徳の本体~暮らしフルネスの妙味~

洪自誠という人物がいます。この方は中国明代の著作家で本名は洪応明といいます。有名な著書には儒仏道の三教を融合した随筆集『菜根譚』、仙界・仏界の古典のなかから逸事や名言を抜き出して編集した『仙仏奇蹤』四巻というものがあります。

この人物が生きた時代は、儒教道徳が形骸化し、国の道筋を示すべき政治家や官僚たちが腐敗していたといいます。誰もが派閥争いにあけくれ、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていたそうです。政治のニュースや世の中の大衆流行の世相を眺めるとどこか今の時代に類似しているところを感じています。

この菜根譚の「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事からです。これは「堅い菜根をかみしめるように、苦しい境遇に耐えることができれば、人は多くのことを成し遂げることができる」という意味になります。普遍的な生き方を目指して実践した人物の言葉は暮らしフルネスを実践していくなかで、とても共通するところがあり心に沁みます。

そのいくつかをご紹介します。

「幸福は求めようとして、求められるものではない。常に喜びの気持ちをもって暮らすことこれが幸福を呼びこむ道である。」

「自分を反省する人にとっては、体験することのすべてが、自分を向上させる栄養剤となる。」

「静寂な環境のなかで、得られる心の静かさは、ほんものの静かさではない。活動のなかで、心の静かさを保ってこそ、最高のあり方を体得した者といえよう。」

「太陽が沈んでしまっても、それでもなお夕映えは美しく輝いている。だから、人生の晩年に当たって、君子たるものは、さらに精神を百倍にも奮い立たせて、りっぱに生きるようにすべきである。」

孔子は、世の中がもしも道徳的で素晴らしい状態のときに誰にもとりたてられないのであれば恥だと思えといったといいます。その逆に、世の中が不道徳なのに出世してとりたてられたら恥だと思えとも言いました。

君子は、常に静かさを保ちます。この静かさとは本当の仕合せを生きているともいえます。常に人の道を見失わず、人間として自分に与えられた真実の生を全うするのです。

幸福とは、単に誰かと比較して富をもっているとか、健康だとか、あるなしの基準で得るものではありません。自分のたった一度の与えられたその役割を味わい噛みしめ、その生に対して素直に謙虚に感謝と喜びで生き切るということです。

そしてこうも言います。

「せっかちで心が粗雑だと、一つの事さえ成し遂げられない。なごやかで平静だと、多くの幸いが自然に集まる」

「最も高遠な真理というものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出てくる」

「古人の書物を読んでいながら、聖賢の精神にふれなかったならば、それは単なる文字の奴隷であるにすぎない」

どの言葉も、魂に響きます。まさに普遍的な生き方から出てくる言葉は、理屈ではなく本質です。言葉の奴隷、文字の奴隷、周囲の奴隷、時代の奴隷、人は縛られているものばかりです。しかしそういうものを開放するとき、心は本来の真心に回帰します。

人生の中で、文字や言葉には何度も出会いますが聖賢の精神は日々の当たり前の暮らしの中で出会います。それが暮らしフルネスの本懐でもあり、徳の本体です。

子どもたちのためにも、徳を磨き、徳を積み、徳を高められるように当たり前の暮らしから反省と改善を継続していきたいと思います。

いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には「厳しいけれど豊かな環境のなかで、恵みに感謝しながら、土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格」のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

真心を磨く

現在、人間社会が自然を凌駕するような生活に一変しかつての自然との関係は崩れてしまっています。人工的な自然を自然とし、人間の法を自然の法と挿げ替えていることにすらも気づかなくなってきました。教育や環境によってさらに自然という本来の真の自然は遠ざけられ、私たちには人間が作り出している人工的なものを自然と呼ぶようになりました。

都市型の生活においては、自然はほぼ失われ人間の人工的な暮らしが当たり前の日々に代わります。水よりもお金が重要視され、これはいくらくらいかかるものかということが生活の中心になっていたりもします。

本来、人間は自然の中で活かされているそのほかの生き物と同じ立場にいるものです。虫たちも鳥たちも、またあらゆる小さな生命、そして植物のような存在にいたるまですべて自然が等しくいのちを活かしています。その一つとして人間もいるのだから、みんなが循環し助け合い支ええ合う中で私たちは生きることができいのちは輝きます。みんな謙虚に生きて、自然の恩恵をいただき暮らしを充実させていくのです。

それが人間の生活だけで好き勝手していくなかで自然を破壊し、自然を征服していきました。資本主義の本当の問題は人間の問題ですが、もっといえば人間と自然の関係の問題だともいえます。

人間が謙虚になっていかなければ資本主義がどうかとか環境問題がどうかとかの問題ではありません。本来、自然に活かされている人間はどのくらいの自然のおこぼれに肖り生きていくかを問題にしなければならないと私は思うのです。

そもそも暮らしフルネスの足るを知る暮らしというのは、自然との関係の話です。自然の恩恵は人間だけにあるものではありません。これはみんなのものです。ある時は、猪のものですしあるときは鹿のものにもなります。

うちの畑でも猪が入り、掘り起こされました。せっかく種を蒔いたのにとショックをうけておろおろとしますがお互いに生きていますから仕方がないと少しの対策をしたらまた種を蒔き直します。また別のところを掘り起こせるように配慮して、全部を奪わないようにしたりもします。生きているのが人間だけではないのだから、どうやったらみんなが喜ぶかを考えて農業を生産するのです。

つまり自然からいただく生産は、みんなで分け合う生産であるということです。

太古の時代から私たちは徳を循環させてここまで生き延びてきました。みんなで分け合い、助け合うことは徳の循環を促していきます。そしてその方が自然の恩恵や利子をたくさんいただくことができるのを知っていました。

自分が精いっぱい、自然と一緒に生きていけば自分も喜びみんなが喜ぶことに気づいていたからでもあります。人間の世界は、そうではないから傲慢になっていきます。奪い合い、戦争し、悲しいことがたくさんおきます。自然の災害は深い慈愛がありますが。人間の災害は辛い後悔があります。

自然と人間がどのように折り合いをつけていくか。そろそろ本気で向き合う時代に入ってきているともいえます。その中心を私は「徳」であると確信しているのです。引き続き、変わらぬ日々でも自分を変え続けていくためにも実践を真摯に積み重ねて真心を磨いていきたいと思います。

巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。