ブレない生き方~自己の理念経営~

人は理念や初心からブレることで、様々な問題が起きてきます。これは組織であれば組織がブレますし、個人であれば個人がブレます。自分が定めた生き方や優先順位が変わってしまうということは、何が大切なのかを忘れてしまっているということですから周囲から観れば何をやっているのだろうと思われるものです。

そもそも人は生きていれば、目先で起きる出来事によって忙しくなっていきます。忙しさというのは、心で決めた初心を失ってしまっている状態とも言えます。目先のことで追われていて視野が狭まりそれを処理するために日々を過ごしてしまうとそのうちその目先を処理するためだけに毎日を過ごしてしまうものです。そうやって過ごしてしまえば、重要なことを優先するよりも緊急のことばかりを処理することが優先されていくものです。

人生の優先順位がもしも緊急のことばかりでついていくならば、日々というのは浪費しその疲れも溜まっていきます。本来の重要なことが優先されてその実践を怠らずに順位が下がらないのならその日々は理想や理念、初心を忘れずに取り組めていますから疲れも程よく心地よい疲れを感じるものです。

人が理念からブレるというのは、初心(本来の人生目的)を忘れて生き方の優先順位を間違うことを言います。それぞれに人には価値観というものがあります。その人の価値観が優先順位を決めているといっても過言ではありません。しかしこの価値観というものは曲者で、今まで生きて来た人生観がその人の価値観を形成してしまいます。かつてどのように自分が生きてきたかが「生き方」ですから、その生きてきたままに自分が生きてしまいます。

しかしその生き方の癖が、もしも理念や理想と間違ってしまっていると気付いたならその生き方の癖を修正し、本物の習慣によって生き方を改めて上書きしていく必要があります。つまりは生き方の転換が必要になっていくのです。例えば、自利で生きてきた人が利他に生きると決めたとします。しかし実際は自利や我利ばかりに囚われてしまい利他で動くことが出来ないものです。それを何度も利他に向くように時間を設け、実践し、自分の心が変わらないように、自分の判断のモノサシがブレないようにと何度も何度も内省し修正していくことで生き方の癖が改善されていくのです。

人はもうこんな生き方はしたくないという反省が素直にできたなら、忘己利他(もう懲りた)と改心するキッカケにも出会えるかもしれません。しかしたとえそれで変わったにしても生き方の修正は一生涯の一大事ですから、実践を怠らず自らの精進を続けていかなければまたブレてしまうものです。ブレてもすぐに素直に直すことができればいいのですが、ブレていることに気づかないから余計に問題があるようにも思います。

昔のリーダーたちは、自分に耳障りのよくないことを忠言してくださる人を必ず身近に置いたと言います。そのことで自分の生き方のブレをチェックし、自らを素直に生長し精進していくための鏡にしたそうです。それはそれだけリーダーがブレると、周囲に大変な影響を与えてしまうことを自覚していたからなのでしょう。自分のことくらいや自分がなどと考えてしまうと、周りのことよりも自分のことで一杯いっぱいになってしまうものです。そうやって好き勝手にしてしまい自分の好きなことばかりやってしまうと確実に理念はブレてしまいます。

本来、本当に好きなのは、本当に大切にしたいと思った初心のことであったはずです。だからこそその本当の好きにどれだけ忠実であるかが自分を大切にしたことであり、その正直さが自分を信じて着いてきてくださった人たちを大切にしたことになるように私は思います。人はみんな自我や自利を超えた理念、つまりは大義に自分を使っていきたい、使ってもらいたいと願うものです。それがもしも個人的な欲望や我利我利に偏る価値観に従うのなら誰だって素直にやりたいとは思わないものです。

だからこそリーダーは、自分自身がブレていないかを常にチェックしていく必要があるように思います。理念というものは自分の心ですから、誤魔化しがききません。どれだけ自分の心に誠実であるか、正直であるかが「ブレない生き方」を実現していく鍵であるということなのでしょう。

生き方を換えるというのは、人生の一大事ですがその生き方が換わることによってはじめてその人の人生が大きく換わります。いつまでも換わらないのは生き方の方が問題だと気付くことが第一歩なのでしょう。生き方を換えていくための努力は、独立自尊、孤高の正対ですが常に理念を優先しているかを内省することで近づいていけるはずです。

仲間と一緒に歩んでいくのだから、周りを観ては自分を省みて実践を厳格に積み重ねていきたいと思います。周りの御力に少しでもなれるよう私自身も、克己復礼、精進をしていきたいと思います。

知愚一如

森信三先生の人生の中で、生き方を大きく転換した中の言葉で「知愚一如」という言葉があります。それに気づいてから、自分の中の学術研究の意味もまったく変わったしまったほどだったと後述しています。

そもそも「知愚一如」とは何か、それを少し深めてみたいと思います。

まず最初に森信三先生はこう言います。(「知愚一如」 即ち、知者も愚者もひと度、絶対者の前に立てば全く同価値であって根本的にはその間に絶対に優劣がつけられぬということが、真に分かることによって初めてわたくしの哲学体系たる「恩の形而上学」は生まれたわけです。(「不尽片言」より))

これは根本にはすべて優劣などはないという意識のことです。そもそも知識というものは知っていることが優れ、より知らないものは劣っているという考え方を持っていては本当の意味で「分かる」ということはありません。これは「分かった気にならない」という言い方を私はしますが、分かるという考えがある以上はその知ることが愚かだということに気づけないということです。

さらに「森信三一日一語」(致知出版)の中でこうも言います。「知っていて実行しないとしたらその知はいまだ真知でないとの深省を要する無の哲学の第一歩は実はこの一事から出発すべきであろうに。」と。

つまり真知とは何か、やろうともしない学ぼうともしないのでは意味がないのではないか。知ることが如何に愚かなことであるかということに気づき、そしてそこから学び方を転換しているのです。これはカグヤで言う「やって内省しなければやらないのと同じ、内省してやらないのでは学ばないのと同じ」というように私は理解しています。

そしてここから「恩の形而上学」という境地に入ります。そこでは「「恩」とは、この自己の一切が、自己を超えたものの力によって与えられ恵まれているのみか、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた、同様に自己を超えたものの力によるとする意味である。」(森信三)

これは次第に真知を実践していく中で、感謝、御蔭様、そして報恩という境地に意識が高まってきたと感じます。私自身、日々に書いている感謝日記が次第に深まっていくたびに御蔭様を経て報恩や報徳の真価に辿りついてきています。世の中の学問や哲学などというものを考える前に、本来のあるべき姿に立ち返り実践をするのなら自ずから明らかになるのが真理というものなのでしょう。

最後に、知愚一如についてもっとも明確に顕されているものを紹介して終わります。それは兼好法師の徒然草の中にある一節です。

『但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。』

真実の人は賢愚得失は存在しないということ、つまりは一切は「無」であるということです。

世の中に、様々な知識の刷り込みがあるからこそ自らの実践を高めて日々に精進し、余計な知識は手放しつつ子ども達と道を味わうためにも自らの感化につとめていきたいと思います。

報恩謝徳

人間は、我が優先されてくると今までの御恩よりも今の自分にとって都合がいいかどうかを考えたりするものです。本来、今の自分があるのは自分の一人のチカラで成り立っているものなどは何もなく、全ては今までの御蔭様の御力添えによって今の自分が成り立っているともいえます。

これは少し考えてみればわかることですが、カラダを与えてくださったご先祖様方。そのご先祖様方を支えてくださった縁者の方々。また育ててくださった父母をはじめ、先生や友人、兄弟などあげていけばキリがありません。

自分の一人のチカラではないものを、わざわざ自分一人が苦労して手に入れたなどと錯覚しては全ての御恩まで私物化していくのです。目の前にあるものや、自分の身の周りにあるものはすべて過去の御縁と御恩の集積です。その偉大な見守りや御蔭様が観えている自分であるならば自我妄執に打ち克っていますが、もしもその御蔭が自分のおかげなどとなっていたり、もしも相手に見返りを求めているのならすでに自我妄執に囚われているともいえます。

このように自分の都合を優先するようになると、その御恩も御蔭も自分の解釈でさも真実のように自分に都合よく捻じ曲げてしまいます。だからこそ、自分が見守られていることに気づいているか、自分が多くの御蔭様のハタラキで存在できていることが観えているか、と自戒しては内省し振り返っていることで本来の御恩や感謝に気づけるように思います。人間には所有欲や支配欲をはじめ様々な欲があります、しかし欲そのものが悪いというわけではなく理念や初心を優先できないことに問題があります。欲があるのは自分を守るためだったり、生きていくためだったりもします、だからこそ理念を設定し理念を優先することで御恩を忘れず感謝も忘れず徳に報いるための実践になっていくように思うのです。

「報恩謝徳」という言葉があります。

これは恩に報い徳に謝すという意味で恩に感謝し報いていこうという真心のことです。自分が今までいただいたその有難い徳の御力添えに対して、いただいてきた全ての恩に対して自分のできる限りのことを返していこうとする心。

この報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいうそうです。そして謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいうそうです。どうしても感謝の気持ちから何かをお返ししたいという心の発露が自然に出てくる心境に入っているということです。

本物の謙虚さというものは、報恩謝徳にこそあるように思います。

日々の試練は、理念を優先し如何に自分の都合と折り合いをつけるかの一進一退の真剣勝負でもあります。しかし、日々の実践を通じて感謝という意識の境地に達していくならば自ずから報恩する生き方に転じてくるように思います。私が尊敬する二宮尊徳が実践した「報徳思想」は、この御恩を刻み徳に報いる生き方だったのでしょう。少しずつですが、その深い真心に触れては有難い尊い歩みに御縁を感じます。

今の私にはまだまだとてもその境地にはいけそうにありませんが、日々の実践が何のためにあるのか、理念の御蔭様で振り返りができることにお時間とお役目をいただけた仕合せも感じます。

この「報恩謝徳」を常に自戒にして、これからも精進を続けていきたいと思います。

 

永遠のいのち~ヤマトコトバ~

日本には全国各地にその信念で生き切った純粋な方々の余韻が史跡や行跡、言葉に遺っています。同じように生き方を習い、純粋な真心で生きようとしている方々はその場に遺る余韻に自らを重ね合わせて内省をしているものです。

ヤマトタケルの頃より、様々な大義を持って歩んだ志魂はのちのちの子々孫々へ受け継がれてその真心で生きた人たちによってこの風土は守られてきました。その真心はどのようにして知ることができるか、そこにはそれぞれに遺した詩があります。その詩を感じてみれば、その人の純粋な思いが息づいています。その純粋な思いに触れることで、私たちは何百年も前のいのちとも触れ合うことができるのです。

先日、ヤマトタケルのことを思っているとある方の詩に出会うことができました。

三井甲之という方の詩で、「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」というものです。感謝の真心でヤマトのクニをいのり、勇気と大義によって己のいのちを賭してきた、その先祖たちの見守りの御蔭様で今の私たちがあるのを実感できる詩です。

詩を読む真心は純粋透明なものであり、その人の経歴がどうかではなく心のままに純粋自然の感覚が言霊になることで本来のヤマトコトバの美しさに出会うように思います。

ヤマトコトバには日本古来の先祖たちの真心が生きています。そこには感謝や御蔭様、あらゆる御縁を大切につむいできた生き方があり先人たちの願った暮らしがあります。今のように言葉が技術になり氾濫する時代において、真心そのままを言霊にした親祖に詩を通してその真心に通じ合えることは今の私たちのルーツを見つめ直すためにもとても重要なことだと感じます。

その三井甲之さんの『墓碑銘-石にしるすことば』というものの中に、「ヤマトコトバ」の本質が記されているように感じここに紹介します。

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。

日本古来のヤマトコトバには永遠のいのちが宿っています。その永遠のいのちはその言霊を語ることにより志が受け継がれていきます。子ども達には一つでも大切なヤマトコトバを語り記していきたいと思います。その魂が生きた証、その志が遺る理由を語り継いでいきたいと思います。

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。