口伝と体得~初心伝承~

一昨日から紹介している鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)には共感するものばかりです。王陽明はかつて「道統を継ぎ、絶学を紡ぐ」と言いましたが、師の教えを忠実に守り伝統を継承する志に子々孫々への思いやりや真心を感じます。

そういう理念を持つ組織だからこそ、その教え方も本質的であり実践的、体得体認することを重んじています。口伝の重みでも実感したことですが、口伝できるというのはその志を受け継ぐ心があってのことです。血肉に伝わっていくような関係の中にこそ、大切な原点や初心、その志や伝統は伝承できるのではないかと今でははっきりと思います。

今年は伝統文化や老舗から日本の職人文化を学び直そうと思っていましたが、その最初に鵤工舎のことを学べて有難く思います。

文章の中で修業について書かれているところが沢山あります。修養も修行も、その心構えのことでしょうが具体的な実践事例で「研ぐ」ということの意味が書かれているので紹介します。

「刃物というのは、なかなか研げないものや。砥石にぴったりし刃を当ててゆっくり擦ればいいだけだが、それができんのや。人間の身体というのは思いの通りには動かないんだな。・・・中略・・・言葉は常に後や。自分の身体が考えの通りには動かないことにまず気がつかなならん。だから修業するのや。言葉や考えが役に立たないことにも気がつかなならん。無心で研げるようになって初めて刃物が研げるようになる。じゃあ無心ってどういうもんかと考えるかもしらんが、刃物が研げたときや。答えは刃物や。」

西岡棟梁から学んだ刃物研ぎの本質が記されています。無心とは研げた時だといい、答えは刃物だといいます。これは仕事でも同じように思います、無心でできるときは自他一体になっているということでその答えは仕事そのものだということです。そしてこう続きます。

「苦労して、悩みながら研いでいるうちにある日、「おっ」と思うことがある。そうやって階段を上がっていくんだな。精神修業のようだが、そうじゃない。大工は体を作ることだ。頭や考えも体から生まれてくるんや。俺はそう思う。だから刃物を研がせる。」

体をつくることと言います。以前、メンターから「からだ」という字は肉体だけではなくそこには心や精神も入っていると聞いたことがあります。「からだ」で覚えるというのは実践で染み込み自分のものにするということでしょう。

「よく研げるようになれば、道具を使ってみたくなる。木を削ってみたくなる。穴を穿ってみたくなる。それが大工として最初や。切れない刃物で木を削らせたところで、辛いだけでうれしいことも気持ちがいいこともない。そんな心で仕事をしていてもいいものはできない。だから刃物を研げないやつには道具を持たせない方がいいんだ。手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。」

”手道具こそ体そのもの”とあります。仕事では何が手道具であるかということです、それが商品であり自分そのものでもあります。

最後にこうあります。

「嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。ほんとうを覚えるには時間がかかる。時間がかかるが一旦身に着いたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。・・・中略・・・上手になれば過去の自分の未熟さがわかる。それも上手になって初めてわかること。つまり、判断は常にその時の自分を超えないということや。刃物は自分の力量を表す鏡や。一心不乱に研ぐことによって、大工としての感覚と研ぎ澄まされた精神も養われるんやな」

”判断は常にその時の自分を超えない”とあります。今の自分の刷り込みを取り除くには、”からだ”で身につけろということです。言い換えれば一心不乱であるし、私の言葉だと全身全霊です。それだけの実践をどれだけ積んでいるかで本物や本質が磨かれるように思います。ここでの刃物とは人格に似ているように思います。何を研ぐのか、手道具とは何か、もう一度そのものの在り方から見直してみないといけません。

そして「技と人」の伝承とは、つまりは「口伝と体得」ではないかと改めて実感します。今の時代の人と技の教え方、学び方に対して刷り込みを見つめているととても大きな危機感を覚えます。子ども達には自学自悟、自分らしく自らを磨き上げていってほしいと思います。まだまだ職人文化や初心伝承を高めていきたいと思います。

歴史の産道~今此処の一歩~

山野の中には人が歩いている道や獣道があります。長い時間、何度も同じところを歩いていくことでそこに道ができます。已まずに歩かれ続けるとその道は踏み固められ、誰も歩かないとそのうちその道が消えていきます。

道といえば代表的な古い道に熊野古道があります。だいぶ前に熊野古道を歩いたことがありますがその道を歩きながら歴史や文化、そして風土や理念などを感じたことを思い出します。

道というものはただそこに道があるのではなくその道をどのような人たちが何の目的でどのような心で歩いたのかという「太古から流れる一筋の思い」を鑑みることができるのです。

今まで続いてきた道というのは、過去にその道を歩んで今の自分にまでつないでくださった方々があるということです。その消えそうになっている道を、自分が後でまた歩むことでその踏み固めた一歩はまた次の人たちへの礎になっていくのです。

誰も見ていないからや誰も通らないからではなく、自分が通る道だからこそ責任をもって歩まねばならないと思うのです。みんなが通ったから安心ではなく、自分が通らなければならぬ志があるのです。

ひとたび歩めば、そこはもう鬱蒼とした密林の中で道なき道をかき分けていくものかもしれません。しかしだからこそ自分が進まねばならぬ、だからこそ自分がもう一度かき分けて入っていかなければならぬという道を開くという使命感です。

私が好きな三つの言葉があります。一つは二宮尊徳、「古道に積る木の葉を掘分けて天照す神の足跡を見む」。そしてもう一つは種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」、最後は源重之の「つくば山 葉山蕃山 しげけれど 思い入るには あわらざりけり」です。

そのどれも自分の境遇に左右されず、自らの道を切り開く真心を感じます。

幼いころ、生前の祖父が山登りをするのに連れられて道なき道を登り山の中を歩き回ったことがあります。今思い返せば、きっと山芋を探していたのかもしれませんが子ども心に迷子になるのではないか、二度と戻れないのではないか、何か獣と遭遇するのではないかと不安を感じつつ背中を見つめては歩んだ記憶が残っています。どこに出てくるのかも、どこに向かうのかもわからず、山の中に何時間もただ分け入って往くのです。しかし思い返せばその体験が山に入る霊妙さと道を歩む崇高さを覚えたのかもしれません。

道は時であり、時は人であり、人は旅です。

そしてその道は歩む中に由って顕れます。

きっと私たちは歴史の産道を歩んでいる最中なのかもしれません。その歴史の産道の意義を決して忘れず、自分の足で今此処の一歩を大切に歩んでいきたいと思います。

 

長い目~地球観~

先日、養鶏場で鳥インフルエンザが蔓延し約10万羽の鶏が処分されました。他の鶏に感染するからと全部の鶏を処分するのですが果たしてこれが人間ならどうだろうかと思ってしまいます。

もともと鳥インフルエンザは昔からある病気で今にはじまったものではありません。鶏自体に免疫があれば感染せず、かかってもそんなに広がらなかった病気です。自然界に棲んで自然界の生活をしていれば、自ずから病気もまた天敵と同じように自浄作用の中で働いているものの一つです。

しかし、人間の都合で鶏を飼育され抗生物質を大量に投与されている合成人工餌を食べている養鶏場の鶏では病気に対する抗体がなくほとんどが死んでしまいます。その卵を食べたり、その肉を食べる私たちもまたその弱体化したものを取り入れて弱くなっていきます。

自然農に取り組み、自然の畑の中に入り感じるものは厳しい環境の中でいのちを育んでいく自然の姿です。寒さに負けず、暑さに負けず、虫にも負けず、病気にも負けずに逞しく育っていきます。苦労という苦労をまともにしながらも、その生はゆるぎなく元気そのものです。

時折、運命に負けそうな出来事が起こっても再び這い上がってきます。天候の変化や人間の余計な手出しがあったにせよ、強く逞しく自ずから主体的にいのちを発揮します。

農薬も同じく、一部の虫が問題だからとほとんどの生き物たちを処分してしまいます。そして除草剤も同じく、ほとんどの草を処分します。それで一時的に処分したとしてもすぐにまた同じ出来事が起こります。根本的に解決しない方法を繰り返しとったとしても、その時は乗り切ってもあとにもっと大変なことになります。

長い目で物事を観ることを已めてしまうということは、それだけで悠久の歴史の中の智慧を失ってしまうことになります。生き残るという意味が、どれだけ長いスパンで考えているかはその人の生き方に由るものです。

ある程度の数を制限し、広い空間の中で、自然の雑草や穀物、昆虫を譲られた分を自然に食べるようにすれば全体とのバランスの中で病気にもかからなくなっていきます。これは鶏だけの話ではなく、すべての動物に言えることです。

もっとも悍ましいことは、人間が今動植物に行っていることが人間にも行われていくということです。戦争も同じく、自然に天敵があるように、人間にも天敵があります。それが決して外界にあるものではなく人間の精神や心の中にあることに気づいている人は多いはずです。

何千年も前から悠久の歴史には人間は自分に打ち克つことを戒めてきた言葉ばかりが刻まれます。今の時代、スピードを上げるばかりで内省する時間もないようですが根本に立ち返り、本質に立ち止まる勇気と、流れを断ち切る信念が必要なのかもしれません。

なぜ自然養鶏なのか、なぜ自然農なのか、なぜ自然の生き方なのか、自分の中にある自然の力を外側から抑え込んでもそこには限界があることを自然はいつも教えてくれます。

私たちは46億年の地球の一部ですから、地球観を持ち、長い目で静かに物事を判断していく力を身に着けていきたいと思います。

循環型社會の本質~一緒に生きる~

昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。

何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。

しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。

循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。

それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。

昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。

今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。

そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。

一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。

子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。

循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。

視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。

視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。

今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。

一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。

観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。

2015年のテーマ

昨年も本当に沢山の有難いご縁をいただいた一年になりました。毎年、当たり前ではない出来事に恵まれ、日々に充実するのは一日一日が最期だと感じているからかもしれません。

人生はあって当たり前のものではなく、勿体ないものです。今の自分が今此処にあるのはそこには由緒があります。これは単に私だけの人生ではなく、連綿とはじまりから今まで続いている人たちがあってその中に自分も居るのです。

先祖代々から今まで、数々の困難や苦難を生き延び、私にまでいのちをつないでくださった方々に感謝を思わない日はありません。今の私が存在するのは、本当に偉大な御蔭様で成り立っています。決して私個人で生きるのではなく、志古人に生きたいと願うばかりです。

子どもたちのために生きようと志した日からずっと、自分の生を何のために遣おうかと覚悟を定めてきた日々でしたがいつも感じることは、祖神祖先への畏敬と慈愛への感謝ばかりです。有難くいただいた一期一会のいのちですから、悔いのない日々を魂に応じて従いつつ信念をもって歩ませていただきたいと思います。

また今年も師とテーマを共有することができました。ご縁をいただいてから十二年の歳月、共に錆びずに磨き続けて道と学問を共有できるものをいただけるのは真心の為せることだと師の恩沢洪大に心より感謝の念が湧いてきます。

今年のテーマは、「時代に翻弄されず、初心を忘れない」ということです。

変化の時は近くを見ては酔ってしまうものです、そうではなく夢を持ち常に本質でいることを忘れないということです。単に頭で理解すると簡単な言葉ですが、実際は今までの毎年のテーマの総合力が必要でこれが分かるにはまた沢山の実践が必要です。

夢を持つからこそ人はブレずに一つにいのちを盡していけます。時代が変化の時こそ、夢に向かって真摯に自分自身と正対して独立自尊の努力をできるかが大切になってきます。

世界は次第に激動期に入ってきています。どんなに寒く凍ったような闇夜がきても、明けない朝はなく、太陽が昇らないことはありません。私たちは地球にいるいのちの一つですから万事転じて安心し、信じた福世かな時代に換えていくのみです。

常に初心を忘れずに人類共通の夢の実現のために自分自身の真心を盡し切ってつながりの中で篤く貢献していきたいと願います。

今年も天恩に対して謙虚に、人恩に対して素直に、仲間を愛し思いやり、同志を勇気づけ励まし、師を真心で援け、後輩を命懸けで導き、子どもたちを深く信じ、清く正しい心で社會を広く明るく照らせるように、自然の道、かんながらを歩ませていただきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。