いのちの存在

昨日から英彦山最古の宿坊「守静坊」の甦生に取り組みはじめています。英彦山神宮の高千穂有昭さんに御祈祷していただき宿坊での取り組みの安全と故長野覚様のご供養とみんなで行いました。

いつも甦生の初めに取り組むときは、御祈祷と供養をしてから私は行います。これは今での歴史や物語を尊重しながら大切に心を盡していくための一つの作法です。そこにあるものは、単なる「もの」ではありません。いのちがあったものです。そのいのちをそこできちんと終わらせるのも大切な尊重です。

私は家や物と話をするとよく言いますが、決して精神世界がとか霊的にとか宗教だとかいう意味ではありません。物には物語があり、ものがそれまでの歴史を語ります。その歴史の中で、甦らせられるもの。もう甦ることができないものがでてきます。ただなんでも捨てないというわけではなく、ここで供養した方がよいものはある意味で捨てるのです。

人には様々な執着というものがあります。それが我からのものなのか、それが無我のものなのか。例えば、祈りというものがあります。人が真心で祈り続けてきたものは透明ないのちが宿っています。その宿っているもので、それを受け継げるもの。その場にいつまでも遺しておきたいものはそのまま磨いて光らせていくだけです。

しかし故人の思い出のものや、何かしらの約束のものなどは引き受けられない場合はあの世というか天の蔵にお送りする気持ちで供養します。供養というのは、感謝をすることです。この感謝は相対的な感謝ではなく、全体的な徳に対する感謝です。

伝来物の中には、とても美しいものが宿っているものがあります。

子孫への祈り、平和への願い、いのちへの深い愛情などもそうです。

私たちは我がありますから、自分の都合で勝手にそのものを判断して思い込んでいきます。しかし丁寧に心を配ってもう一度、澄ませて観るとそれが何であったかを思い出すことができます。

今の時代、忙しく味わう暇もないほどに次へ次へと生き急いでいるように進みます。そんなに急いで一体何をしたいのか、どこに行くのか。大事な足元の宝を観ずになぜそんなにないものねだりばかりをするのか。これは達観しているから言っているのではなく、現実として豊かさというものを味わう時間もないままに何を求めているのかということを感じます。

物質的な豊かさというものは、その時だけ一瞬です。しかし、心の豊かさは永遠でありいつまでも何度でも無限に味わえます。

この英彦山のこの宿坊周辺の谷での暮らしの美しさは、言葉で説明できないものです。仙人たちが棲む桃源郷のような洗練された見事な場です。この場が、日本一研ぎ澄まされた場になるように私自身の魂を込めて枝垂れ桜と共に仕合せに取り組んでいきたいと思います。

 

マインドフル・プラネット

昨日は、宗像国際会議のスピリチュアルツーリズムのセッションでZEN2.0の活動をされている宍戸さんと三木さんのお話のコメンテーターとして参加してきました。この団体の掲げているミッションは『生きとし生けるもの全てをかけがえのない存在として、人類全体が心豊かに地球を共有するマインドフル・プラネットを創っていくことをミッションとしています。また、近づく方法として、仏教の「仏・法・僧」の三宝から借り、「わたし」「自然」「つながり」を調和した社会の実現を目指します。』とあります。

お話の中では、ご自分の病気の体験やそこからの気づきにはじまり、心豊かに生きていくことの大切さ、世界のマインドフルな想いをオンラインで繋がりあうなど共感するお話がたくさんお聴きできました。また詳しくは後日、宗像国際環境会議のHP等から動画配信されると思います。

このZENというのは、アメリカに伝わった禅がそのままZENとして呼ばれているものです。アメリカではZENというと仏教という印象が強く、一般的にはマインフルネスという言葉で使われることが多いように思います。

マインドフルネスという呼び名になると、特定の宗教や宗派というものを超えて高い精神性や、静かな心境、穏やかな境地のようなものを持ちたいと願う人たちが使う言葉として現在は世界で定着しているようにも思います。

私には古くからの友人の一人に長崎にある禅寺の僧侶の方がいます。

その友人は、いつも禅的な生き方をして自由奔放で私のイメージする「雲水」そのものです。何ものにも捉われない、自分自身であることを大切にしておられます。

私自身も若い頃、道元禅師を慕い永平寺を参拝して朝の参禅に参加したことがあります。今でも思い出すのは、永平寺の周辺の滝場の美しさ、そしてととのった場の美しさ、今でも想いを馳せると心に薫ります。

本来、頭で理解する宗教や経典などとは別にそもそも生き方というのは「感じる」ものです。感じるというのは、五感をすべて自然に投げ出してそれを深く味わう時に磨かれ、その自然と一体になって全体と調和していきます。

本当の自分とは何か、自分自身とは何かということを自然から導いてもらうのです。

私たち人間は生きているうちに、人間だけが創り出した社会という名のどこか仮想で虚構の空間の中に放り込まれていきます。しかし、現実というものはそれとは別に「地球と一体になって暮らし」ているのです。

私もこのzen2.0のマインドフルプラネットという理念にはとても共感して、そうありたいと思う一人になりました。志のあるお二人に出会えたことをとても仕合せに思います。今日は、私も10時から「環境問題と価値観の転換」というテーマで登壇しますが未来の子どもたちのためにも自分の役割を真摯に果たしてきたいと思います。

ありがとうございます。

親祖の声

今年も無事にむかしの田んぼで新米が収穫できました。このむかしの田んぼは、生態系が豊富で物凄い量の菌類や虫たちがいます。無肥料無農薬なので、本当に稲の周辺に生きるものたちだけが集まってきているという具合です、

本来ならジャンボタニシなど稲を困らせる存在ですが、この田んぼでは他の生態系と共存しています。ここ数年は雑草を食べてくれて、御蔭で雑草の繁茂も抑制して助かっています。

こうやって全体が仕合せになるような田んぼをつくれば、みんな共存して仲良く暮らしていくことができます。生態系が豊富ということは、それだけ徳が循環する仕組みが回っているということです。

今日から宗像環境会議が宗像大社で開催されます。昨年、ご縁を得てから今回で2回目の登壇になります。私がなぜ?と昨年から思っていましたが、思い返せば私はずっと水の神様や月の神様とのご縁が深く、幼い頃から多くの導きをいただき沢山の邂逅をいただいてきました。

今、私が取り組んでいる暮らしをととのえる智慧は現代の人たちには何かの気づきのキッカケになるのかもしれません。今回、環境問題と価値観の転換というお話になりますが本当の問題とは何か、そして今の何の価値観を転換するのが本来の自然なのかということをお伝えしたいと思います。

なので、少しその前の準備としてこの問いをします。

「私たち人間は、人間のことだけを考えすぎるようになっていないでしょうか?

むかしはどうだったのでしょうか?

人間本来に備わっている徳とはなんでしょうか?

やさしさや思いやりは、他の生き物たちを守るときにでるものではなでしょうか?

環境問題とはいったい人間に起きている何の問題なのでしょうか?」

私自身は、今年も実践する「むかしの田んぼ」からこれらを解決するための大切な智慧と伝承を教わり続けています。人間が人間である理由、そして先祖たちの思いやりと遺訓です。

この度の御縁、子どもたちのためにも遠い親祖の声を、宗像の空と海から届けていきたいと思います。

 

味噌汁~時の味わい~

昨日は、久しぶりに味噌づくりの体験のお手伝いをする機会がありました。思い返せば、最初に味噌を自作したのはもう15年以上前だったようにも思います。子どもたちと一緒に熱々の大豆を手ですり潰していく作業が思い出に残っています。

大豆を育てるのも一苦労で、簡単そうで大量となるとなかなか育ちません。育たない理由は大豆になる前の枝豆が美味しすぎてそこで収穫したり人に配ったりしてしまうこともありますが。

昔の人たちは味噌をつくるために、大豆もたくさん育てていたのだろうと思うと懐かしいものを感じます。そのすり潰した大豆に麹菌を混ぜて塩を足し発酵させていくと味噌になりますがこの変化を楽しむこともまた味噌の醍醐味です。

私は発酵は木樽にこだわっています。その理由は、木樽は呼吸をしていて水分量を調整してくれます。プラスチックだと水分の調整が難しく、水がうまく抜けません。適正水分を保つというのは、どの生き物においても重要なことです。私たちのいのちは水でできていますから、この水との調和がいのちを適切に育むからです。

水と塩、まさに海ですが地球を保つ仕組みと私たちの身体や食物のいのちもまた同じ仕組みで構成されているのです。

そしてこの発酵というものは、まさに代々を継いで円熟していく「時の美味しさ」というものが入っています。味付けというのは単にその時の組み合わせだけではなく、それまでかけてきた時間や歴史も味になっているのです。

特にこの「味噌汁」は、日本人は1200年くらい前から私たちのいのちの健康を支えてきた食べ物です。私たちが味噌汁を食べるとき、それは単に組み合わせの美味しさだけではなくこの時の美味しさも感じています。懐かし味の代表はこの味噌汁でもあるのです。

保存に適し、麹菌をベースにあらゆる腸内細菌との調和をはかり食べ物をうまく包み込み美味しく仕上げていく。少し大げさかもしれませんが味噌汁の御蔭で私たち日本人は、この高温多湿の風土の中でも健やかに暮らしを営んでいくことができてきたように思います。

昨日は手作りの真心籠った味噌汁に竈と備長炭で炊いた自家製の無肥料無農薬の玄米ご飯に野菜の味噌漬物の一汁一菜を、子どもたちも一緒に懐かしい藁ぶきの百姓古民家で深く味わいました。本当に日本人に生まれてきてよかったと思う瞬間の一つです。

時を感じるというのは、自分たちが「ここで生まれてきて善かったと感じる瞬間を味わっている」ということでしょう。できれば、未来までずっとこの瞬間が子どもたちに伝承していけるように私のやるべきことをやり遂げてこの世を去りたいと思います。

貴重な一期一会の時間をありがとうございました。

場を守る意味と価値

その土地にはその土地特有の歴史があります。それは言い換えれば、その土地で発生してきたご縁と物語があるということです。私たちは、今いるところが前なんだったのかは想像でしかわかりません。もしも遺跡などが遺っていたら、なんとか想像できますが痕跡もないような状態の場所になれば想像することもありません。

例えば、ある場所では祭壇があってずっと祈りの場であったところがあったり、また或いは戦争でたくさんの人がそこで亡くなっていたり、それは何百年も経てば更地になっていたり土に埋もっていたりしますから今、そこにいても目には見えませんからわからないのです。

しかし、その土地には必ず何らかのご縁や物語があり消えているようで消えずにそのままその土地に紐づいて記憶として遺っているように私は思うのです。

それをふとした時に実感することがあります。

それは懐かしいと感じる場所であったり、なぜか身震いするような嫌な気配があったり、そこに来ると祈りや癒しの空気に包まれ眠くなってきたり、それはその土地、その場所特有の何かが働きかけているからだと私は思います。

まもなく量子力学など、他にも場を科学的に分析して可視化できる技術も整ってくれば、これらの土地や場所には何かが存在したままにあることが解明されるように思います。

むかしの人たちは、そこに存在しているご縁や物語を感受し感知することができたからこそそこにお社を建て、お祀りすることをしてきました。また権現といって、神様が顕現されているということを人々に可視化できるようにしていました。

私たちは知らず知らずのうちに、その場所の歴史と紐づき、その影響を受けているのです。だからこそ、私たちは「場」を整え、大切に甦生し続けていく使命があります。

私は甦生に取り組みますが、場所との出会いは歴史との出会いでもあります。どう古代、いやもっと前、何千年、何億年も前から続いてきた偉大な何かとアクセスし、その力やご縁を結んでいく。すると、そこに引き寄せられるように人々もまたふれあい、物語をつないでいくのです。

宗教的だとか哲学的だとか、もしくは変人だといわれるような架空仮想な話のようではありますが、確かにその場所には私たちが目には見えない物語が連綿と生き続けているということです。

子どもたちにも、場を守ることの意味とその価値を伝承していきたいと思います。

種蒔きの実践~暮らしフルネス~

昨日、自然農の畑の種まきをすべて終わらせました。最近は古民家甦生で運用する畑も増えていますから同時期に4か所の畑の種まきをするから少し大変です。春から育てた野菜は夏を通して実をつけこの秋のはじめにほぼ収穫します。種まきには旬がありますからこのタイミングを外さずに蒔いていく必要があります。

いつ蒔き時なのかと聞かれることがありますが、これは野菜や植物、自然を観察すれば道理がわかるものです。

もともと野菜や植物の一生を例えればシンプルで、種から芽が出てぐんぐんと育ち、花を咲かせ実をつけそして最後は種になります。これが一般的な一生の流れですが、これを季節ごとに繰り返しています。

大きくわけで気候は冬から夏にかけての巡り。そして秋から春にかけての巡りがあります。つまり①「寒い時から暖かい時を経てまた寒い時」への巡り。そして②「暖かい時から寒い時を経て暖かい時」への巡りです。

自然界の植物や野菜のシステムは、大きくはこの①②の二種類に分かれ一生を巡ります。基本的なサイクルは種から種へと同じですが、この二種類の季節を隔てて一生を送るのです。

そしてこの①②の始まりと終わりの頃が種まきの旬になります。つまり①が実から種になり始めるころにそれまで眠っていた②の種を蒔いていくという具合です。季節の入れ替わりの頃というのは、車のハンドルの遊びのような時間があります。この間に種まきをするのです。実際にはお店で購入した種には何月ころというようにスケジュールが入っていますが、土地の性質や気温も異なりますから場所場所で蒔き時の旬は異なります。

自然をじっくりと観察すると今、ほとんどの①の草たちは季節の入れ替わりの時期で種をつけ始めています。この種は来年の春先までには時には風で飛び、或いはほかの生き物たちに運んでもらいじっとそのまま自分の季節の来る時機を待ちます。そして今まで眠って待っていた②の種がその辺の土の表面の枯草を取り除けば新芽が出てきています。

自然界は季節をよく感知し、変わり目が分かっています。その合図は、根から養分を吸い上げるのをやめ太陽や水から得たエネルギーを次の野菜たちに託して自ら枯れていきます。これを繰り返すことで、土はいつまでも元氣を醸成され、土中環境にいる微生物をはじめあらゆる生き物たちの循環を促して永遠のサイクルを創り出しているのです。

環境というのは一言でいえばこの「永続する循環サイクルシステム」のことをいいます。

これを邪魔しないようにするには、私たちの人間都合のみで農業をするのではなく自然の巡りに沿って、素直に環境の道理に従って他のいのちと一緒に永続する循環サイクルシステムを活性化するように時機を間違えずにちゃんと種蒔きを実践していくことであろうと私は思います。これは人間が子孫繁栄のために徳を積んでいくことと似ています。

時代が変わっても、今までどうやって生きてきたかの真理や道理は普遍です。子どもたちにも何が普遍で何が道理かを実践を通して伝承していきたいと思います。

新しい時代の生き方

生態系というものを守るというのは、その場所を穏やかに保つための手入れが必要になります。そのままにしておけば荒れていくのが野生ですから人工的に手入れをすることで人間にとって相応しい環境や場が誕生していくからです。

これは自然界だけに限らず、人間界においても同様です。お互いに最適な距離感で見守りあうというのが人間での場所を穏やかに保つための条件なのでしょう。それぞれに自律して協力をしながら生きているのが人間社会ですからこれもまた手入れが必要です。

この手入れで今、もっとも必要だと私が感じるものが鎮守の杜の手入れです。神社というところは、お社がありその周囲を森が包み込んでいます。神社の構造はシンプルで、まずご神木がありそれが社を守ります。そしてその社を包むように森がありその森が手入れされることによって神の社として荒れないように鎮め守るのです。これが鎮守の杜になっている具合です。

そしてこの鎮守の杜がなぜ重要なのか。

この神様とお社と森が混然一体になりそこに人間の手入れが保たれることで荒れない場所になり穏やかな環境が整います。この穏やかな環境が整うというのは、言い換えれば周囲の自然環境や生態系が豊かになり人間にとって非常に有益な状態を保ち続けることができるということです。

私は場の道場を運営し、場について考えて実践をする場道家を勝手に名乗っています。その基本はこの鎮守の杜の先人の智慧を参考にしていることがほとんどです。なぜ神社ではお掃除を大切にするのか、常に枯れ葉を集めては森に還しその森の土を育て続けていくのか。そこには、水を清らかに保つ工夫と智慧があり、涼やかな風が通ることで人々の心に澱む穢れをも祓うのです。

場が清浄であるというのは、手入れがあってこそです。

それは清浄さが人間の本来の徳であり、その清浄さを保つところに和もまたあるからです。子どもたちのためにも、環境を通して価値観を転換し新しい時代の生き方を示していきたいと思います。

耕さないことと耕すこと

自然農を実践していますが耕すという意味がまた少しずつ変化していくのがわかります。もともと自然農では耕さない、虫も草も敵にしないという一つの概念がありますが実際には土の表面を削り草を取りますし、野菜の種類によっては耕すことがあります。そして虫も大量発生すれば、手で取り除いていきます。

つまりこれは形式的な概念ではなく、その背景があるということを意味します。例えば、虫や草を敵にすると農薬で全滅させようとします。自然界には当然、分解者がいたり、共生者がいたりして全体を循環させていますから何かだけを取り除くとすぐに別の問題が出てきます。つまり、「敵」にするのか、「和」にするのかではその取り組み方が異なってくるということです。

自然農では、敵ではなくどう調和していくのかを重要視します。言い換えれば、他の生き物たちへの配慮や思いやりを忘れないということです。つまり敵ではないというのは「優しくある」という姿勢です。自然に対して相手を敵にするのは視野が狭く、相手も生きていくために理由があり生きています。自然界では取り過ぎないのはそういう道理を知り分を弁えているからでもあります。人間界はそれを無視してでも取りすぎますから道理から外れてしまいます。すると自然農では具合が悪いことが次々と発生し健康な畑や農作物が育たなくなるのです。

もう一つ耕さないというのは、農業で耕すのは土を拡販して肥料を足して収量をあげていくためです。一つの土地で収穫できるようを増やそうとすればそこに肥料を足す必要があります。そしてその肥料を土の中に攪拌すれば栄養過多になり作物が大きくなり実をたくさんつけます。栄養過多ですから病気にたくさんかかりますし、その栄養を分解するために虫たちがたくさん発生します。それを防ぐために抗生物質や農薬を散布して対応するのです。また耕すと土中環境が乱れます。具体的には、土の中や野菜の周囲で育っている菌類や虫たちの住まいを崩してしまいます。土の中に住んでいる生き物たちの生態系が豊富で循環がめぐっていたらその代謝物そのものが肥料になります。つまり生き物たちの生きている日々のプロセスが他の生き物たちを活かす肥料になっていくのです。

耕さない方がいいというのは、土の中の生態系まで配慮していこうとする生き方の表現でもあります。環境問題が色々といわれますが、作る段階から環境に配慮していこうとするのが耕さないということもあると私は思います。

ではむかしの人たちは耕すことで畑が醸成され豊かになるといったのは何かということです。これは畑を攪拌すればいいという意味ではなく、その畑でたくさんの野菜を育てて活かし続けるという意味だったと感じます。つまり「耕す=活かす」ということです。

二宮尊徳にも心田開発がありますが、これは心を耕すという言い方もしますがこれは真心を活かし続けるという意味でもあると思います。つまり活かし続ける、使い続けることこそが耕しているのだということ。

自然農の耕さないというのは、言い換えればむかしの人たちは耕すということ。時代が変われば、その言葉の表現も変わっていきますからむかしの言葉を言葉通りだけで認識するのではなくその言葉の本質や本意が何か、それを理解していることが重要なのです。教科書に書いている通りを額面通りに理解するのは、本質を理解したのとは異なるのです。

子どもたちには、本質や本物の体験を幼児期からしてもらう機会や場があることを望みます。実践を磨いていきたいと思います。

生き方の選択

環境問題というのは人間の問題であることは以前このブログでも書いています。そもそも温暖化の原因は人間の影響を受けてのことであり、理由はわかっていても変えることができないでいることでより問題は深刻化してきました。

よく考えてみると、私の幼い時から環境問題のことは言われ続けてきました。レーチェル・カーソンの沈黙の春で農薬や化学物質のことが記され日本でもこれらの問題に気づいて行動していく人も増えていきました。

実際には、ゴミ問題と同じで明らかにゴミの増える量がゴミを出さない量を凌駕しているため問題が深刻化します。ゴミになるものを作るところから解決しないといけないのですが、大量生産大量消費という前提を変えるわけではありませんから問題の原因そのものの根本を解決していないのにいつまでも対処療法ばかりしていてもキリがありません。

そしてこの原因そのものを突き詰めていくと、人間そのものの問題であることにたどり着くのです。それをロボットなどで解決しようとしても、そのロボットをつくっているのも人間であり、人間が関わるから原因はやはりなくなりません。なのでこれは持病がある人間のように病気とうまく付き合っていくしかないように思うのです。

人間は病気を持っています。病気があるからこそ、気を付けることで健康を維持していくこともできるものです。若い時は何をやっても元氣で病気など気になりませんが、歳を経ていくとあらゆる病気にかかっていきます。免疫も下がっていきますから、健康的な食生活、運動、睡眠、心の状態、感情を整えていくような暮らしが必要になっていきます。

私たちの先祖たちは、人間の持っている病気、言い換えれば欲などにも向き合って調整してきました。何でも思い通りにはならない自然の中で謙虚さを学び、生死を尊び、素直さを学び、教えといった智慧をみんなで分かち合って助け合い暮らしてきました。

日本の伝統工芸や伝統文化の中でもその智慧の仕組みが入っているものを感じます。今の時代はスピードが急速にあがり、10年後の未来には何が起きているのかということがあまり予測できません。子どもたちの時代ではさらにスピードは加速していくはずです。

だからこそ、子どもたちのために何を選択するかは私たちの世代の責任でもあります。日々の暮らしの小さな決断が未来を易えていくことを知り、その生き方の選択をしていきたいと思います。

銀杏の効能

今が食べごろで旬の味覚に銀杏があります。拾いたての銀杏の味は格別で、ついつい食べ過ぎてしまうものです。しかしこの銀杏は、中国では漢方で使われるように薬です。薬は、効果もありますが副作用もあります。良薬苦しで効果がある分、毒になるところもあります。

例えば、銀杏の生の実にはメチルピリドキシンという毒性があります。よく銀杏の実を食べすぎると、嘔吐、下痢、呼吸困難、けいれんなどを起こすことがあるといわれます。これは一般的には「銀杏中毒」と呼ばれているものです。これはメチルピリドキシン自体がこのような症状を引き起こすのではなくこの成分がビタミンB6とよく似た構造のためビタミンB6の働きを阻害してしまうことがわかっています。そこから「ビタミンB6欠乏症」を起こして中毒になるといわれているのです。

大人でもいくら美味しいといっても一日、10粒以内にしておいた方がよいそうです。しかしついつい食べてしまいますが。。

それでは効果の方はといえば、かなりの凄さです。具体的には・エネルギー・水分
・タンパク質・脂質・βーカロテン・ビタミンB1・ビタミンB2・ナイアシン・ビタミンC・炭水化物・カルシウム・リン・鉄・カリウムと、これらが豊富に入っています。もはや健康サプリの代表のような栄養価です。

有名な効果には高血圧と動脈硬化予防があります。これはカリウムが血中内のナトリウムのバランスを整えるからです。またナトリウムを水分とともに排出し高血圧や動脈硬化の予防と改善も行います。ナトリウムは水分を引き寄せる効果がありむくみの原因にもなりますがこれもカリウムの効果でむくみを改善するといいます。

そしてビタミンB群やナイアシン・パントテン酸には疲労回復効果が有名です。ビタミンEは血行促進効果もあり疲労回復と栄養補給もできます。そして女性に嬉しい効能は美容効果があることです。この銀杏のビタミンCにはメラニンの生成を抑える効果やお肌を美しく保つ効果があります。血流もよくし冷え性改善にもなり、タンパク質は健康的な髪や爪、お肌を作るといいます。抗酸酸化作用もあるので肌荒れやニキビの予防になるといいます。そしてβーカロテンは、ターンオーバーの促進や皮膚粘膜の保護もします。

またコロナのこともあり、これからは風邪の予防にもなります。銀杏に含まれるパントテン酸は、免疫抗体を合成する効果があります。そしてこのビタミンCが免疫機能に関係する白血球の働きを活発にすることで免疫力がアップするのです。いざ風邪をひいても喉の痛みを抑えて、咳を鎮める効能もあります。

あとは、ボケ防止が有名です。銀杏の実だけでなくイチョウ葉茶は、痴呆症・認知症・記憶力低下・アルツハイマーなどに効果があるといわれます。お茶にして煎じています。ヨーロッパでは、イチョウ葉エキスが脳血管障害に著しい効果を発揮するとされていて、研究が進んでいるといいます。この成分ギンコライドは、他の植物には含まれていない、イチョウ葉特有の成分で血管拡張作用や血栓溶解作用があり、脳の血流を良くすることが確認されています。脳障害が起きる前に、イチョウ葉茶を継続的に飲むことが、認知症やボケ防止につながるといわれています。

他にもあるのですが、少し深めただけでもこの効能です。それはむかしの人たちはこの樹を大切にしたのがよくわかります。寺院にも多いのもまた、薬として人々を治癒していたからでしょう。むかしの山伏をはじめ僧侶は、医者としても人々を救ったとあります。納得するものばかりです。

今週末は銀杏拾いをしますが、その効果効能もお伝えしながら皆さんと懐かしい時間を過ごしていきたいと思います。