奥ゆきのある暮らし

「奥ゆき」という言葉があります。奥ゆかしいという言い方もしますが、これは表から奥までの距離が深いときに使われるものです。またこれを人に例えると、知識・思慮・人柄の奥深さで使われます。この奥ゆかしさというのは、慎み深さになり日本人の大切にしている心とされてきました。

この奥ゆかしさというのは、町家の再生を通して何度も感じ直します。特に町家は、繊細なつくりで奥行きがあります。今、復古創新している聴福庵も間口を入った隣から部屋から一列に三室あり、その奥に庭がある造りになっています。奥に光が差し込み明暗が織り連なる様子はまるで神社の杜のように物静かで落ち着きます。

この「奥ゆかしい」とは何か、少し深めてみたいと思います。

この奥ゆかしさの「ゆかしい」は、「行く」の形容詞化したもので心がそちらにひかれるさまを言います。他にも慕わしく心ひかれるさまにも使います。決して派手ではなくても深み懐かしさを持っているさまの意で人にも自然や感覚的事象などにも用いられる表現です。

この奥ゆかしさというのは、穏やかという言葉と共に用いられることが多く人柄や雰囲気の中に和の心があるということでしょう。この穏かで奥ゆかしい人とはどのような人物であるか、それは謙虚な人物ということだと私は思います。

つまり徳を磨く精進を怠らず、克己復礼に自らを高め続けている人物とも言えます。そういう人物は自ずから次第に品格というものが備わってきます。そこから上品であること、謙虚であること、慎み深い穏かな人物像が出てきます。世間では、控えめで出しゃばらないことを奥ゆかしいと勘違いしている人もいますが、実際の奥ゆかしさとは隠れた日々の鍛練と実践によって磨かれて薫るものです。

この町家の中の奥ゆかしさは、日々に家を手入れし怠らず日々の暮らしを丁寧に生きている人たちの情緒深さ、また奥にいけばいくほど魅力があることを感じます。表面上ばかりをよくみせて中身がない建物というものは、奥ゆかしさを感じません。それよりも表面はシンプルで質素であっても、中に入ってみたい、奥行きを感じてみたい、好奇心から奥がどのようになっているのかを知りたいと感じられることが奥ゆかしさの価値だと私は思います。

そしてそのように奥ゆかしさを引き出すことができるのは、その人物や家に「思いやり」があるからです。表面上の対話ではなく、深く相手を思いやっている人はその思いやりの中に奥行きがあります。聴福庵の目指す聴福人の姿もこの奥行きのことで、対話を通して「きっとこの方にも私には分からない何か大切なことがあるんだろう」と傾聴すること、そしてきっとまだ奥があると共感し受容すること、最後はその真心に感謝するということを実践目録としています。

奥ゆきのある暮らし、奥ゆきのある人々、奥ゆかしい生き方を子ども達には譲っていきたいと思います。引き続き、復古創新をしつつ日本人としての暮らし方を観直していきたいとおもいます。

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

 

 

 

 

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

自然への畏敬~弱弱しさ~

昔の日本の家屋のつくりは今の時代の家屋と違って弱弱しくできています。障子やふすま、土壁にいたるまでありとあらゆるものが寄りかかっただけで壊れたり破れたりするものばかりです。

しかしそういう弱さの中で、ものを大切にする生き方が自然に身に着いてきたように思います。これは私も思い出せば虫で遊んでいるときに虫を不意に傷つけてしまったときの感覚に似ています。弱弱しさというのは、いのちに触れることであり自然はすべて大切に扱うということがどういうことかを学んだように思います。

日本のかつての家屋は、自然と一体になってつくられていました。何かの非日常の大きな災害があればすぐに被害を受けていたともいえます。しかし自然を畏れ、災害に備えるからこそいのちを存えてきたとも言えます。

自然を敵対し、自然に一時的に勝ったと思ってもそれはあくまで一時的であり大きな災害が緩やかな浸食には誰も勝つことができないのです。世界にあるものが必ず年月を経て風化していくことをみれば必ず壊れていくのは自明の理です。そうやって世界は循環を已みませんからこれは自然の姿だとも言えます。

その自然に逆らうのではなく、自然と一体になって生きようとするのが先人達の智慧でありそれが昔の家屋にはふんだんに取り入れられています。例えば、弱いといったさきほどの家具類は敢えて弱くつくることで手入れをするようにつくります。障子なども破れれば張替、傷めば取り換え、その都度手入れをすれば数十年、いや数百年でも持つのです。

今の時代の家屋は、手入れをしないでどこまで持つのかという基準でものづくりがされています。そして壊れれば捨てるのです。「捨てる」ことが前提でものづくりをしますから、壊れないもの強いものに固執するのです。

しかし本来、永く使えて丈夫なものと考えれば本質は弱いもののほうが強いし長持ちするのです。ただ前提が「捨てない」ということが基準になっています。そしてそれが「もったいない」という精神と密接につながっているとも言えます。

この前提をひっくり返さなければ強いものが弱いことに気づかず、弱いものが強いということにも気づかないのです。先人たちは、ものを粗末にはしませんでした。それだけものの価値に気づいていたとも言えます。また長い目でものを探していたからこそ、永い時間耐えることができる弱いものの扱いに慣れていたとも言えます。今の時代は短い目でしかものを探しませんから見た目ばかりにこだわり強度を強くしていますからものの扱いなど気にしなくなっています。

昔の家屋や道具、骨董と呼ばれるものは扱い方を間違えばすぐに壊れます。自分たちが扱い安いものを増やして道具を変えるのではなく、道具にあわせて自分たちが変わる方がいいと謙虚な生き方をしていたのが観えます。

自然を畏れる生き方とは、自分の方をサラリと変えてしまう生き方です。引き続き、復古創新を味わって学び直していきたいと思います。

 

直観力とは何か

古いものに触れていると様々な価値観に出会い、そして新しい直感が滾々と湧いてきます。一昨年より磨くことを深めていると、磨くというのは直感と似ていることに気づきます。ひょっとするとこれは「直感を磨く」という言い方をしてもいいのかもしれませんが、磨くから直観が冴え、直感が冴えるから磨かれるのです。つまり直感は本質が磨かれていくということなのでしょう。

例えば、冒頭の古いものでいえば古いもの、経年変化したものに触れて手入れをして磨いていると磨いているうちに次第にそのものの持っている本当の価値に出会います。その価値を知り自分がもう一度再定義し直し、それを今の時代に活かしたならそこに直感的に色々な感性に出会います。それが作り手の思想であったり、またその素材の持つ特性であったり、経年変化して生き残ってきた徳性であったりと様々です。これも一つの多様な価値に触れて自分の価値を磨くことになり直観を育てていくのです。

将棋の羽生善治さんの「直観力」(PHP)に直感に関することが書かれています。その帯には、「自分を信じる力。無理をしない、囚われない、自己否定しない。経験を積むほど直観力は磨かれていく」とあります。

そして『直感を磨くということは、日々の生活のうちにさまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にするということ』といいます。そのためには『考えや価値観の幅が狭いと、直感の判断根拠が乏しいかもしれません。普段から「こうに決まってる」「ふつうこうだ」などと考えていては、鋭い直感は得られない』といいます。

自分の中の小さな常識に縛られきっとこうであるはずだと思い込むことやふつうはこうだなどと囚われることで直感は失われていくということです。マジメで常識的であればあるほどに発想を転換することができないように思います。私はこの発想の転換こそが直観力の醍醐味だと思っています。ではこの直観力をどのように磨くのか、羽生善治さんはそのために気を付けていることがあると言います。

『いつも、「自分の得意な形に逃げない」ことを心がけている。戦型や定跡の重んじられる将棋という勝負の世界。自分の得意な形にもっていけば当然ラクであるし、私にもラクをしたいという気持ちはある。しかし、それを続けてばかりいると飽きがきて、息苦しくなってしまう。アイデアも限られ、世界が狭くなってしまうのだ。人は慣性の法則に従いやすい。新しいことなどしないでいたほうがラクだから、放っておくと、ついそのまま何もしないほうへと流れてしまう。意識的に、新しいことを試みていかないといけないと思う。』

人は誰しも自分の価値観のメガネをかけてこの世の中をみています。その人の価値観が狭ければそれ相応の狭い世界、その人の価値観が融通無碍であり無限で自由あればあるほどに観えている世界は多様で広大です。私があらゆることに興味を持ち深めるのも、自分の価値観を常に壊して常識に縛られないように工夫するためでもあります。新しい世界、たとえば今までかかわることがないような文化に触れることもまた挑戦ですし、今までにやったことがない方を選んだり苦しい方を選ぶこともまた新しい試みなのです。アイデアが停滞するとき、私は敢えてやってみたことがない世界に入っていきます。回り道や寄り道をしているように見えてかえってそのことで直感が磨かれ本業の志を助けてくれるのです。

そして直感を磨くには、日頃から「アウトプット(捨てる)」する必要を説いています。そこにはこうあります。

『過去の知識や情報は、すべて素材だ。それらは、次の新しいものを想像する素材として利用されるためにある。過去の素材であっても、適切に組み合わせれば、新しい料理をつくることができるのだ。しかし、情報をいくら分類、整理しても、どこが問題かをしっかり捉えないと正しく分析できない。さらにいうなら、山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」、そして「出すか」のほうが重要なのである。情報メタボにならないためにも、意識的に出力の割合を上げていくことが重要になる。』

直観力というのは集中力ですから、ひとたび信じて動きだせばすぐに膨大な情報を取り込んでいきます。そして直感のアンテナが立ったなら世界のあらゆるところから情報が集まってきます。それを取捨選択するチカラ、つまりは捨てるチカラが求められます。言い換えるのなら、思い込みを捨てるチカラです。そのために自分の中にある常識を一つずつ壊していく、そういう日々の研磨と練磨、「磨きあげる」ことが何よりも必要だと私は思うのです。

磨きあげるのは、単に掃除や手入れをすればいいのではなく本質的な試練や苦難といった自らを研鑽する機会と経験という砥石によって自らを磨かなければなりません。そのために志を高く持ち、そこから訪れるその一つひとつの御縁を選ばずに引き受けていく人生、もしくは来たものをすべて受け取りそれを福に転じていく人生、それが直観を磨き本来の生きるチカラを高めていくように私は思います。

何をしていてもすべては本懐を遂げる一点に集中する。

直観はいつも陰ひなたから自分を助けてくれる大切なパートナーです。自分の思い込みを信じず、自分を信じて引き続き様々な実践を愉しみ味わっていこうと思います。