晩秋の徳

毎年この澄み切った晩秋の月を観ていると暮れの秋を感じます。透明に澄んだ風景というのは終わりと始まりを感じさせるものです。晩秋というものは、これから冬に入る御報せでもあります。渡り鳥たちが移動をはじめ、虫の声も静かになってきます。初夏のあの賑やかで活気のある旺盛な頃を懐かしく感じます。もののあわれや侘びさびなどもこの晩秋になると身近に感じるものです。

私たちは季節の廻りと心情というのは結ばれています。四季のめぐりと一緒に歩んできた暮らしのなかでは、秋には秋の素晴らしさ、冬には冬の素晴らしさを観て徳を磨いていきました。

物事には表裏の関係があり、良し悪しもあります。悪いところを転じて善いものにしたり、善いものを転じてさらに好いものにしたりと、ご先祖様たちは自然の循環に逆らわずに受け入れて共に暮らしていける感謝と仕合せを感じていました。

晩秋と言えば、冬支度です。

先週から干し柿など保存食の準備をはじめたり、他にも種取りや障子の張替えをはじめたりと暮らしの中では冬の準備で目白押しです。お山での暮らし、町家での暮らし、農的な暮らしなど古民家がたくさんあるのでそれぞれに冬支度がはじまります。

今年は何かと新しいことも増え、浮羽の古民家甦生もあることで暮らしの時間を有意義に味わうように意識してきました。実際に感じるのは、毎年続けている年中行事やお手入れの御蔭様で心は穏やかに自然との調和を味わえているようで、暮らしフルネスの実践の御蔭様に有難く思います。

晩秋の光は百花繚乱にいのちが旅支度をする季節。

光をよく観て、枯れていき役割を交代していくさまざまないのちにいのりを籠めていきたいと思います。

十三夜祭

昨日は、十三夜祭を古民家和楽で行いました。遠方からも多くの仲間たちが集まって秋の風情を味わいました。そもそも十三夜とは、陰暦十三日の夜、特に、陰暦9月13日の夜を指す言葉のことです。

この十三夜のはじまりは平安時代、延喜19年(919年)、醍醐天皇が清涼殿で月見の宴を催したのが起源とされそこから広がったといわれます。この十三夜は十五夜の次に月が美しいといわれ「後の月」という別名があります。他にも福岡県では「女名月(おんなめいげつ)」とも言われます。また「栗名月(くりめいげつ)」「豆名月(まめめいげつ)」ともいわれます。この時季に秋に収穫される栗や豆を供え物にしたことからいわれます。

みんなが栗や豆などをはじめ、収穫したものをご持参してお供えすると神棚には多くのお供え物で溢れます。まさに収穫、豊穣の風情が家全体に広がります。

銀杏栗ご飯をはじめ、栗団子をみんなでつくりきのこ汁にいれて食べましたが心も身体も癒されました。他にも焼き栗をはじめ栗や豆のスイーツもたくさんいただき、みんなで栗三昧。昼間は、干し柿つくりをして古民家の玄関は干し柿がまるでイルミネーションのように飾られ秋を醸し出します。ススキの室礼やお庭で満開のキンモクセイの薫りも一期一会の豊かさを感じさせてくれました。日本人で日本に産まれてきて本当によかったと感じる懐かしいひと時です。

そしてお月見をみんなで外で味わい、少し欠けたこれから満月になる煌めきを放つ月光に深い祈りを捧げます。十五夜は秋のはじまりでしたが、この十三夜はこれから冬を迎える前の美しさがあります。少し早めに待つという文化は、日本の精神性でありその待つことの豊かさ、心の流れる時間に生きる喜びかもしれません。

最後は、音楽を奏でてみんなで和樂の時間を過ごしました。毎年、ご縁のある方とのセッションもあり年々進化発展していく彌栄の場に感動するばかりです。

毎年、暮らしの中で生きていける仕合せはいのちの喜びです。月と繋がっているという感覚は、私たちが見守れているという感覚を磨いていくことに似ています。毎月、お月さまがいて月光を与えてくれていること。月を観るということは、心を観るということでもあるのでしょう。

これからも先人の知恵に習い、暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

育ちを見守る

人は環境をつくりますが、環境もまた人をつくります。これを「場」ともいいます。私は場道家を名乗っていますが、これは場をつくることを道にしているからです。どのような場をつくっていくか、そこに生き方が入ってくるものです。

そもそも場とは、単な英語のplaceではありません。ここにはいのちが宿ります。いのちというのは、場の中で活かしあうものです。例えば、どこまでを場と捉えるかというものもあります。宇宙全体を場とするのか、それともこの家のあるところを場とするのか。その境界もまた人がつくります。これを環境ともいいます。

環境というのは、人間がつくりだす場のことです。どのような環境にしていこうとするか、そこには人の心が宿ります。とても静謐で清廉で潔白、美しく澄み切ったところにはその人の心が反映しています。その反対に、穢れ乱れるところには欲望や煩悩があり荒んだ人の心があります。ゴミが散乱している場所などもそこに心が投影されます。

人間は場を調えることで心を同時に調えることができます。

丁寧に場を調え、心を磨いている人は環境をつくるのです。

環境というものは、一朝一夕ではできません。何度もお手入れをしたりお片づけをしたり、お掃除をしたり、お祈りをしたりと心の実践の集積があって醸成されていくものです。それをむかしは教育ともいい、しつけとも言った時代もあります。

現代は、生き方や道よりも知識や手法ばかりが便利だからと優先されますがそのために失われたのがこの「場」をつくることかもしれません。場は人をつくります。私の使命もまた人づくりです。

丁寧に場を調えて、育ちを見守っていきたいと思います。

伝承の正体~生き方~

伝承というものは、一人ではできないものです。伝える人と承る人であってはじめて成り立つものです。伝えたいという真心を、引き受けることができる真心があって承ることができます。承った人は、それをまた別の誰かに伝える使命を持ちます。不思議ですが、伝言ゲームのようにそれを無限に伝え終わるまで続けていくのです。

伝言ゲームをしたことがある人ならわかると思いますが、最初に伝えていたものが人数と時間が経つと変わっていきます。誰かが間違えて伝えると別の意味と言葉になって最初のものが跡形もなくなくなってしまうのです。それだけちゃんと正確に伝えることは難しいのです。

伝える側がそれを理解して、如何に間違えなく伝えられるかと知恵を絞ります。それが型になったり、人数制限したり、道具や法具、文章、またたくさんの方法論をつくり工夫しました。

しかし時代を経ていくと、環境が変わります。むかしそれを伝えていたころの環境が今になければ、伝える方法論も消失します。言葉も価値観と共に変化し、時には少子化で子どももいません。そうなってくるとまた伝える側に新たな工夫が必要になります。

つまり伝承は、伝える側の工夫と承る側の工夫が永遠に必要なことなのです。創意工夫をもってそれができるだけ長く正確に伝わるように変化し続けていくのです。それを私は、創新とも呼びます。

そして長い歳月で伝承がゆがんだり、環境が変わったり、誰かによって違うものに置き換えられりしたものを原初や根源にまで甦生する人たちが現れます。これを私は起新と呼びます。

創新、起新というのは、伝承の真心を持っている人がその時代に天から選ばれて登場します。そしてその伝承者はみんな純度の高い魂、研ぎ澄まされた純真さを持っているように思います。

伝承の不思議とは、この神がかり的な奇跡の一期一会の邂逅によって何度も消えかけたものが甦生していくことです。私は、いのちの甦生を人生の砥石にして歩んでいますが身近ないのちからもその甦生の仕組みや叡智をいつも学んでいます。

伝承者たちがいる御蔭で、私たちは先人からの尊い生き方を守ることができます。

生き方は道であり、道は人生を導く羅針盤です。生き方こそが伝承の正体ということでしょう。

引き続き、伝承者たちのお役に立てるようにいのちの伝承に取り組んでいきたいと思います。

求道の甦生

鞍馬寺の晋山式に参列するご縁をいただきました。振り返るともう20年以上、鞍馬寺と深いご縁をいただいています。はじめはくらま山保育園との出会いでしたが、その後もずっと前貫主に心あたたまるご指導をいただき自己修養を磨いていくことができました。そのご縁もまた、今回新たに鞍馬寺に住持する信楽貫主の御蔭です。

長い歳月を振り返ると、道に見守られ今があることに氣づくものです。

志は仲間を集め、道は同志を与えます。求道そのものの中に人と縁ありということでしょうか。新貫主と晋山式の凛とした立ち振る舞いと澄み切った声で読経する姿、そして一緒一体になって参列者も発声して調和する倍音の場に新たな道を踏み出す歓喜を味わいました。

その後は祝賀会と続きましたが笑顔でいのち輝く生き方の実践を見せていただいているようで誇りと安心と真心を感じました。一期一会の刻、きっと天から前貫主様のはからいもあったのではないかと思い心から感謝しました。

夕方からは晋山式のお祝い記念にと私から日子山仙螺の法螺貝を十一貝ほどくらま山保育園へ贈呈しました。園長をはじめ、もうお付き合いの長い先生方や新たな先生と法螺貝の練習と指導をしました。みなさん善い音が出て、さすがは「一人ひとりのいのちが耀く」という理念の実践を大切にする保育園だと感動しました。

私は生き方としてもですが、何かと比較したり誰かと比較することが苦手です。最初からあるがままの自分らしく唯一無二こそいのちの正体であると信じています。なので法螺貝の音もまた同様に、唯一無二の個性をもつ法螺貝とその人の「真音」がもっとも素晴らしい音だと信じています。

鞍馬山は、私の人生の恩人であり尊敬する先生そのものです。その先生のお山の麓で子どもたちが法螺貝を立て、お山も子どもも元氣にしてくれるのは深い喜びと仕合せを感じます。

自分のいる場が調い、子どもたちの心が和す波動が新たな時代をつくっていくでしょう。

いのちは常に耀き続け循環して変化しています。

新たな時代に入った鞍馬山、求道の甦生、弥栄おめでとうございます!天狗大僧正、護法魔王尊、悠久の尊天法螺道の益々の発展も心から楽しみにしています。

三拝九拝

大天狗の道

深山幽谷に棲むとされる存在に天狗があります。私は小さい頃から英彦山の豊前坊に導かれいつも身近に天狗がいました。この天狗の起源は中国では「流れ星」とされました。具体的には、隕石が大気圏に突入し地表近くで爆発して大きな音を立てることからそれが犬の咆哮に似た音が聞こえて天狗と呼ばれるようになりました。

つまり最初は、隕石が落ちたところに天狗が顕現したとなったのでしょう。標高の高い霊山にはよく隕石が降ったともいわれます。古代の人たちは、お山に天狗がいると思ったのは流れ星と共にお山に降臨した存在と感じたかもしれません。

私の人生の中で最も深いご縁ができた鞍馬山も金星の隕石が降臨したといわれているお山です。ここには、天狗大僧正という日本八天狗の棟梁がいるとされています。そしてその存在を「護法魔王尊」と呼びます。この護法とは仏法を守護するという意味です。魔王は、西洋では神の対照的な存在を悪魔としました。しかし東洋では、試練と成長を与える破壊と甦生の象徴としました。そして日本では、私の解釈ですが大自然そのものの徳の顕現としての鬼としての魔王としたように思います。

そもそも鬼というのは、恐ろしいものや力強いものの存在のことを指します。この鬼は桃太郎の鬼退治のように悪さをするよくない存在に描かれますが、実際には善いことをする鬼の物語もたくさん地方には遺っています。以前、三浦梅園の遺徳を學ぶときに訪れた国東半島では「邪悪なものを追い払い幸福をもたらす仏の化身」であると大切にされていました。

つまり護法魔王尊とは、仏の化身ということです。魔仏一如は神仏混淆の証だったように私は思います。

そしてこの天狗とは、まさにその仏の化身としてお山に棲む大自然の霊力と調和した存在ということでしょう。歴史の中で、存在も変化し研ぎ澄まされていくものです。

今の時代の天狗と護法魔王尊はどのような存在を言うのでしょうか。

明日、その鞍馬寺の晋山式に参列し御祝いにくらま山保育園の子どもたちに私が手掛けた日子山仙螺の法螺貝を十一貝ほど贈呈します。このご縁がこの先にどのように結実していくのか、大天狗の道のお導きに感謝するばかりです。

引き続き、鞍馬山とのご縁に感謝しながら大天狗の教えのままに歩んでいきたいと思います。

 

暮らしフルネスの実践

時代というものがあります。私たちはいのちが循環するように、すべてのものはいのちの変化と共に成長を続けていきます。これは植物に限らず、すべての虫たちもまたいのちの流れに合わせて変化を已みません。

いくら特定の既得権益を手にし、膨大な権力を持ったとしても時代の流れには逆らうことができないのと同じにいのちの循環には逆らうことはできません。これはこの世の真理です。

つまり時代そのものが真理ということでしょう。

例えば、加齢などもわかりやすい事例でいつまでも10代の身体を維持することはできません。50年も経てば、変化に合わなくなっていきます。人はお金を使うことや権力を持つことで永遠を得ようとする人がいます。歴代の皇帝や富豪などもそれを言います。

しかし時代に取り残されていき、無理を通しても必ず時代がその人を置き去りにしていくのです。なので、いのちは役割交代やバトンタッチ、という方法でつなげていきました。これは置き去りにならない仕組みです。そうやっていのちの循環や変化を受け容れ、不自然にならないようにいのちを守ってきたのです。

いくら仮想空間や思い込みで変わらない世界をつくっても、それは現実ではありません。それにそこにはいのちはありません。あくまで脳みそで切り取られた空想上のことです。実際には、私たちの意識というものもいのちの循環の中にあります。意識も変化し続けていき、人類もまた成長を已みません。だからこそ、受け容れていくことや手放すことが求められていきます。

いのちはつながっているものだし、途切れることがない全体として一つのものだからです。ついつい忘れがちですが、先人たちは智慧をもっていのちが循環する暮らしを通して変化してきました。

暮らしフルネスの私の実践は、まさにこのいのちの循環を已まない実践のことです。

子孫たちが安心して暮らしていけるように伝承を磨いていきたいと思います。

徳の旅

人生はそれぞれに道を歩んでいきますが、誰と出会うかどの場に出会うかで方向性が変わっていくものがあります。それまで進んでいた方向の向きが変わるのです。それは旅の途中で、道すがらに先に歩いた人や、歩き方が素晴らしい人、あるいは旅そのものの定義が違う人、意気投合したり同志に出会うことでも変わります。

後で振り返ってみたら、あの時の出会いでということが多々あります。また或いは、どうしてこうなったのかと最初とだいぶ変わってしまったこともあります。どちらにしても、転機になるのです。

この転機は、自分の思い込みの外にあるものです。実際には、心の素直さや正直さ、ご縁を信じる信仰心や純粋な生き方が大きな影響を与えます。

自分に嘘をつかない人は、転機も正直です。これが転機だと気づいたら、あっさりと方向性を変えてしまいます。しかしその人は本来の初心、あるいは元々潜在的に決心していた方向へと進んでいきます。

旅の醍醐味は、山を目指して海にいき、空を目指して地中に潜るくらいダイナミックに変化を問いません。可笑しな話ですが、地中を潜っていたら突き抜けて空に着いたり、山を登っていたらそこが悠久の歳月で海になっていたりするものです。

だからこそ、その時々に出会う奇跡に感受性が反応していることが大切なのでしょう。

出会いというのは、出会いの意味があとから着いてくるものです。そこには素材そのもの、いのちそのものの徳があります。

徳があるから旅が変わるのです。

徳積循環の場では、そういうことが多々起こります。ユニークな組み合わせが、さならる転機を醸成します。このように徳が百花繚乱に遊ぶ場所は、ここしかありません。有難い徳に見守られながら、旅を味わっていきたいと思います。

大切なこと

人生は、いつどのタイミングで亡くなるのかはわからないものです。大切な人が増えていくと、それだけ別れがつらくなります。その大切さは思い出となっていつまでも大切にされていきます。

この大切という字は、不思議な字です。語源を調べると、平安時代に遡ります。今昔物語集では「大い切る」は、切る(きる)ではなく、切る(せまる)という読み方になっています。平安末期には、「捨て置けない」という意味になります。そして室町くらいの頃になると「かけがえないのもの」となります。江戸時代には、「愛する」と訳されるようになります。今の時代も、守りたいもの、失いたくないもの、敬愛するものと訳されます。

人生は守られている存在が増えていき、自分が守りたいと思う存在も増えていきます。失ったとき、守られていたことに氣づくものです。では何を守られていたのか。それは存在そのものや心が守られていたことに氣づきます。

親切という言葉もあります。これは親を切るではなく、親しみ丁寧に接するという意味です。この切るという字は、守るという意味ではないかと私は思います。この守るという言葉も、切ると同じように歴史の中で変化している言葉です。

言葉というのは成長していくということでしょう。

それは人が用いることが増えていくからです。その言葉をどのような時に用いたか、それによってその言葉に新たな人格が加わるのです。

人が使っている言葉には、人格が宿ります。誰が使うか、どのように使うかで意味も変わります。だからこそ、先ほどの大切という言葉や親切という言葉は特に重要な言葉になっていきます。

私は徳という字もよく使います。この徳も歴史と共に成長していきます。言葉というのは、その時代の人格が依り代になっているものです。

いのちというものを思う時、言葉の大切さを改めて実感します。親切や大切など、暮らしの中で使う言霊を見守っていきたいと思います。

 

調和の道

いよいよ浮羽の古民家甦生も大詰めに入ってきました。伝統職人さんたちと一緒に、長い歳月を共にし色々と和合しながらやってきましたが完成が近づくとみんなとても仲良しになります。一つのことを目的を定めてみんなで力を合わせて家を甦生する。私の唯一の楽しみはこの一点です。

みんなで力を合わせるというのは、なぜこんなに喜びがあるのか。目的を共有する仲間の存在、そしてみんながそれぞれに自己を磨いて精進していく仕合せ。これは本能的に人間が感じる喜びの一つではないかと思います。

1人ではできないことも、周囲の助けがあって実現していく。これは普遍的なことです。産まれてから私たちは死ぬまで本当にたくさんの人たちの御蔭様を得ていきます。自分が立派に成長するのには、偉大な見守りがあってのことです。

そしてその陰にはいつも力を合わせるということが必要です。協力ともいいます。協力していくことで力は発揮されます。

結局、家を甦生するときに最も必要な棟梁やリーダーの仕事はみんなの力を合わせて発揮できるような場を創ることではないかと私は思います。もう甦生も8軒目になりますがそこで得た私の体験と気づきは心を一つにすることの大切さです。

心が一つになるとき、いのちが耀きます。心は二つ以上のものが和合するときに最も調和して力が出るのです。これは波動も同じです。最も強い至高の波動は、感情の高ぶりではなく心の静けさでもなく、調和することです。

調和するとき、私は甦生が為ったと確信します。

引き続き、調和の道を求めてさらなる一歩を踏みしめていきたいと思います。