線香と徳

盂蘭盆会で昨日から準備をし火をたいてご先祖様へのおもてなしをしています。この時機は特に線香との縁が深くなるので、引き続き線香についてもう少し書いてみます。

昨日のブログでは、お香の伝来に関することで日本書紀にある聖徳太子のことなどを書きましたが今のような棒状の線香になるのは16世紀半ばに中国から伝来し17世紀半ばころから国産されるようになったといわれています。

具体的には日本では『御湯殿上日記』や『実隆公記』、『言継卿記』などの文献に室町時代には伝来していたといわれています。その当時は公家の贈答用品でした。国産で線香がつくられたのは諸説ありはっきりとしていないといいます。一つには、長崎で五島一官という人物が1667年頃に造り始めたという説。もう一つには堺で線香の形状が発明され一般に用いられるようになったという説があります。

もともとこの線香は、正式には「綫香」と書きます。この「綫」という文字は「細長い糸」という意味です。細く長くすることで燃焼時間を伸ばし香りの発生を一定にし燃焼が安定していることから扱い易いことから今でも重宝されています。

江戸時代では、この線香は時計の代わりにも使われたといいます。禅寺では座禅を行う時間の単位として、約40分の燃焼で「一炷(いっちゅう)」としました。

また線香の種類には、主に「匂い線香」と「杉線香」というものがあります。匂い線香は椨(タブ)の木の樹皮を粉末にしたものに白檀や伽羅といった香木の粉末や他の香料、炭の粉末、その他の材料を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものでできています。そして杉線香は3ヶ月ほど乾燥させた杉の葉を粉砕機や水車を用いて粉末にしたものに湯と糊を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものでできています。現代では、煙が出ない線香がでたり、ハーブやラベンダーなどの香りの線香もできています。

時代の変化でお香も辿ってきた歴史があり、香道といってその奥深さを味わう実践も弘がっています。本来は、仏教で誕生したもので盂蘭盆会では供養として線香は欠かせません。仏教の経典、俱舎論には人があの世にいくと生前に徳を重ねた人は良い香りを食べることができると記されています。先祖や故人に振る舞うおもてなしとして、線香を焚くことはその徳を偲ぶことにもなると思います。

最後に、では線香は何本をあげてどのように焚くのかという疑問があると思います。私もよくお寺などで色々な立て方をみては、どれが本当だろうかと思うことがあります。調べてみると、宗派で様々で1本~3本くらい、横に寝かせているものもあります。

ある宗派では、一本は一心不乱、二本は戒香・定香、三本は三毒を焼くという意味であるといいます。どちらにしても、本数の問題ではなく大切なのはその真心で線香をお供えするということに仕合せを感じます。

子どもたちがいつまでも安心してこの先も生きていけるよう、先祖や故人の見守りに感謝しその徳を偲んでいくことを伝承していきたいと思います。

 

香福

盂蘭盆会の準備で、今年も室礼をしご先祖様を迎える準備をしています。その中でお香のことを深める機会がありました。少し整理してみたいと思います。

もともと日本最古のお香の記録は推古3年(595年)現在の淡路島に流れ着いた大きな流木を薪にして火にくべたら何ともいえない高貴な香りがしたことが発端だったと日本書紀に記されています。この時、驚いた島民がこの立木を献上したところ聖徳大使がこのお香を嗅いですぐに「香木である」と答えたといいます。

びっくりした島民がすぐさまこの流木を献上したところ、この香りを嗅いだ聖徳太子が「沈である」とお答えになったそう。【沈】とは香木・沈香のことで、この頃にはすでに香木の存在が知られていたということが伺えるエピソードです。このころはすでに仏教が伝来していますから中国から入ってきた漢薬(香原料)が使われていたといいます。これが現在の焼香になっていきます。

淡路島は、現在でも線香の生産量日本一を誇ります。まさか日本のお香の歴史が淡路島からはじまったということは私も知りませんでした。

その後は奈良時代に入り、鑑真和上が授戒、建築、薬草などを日本に伝えました。その中に唐から持ち込んだ薬草や香原料を調合してより効能の高い薬もつくられました。この調合の仕組みでいくつものお香が発明されました。この時代のお香の効能は、魔除け・厄除け、防虫などで用いられます。そして東大寺の正倉院には、日本最古の香袋(匂い袋)が収蔵されています。

ここから聞香や組香などの香道が開いていきますが、このお香は奥が深く今回の記事では書ききれそうもありません。

私は、日ごろから白檀のお香を好んで使っています。この白檀は仏教との関わりが深い植物で数珠や仏像、位牌(いはい)などの仏具にも使用されます。お釈迦様を荼毘したときにもこの白檀が使われたといいます。

この白檀は、木の幹の部分が白っぽいことから「白檀」と呼ばれるようになったといいます。科学的にはサンタロールという成分の香りですがこの成分は化学合成できないため大変貴重なもののままです。

仏教では、お香を供えることを供養としています。このお供えするというのは、仏様やご先祖様へのおもてなしでもあります。心を沈めて線香をたき、手を合わせて故人へ御供養、おもてなしをする。

まさに室礼の原点であり、一年の中でこのお盆の時期がもっとも私にとっても心安らぐ暮らしの仕合せの時間になっています。子どもたちにもこの線香の歴史と意味を香福と共に伝承していきたいと思います。

自然と離れず

気候変動が気になるニュースばかりが世界で放映されています。今年は作物をはじめ季節のあらゆるものが2週間くらい前倒しになっているのを感じます。また寒暖差も激しく、今までの緩やかさがなくなってきているようにも思います。

世界はコロナであまり話題になっていませんが、実は本当に深刻なことはこのコロナではなく気候変動から発生する様々な自然災害だと私は感じます。

自然災害といっても、大雨や地震などのほかにも緩やかな災害というものがあると思います。それは時間をかけて砂漠化していくものであったり、逆に水没していくような環境の変化です。他にも、動植物が変化に耐えられず死滅していくことなどもその一つです。

こういうことを話すと脅しているように感じたり、極端な意見という人もいます。しかし人間はもしもに備えるからこそ災害に対応できるのであり、その予兆を直観できなければ自然と調和して対応していくこともできなくなります。

都会的な生活は、自然環境を無視して存在します。もしくは自然を敵視し、徹底的に排除していきます。その生活が慣れてしまえば、自然への畏敬を忘れてしまい自然をなめてしまいます。そうなると、ほとんど対応がでずに思考停止してしまうでしょう。

そうならないように自然から半分は離れずに半分は寄り添う生活をしていくことが日本人の伝統的な暮らしの智慧であったのです。その証拠に、古民家は半分は自然で半分は人工的です。

これを今の時代も上手に調和させていけば、時代が変わっても私たちは自然と共生しながら人類の社会を永続的に発展させていくことができるように思います。

時代的に今は、大きな分水嶺を迎えています。暮らしフルネス™の実践にそって、これからの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思います。

場の甦生~みんなの場~

昨日、有志たちと一緒に故郷の滝行の場にある古い建物を解体してきました。ここは、非常に歴史のある山岳信仰の場所で800年以上前には非常にたくさんの山伏たちがここに立ち寄り修行をしたところと言い伝えられています。

その後、明治以降に炭鉱の採掘の関係で韓国人の方々がたくさん来られその中でこの滝行の場を使って参拝していたといいます。山岳信仰や自然崇拝は古来から、世界の各地にありますからむかしは宗派なども関係がなくみんなで自然に祈祷をしていたのでしょう。

この信仰の場も、以前はいろいろな人たちが各地から集まり国を超えてみんなで参拝していたといわれます。争うこともなく、互いに尊重しながらその場所をみんなで大切にしていたといいます。

現在は、すぐに誰の土地であるかと土地争いばかりをしている話をききます。境界線で争ったり、相続で争ったり、売買で争ったりと、本来の土地の持つ「場」の意味は失われ個人主義の中で利ばかりを争います。

本来、場所はみんなのものであり誰かのものではありません。これは地球も同じく、自然も等しく、人間だけのものではなくすべての生き物たちが共有しているものです。権利の主張し法律で裁けば、自分のものになってしまっていますがそんなものは本来一つもないのです。

みんなで共有の場を持つというのは、お互いにその場所を大切にしようと思うようになります。あくまでその場をお借りするという意識があれば、いつまでも借りたままに大切にします。それを自分の土地となると好きににしていいとなれば、なんでも自分の利益と都合のよいようにしていくのでは廃れていく一方です。

みんなのものだからこそ、大切に守っていく心も育ちます。そのためにも、みんなものという意識を持つための「場」を整えていく必要があるのです。

「場」が整っていくというのは、みんながその場に対して深い絆を結ぶことにもなります。場というのは、言い換えれば「みんなの場」であり一人でできるものではありません。

その場に集まった人たちが、どれだけ場を大切に思い磨いたかでその「場」は清らかにもなり美しくもなり、そして力も持ちます。善い場所には、必ずみんなの働きがあり、聖地のような場にはそこに関わってきた人たちの祈りや願いが場に遺っています。

私は場道家を名乗っていますから、場を磨き整えることが暮らしの中心です。子どもたちにいつまでもみんなの場が活かされていくように場の甦生を磨いていきたいと思います。

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。

文化遺産から文化活産へ

前の時代のものや先人たちが遺してきた文化財というものは、前の人たちが築いたものです。それをそのまま引き継いでしまうと私たちは前の時代のものを今の時代のものに変えていくことでそれが単に遺産ではなく一つの活産になっていくのです。

私は古民家甦生をはじめ、あらゆる文化遺産の甦生を試みていますがそれは今の時代に生まれたものとしての使命があると感じているからです。

先人たちのやり遂げたことを尊敬し尊重しながら、それを今の時代でも同じように実践し、前の人に恥じないように甦生させていく。この連続こそが本当の意味での文化であり、伝統を守るということなのです。

それを現代では、遺産を保護するということによってかえって何も手を出すことができなくなり活産のものまで遺産にしてしまうといった本末転倒になってきているものもあるように思います。

文化財を本当の意味で保護するとはどういうことか。私にしてみたらそれはこの時代の人たちが文化を甦生させていくということなのです。甦生なくして本当の意味での保護はないということです。

よく考えてみれば、建物が遺産になっていますが実際にはその時代にずっと長く続いていたその場での暮らしというものがあります。それが守られているからその結果として建物が手入れされ続けて今まで残っているのです。その場の暮らしがなくなれば、当然の結果として建物もなくなります。その建物だけを遺しても、中身がありませんから建物だけを保存するのに莫大な費用が掛かり続けます。

経営でいれば、使わないし投資回収もしないものに資金を投下し続けるということです。それが大事なものであるのなら、きちんと資産にしてそれを活用していく必要があります。その活用の仕方は無数にありますから正解はありません。しかし大切なのは、その文化を磨くことをやめてしまった遺産にしないということです。

例えば、日本人であれば和食というものがあります。その和食を食べなくなれば和食遺産というものができます。その和食を食べることもしないのに、只管和食文化を守ろうとすればどうなるでしょうか。永遠に和食が続くようにするには、和食を食べ続けられるように和食を甦生し続けてその時代に相応しいものに革新していくしかないのです。

日本の伝統工芸もまた然りで、材料を保存するとあってもそれを維持するためにどれだけの費用がかかるのか。その材料を短期的には保護できても、長期的にみたら使わないものをただ生産し維持することが難しいことは誰でもわかります。

本来、当代に生まれた人たちはそれを当代でも活かせるようにしていくことで経済や産業を発展させていく使命があります。時代は巡りますから、また3世代くらい廻るくらいで原点回帰していきます。するといつまでも遺産ではなく、活産として暮らしの中で私たちは伝統文化の恩恵を享受され続けていくのです。

文化を守るためには、その場の暮らしを一緒に甦生させていく必要があります。私が「文化の甦生」と合わせて「場の甦生」にこだわるのはこの理由からです。

活産にしていくことは、今までの祖先の御恩に報いることです。子どもたちのためにも、遺産を磨き甦生させ活産にしていきたいと思います。

 

和菓子のはじまり

落雁のことから和菓子のことも深めています。もともとこの「菓子」は縄文時代、古代の人々がお腹が空くと木の実や果物を採って食べていたのがはじまりともいいます。木の実や果実を間食する、これが「果子」(かし)の原型なのでしょう。

今でも、お菓子といえば間食するものではありますが古代のころは食べ物を加工する技術もなく、果物の甘味はとても特別なものだったように思います。縄文時代の遺跡からは栗や柿などは栽培されていたことがわかります。それを次第に石臼などで加工する技術が発展してきました。

農耕はしていたもののどんぐりなども食べていたことがわかっています。そのどんぐりや木の実はアクが出ますから水にさらしてあく抜きをしてそれを丸めたものが発明されました。これが団子のはじまりともいいます。そして日本最古の加工食品ともいわれる「御餅」も発明されます。貴重なお米を原料にしたのでこれは神様に備える神聖なものとして重宝されてきました。

その後は、中国(唐)との交流や茶道が発展しこの菓子はさらに進化していきます。多様な素材や季節感を取り入れながら日本独自の和菓子という言葉も誕生しました。

和菓子には日本人の美意識や歴史の結晶ということになります。

和菓子には代表的なものとして、お饅頭、お団子、羊羹、上生菓子などあります。この和菓子は材料や製法で分類されることやその水分量によっても分類されることがあります。水分量が多めの生菓子と半生菓子、干菓子などで分かれることもあります。

実際には、全国各地のその風土と風景と一体になった和菓子があり膨大な種類のものが日本には存在します。その土地の名産であったり、饅頭などはその土地土地で材料も味も、見た目も異なります。

多様な風土と和合して和菓子は今まで発展してきたのです。

現代では、和菓子の不人気なども相まってかなりの種類の地域の和菓子が失われてきました。長期保存ができコンビニで買える便利なスナック菓子を食べているうちに、多様な文化と風土のお菓子が消えていきました。

私は柏屋さんの饅頭が理念を含めて大好きですが、日本を代表する伝統和菓子が子どもたちにも受け継がれていけばいいと心から感じます。どんなものにもそのものの始まりと風土、歴史、文化があり、それを食べることで私たちは地域とのつながりや循環を繁栄させていきました。

食べることはただ自分の欲望を満たすためのものではなく、私たちは食べることで自然との感謝や共生、豊かさや幸福などを創造してきたのです。日本を代表する和菓子が、日本の未来を美しく彩るように暮らしフルネス™を通して見守っていきたいと思います。

季節感の幸福

私たちの暮らしには季節感というものがあります。この季節はこの風物詩というように季節のリズムと共に歩んでいます。四季折々に私たちは小さな変化を季節から感じとって自然の流れに身を任せていきます。

なぜそれをするのかといえば、その方が豊かで仕合せなことだからです。私たち人間のもっている感性の磨き澄み切った場所にある幸福感とは自然と一体になることです。

自然から離れ、私たちは便利な世の中にしていき人間社会を発展させてきましたがそれと反比例して幸福感というものの感性は鈍ってきました。精神的にも病む人は増え、空しい比較競争ばかりで疲れてきています。

本来、私たちすべての地球上の生き物は足るを知る暮らしを知っており自然と共に生きていく中で真の幸福を味わい、この世に生まれてきた喜びを心から享受してきました。

何もない中に深い味わいのあるいのちがあり、そのいのちが活かされていることを知り自分の役割を知らずして知るという具合に存在そのものへの感謝を味わい暮らしをしてきたのです。

そういう意味で、四季折々の変化を味わうということが幸福感と直結していることは自明の理です。

忙しすぎる現代人において、只管お金を稼ぐために色々なものをそぎ落として暮らしを喪失していきましたが子どもたちには本当の豊かさ、真実の幸福を味わえる環境を用意していきたいと願います。

暮らしフルネス™の実践と場が、未来を幸福にしていくことを祈り今日もご縁を結んでいきたいと思います。

気づくことの大切さ

人は何でも失ってみてはじめてわかるものがあります。ある時は、当たり前と思っていてもなくなってしまうとどれだけ大きな存在であったかということに気づくのです。

私たちの心には、いつも繋がっている存在がありその存在によってご縁を結んでいます。その結んでいるご縁の存在にどれだけ心が救われているのかと思うと計り知れないものであることに気づきます。

例えば、居場所という存在、信頼する人とという存在、心の拠り所というものがあります。

私たちは生きていく中で、お互いを支え合い助け合い自分を立てていることに気づきます。自分の人生の中で、深く関わっているご縁は安心基地を醸成していきます。その安心基地の存在は年齢と共に少しずつ変化していきます。

私たちは人生の中で、最初に父母に恵まれ、家族に恵まれ、友人、仲間、あらゆるものに恵まれてその人生を成り立たせていきます。どの存在も深く自分というものに結ばれているもので、そのどれが欠けても自分というものはできません。

そう考えてみると、この自分というものを形成するのは周囲の存在があってこそということに気づきます。その存在が喪失していくことの深い悲しみ、そして新しい存在が誕生することの仕合せ、こうやって私たちの心はそれぞれに拠り所と出会い人生を彩るのです。

失ってみてはじめてわかるのは、自分の心の拠り所の一つであったという事実。そして一緒に生きてお互いに助け合い支え合って生きてきたという事実。さらに、お互いに愛を与えあい結ばれた存在であったという事実があるということです。

ずっとあると思えば、どうしても粗末になってしまうのが人間です。なくならないと思うから大切にしなくもなるのです。しかし、加齢とともに出会いと別れを繰り返していくとそれがいつかは失われていくことに気づいていきます。

だからこそ、このかけがえのない一瞬、一期一会を大切にしたいと心が感じるようになるのです。失いかけて気づくものもあれば、失って気づくものもある。そして失わずに気づくこともあります。

私たちは気づきをし、心を取り戻していきますから大切なことに気づく日々を過ごしていきたいと思います。子どもたちにも、このかけがえのない日々に感謝できる環境を見守り続けていきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。