新新嘗祭

もう今年で無肥料無農薬で田んぼづくりをはじめて14年目になります。来週は新嘗祭を開催する予定で感無量です。特に今年は、すべて手植え手刈りの稲架かけ米で思い入れもあります。お田植祭では、子どもたちがたくさん参加して不揃いになりましたが味のある素敵な田んぼになりました。

振り返ってみると、田んぼをはじめた理由は東日本大震災からです。あの時、東京で被災して人災の悍ましさや謙虚さを犠牲になった人たちのためにも忘れてはならないと戒め、無肥料無農薬の田んぼを借りてはじめました。

そこからは収量は気にせず、プロセスや生き方、そして豊かさや学び、人々の助け合いや感謝が循環する生き物がいっぱいの仕合せの田んぼを目指してきました。その思いは今もまったく変わりません。

御蔭様で、不思議なことの連続を体験し少なかった収量は他の慣行農法の田んぼに匹敵するほどになり田んぼの中ではあらゆる生態系が調和して清々しい場ができました。そのお米は大学で調べると抗酸化力が有機農法の三倍あるとされ、また小粒ですが深い味があると人気でした。

もともと日本人は、親祖の時からお米の種を大切に守りお米づくりを通して理念を伝承してきました。その証拠に、しめ縄をはじめあらゆる神道の年中行事はお米を中心に実施されます。お米の持つ力は、単なる空腹を満たすだけではなくまさに湧水のように滾々と出てくる元氣の源泉のような存在です。

そして新嘗祭はまさに生まれ変わりの祭事であり、元氣が甦るための大切な神事です。

今を共に生きる人たちと一緒に新嘗祭をすることは、今を甦生して新たな生き方を伝承していく研ぎ澄まされた純度の高い道の実践でもあります。

今年は、ご縁あって浮羽市の古民家を甦生して新しいお米屋さんをつくるお志事をいただきました。これは日本人がお米離れが進む中、元氣のあるお米、真に安心安全の徳のあるお米をこの時代に食べてもらうために温故知新したものです。

パン食が増え、小麦が増えましたが本来は日本の風土を守り、田んぼを守り、子孫を守るために私たちの先祖は代々お米を食べてきました。時代が変わっても、普遍的な智慧は変わることはありません。

時代を否定することなく、尊重して本来の智慧を伝承するのです。

子孫のためにも、素晴らしい新嘗祭を開催していきたいと思います。

生き方と神秘性

私たちのすべての現象というものは自然物から學ぶことができます。火や水や風、土などあらゆるエレメントは常に組み合わせによって現実を象ります。この精霊ともいえる、不思議な存在はまだすべて発見できているわけではありません。この宇宙には、まだまだ知られていない精霊がありそれは知らなくても私たちの暮らしの中で大いに役立っています。

例えば、人体の神秘もですがわかっているだけのものではありません。まだまだ現代の科学や医学では理解できないもので溢れています。そういうものを発見するのは、自然に精通する感性が磨かれていなければ難しいものです。

私たちが無意識に感じている重力をはじめ引力、回転なども実際には多大な影響を与えこの世を象ります。また熱や火といった光もまた多大な影響を象ります。目に見えたり感じるものを抽出しても、すべてを再現する科学はまだありません。

意識というものもまた同様に、意識というエネルギーが他の精霊などと連携して現象を顕現させることも、あるいは二つ以上のものが一つになってはじめて象るものが変化するものも、私たちが無というものを再現できないのもこの不思議な力を理解できないからです。

それを神秘とも呼びます。

この神秘性というものは、スピリチュアルとか怪しいとかいわれますが実際には知識で理解できるものの方が本当は怪しいものがほとんどです。実際ではそう見えただけで本質は異なるものばかりだったりもします。本来は神秘は神秘のままで直観して理解していく方が本質的であることもあるのです。

現代は、偽装やそれ風で本物に仕立てあげていくものです。その方が、お金になり儲かると思っている人も増えています。正直というのは、神秘性を信じるからできるもので神秘性を利用しようとはしないものです。

真の信仰というのは、謙虚であり正直で素直でいるということでしょう。

色々なものを生き方を通して象りながら、神秘性を伝承していきたいと思います。

お米問題

日本のお米問題はかなり深刻です。その理由は、食文化ではなく単なる食料としてお米を扱うことにあります。それぞれの国には、何を主として食べてきたかという歴史、いわゆる食歴というものがあります。長い歳月、それを食べてきたというのはそれだけ深い意味があります。

たとえば、その気候風土に適うもの。それは自然との共生や循環とも関係します。また長い歳月をかけて自分たちの腸内細菌をはじめ、もっとも栄養素やいのちを循環させるのに適した状態にお互いに変化しあっていること。またそれを育てて見守る過程で、文化や伝統の智慧を継承してきたことなどがあります。

私たちのお米は、神社や神棚のしめ縄にもなり、あらゆる暮らしを助けてきました。また田んぼは貯水の役目を果たし、お水を浄化し菌を発酵させる場になりました。他にも結などの助け合いを促し、精神性などを磨く大切な素材ともなりました。家の屋根を守り、馬などの家畜も育てる、納豆などもまた稲藁を使います。

つまり主食が失われるというのは、単に物量が失われるのではなくその周辺にあるあらゆる知恵や文化やつながりが失われるのです。

お米問題の本質とは、このことです。

私がお米を無肥料無農薬でつくるのをみんなで力を合わせて取り組むのもまたこのお米の本質を守るためです。

お米によって助けていただいたご先祖様たち、そして今でも子孫を守ってくれている存在。その存在を守ろうとするのは当たり前のことです。

感謝を忘れず、お米に取り組んでいきたいと思います。

お庭

現在、浮羽の古民家の庭の甦生に取り掛かっています。朝倉の水害の石を使って石組みをし、その石組みの徳が活かせるように目的と理念と自然が調和するように手掛けています。

そもそも庭師をはじめお庭の原点は何か、それは信仰に基づくものです。現代では、庭は趣味や嗜好で人工的につくられていますがかつての庭は極楽浄土をはじめ神域を顕すものでもありました。

それを私は「お庭」と呼びます。

お庭というのは、いのちが宿る大切な場です。場というのは、調和することでいのちが耀くものです。よく調和したお庭には、そこで生きる全ての存在の徳が顕現します。

私は場づくりをしますが、庭師ではありません。大工でもありません、実は何でもなく場づくりをするだけです。それぞれの専門職にわかれて、それぞれの視点や角度で仕事をする時代、そしてお金にする時代です。

しかし本来は、お庭もその場の主人によって見守り育てていくものでした。そしてそのお庭には、神様が宿り全体を見守ります。まるで神社とお社、杜の関係と似ています。

大切なことは、お庭も生き方の一つということです。

引き続き、これから2か月かけてお庭を仕上げていきますが徳を活かしあうような場にしていきたいと思います。

侍の精神

昨日は日本の「天下の三大揃え」の一つ、秋月の鎧揃えに法螺貝役としてお役目をいただき勤めてきました。秋月和紙の侍、井上さんとのご縁で参加してからはや五年目になります。

もともとこの鎧揃えは江戸時代の秋月藩における年中行事の一つであり、寛永14年(1637年)の島原の乱に際して初代藩主「黒田長興」(黒田長政の三男)が家中に命じて正月三日に鎧揃え(軍事演習)を行ったことが起源です。

その後は明治維新とその後の廃藩置県で秋月藩は消滅し、残された士族たちによって細々と続けられていた鎧揃えも昭和20年代には一度途絶えます。それから60年余りの時が流れ、平成21年(2009年)に地元有志により『秋月鎧揃え保存会』が結成され現代に鎧揃えを甦生しました。

この鎧揃えが生まれた背景を調べてみると江戸時代に入り最後の関ケ原の戦いが終わってから38年ほど経ち、武士たちも平和が続き平和ボケしていたといいます。実践経験のない武士たちはとても弱く、島原の乱に対応できず実践経験がある古参の武将たちがその時、とても重宝したといいます。平和ボケした武士は戦おうともせず、鎮圧もなかなかできず、一揆などがおき反乱する状況になるまで初期の対応もしなかった藩にも問題がありました。

つまり平和に油断していたことで被害が大きくなったのです。

この鎧揃えの年中行事の目的は、易経、孔子の『 安くして危うきを忘れず(安而不忘危) 存して亡ぶるを忘れず(存而不忘亡) 治まりて乱るるを忘れず(治而不忘乱)』の意味もあります。

これは安泰な時であっても危機を忘れず、存続している時も亡びる事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れないこと。どのような時でも、油断してはならないという先人からの遺訓であり智慧の一つです。

そう考えて観ると、ただ伝統は繰り返し行っているわけではありません。この本質を守り続けようとする意志を伝承したものが行っている大切な実践であるのです。

現代ではどうでしょうか?

政治の無関心や先送り、そのうちなんとかなるだろうと何も主体的に動くことがなく、忙しさとお金儲けや目先のことで精いっぱい、誰かがやるだろうと他人任せにしては油断していないでしょうか。

今、もしも食糧危機が来たらどうするのか、もし近隣の戦争に巻き込まれたらどうするのか、もし大災害や金融危機が来たらどうするのか、ちゃんと対策はできているでしょうか。

私は暮らしフルネスの実践を通して、いつも危機に備えた暮らしをしています。自然と離れずに循環の中で食料や燃料やお水を確保し、徳を中心に据えた講のコミュニティをつくり、伝統の智慧を継承し、古民家を甦生しています。そして子どもたちの主体性を見守る環境をつくり広げ、最先端技術を温故知新しています。それでも油断してないかと色々と挑戦をしています。

武士道とは何か、商人道とは何か、日本人が大切にしてきた精神を守ることが治に居て乱を忘れずという実践ではないでしょうか。

引き続き、子孫のために志士たちの真心を紡ぎながら侍の精神を守り続けていきたいと思います。

徳と商人道

商売というのは正直であるというのは日本的経営では原点とも言えます。正直の徳というのは、太古のむかしから私たちの生き方として遺伝子に組み込まれているものです。以前、若い時に海外で仕事をしていた時に正直であるということを全く大切にしていない文化の国がありました。当たり前に正直ではないことを誇らしく話している人たちもいて、商談になるといつも騙されていました。騙される方が悪いのだと、これはこの国ではそうしなければ生きてはいけないとも言われ嫌悪したことを覚えています。

その時は何度も反省をして騙されないようにしようとしましたが、結局は手練手管で騙す人たちはずっと上をいくものです。そういう生き物だと思ってその時は対応しましたが、その後もその国にいくと似たような体験を続けています。

結局、文化というものは生き方や道と結ばれているものです。

日本ではいつではその生き方や文化が醸成されてきたのか。有名なものの一つに、石田梅岩の「石門心学」があります。これは江戸中期に説かれた商人道という生き方ですこれは「学問の至極といふは、心を尽し性を知り、性を知れば天を知る」ということを中心に語られます。

私の解釈では、学問とは真心を盡して天からの徳を知るという徳を活かす道を得る生き方であるという意味を感じます。

そもそもすべてのこの世に循環するいのちは、天の徳をいただきそれを活かしながら共存共栄していくものです。天地自然の道理を學ぶために石田梅岩は、勤勉・倹約・正直などを用います。

これは自然に學ぶことと似ていて、そのどれもがこの世の道理そのものです。人間社会だけで自然を無視すれば、嘘や欺瞞、放蕩経営、楽して儲けるなどの発想、つまり徳ではなく得に偏っていくものです。

私たちの先祖たちは、道として生き方を伝承し商人道を通して日本という国を象っていきました。現代でも、その考え方は通用するどころか今は何よりも一番大切にしなければならない智慧だと私は感じます。

引き続き、徳を磨いて徳を積んでいくことで精進していきたいと思います。

いのりの像

私の身近には数百年以上経た仏像や木像がいくつかあります。古民家甦生の関係で、古い家と関わると次第にそういう存在とのご縁があります。仏像には玉眼が入り、数百年経った今でも活き活きとしています。

そもそもこの仏像や木像に限らず、すべての神事や仏事で使われる法具や道具は祈りと共にあります。祈りが入っていないものは、どこかパサパサと乾燥してくすんでいます。しかし祈りをし、丁寧にお手入れをしているものはいつまぜも瑞々しくいつまでも新鮮です。

結局、これは家も同じく生きている状態にしている存在があるということです。その存在は、人の意識であることは間違いありません。

現代は、有名な宗教以外の人が何かをすると怪しまれたりスピリチュアルだとか言われることもあります。しかし、よく考えて観ると日本は古代から祈りは当たり前に身近にあり、神道であれば三種の神器をお祀りし、仏教でもお経や仏像を拝み、農民たちはその土地土地やご先祖様を敬い生きてきました。

そこで大切にされてきた存在の一つが、仏像や木像、また鏡だったということでしょう。

数百年経っても今でも残っていることがすでにすごいことですが、明治の廃仏毀釈などでほとんどが破壊されています。仏像や木像からしたら本当にいい迷惑な話ですがどれも人間が行うことです。

歴史というのは、人間がかつて何をしたかの事実を残します。その破壊されたものの一部が残っていたとして、それを現代の人がどうするかは現代に託されたものです。

大切に甦生していく過程で、私たちは何を祈ってきたか、どのようなお役目があったものかを意識を通じて伝承していくものです。

ご縁に感謝して学びを深めていきたいと思います。

月夜

最近は、毎晩のように月を見上げます。月の光の美しさが眩く、夜の存在感に圧倒されます。今では外灯が当たり前になり、家の中は電気で明々としています。しかしむかしに思いを馳せると夜とは何か、月夜とは何かということを直観するものです。

特に暗い山中や谷、あるいは大海原などで電気ない時代に月が出るとまるで一面が昼間のように明るかったのではないかと思います。私たちの眼は日頃、暗闇をはじめ自然の薄明りの中で過ごしていると夜目がきくようになるものです。

私も先祖伝来の遺伝か、夜目が利くタイプでよく見透すことができます。

そんな時、小さな明かりや月の反射などから全体を感覚で捉えることができます。月明かりさえあれば、あるい程度の立体感をはじめ生き物たちの気配なども観ることができるものです。

他にも家の中に差し込んでくる月の光は、全体を落ち着かせ物たちのいのちも映し出すものです。

陰翳の美しさはまさに月が照らします。

時代が変わっても、月の美しさは変わることはありません。普遍的な存在がいつも見守ってくれているという安心感は、子々孫々まで伝承していくようにも思います。

秋の夜空の美しさには懐かしさが漂います。

丁寧な暮らしを味わっていきたいと思います。

ご縁の物語

人生はご縁によって選択が決められていきます。そのご縁も最初は些細なことからはじまるものです。一見、関係ないように感じたものがのちの人生にとても偉大な影響を与えていくものもあります。振り返って見ると、あの行動がまさか今の選択になっているとはというものばかりです。

そのご縁は、人とのご縁もあれば場所や物、あるいは思い出など思い返すとどれもその時は思ってもいないものです。しかしその時、出会っていなければ今はどれもありません。

これは果たして選択してそうなったのかというと実際には選択したのではなく、はじめからそうなっていたとも言えます。これは別に運命論かどうかの話ではなく、事実としてご縁の前から始まっている物語の中に自分が存在しているということに氣づくものです。

つまりご縁というものの正体は、連綿と繋がり結ばれている中で自分の今が存在するということでしょう。それを直観させるものこそご縁というものです。なぜそうなったのか、なぜこうなったのか、分からなくても物語の中でずっとそれを読み続けているのならそのご縁が必然であることに氣づくのです。

面白いのは、あれがこうなったのかと振り返る時です。そしてこれがどうなるのかを予知する時です。さらに今の自分がどの物語の中でどう立ち振る舞っているのかを自覚する時です。人は、生き方や道を省みるとき実に縁尋奇妙な偉大な存在に感謝します。

同じ月を観ても、かつての月では氣づかなかったことに出会います。そして同じ暮らしをしていても常にご縁の展開は刻々と変化を已みません。この仕合せと安心感は何ものにも代えがたい一期一会です。

人生の喜びはご縁の中にある仕合せです。

引き続き、一期一会の今を大切にし徳を磨いていきたいと思います。

いのちの巡り

現在、畑の春野菜は次第に種になり次の季節までの準備に入っています。種はその前の季節の記憶を持ち次の季節に合わせていのちを成熟させていきます。あの小さな種が、土や水や光や風を経て大きくなっていく姿にはいつもいのちの偉大さを感じます。

私たちの身体もまた同様に、様々な季節を経てそしてあらゆるいのちを受けて成熟していきます。すべての存在とつながり、その存在によりいのちが成り立っているのです。このいのちの繋がりの中にある自分というものは、いつもそれぞれのいのちを循環させて通過させているのがわかります。

まるで風が身体をすり抜けていくように、光が身体を透過するように、まるで水が濾過していくようにいのちは溶け合います。

いのちの正体とは、形を変えてはそのものになりいのちを理解していく。時には植物となり時には虫となり、時には動物にもなる。意識の集合体がどの場所でどのようにいのちを察知するか。私たちは文字や言葉を使いますが、いのちはお互いを察知するものです。

季節というものは、その察知することにおいてとても秀逸に感性しています。

これから冬支度になり、冬のいのちと関りが深くなります。次第に身体も心もいのちも冬に備えて変化してきています。いのちの変化は、自然の変化と共にあります。

よくよく感得していのちを巡らせていきたいと思います。