説によれば「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名「イワ」となったともあります。つまり巨石で連なったものを古代の人たちは、何者か偉大な神が宿っていると直観しそこから岩の信仰がはじまったのではないかと感じています。これは古代においては、仏教や神道、道教などあらゆる信仰が始まる前からあった日本の源流の信仰のカタチだったように思います。修験道のはじまりではないかと私は感じます。

このイワには、「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」というものがあります。「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」といい、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」といい、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」といい、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」といいます。

イワを中心に、神様が依り代になる場所と信じられそこで信仰が行われました。世界にはストーンヘンジやピラミッドをはじめ、岩が中心になった信仰の形跡があちこちに遺っています。

むかしはイワの力で病を治していたのでしょう。岩窟に入ると、とても静かであり不思議なぬくもりを感じます。同時に、偉大な何かが繋がっている感じもします。最近では、岩窟から出てくる湧き水にシリカやケイ素という成分がありそれが寿命を伸ばしたり健康を保つ薬になったということもいわれています。他にも精神疾患や、心の状態を穏やかにする、あるいは穢れを祓う力もあったと思います。

そもそも信仰の原点は、私は病を治すことだと直観しています。そして修験者たちは、本来はその病を癒すための道を示したものです。心身を健康に保つためには、自分のことを深く理解する必要があります。自己との対話を通して、身体や心を深く学びます。そうして学んだ知恵をもって、人々を救う仕組みが産まれたのです。

現代は、物理的、科学的に病気を捉えていますがそもそも病気になるような生活をしていますから健康というものもわからなくなってきています。だからこそ、本来はどうだったのか、古代はどうだったのかと温故知新することの大事さを感じています。

子どもたちのためにも、古代から続く知恵を甦生し未来のために伝承していきたいと思います。

芸の道

昨日から神奈川県相模原にある水眠亭に来ています。英彦山の守静坊でお茶を立てていただきその生き方に感銘を受けて生き様を拝見したいと思いようやく念願叶って訪ねることができました。

この水眠亭は、川のほとりに眠っているように見えた江戸時代の古民家をみて名付けられたそうです。ご主人の山崎史朗さんが彫金・工芸・デザイン・音楽・俳句・食文化、茶室を含め一期一会に直観とご縁があったものをご自分で手掛けられている唯一無二の完全にオリジナルの空間と場が存在しています。

自分の目と手で確信したご自分の美意識によって本物をつくるため、すべての制作の工程を他人に委ねずに自らで手掛けられます。この場にあるすべての道具や家、庭園にいたるまでほぼすべてご自身で見立て納得いくまで手掛け磨き上げられたものです。

どのものを拝見しても自分の信じた美意識を徹底的に追求し磨き上げていく姿に、その覚悟を感じます。まさによく言葉に出てくる「一線を超えよ」ということの意味を実感することができました。

もっとも感動したものの一つである手作りの茶室はまさに総合芸術の粋を極めておられ、そこで立てられるお茶はまるで千利休が今の時代に甦ったのではないかと思えるほどの佇まいと気配です。ご自身でゼロから茶室をつくることを通して、なぜそうなったのかを自分なりに突き止めておられます。つまり利休の心を建物から学び取られています。そして利休が目指した心、また日本人の心とはどういうものだったのか、利休が追及したものと同じように自分なりに辿り着かれておられます。

本来、誰かの真似をしたり先人のやってきたことをそのまま学ぶのではその人の求めたものとは別のものになってきます。釈迦も利休も自分が亡くなったあとは必ず廃れるという言葉を遺しています。「古人の跡を求めず 古人の求めしところを求めよ」という言葉に出会ったことを改めてここで思い出しました。これは先達や師の真似や後ばかりを追いかけるのではなく先達や師が何を求めたのかを自分も同じように求めてこそそのものと同じになるといったのでしょう。先日お伺いした三大薄皮饅頭の柏屋さんでもその家訓に「代々初代」というものがあることを教わりました。「代を継いでいるのではなく常に自分が初代になることだ」ということでしたがこれも同じ意味でしょう。

歴史を鑑みると、中興の祖という存在が顕現して道がまた甦生していくことの繰り返しです。

現代は、マニュアルや作法のことをまるで道そのものかのように呼び、本来の本物の道は単なるテクニックや事例のように扱われます。大衆に蔓延る権威や権力、権利が真の道を覆い隠します。まるでこの世は道の終焉の様相です。しかし真の道というものは、誰かに教わり真似をするのではなくまさに自らの覚悟で一人、自学自悟していくものです。

「時代の川の流れを眺めながら一人、静かに道を極める。」

まさに水眠亭の徳を感じる一期一会のご縁になりました。それに茶室、「海庵」のすごさ。この川の阿はいつか海になり空となる。日本人の忘れてはならない深い魂に共感することができました。

人の生き方というものはやはり覚悟が決めるものです。

覚悟のある生き方は真に豊かであり仕合せを醸成していくものです。自分が好きになったのを極めるのではなく、好きを極めるから好きになる。本当に好きならすべてを丸ごと好きになるということ。この人生を丸ごと深く味わい好きになることこそ、真の芸道ではないかと直観しました。

私が取り組むことと同質のことに先に挑まれている先人にご縁をいただいたことで、私も生き方の勇気と自信になりました。まだ道ははじまったばかり、子どもたちの喜びや仕合せを未来へ結び続けられるようにこれからも切磋琢磨していきたいと思います。

出会いに心から感謝しています、ありがとうございました。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

美味しいもの

昨日は、仲間たちと一緒に千葉県神崎のむかしの田んぼで新嘗祭を行いました。まるで親戚が集まってみんなで和気あいあいと豊かな時間を過ごせるように、懐かしい時を過ごしました。

この懐かしい感覚は、自分の幼い頃の思い出なのか、あるいは先祖からずっと繋がって体験してきたことの思い出なのかはわかりません。しかし、なぜか全員がその感覚を持っていてそれがいつでも場に甦生してくるというものです。

私たちが産み出している場というのは、私たちの懐かしい感覚の場でもあります。

何度もあの幸福や仕合せ、そして一緒に生きていくことの素晴らしさを体験しあう。そしてお互いの近況や一年を振り返って思いやり心配し合い助け合う。

こうやって厳しい自然界や時代の変化のなかでも助け合って今まで生き残ってきたようにも思います。そしてまた新たな元氣を蓄えてみんなで豊かに仕合せを味わっていくのです。

私はこの元氣の源、それは田んぼでありお米であろうと直観しているのです。そこでむかしの田んぼで、田んぼを喜ばせようと無肥料無農薬で伝統的な神事や祈り、家族の団欒や作法を大切に食べることで懐かしい未来を実践しています。

純粋な気持ちというものは、純粋になりきったときにその純粋さを混じります。純粋さは、混じらないと物理的には思いますが魂が渾然一体となって結ばれるようにすべてが調和していきます。

調和したものは、感覚的に美味しいと感じます。

昨日は、備長炭で炊いた竈のご飯と豚汁をみんなでつくり食べましたがこの一年でもっとも思い出深い美味しいものになりました。この美味しさは心に沁みますし、魂を揺さぶります。

こうやって当たり前ではない日々に感謝して、これからもみんなで力を合わせて子どもたちのために働いていきたいと思います。