徳を磨くチャンス

徳積堂が間もなく始動するにあたり、初心を確認する機会が増えています。自己との対話を通して、改めて心の調整を丁寧に紡いでいく毎日です。

徳というものの正体は、なかなか現代では伝わりにくく構想だけを話すとすぐに感謝ポイントや恩返しシステムなどと脳が判断できるもので理解されていきます。私はもともと実践を重視するタイプですが、世の中に現代の言葉で甦生し、今なら何をすれば徳を積めるのかの具体的な事例を伝え、仲間や同志たちと一緒にその豊かさを伝道していきたいと取り組む中で様々な葛藤も生まれます。

特に親しい人や、尊敬できる人たち、また親切な方々になかなか伝わらないときは時機ではないのではないかや、これで本当に良かったのかと自問自答することもあり、その時は静かに元の場所に回帰して徳についてまた自分なりの整理をしていきます。

目に見えないものを語るとき、現代ではそれは宗教の類であると分類わけられます。しかし、この世の中はご縁も同様に目には観えない「つながり」によって存在や関係が結ばれているものです。そしてその空間的にも歴史的にも深く結ばれた縁起によって私たちは自分の道を体験していくことができています。

徳というものもまた中庸であり、実態はわかるようでわからないものです。今朝がた、また整理しているとふと常岡一郎さんのことを思い出しました。この方もまた、徳を積み、自分を磨き切った人生を送られた方でした。同じ福岡県出身の方です。こういう言葉があります。

「徳と毒はよくにている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒が薬ということばもあるではないか。毒になることでも、そのにごりを取れば、徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引きうけるなら辛いことほど徳になる。」

「とく」に濁点が入ることで、「どく」ともなる。多少の毒は薬になり、良薬苦しともいえる。何も毒がないものは徳にもならない可能性もある。大事なことは、その毒の濁りを洗い清め禊ぎ祓い、徳にしていけばいいのである。最初から毒だからと避けて清らかなところにだけいてもそれは徳にはならないものかもしれません。泥沼の中の美しい蓮のように、私たちにとって大事なことはただ清らかなところで善いことをすればいいのではなく、それがたとえ自分にとっては苦労であっても勇んで訪れてきたご縁に素直な心で取り組んでいくこと。やりたいことのためにやりたくないことを我慢するのではなく、やりたくないこともまた喜んで勇んで引き受ける。あらゆる我執をも手放して、濁った心を見つめてそれを磨いて光らせる正直な想いで引き受けて至善に転換していく。そういう取り組む姿勢や実践の積み重ねによって感謝と歓喜が湧いてきてこそ徳になるのだと。つまり、毒を自分の身体を通して徳にしようという祈りの心の中にこそ徳を醸成する要諦があるということなのでしょう。

これは私の意訳ですから文章をどうとるかは、それぞれの人の解釈ですが徳積みとは禍を転じて福にすることであり、故事の人間万事塞翁が馬のような生き方をするときに出会えるものだと私は思います。つまり素直さこそが明るさであり、その明るさによって濾過されたものが人々の幸福を増やしていくのです。

初心は常に子どもたちの未来のために取り組んでいますから、すべてのご縁を活かし徳を磨くチャンスに換えていきたいと思います。

暮らしのリズム

暮らしのリズムというものがあります。これは単に、自分の生活リズムのことを言うのではありません。この暮らしのリズムは、自然と調和するリズムのことです。暮らしフルネスではこの暮らしのリズムを中心に据えています。

例えば、私は伝統的な高菜漬けをつくっています。高菜をつくるためには、まず種どりをしなければなりません。今の時期は、花が咲いています。菜の花ですが、高菜はその名の通り高く伸びて花を咲かせます。私の背丈ほどの高さまで伸びていき花が咲きます。

その花が梅雨前には種になり、その種を採取して秋の風が吹き始めるまで冷暗所で保存します。その後は、秋に種を蒔き冬の間に育つのを見守り桜の花が咲く前によく育った高菜を根っこだけ残して新芽が出る前に収穫をします。あとは先ほどの花が咲き種を取る分だけを残しておきます。

そこから高菜漬けに入るのですが、収穫したものをよく天日干しをし仮漬けをします。この仮漬けは塩をまぶして重しを載せて1週間ほど水に漬かるまで丁寧に漬物石と塩を調整します。その後は、本漬けといって杉樽にまた塩をまぶし、ウコンを混ぜて漬けていきます。すると秋前には漬かった高菜漬けを食べ始めることができます。冬の貴重な食糧であり、ご飯がとてもすすみます。

暮らしのリズムというのはこのように、自然のリズムに合わせること、そしてそれを具体的に私たちの身体に取り込んでいくリズムの和合によって成り立ちます。まず、土に触れ、植物の一生にかかわること。そのうえで、それを上手に取り込むために自然の生き物、ここでは発酵ですから微生物のめぐりにかかわること。それらの自然物との一生とつながりながら生きていくこと。

これが私の言う、暮らしフルネスでの暮らしのリズムを言います。

現代人は、暮らしのリズムがなくなってきました。簡単に買い、自然とも触れず、自分たちの都合でリズムを組み立てます。そうすることで、季節感もなくなり、巡りも歪になり、生活リズムも整うことがありません。これでは、自然の無限の恩恵を授かることができなくなりその分、またお金を使って無理をしてととのうための試行錯誤ばかりをしなければなりません。

ととのうのにサウナも流行っていますが、私はサウナはあくまで一時的にととのう環境を与えますが暮らしが整わなければ結局はまた同じことの繰り返しでお金と時間ばかりを使い調和することが難しくなります。

私が石風呂を使うのは、一時的に五感の調和をととのえるのですが本来はそこから暮らしに導入させていく必要があると思っているのです。暮らしのリズムをととのっていくためには、自然と一体になった暮らしの中に入りながら日々の人間社会での生活を味わう環境をととのえていく必要があります。

そこで私は「場」を用意し、暮らしフルネスの体験からそれに気づき改善する環境を提案しているということです。暮らしのリズムは、暮らしフルネスにとって大事な要素です。

引き続き、子どもたちが暮らしのリズムで生きる仕合せや喜びが実感できるように丁寧に自分のいるこの場を整え続けていきたいと思います。

 

御伽噺の創造

人はわかりやすいもの、自分が理解できるものに共感するものです。特に見たことがあるもの、経験したものがあるものに対して考えるものです。しかしもしも見たことがないもの、体験したものがないものの場合は脳は処理することができません。するとわからないから混乱していくものです。

人は未知との遭遇をするときやっぱり混乱します。理解できないものに接するというはそれだけ不思議なことです。幼いころ、読んで聞かせてもらったり祖父母から聞いたお伽話なども今思えばワクワクしました。どれも伝説だったり、口伝で伝承されてきたものですがどれも未知との出会いでした。

私たちは大きく分類わけすると、知っていることと知らないことに分かれます。何か知らないことがあっても、知れば知らないことではなくなります。こうやって知識を得ては、知っていることを増やしている人生だともいえます。

知りたいという欲求は、人間の欲求の中でも特に大きなものです。情報を持つということで、危険を回避できたり自分にとって有益なものになり、また自分の領域や境界が広がっているのもあります。

しかし同時に、知っていることが増えたということはそれだけ知らないことを減らしたということであり、そのうち新しいことを知る機会が減っていくものです。人間はある程度の知っている中でとどまっていると、知っていることの中で生活ができるようになりますから新しいことを知らなくてもよくなるのです。そのうち未知であることがなくなってくるのです。

本当に知るということは、実はなくなることはありません。なぜなら自分が知っていることが増えたとき、その反対側に同時に知らないことの大きさに気づくからです。実は知るということは、一端を知っただけで知らなかったものの存在が出てきます。

1を知れば、無限を知るという具合で実は知らないことの中で私たちは生きていることを知るのです。まさに未知との遭遇とは、知らない世界の大きさに触れたということのようなものです。未知なるものとして謙虚に、知ろうとしていく姿勢は偉大な何かとつながるためには必要です。これをサムシンググレートと呼ぶこともあり、また奇跡や伝説とも呼びます。

未知を創造するというのは、それだけ知ることの意味に出会うことになります。

歴史を創る事業とはそういうものかもしれません。子どもたちのためにも、御伽噺をつくるような未知なる世界を広げていきたいと思います。

 

藁ぶき古民家の土壁の解体と再生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で土壁の解体をしましたが中から百数十年前の竹小舞が出てきました。この竹小舞とは、土壁の下地に使う細い竹のことをいいます。 土壁の下地のことを小舞といい、竹で格子状に編み込んで構成します。

この小舞の下地は法隆寺の建立の時代から存在し、竹が小舞として使われるのは鎌倉時代以降だといわれます。正確には、この壁の工法は「竹小舞下地壁」といいます。

この竹小舞に使う土を荒壁土といいます。これは良質の荒木田土に押し切りで切った藁を混ぜ練った物を寝かして発酵させたものを使います。ほとんどの藁は溶けていきますがこの発酵することによって強度も増えますし持ちもよくなります。そして出来上がった土にさらに藁を足して練り込んで塗り込んでいきます。

実はこの荒土壁は、何度も何度も再生することができます。例えば、500年の古民家であればいろいろな風雨によって傷んでもまた解体して混ぜて発酵させて塗り込めば元通りです。永遠に再生可能な材料によって家が保たれています。

またその土壁の中の竹だから腐らずに傷まずに朽ちずに使い続けることができます。先人の知恵は偉大で、現在では持続可能などと叫ばれていますがむかしはそもそも永遠であることが当たり前だったのです。

地球に住んでいるものたちは、常に循環するものを観続けてきました。ちゃんと廻ってくるものの邪魔をせずに自然の恩恵を享受されていました。現代は、消費文明ですから捨てるものばかりつくり、再生できないものばかりを流通させています。

本来のこの日本の土壁の再生から学ぶことが多いと私は思います。この土は、田んぼの土や河川などの粘土質で発酵するもの。藁も発酵を促していくものです。発酵する技術があることで、いつまでも腐敗やカビなどが発生せずに家が長持ちします。

漆喰もアルカリ性ですからカビが生えません。この辺も先人の知恵で、高温多湿の日本の風土では水が澱むことを厳禁にしていました。なので、風水を重んじ、古民家周辺の地域も風がよく通り、水がちゃんと流れるように設計して配置されていました。まさに澱まない仕組みと智慧で環境を構成していたのです。

今回、この荒壁の土をまた再生してひび割れや壊れた場所を補正していきます。そしてまたいつかこの古民家を再生するとき、子孫たちは私たちがどのように再生したのかを観て家が大事にされていることを知るように思います。

こうやって言葉だけではなく、先人の生き方で私たちは文化を伝承してきたように思います。子どもたちのためにも、今の自分たちが譲り遺していきたい未来を丁寧に紡いでいきたいと思います。

ブロックチェーンと徳

現在、ブロックチェーンをつかって新しい取り組みをはじめています。世の中ではビットコインなどの暗号化技術に使われていることで有名ですがシンプルにいえば改ざんできない台帳というイメージが近いように思います。

用意に改ざんできませんから、それだけ信用や信頼を提供するものということです。これからこの技術を用いて何が生まれるかは、社会の変化に合わせてアイデアをそれぞれが出していきますから確かにこれからの未来に大きな影響を与える技術であることは間違いありません。

特に新しい経済の在り方においては、でこの技術が使われる可能性を秘めています。現在は成熟期に入っていますから、この辺でまた原点回帰していく必要があります。歴史は何度も原点回帰をしながららせん状に発達していきますから経済も社会もこれからまた原点回帰がはじまるのです。

例えば、通貨の原点回帰とは何か。もともと通貨が必要になったのは物々交換の中でその時に交換できるものがない場合に、のちの信用の証として貝を交換したことが通貨のはじまりともいわれます。そこから貝貨という貝殻を用いた貨幣が誕生しました。 特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラとハナビラダカラなどが使われました。

お祈りで私たちが手を合わせるのも、貝を合わせるところから来ているともいいます。日本でもハマグリなどが縁起物として使われますが、これも必ずぴったりと合いますから間違いない証として用いられました。

実は改ざんできないという意味は、このぴったりと合致するというところから嘘偽りのなく信用・信頼できますという証明の仕組みを顕しているのです。そこから、私たちは貝が紙幣に変わり今では通貨を用いて経済も社会も発展させていったのです。

しかし現代はどうなっているのか。

地球何個分が買えるほどの紙幣を発行し、今の世界は通貨であふれかえっています。これでもかと通貨を発行しては、嘘偽りの状態で事実と異なる状態で混乱を極めています。物々交換でいえば、交換できる資源がもうなくなっているのに貝殻だけはたくさん渡していつか交換すると先送りしているような状況なのです。

その貝殻がもしも証明できる価値がなくなってしまえば、物々交換はできませんからそこですべてゴミのように溢れかえります。現在の環境問題と同様に先送りして延命治療をするだけをしていてもいつかは必ず終焉を迎えます。そうならないように、私たちは原点回帰してもう一度、原初の初心に立ち返る必要があるのです。

私はそれをブロックチェーン技術を用い実現しようとしています。

具体的には、むかしの人たちの智慧の一つである「天の蔵に徳を積む」という考え方を用いるのです。これは私たちは等価交換という評価によって今の社会を動かしていますが、実際にこの世の中には等価交換できないものも同時に発生しています。

それが「陰徳」というものです。この陰徳は、私たちはお祈りをするのと同じで直接的には見返りがありません。しかし間接的に、また全体的にその祈りは別のかたちになって縁起を結んでいきます。つまり、そこで使われている対価は別の大きな場所へと転換されて移動していくのです。

むかしは蔵といえば、今でいう銀行です。銀行にはお金しかいきませんが、本来は天の銀行のようなものがありそこにお金では換算できないものが貯められているということを信じていました。

実は本来の信用・信頼の社会というものは、人徳というものが重要でした。信頼でき信用できる人だからこそ、その人に託したりその人の願いを適える絆を持ったのです。人は信用・信頼しあうことでここまで発展をしてきた民族です。その民族が、急速に欲望に負けてその徳を荒廃させていったのはこの通貨という道具を単なるモノとして扱っていったからです。もしくは使えなくなったものをゴミとして捨てるところが影響なのです。

私はブロックチェーンによって、徳循環の世の中を甦生させていこうと思い「BA」(ブロックチェーンアウェイクニング)を設立しました。先人の智慧と現代の最先端を用い、温故知新した原点貝貨としての役割を持つものをこれから発明していきます。

子どもたちの未来に、延命治療ではなく根源治癒が働くようにこの「場」から挑戦をしていきたいと思います。興味があり賛同する仲間をこの「BA」に集めていきたいと思います。

心の原風景と枯山水

現在、徳積堂カフェの庭園の枯山水に取り掛かっていますがここは甦生中の藁ぶき古民家で使わなくなった石を運んで配置し造園しています。この枯山水とは、日本庭園や日本画の様式のことをいいます。

枯山水は水のない庭のことで池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式となっています。具体的には白砂や小石を敷いて水面に見立ててます。橋が架かっていればその下は水が流れているという具合です。石の表面の模様で水の流れを表現しています。

聴福庵の庭にも、枯山水を参考に白川砂利をいれて落ち着いた川の流れを表現しています。これは心の世界をととのえて静寂を楽しむための工夫にもなっています。

この枯山水のはじまりは日本に中国から禅宗が伝えられ、鎌倉時代に本格的に広まり、日本に最初の本格的枯山水が京都の禅寺・西芳寺に禅僧・夢窓疎石(むそう・そせき)によってつくられたことで有名です。

様式には、平庭式といって平らな庭に造られた枯山水。準平庭式といって平庭式に小高い山を加えた枯山水。また築山式といって斜面を生かして作られた枯山水。枯池式といった石を組んで池を表現した枯山水。枯流れ式といった小石や砂で水の流れを表現した枯山水。他にも特殊な枯山水があります。

今回、私が手掛ける分は築山式と彼流れ式、準平庭式などを組み合わせた特殊な枯山水になります。

そもそも枯山水は、ある心の情景を石で表現します。石は変化の中で形が変わっていかないところから古代の人たちは普遍的なものや永遠・永久の存在だとして崇めてきました。

その石が創り出し、織りなす姿は心の原風景をこの世に顕現させるものです。

苔との相性がいいのもまた、悠久の時を共にある存在だからかもしれません。私は徳積堂は、徳を実践する場として建立しましたがこの庭にはその徳を実感できるものにしようと思っています。

時代が変化しても、変わらないものがある。

その変わらないものの悠久の歴史や偉大な存在に徳のもつ畏敬を感じます。子どもたちにその意味を伝承していけるように丹精を込めて取り掛かっていきたいと思います。

 

神さびた道の甦生

昨日、写真家のエバレットブラウンさんと一緒に英彦山の玉屋神社に参拝するご縁がありました。水害もあって参道はだいぶ傷んでいましたがかつての修験道の山伏たちが歩いた道ですから終始神さびた感じの神秘的な時間を過ごすことができました。

苔むしている巨石群、そして美しく清らかな水の流れとせせらぎ、神域を感じながらあるいているとそこにかんながらの道が続いていることを実感します。

法螺貝を立てては歩き、ただ自然の中に心を研ぎ澄ませていると悠久の時間の流れを感じるものです。そういえば、子どものころにこのような神秘的な場所で別の何か偉大な空間が今居る場所に存在していることを何度も実感したことがありました。

目に見える景色とは別の何か、心でしか観えない景色が同じ場所に広がっている感覚のことです。

例えば、私たちは人間中心の世の中に生きていて物事のとらえ方一つ人間の物差しだけで見えています。動物側からこの世をみたら人間はどう見えるのか、他にも虫たちや植物たちからみたらどう見えるのか。さらに古代からの時の流や先人たちから見たら今がどう見えるのか。自分からしかない主観の世界の逆は客観的な世界だけではありません。そこには絶対的な世界というものがあるように思います。

この絶対的な世界というものは、宇宙のようなものです。

私たちは宇宙の中に存在して宇宙の一部として暮らしています。その宇宙には私たちとは別の時空や次元をもっていて常に宇宙から見た世界が広がっています。その宇宙から見た世界から今ここを眺めてみると先ほどのような神秘的な神さびた世界が広がっているのです。

私たちは本来、その宇宙と交信をし宇宙からの智慧を授かってこの世に存在しています。そういうものを感受していたのがかつての山伏たちでもあり、修験の奥深さではないかと私は思います。

一つの体験をどの次元で味わうのか、そしてそれをどう感受し暮らしに活かすのか。

この道を学び知るのは、その絶対的な世界に触れるとこからはじまるように思います。現代人たちが目先の世界に囚われて忘れがちな本来の神さびた道を甦生させていきたいと思います。

元氣の源

現在、徳積堂の前の桜が満開でひらひらと花びらが天空を舞っています。幻想的な風景にうっとりしながら季節の移り変わりの美しさに心が感応していきます。

心の感応は心の穢れを祓います。

つまりいのちそのものの変化、そのいのちの元氣に触れることでいのちはお互いにその元氣を分かち合うことができるのです。これが自然一体になり共生するということなのかもしれません。

私たちはいのちを観るとき、そのいのちと一つになります。つまり関係性というものは、お互いに一つであり夫婦和合のようなものです。この世は、分かれているものではなく関係性を結びながら一つになっているものです。それは、天地一体であり、あらゆる性質のものが統合しあって存在しています。

小さな変化に気づき、そのわずかな変化を味わえる人はいのちの豊かさの中に佇むことができます。この味わい深いいのちに触れるというのは、私たちはそのいのちの源泉に触れたということでもあります。

もともと元氣がなくなることを穢れ(気枯れ)と先人たちは表現しました。穢れないようにあらゆる工夫をして年中行事やハレとケというように仕組みにして文化を醸成させていきました。

つまり私たちが元氣をなくし気枯れるのは変化に気づけなくなること、味わうことをやめてしまうこと、マンネリ化することに原因があるのです。そうならないように私たちは四季折々の変化を味わい、移り変わりの妙味に触れていきました。

私はこれまで一期一会の生き方をしてきましたから味わい深い人生を求めて生きてきたのかもしれません。しかし、この関係性による夫婦和合の自然はつねに結ばれ縁起によってこの世を変化させていきます。

美しい生き方をして美しい風景を産み出せば世界もまた同時に美しい風景に変化していきます。万物が変化するのは、その時代に生きる人たちの生き方が風景に投影されているのです。決して自然と人間は分かれているものではなく、まさにその自然を換えるものは人間の生き方や観念でもあるのです。

自然環境と人間環境を分けることは意味がありません。

人間が善くなることが自然を善くすることであり、自然を善く観ることが人間をよく観ることになり、それが心の風景を変えることになるのです。心の風景が変われば、私たちの世界がガラリと変わります。

子どもたちにも自然の妙味を感じて元氣いっぱいに発達していけるよう、生き方を通して見守っていきたいと思います。

平和の甦生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で傾いていた家を直すために伝統的な道具をつかって直していきました。シロアリ被害が深刻で床下の土台の木もほとんど機能せず、ジャッキアップをしようとしても木を貫通するばかりで少しも傾きを直すことができませんでした。中心の柱も全体的に約5センチほど、前のめりに傾いていて床板も張れず、このままでは時間をかけて傾きが大きくなり家自体の寿命も短くなるし、家主や家族を守り続けることができません。

もう百何十年も前から建っていますが、地盤沈下もふくめどうしても家は傾いていきます。土台がしっかりしていればいいのですが、この藁ぶきの古民家はむかしのあまり裕福ではない百姓の家ですからつくりもそんなにしっかりしてなく、また昭和の素人大工の工事であちこち突貫工事をされていてその傷みも激しく、床をめくると大量の釘や無理に直した形跡が残っていました。また天井の藁も台風で飛んでしまってからトタンにしたようですが、その藁もほとんど失われていましたから家自体がこの数十年の間はあまり大事に扱われていなかったことがわかります。さらに十数年前から空き家になって鬱蒼として手入れをされなかった庭によって風通しも悪くなり高湿度にさらされ家の内部はさらに傷みが酷くなっていました。

見方を換えればこんな状態でよくぞここまで持ちこたえたというところでしょうか。それを伝統的な大工棟梁と大工さんたちで傾きを直して家を恢復していきますが、これは人間であれば大手術するようなものです。大手術に家が耐えられるかどうかもありますが、この藁ぶきの古民家であれば土台はほとんど腐り、梁もほとんどシロアリに食べられ、土壁で持っているようなものでもうボロボロの満身創痍の状態です。

この大手術をしてまず傾きを直し、そのあとに補強や補修、修繕をしてもう一度甦ってもらうように直します。こうやって愛情をかけて一緒に暮らしをしていくなかで、家も甦りますが同時に家主や家族も甦ります。

私たちは修繕や手入れをすることでお互いに愛着を持ちます。それは愛の循環であり、愛はこうやっていつまでもその「場」に「想い」をとして残りその後のご縁のある方々を仕合せにしていきます。私が取り組み古民家再生は、実はあまり古民家かどうかが重要ではありません。大事なのは、人の想いが遺っているものを大切にすること、この世は愛でお互いを満たしあうとき愛し合う平和が訪れること、またお互いが一緒に末永く喜び合える関係が徳を積むことになり最幸の人生が送れることを実現するために取り組んでいるのです。なので私は再生ではなく「甦生」という言葉を使います。つまり単なる再生ではなく、甦生こそが生まれ変わらせ続けて永遠や永久という日本人の持つ「常若」という生き方を伝承していくのです。

本当は、子どもたちをはじめ現代の人にこの家があることが当たり前ではないこと、先人たちの想いや智慧を大切にしようと真摯に取り組む人たちの想いや願い、そして家主をはじめ家族をいつまでも見守りたいという人たちの祈り。そういうものを、この家を大手術するときに見に来てほしいのです。なぜなら、家が必死にまた恢復して家主や家族を守りたいと生き返ろうとしながら軋み響く音を聴くと涙が出てきます。それにそれを祈りみんなで立て直してねと祈る姿に心が打たれます。そうして甦っていく過程のなかで、家が甦り、里が甦り、国が甦りそして人々が甦っていきます。

徳を積むというのは、まず恩徳に報いるという心があってはじまります。つまり、今までいただいている御恩にどう報いるか、そしてお借りしているこの肉体をはじめあらゆる恵みに対してどう感謝を実践していくか、この生き方があってはじめて人は人の仕合せを得ることができるからです。

今回、大工さんらの真摯な手当てと、関係者のご協力と皆様のいのりによって無事に5センチの傾きはほぼ立て直すことができました。ここにまた新しい物語や伝説が生まれ、この地域をはじめ日本、世界を甦生させていくことになるでしょう。

家はモノではない、いのちのある大切なものです。

子どもたちにこのように先人や地域、その恩恵や恩徳を大切にする後ろ姿を見せていくことでいつまでも見守られているということを後世に伝承していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

普遍的な幸福論

貝原益軒の養生訓は、人がどう生きることが幸福であるかを平易な言葉でシンプルにまとめているものです。人間は、足るを知らずついないものねだりをしてはかえって健康の大切さを忘れるほどに日々を費やしていくものです。

しかし本当は、すべてはないものはなくあるものの中に存在していて幸福もその中に存在するという事実は普遍的な事実でもあります。養生訓にもそのことが記されています。

「ひとの身体は父母を本とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて生まれ育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。つまり、天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつように心がけなければならない。これが天地・父母に仕える孝の本である。身体を失っては仕えようもないのである。」

この身体は、もともと何でできているのか。天地和合した存在がこの肉体、なので自分のものであって自分のものではないからこそ慎むことが真理であるといいます。だからこそ親孝行するようにこの身体を大切に使うことであるといいます。つまり両親や天地自然から預かったものだから最期まで大切に大事に使っていこうという気持ちこそがまず第一であるというのです。

そしてその慎みを実践するために、心の状態、精神の状態、肉体の状態において何が大切であるのかを説きます。特に大切なのは心の状態のことをいいます。どれだけ裕福になったとしても、心豊かでなければそれは真の意味で裕福であるのではないともいうのです。つまり心豊かではないことこそが、病気の根源であるとしたのではないかと私は思います。予防医学や未病として、この発想こそが私は重要であると思うし現代人にも必要な教訓があるように思うのです。きっとこのあたりが、特に江戸時代の人々に共感されたところではないかと思います。少しひも解いていきます。

真の裕福さにおいてはこういう言い方をしています。

「およそ人間には三つの楽しみがある。一つは道を行ない心得ちがいをせず、善を楽しむこと。二つは健康で気持よく楽しむこと。三つは長生きして長くひさしく楽しむことである。いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。」

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

まず3つの楽しみの裕福さを道を実践し、徳を積むのを楽しむ、そして健康を楽しむ、末永く楽しむと定義します、歳を重ねる喜びその仕合せを味わうのも貝原益軒の生き方であったといいます。そして具体的な「真の豊かな暮らし」がどのようなものであるのかを説きます。真の裕福とは、この日本的で伝統的な暮らしにこそあるといいます。これは私の提案する暮らしフルネス™とほとんど同じです。

そして日々の実践としては、「心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。」とまとめています。

人がどう生きるのが仕合せなのかということを示したものとしては、シンプルでそれは貝原益軒が85歳で亡くなるまでに得た教訓がこの養生訓だったように思います。私が特に印象に残ったのは、「徳を養うことが身体を養うことである」という一文です。

この徳を養うことの正体とは何か、これを貝原益軒のこの言葉で締めくくります。

「自ら楽しみ、人を楽しませてこそ人として生まれた甲斐がある。」

何が真に自らを楽しませるのかを知るものこそが真の豊かさを持つものであり、その真の豊かさを知るものこそが周囲の人を真に楽しませることができる。そしてそうやって道楽に生きる人たちこそが生き甲斐を持っているのであると。

暮らしフルネス™をいよいよ発信し、真実の暮らしを甦生させて普遍的な幸福論をこの場から発信していきたいと思います。