食縁

最近は時短料理などが流行っていますが、聴福庵では時長料理ばかりを行っています。一晩中、炭火でコトコトと調理していきますが朝方その料理の素材を観ると透明に透き通っています。そして味はといえば、素材のいのちが丸ごと隅々まで浸透して全体として穏やかで和やかな風味を醸し出します。

遠方から朋が来たり、はじめてのご縁の方だったり、色々と來庵されますが一緒にいのちを分け合いながらいただく時間は格別なもので思い出に深く遺ります。

本来、料理は生きるためのものですが日本ではおもてなしとしての側面があります。共食というのは、家族であり仲間であり安心して分け合うつながりを感じ直すものです。それを時短でぱっとというのが時代的には当然なのかもしれませんが、本来は貴重な時間だからこそじっくりと時間をかけて丁寧に手間暇を重ねていくことでつながりもまた深く清らかになっていくようにも思います。

私たちの身体は食べ物でできています。何を食べてきたかというのは、食歴ですが同時に、どのような料理と出会ってきたかという食縁というものもあるように思うのです。

当たり前ではない「食べる」という行為の中には、私たちが一生を豊かに健やかに生きるための原理原則が存在しています。その原理原則を、そのままあるがままの自然の仕組みの料理をして共に食べることで私たちは大切なことを思い出すように思います。

懐かしい料理とは、根源的ないのちの時間を共にすることかもしれません。食縁を大切にするからこそ、私は敢えて時長料理にこだわっています。

今日もまた一期一会、大切に料理を重ねていきたいと思います。

いのちの存在

現代は、世界のほとんどは西洋化が進み物質文明で覆い隠されていきましたから物はいのちではなく物として扱われるようになりました。それは最初は、無機質な道具類や建物、通常人間のように動いているように見えないものからいのちではなく物として接していくようになりました。

そしてそれがさらに大量生産大量消費の刷り込みの中で、動いているものやいのちがあると信じられたものまで物になっていき次第にいのちそのものが見えなくなっていきました。

いのちが見えなくなってしまえば、最後は自分のいのちすら物になっていくかもしれません。物のように接していくというのは、言い換えればすべて物にしていくということです。これが文明の持つ課題であり、文化はそれを常にバランスを保ってきました。

現代は文化が急速に衰退させられ、一時的に文明ばかりを追い求めていきました。それは物化する過程だったように思います。本来、地球は物か?そして海は物か?さらに宇宙は物なのか?最小単位ではウイルスは物なのか?という問いにたどり着くはずです。

そもそも物ではないと悟るのなら、何を自分たちが改める必要があるかが自明します。そしていのちの存在に気づくのなら、もっと大切にしなければならないことや優先すべきことがわかります。

人類は、今、大きな分岐点に来ています。ここで気づけるか、それともこれでもまた同じことを繰り返して覆い隠し続けるか。大事なことは気づいた人が、まず自分の足元から換えていくことです。そして私と同じように、古い物のいのちの力をお借りしていのちを甦生させ、いのちの存在に気づかせていくことです。

引き続き、子どもたちの未来のためにも徳を磨き挑戦をしていきたいと思います。

自然から学ぶ生き方

昨日は、天日干しをした堀池高菜を仮漬けする作業を行いました。いつも驚くのは、自然農の野菜の生命力の強さと元氣さです。虫がまったくついておらず、さらに食べられたあともほとんどありません。無農薬で無肥料ですが、大きさも立派でイキイキとしています。手で持つと、その生命力に圧倒され自分の身体の方まで元氣が伝わってきて力が湧いてきます。

まるで天然自然の野生の中で育ってきた、人が関わり育てた野生児という感じでしょうか。地球の厳しさと愛情をそのままにあるがままに受けたものの生命は逞しく健やかです。

私には、この自然農を通して原体験と積み重ねてきた実践がありますから何が元の姿であるか、何が生命力の根源になっているのかを理屈ではなく事実として理解しています。この理解があるかないかが、実際の生活の中で大きく影響しています。

つまり抽象概念としてあるだろうという認識か、それとも実際に実体験として具体的事実としての認識か。それによって現実の受け止め方や取り組み方が変わっていきます。

私は内省オタクなので、やってみたものを観察してその本質を洞察し、それを改善するのが好きなタイプです。日々に学ぶのが好きですから、起きた出来事は最高の教材であり、その中で本当は何かということを見つめることに喜びを感じています。いわば、人類が最初になぜと考えた時のように余計な知識を排除して原点や初心と出会うことに仕合せを感じます。

人間の叡智だけではなく、自然の叡智は原点と初心の中にあり、常に事実と現実、具体的な結果として私たちにその仕組みや原理を教えてくれます。それがまた非常によくできていて発見すると喜びと感動の連続です。

子どもの頃、私はなんでも興味が湧き、自然の仕組みを遊ぶことが大好きでした。大人になり、人間社會に入ってからもこの自然の仕組みとの乖離から自然を見つめることに楽しみを覚えています。

発明や発見は、日々の暮らしの中にあり生きているだけで私たちは新鮮な学びとの出会いがあります。生きている喜びは、この発見と発明の中にこそ存在するのかもしれません。

高菜はこれから塩漬けして1週間ほど、水があがってくるのを待っていきます。そしていよいよ杉の大樽に本漬け作業です。9年目に入りますが、今年の出来栄えを観察し学び直すことが楽しみです。

子どもたちに、自然から学ぶ生き方を伝承していきたいと思います。

故郷の先生

昨日は自然農の畑で無事に堀池高菜を収穫することができました。昨年は、ほとんど収穫ができず種どりだけをして今年につなぎましたが今年は大収穫の一年になりました。

特に今回は、大勢の方々が植え付けや除草に協力していただき色々と豊かさや温かさを思い出す感謝の収穫を味わいました。本日、天日干しをしそれから洗浄して漬け込み、仮漬けして一週間で水があがったら本漬けという流れです。

思い返せば、東日大震災から自然農の畑を借りて高菜漬けをはじめました。気が付くともう9年も、最初の種を守り続けて育ててきました。そう考えると、種ともに生きて、種と共に様々な体験を乗り越えて今があります。

この種を見守るという行為は、先祖たちが子孫たちを見守り続けることに似ているような実感があります。時には、繁栄し繁茂しますがまた時には滅亡寸前にまで陥り、衰退することもある。

しかしそれでもなお、見守り続けていくなかでまたその種が甦り強く逞しいいのちとして実をつけ花となり子孫を増やしていく。それを先祖がどのような気持ちで見守っているのかを実感したのです。

私たちは自分のことを生きている時は、一代限りの人生を感じているかもしれません。しかし実際に自然農に取り組むと、種を毎年大切に保管しそれをまた蒔き育て新しい種を見守り続ける中では何代も過ぎたこと、何代も先のことを見据えて田畑に出ていきます。

田畑とは、自分たちが暮らしを営む舞台でありその舞台が充実していく中でイキイキといのちは甦りそこで先祖から子孫まで場に存在し続けていきます。私たちの故郷、風土もまた然りであり、風土と一体になって存在し、風土の中で種を見守り続けていきます。

自然本来のいのちの姿を学び直すことは、現在のグローバリゼーションや資本主義の歪みを見つめるいい材料となり、自分の抽象概念を正常に戻すためのいい訓練にもなります。

人間は刷り込み、刷り込まれていきますから、何が本来の自然であるか、何が本来のいのちであるかを知ることは、人間社會を持続可能にするためにも何よりも重要な気づきの源泉です。

私は有難いことに、この郷土の伝統野菜が師匠になって私を導いてくれています。故郷の先生は、自然の風土と共にいつまでも生き続けています。謙虚に自然から学び直し、本来の生を全うしていきたいと思います。

覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

道は無限にある

人類はまた歴史に遺るような困難に見舞われています。新型コロナウイルスを発端として、いつ来るかといわれた株の暴落。今回は実体経済の方まで自粛と閉店、活動休止により急激に停止させられています。

過去の歴史を省みると失業者で溢れ、食べ物がなくなり不満がたまりそこから戦争の火種が出てきます。特に現代のように平和ボケしてしまった状態では、何が起きたのかすら気づくのに時間がかかるように思います。

本来、リーダーの役割は危機に対して敏感に迅速に行動をすることです。いつか来るであろう日を周りが楽観視して誰も考えもしなくても、ただ一人でその孤独と向き合い、みんなを守るために粛々と自重しながら対策を練り続けるのです。

戦国時代であれば、いつだれがどのように攻めてくるのかがわからず、どんな時でも生き延びることができるようにと常に八方に注意を払い最善を盡してきました。その歴史を生き延びて今の私たちもいます。

そして世界中で自然災害に巻き込まれたときには、みんなが飢餓を乗り越えるために協力し合って助け合い連携してきたから今の私たちがあります。

困難はある一方から観れば人類が大きく修正し、成長するかけがえのない機会でもあり、それをどのように乗り越えるかで子孫へいのちをどのようにつなぐかの未来が懸かっています。

困窮するとき、困難に陥るとき、先人はどのような智慧をもってそれに正対したか。松下幸之助氏は「道は無限にある」の中でこのように語ります。

「われわれ人間の歴史をみても、おそらく三十年前には想像もできなかったと思われることでも、今日、現実の事実として次つぎとできていることがあります。これはいいかえると、人類の限りない発展の過程の一コマであるというようにも考えられるのです。ですから、決して困難なことはないというようにも考えられます。ただ困難にするかしないかということは、それを困難なこととして認識するか認識しないか、認識してそれを打破する道を見出すか見出さないかということだと思うのです。」

困難だから困窮するのではなく、困窮するから困難が悪いものになっていく。困窮するのではなく、こういう事態だからこそ道を拓こうとする。そうして道を拓く人は、困難を認めたうえで困難を打破することでより発展向上し成長するのであるということでしょう。

今までなんとなくずるずるとやってきたことをここで決別するいい機会であり、方向を完全に転換する最良の好機という見方もあります。大切なのは、ただじっとして困窮するなということです。

困難を前にしてあなたはどうするか、道を拓く人か、それとも道にどうする人か。

道は無限にあるのだから、自分の決めた道を歩むことが困難を乗り越える覚悟でしょう。子どもたちのためにも、道を拓いて新しい時代の幕開けを楽しみたいと思います。

共生の伝道

私たちの先祖は自然との共生の中でいのちを繋いできました。共生というのは、一緒に生きるということでありすべてのいのちと共に生きていく道を模索するということでもあります。

人間は人間中心の世の中にしていく過程で、様々なものを排除していきました。そのうち自分の都合の悪いものはすべて取り除いていくという具合に人間優先の世界に換えていきました。

しかし現代の様相をみてもわかる通り、殺菌や滅菌ですべて取り除こうとして耐性菌ができてそれがさらに人類を追い詰めたり、農薬などで殺虫することでさらなる別の害虫や問題を、気候変動などの原因ばかりを増やしています。

これだけ排除することが如何に問題なのかということを自然に見せつけられてもさらにそれをいつまでも已めようとはせずに排除し続け共生しようとはしない。ここに人間の本当の問題があるように私は思えるのです。

現在のコロナウイルスの件も、今回のことから人類は何を学び直すべきなのか。そして如何に今の自分たちが大切なことを見失っているのか、そして先人たちの智慧や歴史から何を正していくのか、そういうものを世界のリーダーたちは正対し話し合っていく必要を感じます。

私は日本からはこの共生の智慧を世界に発信し直していくことだと感じています。日本人は、自然と共生していくなかで万物との折り合いをつけていく間合いや場づくり、そして和などの叡智を自然から獲得していきました。

自然から乖離して遠ざけて拒絶するのではなく、自然と絶妙な距離感でお互いに折り合いと距離を保ちながら共に尊敬し合って暮らしていくということ。ここが人類がこれからも永続してこの地球で生きていく上で必要不可欠なことであることを伝えていくのです。

先祖たちは過去の歴史の中で何度も何度も、絶滅の危機を体験してきました。その中で、どのようにすれば長くこの地球に存在して暮らしを営んでいくかをあらゆることの体験を通して「暮らし」に注力していきました。

それが長い目で観て、そして全体的に観て、地球にとっても善いことになっていくこっとを言葉にせずとも暮らしを使って伝承してきたのです。それを欧米の文化が流入し、文明を優先してきたことで消えかけてきています。

まさに今こそ、暮らしを甦生し、日本人としての智慧を世界に伝える時機だと私は思います。徳積財団もまた、そのために設立したものであり、気づいた人たちが手と手を取り合って世界に発信していく必要を感じます。

智慧者のリーダーたち、今こそ、それぞれの場で立ち上がってもらいたいと思います。そして人々は気づいてほしいと思います、今しかなく、ここが時代の分水嶺です。

宗教といわれても、変人といわれても、子どもたちの未来のために当たり前に気づいたことを当たり前に言葉にして伝えていくことが今は大切だと私は思います。自分にできることを、真摯に取り組んでいきたいと思います。

徳の正体

私たちの身体には、長い年月で積み重ねられてきた「徳」があります。この徳は、生まれ変わることによって甦生を続けて今の私たちを支えています。この徳は言い方を換えれば「いのち」ともいい、いのちは何度も甦生することで新しくなっていくのです。

このいのちの本質は、「その徳を磨き続ける」ということを顕します。

私が様々な甦生を手掛けるのは、隠れていく徳を顕現させ、日本古来からの先人の徳や風土の徳を伝承し続けるために必要だと思っているからです。

神道はまさにこれを実践するものですが、私はそれは宗教だとは思っておらず文化であると感じています。そしてこの文化は自然が醸成してきたものですから、私は文化は自然であると考えています。つまり自然とは、風土の姿であり風土がカタチになったものです。そして自然とは徳ですから、その徳をもったものを如何に共生の中で活かしあっていくか。万物の徳を磨き合って調和させていくかが、私たちのいのちの本来の姿であろうと思うのです。

現代は、自然からも離れ風土からも離れ、そして文化からも離れ、日本人が日本人であったことを忘れかけてきています。その中で、かつてから連綿を続いてきた徳を積むという生き方も忘れかけてきています。

今の自分が存在するのは、一体何の御蔭なのか。

それはずっと徳を積み重ねていのちを磨き甦生しここまで紡いできてくださった先祖や風土の御蔭であるのは誰でもわかります。その存在を自覚すれば、自然に恩返しをしたいという気持ちが湧いてきます。

この恩に報いるという心が、徳の基本であり徳を実践するための原動力です。

子どもたちにも先祖がしてきてくださったようなことをそのままに伝道していけるように丁寧に徳を積み重ねていきたいと思います。

本当の復興

昨日は、「大切なことを忘れないDAY」として東日本大震災で犠牲になった方々のことを忘れずにその教訓を活かし続けて子どもたちに祈りを伝承するために毎年カグヤではみんなで黙祷を捧げ振り返りをしています。

あの時、東京で被災した私たちは自然の猛威を感じそして暮らしを見つめ直す切っ掛けをいただきました。それが今では暮らしフルネスという生き方と働き方の一致にまで昇華されました。

また原発で行われた人災を深く見つめ、人災の根本的原因は何かと向き合ったことで今では神家防災5か条や暮らしフルネス10か条などが生まれました。そして数々の実践を積み重ねて、今回の新型コロナウイルスでも迅速に率先垂範した行動がとることができました。

いつの時代も、正確な事実が伝えられず隠蔽や嘘が蔓延れば人災はますます複雑になり不幸が拡がっていきます。また民衆を大切にし人を信じた道徳的な判断ではなく、問題が起きないような自己保身で判断すれば思いやりや真心の社會から遠くなりさらに人々の復興は廃れていきます。

何をもって復興かという定義が、単なる形だけのものであればそれは復興とは呼べるものではありません。本来の復興とは、以前よりも福に転じることができたこと。そしていただいた教訓がのちの世に活きたこと、そして失われたものがさらに発展して甦りみんなが喜んでいることなどは最低限必要なものです。

目先の復興を急げば急ぐほどに、真実は復興とは逆に進んでいきます。これはまちづくりも同じく、目先の政策ばかりでみんなが補助金に群がってしのぎを削っていたら町はどんどん廃れていきます。

歴史や過去に学び、本当の復興とは何か、見つめ直す機会もまたこの「大切なことを忘れないDAY」には入っています。私たちの会社は、どんな時でも目的意識を忘れない会社です。何のためにやるのかにいのちを懸けています。初心を忘れないということは、先人たちへの感謝報恩であり、今を生きる自分の責任を果たすということでもあるのです。

世の中は、機会があって変わる人と、機会があっても一向に変わらない人がいる。それだけです。如何に機会を真摯に捉えて、大切な声に耳を傾けていくか。そこに生き方が出てきて、それを実際の社會に活かすことで働き方が出てきます。

子どもたちのためにも「暮らし」の意味や本質を実際の姿で伝えていきたいと思います。

夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。