自然界最強の存在~柔弱の徳~

生き物には強さや弱さというものがあります。一般的に今の世の中の価値観では、強さというのはライオンやトラ、熊などの大きな動物の方が強いと思われていますし、集団で攻撃してくる動物、毒を持ち特殊な技術があるものが強いと信じられています。そして弱いものは、小型の草食動物やアリなどの小さな虫たち、逃げてばかりで攻撃する手段がない生き物のことを弱いと思っています。

しかし実際、自然界での強さ弱さの本質はどうなっているかを深めていけばいくほど本来の強さや弱さは逆転していることに気づきます。私たちが弱いと思っている存在が実は自然界では最強であり、私たちが強いと思っている存在が実は弱いこともあるのです。

老子に「含徳の厚きは、赤子に比す。」という言葉があります。これはこの世で最も徳の厚い赤ちゃんに敵うことがないと言います。一般的に赤ちゃんはもっとも弱い存在で何もできないと思われています。しかし何もできないと思われていますが実際はもっとも強い存在なのです。

老子は、その言葉のあとこう続きます。「含徳の厚きは、赤子に比す。蜂蠆虺蛇も螫さず、猛獣も拠わず、攫鳥も搏たず。骨は弱く筋は柔らかくして而も握ること固し。未だ牝牡の合を知らずして而も全の作つは、精の至りなり。終日号びて而も嗄れざるは、和の至りなり。和を知るを常と曰い、常を知るを明と曰う。生を益すを祥と曰い、心、気を使うを強と曰う。物は壮なれば則ち老ゆ。これを不道と謂う。不道は早く已む。」

赤ちゃんは、もっとも自然に調和している存在だと言います。道に沿っていると言います。赤ちゃんを猛獣や毒虫も襲えず、骨は弱く筋肉が柔らかくそして拳を握れば固いと言います。生まれながらに気力も精力も全て調和し、無理がない。私の意訳ではもっとも弱いと思われる赤ちゃんこそ、強さのお手本であり、この世で道を永く生き残るための智慧が溢れている存在であるということです。

他にも老子は、「最大の徳は、水のように最も低い場所に甘んじること」という言葉もあります。赤ちゃんや水のような柔軟で弱い生き方こそが、本当は最強の生き方であり最も無為自然そのものであるというのです。

自然には、しなやかやたおやか、なごやかやおだやかという言葉があります。この古語の日本語にある「やか」がつくものは全てにおいて柔軟性・柔弱性を秘めています。自然界の持つこの弱さというものは、生き残るために変化を已まない最大の智慧であり徳です。そしてその徳を持つ赤ちゃんや水のような生き方はこの世では至強の存在であるのです。

私たちが弱いと思っているものこそ、自然界では最も強く、そして人間が強いと思っているものほど実際は弱いということなのです。

私も以前、自然を学び直す中で大きな太くがっちりとした大木が雷や台風で倒されるのに対し、若くて青々しく瑞々しい草たちがどんな台風の強風にも水害にも耐えて嵐が去るとまた何事もなかったように太陽の光でキラキラと甦生し続けて成長する姿を観たら至弱こそ最強の存在ではないかと何度も驚いたことがあります。

弱そうに見えて実際に強いのは、何でも強くなろうと思っているのではなく大事なものを守るためには変化を惜しまない。言い換えるなら、理念や初心が守れるのならそれが以外は何を変えても平気であるほどに柔軟性・柔弱性を持っているということです。

生き方のお手本というのは、生き残るために変化を已まない存在です。自然界では、そうやって今までいのちをつないできていますしこれからもずっといのちは自然と一緒に寄り沿って自分の天命を活かしていきます。

自然に学ぶものの一人として、本来の強さをはき違えないようにしたいものです。

最後に私が好きな老子の言葉です。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木の生まるるや柔脆、その死するや枯槁なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以って兵強ければ則ち勝たず、木強ければ則ち折る。強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る。」

40代を迎え、一生青春、一生若々しくあるためにこの柔らかく弱い存在に近づいていくよう子どもと自然とお手本に精進していきたいと思います。そして捨ててはならない大切な生き方を子どもたちに譲り遺していけるように万物自他一体に遣り切っていきたいと思います。

素直は能力

昨日、久しぶりにあうん健康庵の小松先生と奥様にお会いしました。いつもながらの温かい心遣い、おもてなし、いつもの素敵な笑顔と生き方にお会いするだけで元気をいただけます。

場所が離れていても、どんな時でも、私たちのことを応援してくださり励ましてくれる。子ども達のためにと精進していくことは厳しくもあり楽しいことでもありますが、志を実践する方との邂逅によって御縁や道はいつも支えられているように思います。

そのあうん健康庵の入口に、「素直は能力」と書かれた色紙があります。この素直さというものは何ものにもかけがえのない自然治癒の極意のように感じ、私自身もこの素直さは単なる性格ではなく己の磨き方としての最大の能力であるように感じています。どんな時でも素直な人は、全ての出来事やご縁を必ず善いことだと受け容れ、それを福に転じます。しかしその大事な場面で素直の能力がない人は、全ての出来事を禍にしてしまうのです。幸不幸はその人のものの見方、受け止め方ですからどんな出来事もその人がどういう見方をするのかで見え方が変わってきます。その見え方を変える技術、それも素直の能力の一つであることは分かります。

素直と言えば、私が最初に思い浮かべるのは松下幸之助さんです。

松下幸之助さんは、人間にとって何よりも欠かせない大切なものは「素直さ」であると言い切ります。生涯をかけて、素直という言葉を言い続け書き続け実践をし続けた方です。そのエピソードや人生の出来事の場面で如何に松下幸之助さんが素直の能力を活かして禍を転じて全て福にしてきたかが分かります。何よりこれは産まれつきでもっていたのではなく、大切だと気付いて努力して能力を磨いたことが「素直の初段」という言葉の中に残っています。

『私自身はこういうことを考えている。それは、聞くところによると、碁というものは特別に先生について指導を受けたりしなくとも、およそ一万回うてば初段ぐらいの強さになれるのだという。だから素直な心になりたいということを強く心に願って、毎日をそういう気持で過ごせば、一万日すなわち約三十年で素直な心の初段にはなれるのではないかと考えるのである。初段ともなれば、一応事に当たってある程度素直な心が働き、そう大きなあやまちをおかすことは避けられるようになるだろう、そう考えて、私自身は日々それを心がけ、また自分の言動を反省して、少しでも素直な心を養い高めていこうとしているのである。そのように方法はみずから是と思われるものを求めたらよいわけだが、素直な心の涵養、向上ということ自体は、あらゆる経営者、さらには、すべての人が心がけていくべき、きわめて大切なものである。それなくして、経営の真の成功も、人生の真の幸せもあり得ないといってもいい。だから、素直な心に段位をつけられるものであれば、やはりお互いに初段ぐらいにはなることはめざしたい。そこまでいけば、これまでに述べてきたようなことも、おのずと体得され、生かされてくると言ってよいであろう』

松下幸之助さんは80歳半ばになってようやく素直の初段になったと言っていました。生き方として如何に素直を磨くかは、日々の御縁や出来事を通した時、自分がどのようにそれを転じつづけて福にしたかという実践なのです。日々の過ごし方一つ、当たり前ではなく有り難いと感じて物事の見方を転じて観ることや、何かあった時にこれはきっと大切なことを教えてくださっていると学びに換えること、そういう日々の行動で素直は磨かれるように私は思います。また松下幸之助さんはこう言います。

『素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境はうぬぼれを生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられたひとつの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。』

生き方として、逆境が来た時に卑屈になればそれはまた己に負けることになります。そして順境の時にうまくいっているからと調子にのればまた己に負ける。人生は常に己に克つかどうか、自分との付き合いをどう素直な状態にしていくかですから運命を受け容れその境涯に対して如何に油断しないで何があろうがなかろうが日々に粛々と実践を続けていくかということになるのです。

素直さを磨くという心があれば、素直さの能力は高まっていきます。最後に松下幸之助さんが言う素直な心で締めくくります。

『素直な心とは、単に人に逆らわず従順であるということではありません。本当の素直さというものは、力強く、積極的な内容をもつものだと思います。つまり、素直な心とは、私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれず、物事をあるがままに見ようとする心といえるでしょう。その心から、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。だから、真理をつかむ働きのある心だと思います。したがって、素直な心とは、何ものにもとらわれず、物事の真実と、何が正しいかを見きわめて、これに従う心、適応していく心です。お互いが素直な心になれば、していいこと、してならないことの区別も明らかとなり、また正邪の判別もあやまることなく、何をなすべきかもおのずとわかってきます。素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強くし正しく聡明にいたします。』(「素直な心になるために」PHP)

逆境のときこそ素直さは磨かれ、そして順境の時こそまた素直さは磨かれる。素直の初段になるために、日々素直は能力と言い続けることは生涯の人生道場であり、一生の修行であるように思います。

自然治癒もまたこの素直さが何よりも肝要であることを学び直しました。

起きた出来事一つ一つに大切な意味があることに感謝し、日々の御縁を大切に学び直しを味わっていきたいと思います。

 

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

逞しい力

ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。

先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。

一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。

私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。

それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。

文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。

逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

 

 

孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。

 

自然体の本質

世界において日本人であるということの重要性は昨日も書きました。なぜ日本人でなければならないか、そこには私たちの世界における存在意義にも関係します。そしてそれは単に世界の中での日本民族というだけにとどまらず、結局は自己を活かすということの本質に深く関わっているからです。

そもそも人は自分という存在をどのように理解しているかで観えている世界が変わっていきます。例えば、単に自己という自分が今までの過去のことや身近な存在から理解する狭い範囲の自分というものと、民族の一人として先祖代々からつながっている自分であると理解するのでは自己認識が変わっていきます。前者は私的なものですが、後者は歴史全体的なものです。言い換えればこれらの歴史全体的な民族的使命を持つことによってはじめて本来の意味での個性というものに出会うということです。これを三木清が分かりやすく例えています。

「すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。」(論文 全体と個人より)

はじまりの初心をもって誕生した先祖たちの道をその後の私たちが受け継ぎ歩んでいるのですからその道を高めそれを民族の目指した姿として顕現させていることが今の文化とも言えます。文化があるというのは、かつての祖親の真心をカタチにした個人があったということです。人類的価値とは、その初心という理念においてそれをどのような道筋と道程を実践して文化にしたかということです。だからこそ三木清も「すべての人は、自らの民族が持つ文化を世界史的意義を有するものへ磨き上げそして高めていかなければならない」と言います。

「個人は抽象的な人類や世界ではなく却って民族というが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或いは世界的になることができない。単に人類的と考えられるような個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。」(論文 全体と個人より)

個人というものの定義をどのように捉えるか、自分らしさというものをどの価値で定めるか、そこが肝心だと私は思います。自分自身とは何か、それを正しく理解できてこそはじめて真の個性を活かし発揮することができるのです。単に個性の発揮とは、自分の好きなことをやればいのではなく真に自分らしさ、自然体であるのです。自分らしさが自然体とも言いますが、では自然体とは本当は何かということなのです。

私の自然体の定義はもっとも日本人であるということです。

言い換えれば今まで脈々と受け継がれてきた私たちの道統の存在そのままになっているということです。それがあってはじめて自分らしさであり、それが本当の個性なのです。私が日本人を目指し文化を学び直すのも自分の中にあるその個性を磨きたいからです。日本の精神とは何か、その精神を磨くのもまたそれは民族としての心を高めてはじめて日本精神を磨くといえます。そして三木清はこうも言います、「国家・民族という精神的バックボーンがあってこそ「個人」が真に活きる 」と。

私も同感で、まず「国」とは何を指すのか、そして「民」とは何を指すか、真に「国民」であるということはどういうことか。自分が国民の一人として自分を発揮していくには、まず本来の国民に回帰する必要があるのです。その回帰した姿において如何に文化を世界に発信していくか、そこに民族的使命がありそこに個々の天命があるように思います。

運命というものは天命のことで、天命は運命と自然体になればなるほど同化していきますから自分が民族の文化そのものであるということを忘れてはならないと私は思います。

そのために何を実践していくか、どんな手本を示して子ども達に道を譲っていくのか、自分の使命とはそういう民族から受け継がれてきた使命のことですからその道を譲り渡す時、真の幸福もまた受け渡していくことができるように思います。最後に三木清の言葉で締めくくります。

行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現れ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもって偉大であるのではなく、その世界史的使命に従って偉大であるのである。

歴史に顕れる日本の先人たちの中には、全てその民族の偉大さが顕現します。私の尊敬する方々もみな、その自然体の本質を持っています。吉田松陰然り、高杉晋作然り、源義経然り、私たちの民族には「徳」と「義」が脈々と受け継がれています。

本当の意味で世界が滅びるというのは、世界史的使命が失われるということです。民族多様性を如何に遺すか、それはそれぞれの民が文化を重んじて生きていくということです。時代がいくら激変しても道は変わらずそこにありますから道を継ぎ道を弘め、道を繋いでいけるよう自然体に近づいていきたいと思います。

日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。

生き方言葉

日本語には、職人用語のようなものが沢山あります。大工用語であったり、鍛冶用語であったり、それぞれに道を深めた職人さんたちが鍛えあげた言葉があります。それは生き方と深く関連しているようで、その言葉は私たちの生活の中でも大事な場面で使われることが多い様に思います。

昨年から鐵や刀を深めていく中で鍛冶用語や研ぎ用語、日本刀の言葉に出会う機会が増えました。特にこれらは鍛錬用語のようなものに溢れていて、自分を鍛え磨き上げていくことに通じる言葉が多く己の我に打ち克つための言葉が溢れています。

日本人の先祖たちが大切にしてきた武士道は、如何に克己復礼するかに尽きるように感じます。かつての先祖は徳を重んじ、その徳に恥じない生き方をすることこそが日本人の心であり日本人の鑑であるとしています。それもかつての古の道具に触れたり、先祖の伝承してきた文化に触れると実感します。今では文化が失われて、使っている言葉も次第に忘れ去られていきますがもう一度、その言葉からその意味だけではなく生き方を感じ直して子ども達に伝承していきたいと感じます。

例えば、日本刀の言葉では「土壇場・しのぎを削る・切羽詰る・単刀直入・身から出たサビ・懐刀・伝家の宝刀・反りがあわない・真打・元の鞘に収まる・一刀両断・諸刃の剣・抜き差しならぬ・真剣勝負・つばぜり合い・一太刀あびせる」等々、沢山の言葉があります。これらも日々のやり取りの中で、日本刀を用いた生活の中から出て来た言葉です。

何を大切にしているか、何をすると失敗するか、その教訓や回訓を言葉に遺していたとも言えます。

例えば、「付け焼刃」という言葉があります。

これは本来「焼き入れ」という作業をすることで日本刀は強くなり切れるのですがその正式な焼き入れを行わずに軽い研ぎだけで模様をつけては刀紋がついたように見せかけることを言います。このことからたとえ一時しのぎその場しのぎではなんとかなったとしても、にわか仕込の一時で間に合わせたように装った勉強や技術では通用しないよ、つまり「付け焼刃」ではダメだという教訓なのです。

これは今の時代、すぐに勉強して形だけの技術を教えてしまう学校の勉強に似ています。付け焼刃では本番の世界では役に立たず、その道を深めて鍛錬・練磨する必要があります。宮本武蔵の「千日の稽古を鍛とし万日の稽古を錬とす」であり、朝鍛夕鍛して本焼き入れを行ったものだけが本物の強さ、本当の切れ味を持つように思います。仕事も同じですぐに結果を出そうとして付け焼刃の知識や技術を得ても本当の意味で相手の御役に立とうとするのなら「焼き入れ」はとても大切な鍛錬になるのでしょう。

今は利便さ楽さを追求し鍛錬をすることを避けようとする風潮もあります。できれば鍛錬せずにできるための勉強をし知識を持とうとしている人も増えています。しかし古来からそれではならぬと武士道では戒めそれを言葉に遺しているのかもしれません。

鍛錬の反対は怠け癖なのかもしれませんが、豊かな時代だからこそこの鍛錬は非常に価値があるように思います。松下幸之助さんがこういう言葉を遺しています。

「暮らしが豊かになればなるほど、一方で厳しい鍛練が必要になってくる。つまり、貧しい家庭なら、生活そのものによって鍛えられるから親に厳しさがなくても、いたわりだけて十分、子どもは育つ。けれども豊かになった段階においては、精神的に非常に厳しいものを与えなければいけない。その豊かさにふさわしい厳しさがなければ、人間はそれだけ心身ともになまってくるわけである。」

人は五感をフル活用していなければそのうち怠け癖がついて次第に人間の本能が減退してくるものです。

生き方まで付け焼刃にならないように、日々の鍛錬を怠らなかった先祖たちに見習い日々に生き方言葉を磨き、刻苦勉励に勤めていきたいと思います。

灯りの余韻~炭の仕組み~

炭を使った暮らしをはじめてみると、如何に炭が温もりを与えているのかを実感するようになってきました。一日のはじまりと終わりに炭を熾しているだけで時から離れ自然に近づいていきます。

そして炭はコツを掴めば、火の調節もとてもしやすく便利な現代の道具よりも微調整がききます。それに一度火が入れば、小さな火が残りますからいつでもまた熾し直すことができ火を絶やさなければいつでもまた復活するということにも気づけます。灰も大切な役割をし、燃え尽きてなおその火を守っています。この炭で沸かす一杯の御茶は本当に格別で生きている仕合わせを感じるほどです。

この炭というものの温もりは、普通の薪やガス、石油で燃やす火にはないものです。それらの火は燃え盛る太陽だとしたら、炭の火はそれを受けて光る月のようです。月はその光の中に温もりを宿します。同じように炭にもその炭の中に温もりが宿るのです。

炭に火が入れば、炭のいのちが燃え始めます。その炭のいのちは透明な灯りを自らの呼吸で点灯させていきます。その点灯した灯りが周りを暖め、同時に私たちに温もりを感じさせます。この優しく包まれる灯りの中で、私たちは一日のはじまりの意味を知り、一日の終わりの意味を感じます。この炭が産み出す「灯りの余韻」は、心に深い味わいを与えてくれます。

人生は一瞬です、そしていのちは熱を帯びてはその熱が次第に冷めて消えるか最期には灰になっていきます。血液が赤く体温を維持するために呼吸するように炭もまた赤く温もりを維持するために呼吸をします。火吹竹で息を吹き込み元気になる炭のように、私たちもまた息をして元気になります。

火に空気の中の何かが反応することで、温もりというチカラが出て来ます。その自然が熔け合う瞬間に私たちは灯りの余韻を感じて心が癒されていきます。火は人の心を投影します。その人の心の安らぎは火の中にも顕れます。炭のない暮らしは人心の荒廃を進めているように私には思えます。これは昔からの稲作の仕組みがなくなって協力しなくなったように、炭もまたこの人の手で炭を扱う仕組みがなくなって温もりが失われてきたようにも思います。

灯りの余韻を大切に味わう心のゆとりを炭と一緒に育てていきたいと思います。

子ども達のためにも、自分が灯を消さないように実践を大切にして見守っていきたいと思います。

分を弁える~謙虚さの醸成~

人は自分自身のことを間違うのは我慾や私心に呑まれるからだとも言えます。昔から執着をはじめ、暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、傲慢などがあります。どれも自分自身の中にある己心と私心との間で発生してくる感情であり、その感情をどう転換し、どう執着を手放すかが人生の修行とも言えます。

実際に文章で書くのはいとも簡単ですが、実際に実践してそれを転じて善いものにしようとするのは大変なことです。実際には、どの執着が一番強いかは人それぞれに異なりますが、ある人は強欲でなくても傲慢であったり、ある人は暴食がなくても怠惰であったり、それぞれに強弱あるものです。

仏教では六波羅蜜と言いその執着を手放すための修行として、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)があるそうです。私欲を手放すには、私欲を超える実践を行いいつも自分を律してより大きなものに自分を近づけていこうとすることで己の分を弁えようとするように思います。

人は自分の分を弁えることができてはじめて謙虚になったとも言えます。

実際の自分を本来の身の丈よりも大きいものだと思うところに人間、いや人類の失敗があり、実際は分を弁えないことをすればそこに破滅が待っています。これは歴史を観れば明白で、分を弁えればその文明は長く続き、分を弁えないことで文明は終焉します。

人間がいくら凄いと思っても「いのち」一つ作れませんし、また地球規模の大天災には立ち向かう術もありません。例えば、火山の大噴火や熔岩を消火できるのか、竜巻や台風を消し飛ばすのか、大津波を鎮めるのか、巨大隕石を吹き飛ばすのか、そんなことできるはずもありません。宇宙や自然を敵にしても決して勝てるわけではなく、もしくは何かや誰かと比較競争して勝った気になってもそれは長い目で観て果たして本当に勝ったと言えるものかとも思えます。

自分の分を弁えている人は自然に沿っています。自然に沿っているから、自然を変えようとはせずに自分を変えようとします。世の中を変えようとはせず、自分を変えようとします。他人を変えようとはせずに、自分を変えようとするのです。これらは分を弁えているのです。自分を変化させる人はみんな、その道理を実践により体得しているのです。

如何に分を弁えるか分度を保つかは、日々の生き方、その謙虚さの醸成があるということです。一期一会の御縁といただいた大切なお守り刀を懐に抱き、初志を貫くためにも安文守己・知足安文の実践を意識していきたいと思います。