お金のトレーサビリティ

ブロックチェーンではトレーサビリティとの相性の良さがありよく利用されます。このトレーサビリティとは、「その製品がいつ、どこで、だれによって作られたのか」がはっきりすることで原材料の調達から生産、消費、廃棄までを追跡可能な状態にすることができる仕組みです。

このトレーサビリティは、トレース(Trace:追跡)とアビリティ(Ability:能力)を組み合わせた造語です。

もともとは、食の安全で有名になった言葉で狂牛病が切っ掛けでもあったといいます。現在、牛舎にいけば牛の耳に識別番号のカードがついているのを見かけます。あれは牛トレーサビリティの一環で、牛が生まれてから店頭に並ぶまでの履歴を後追いできるシステムがついています。狂牛病のまん延防止措置の的確な実施を図るため、牛を個体識別番号により一元管理するとともに、生産から流通・消費の各段階において個体識別番号を正確に消費者に伝達するという仕組みです。

ブロックチェーンの相性の良さは、追跡でき情報を集約できること、また改ざんできないことがあります。ここでは食の安全を守るということで、食に関するすべて有機的につながっているものを安心安全に保つ状態にすることをフードトラストともいい、ブロックチェーン技術が活躍しています。

そして最近では一歩進んで、お金のトレーサビリティがはじまっています。

お金というのはよく色がないといわれます。この色とは、お金は手に入ったものがどのように自分の手元にあるのかがわからないということです。つまり一生懸命に働いて誰かのお役に立って入ったお金、もしくは悪いことをしてくすねたようなお金、もしくはどこかに落ちていたのを拾ったお金、あるいはその人が一生をかけて奉仕のために貯金したお金であっても、財布に入ったり銀行に入ってしまえば数字や紙幣といったものになります。

どのようにそのお金がここまで流れ着いてきたのか、どのような経緯で今のところにたどり着いてこれからどのようにそのお金が使われていくのかなどまではわかりません。よくマネーロンダリングなどといって、よくないお金をいろいろなところを経緯して使いまわし洗浄を繰り返せば、汚いお金の汚れもすっかり消えてしまうともいわれます。

同じ100億円であっても、その100億円がどのようにそうなったのかは数字ではでないのです。しかし、これは先ほどの食の安全と安心、フードトラストと同じで、どこかで改ざんされたり、変な使われ方をしたり、偽装されてしまうと一番名枠を被るのは信頼して使っている人たちであることは間違いありません。

その信頼を保つためにも、はっきりとそのお金がどのように流れて使われているのかをちゃんと追跡して、それを集約して明確に可視化されていく必要があるのです。つまり正直に取り組む人たちの信頼を守る必要があるということです。それが目的をもってお金を使うことであり、その目的に合わせてお金を流して目的が達成できるように有機的にみんなが安心して関われるようにできるということです。

これがお金に色をつけるということになるという言い方になります。例えば、地球環境に配慮したものだけを使いたいとなればそのように色がついたものにお金を使います。もしくは、未来の子どもたちのためにつながるもの、もしくは自然物として分解されること、循環を促すための仕組みで取り組んでいる人たちへの投資としてなど使い方は様々です。

実際には、本物をやろう、本当に価値のあることに費やそうとするならばそれ相応の時間や労力は必ずかかります。それは目には見えないところであり、その人たちの志や初心、生き方のところです。安く便利に儲かることだけを考えて本物風や偽物を偽装するようなことをやっている人に騙されるのはいい思いは決してしません。そんなことが発生しないようにこのブロックチェーンのトレーサビリティはお役にたっているのです。

これからの世の中、私たちは無意味にただお金を使うようなことはできなくなります。なぜなら、モノがない時代から物があふれる時代になり、ただあればいいから、本物で善いものを持ちたいと思うように変化していくからです。それは価値観の変化であり、人類はそろそろ本物に回帰したいと願う人が増えてきたからです。それだけ、この世界は流通が行き渡り情報が覆ってしまったということを意味します。

ブロックチェーンの可能性は、この情報の追跡と集積による智慧の活用にあります。私も現在、古き善き新しい仕組みを開発していますがブロックチェーンとの親和性は抜群であり、未来の子どもたちにとっても価値のあるものを譲り遺せると直観しています。

引き続き、この場から世界に未来の在り方を発信していきたいと思います。

コミュニティの甦生

コミュニティという言葉があります。本来の英語の意味よりも、日本人は別の意味でこの言葉を用いることが増えているように思います。最近では、トークンコミュニティという言葉も出てきています。少し並べただけでもコミュニティの古典研究、コミュニティビジネス、オンラインコミュニティ、地域コミュニティと地方創生、東日本大震災とコミュニティ、コミュニティデザイン、コワーキングスペースとコミュニティ、オンラインサロン、コミュニティマーケティング、コミュニティビジネス等々があります。

このコミュニティの定義をどうするかで、その言葉の理解も変わりますから少しこの辺を整理したいと思います。

コミュニティと同じくらいよく使っている言葉にコミュニケーションがあります。このコミュニケーション (communication) の語源はラテン語のコムニカチ(communicatio) だといいます。このコムニカチオの意味は「分かちあうこと、共有すること」だそうです。

そして英語のコミュニティ(community)語源は、ラテン語の communis が転じて communitas フランス古語のcomunete、英語のcommon 、中世後期に現在の使われ方になってきたそうです。

このコミュニティとは、共同体のことです。

ある一定の地域に一緒に暮らす人たちから、仮想的なところで共に生きる仲間たちという意味にも発展してきています。つまり、何をもって共同体というのかという幅が多様性と文明の発展によって変わってきたのです。

●●コミュニティと書けば、その価値観を共有する共同体ということにもなります。これが管理しない、管理されない、ともに主体的にフラットにオープンな共同体にしていこうという流れが広がっているのです。

通常は、最初は小さな組織、2人から3人なら管理などせずとも阿吽の呼吸で共同体を結び維持しています。それが100人、1000人、数万人、数十万人となれば誰かが管理するという仕組みを入れていきます。それが国家というものになり今の世界を形成しているともいえます。

しかしその大きなコミュニティとは別に、小さな地域でのコミュニティというものが存在します。それが地方自治であったり、ご近所さんと結んでいたりした小さなサークルであったり、親戚などと結んでいた血縁などです。

何かあった時にお互いに協働して助け合う必要があり、私たちは共同体を結んでいました。しかし、現代はそれを社会のシステムによって保障したりカバーできるようにしたことで今では1対国家の関係で解決できるようになってきました。そのことで得た利点とそのことで失われたものがあることにも気づいたのです。

具体的に少し事例を言えば法律でほぼ網羅した半面、法律では賄えないもの、つまり個人の善意や主体性が必要なものがほとんど政府や行政に依存するようになり失われています。その部分をそのまま放置すれば、国家が破綻して自治が壊れます。そうすれば社会も失われ法律も消失してしまいます。実は、絶妙なバランスで維持されているこのコミュニティは本来は、機械のようなものではなく生命体であるからその生命体を維持するためのお手入れは絶対不可欠なのです。

それをコミュニティとして甦生させようとするのが、現代の一つの流れであろうと私は思うのです。実際に人類においてのコミュニティの本質は相互扶助であり思いやりや助け合い、一緒に暮らしていく人々とのつながりを醸成していくのは古今普遍的なものです。それが失われてきている現代というものは、人類にとってはこの先を生き延びることができるどうかの重要な局面を迎えているということでもあります。

どのようなコミュニティを創り出そうとするかは、この先の人物たちの主体性と覚悟で決まります。子どもたちのためにも、私は徳を用いたコミュニティをこの世に甦生させていきたいと思います。

素直さの意味

人間はみんな我があるものです。この我とは、一つは欲であり一つは情です。他にも細かく言えば我ばかりですがその我があるから真実や本質が見えにくくなっていきます。なぜこうなっているのかと、真摯に洗い清めて透明になるまで磨き上げていけば真実は見えやすくなりますがその間に様々な穢れがこびりついてきますからどうにも本当のことがわからなくなります。

そうなると、人は「素直」であることができません。素直というのは、単に従順になることではないことはすぐにわかります。他にも、ただ性格が良いことだけを言うのではないこともすぐにわかります。

素直さというのは、ある意味で無の境地であり、謙虚に我が省かれている状態であり、何か偉大な自然と直につながり直観が働いている心境であったりのことです。

つまり何物にも囚われない澄んだ心の姿勢の時こそ、人は素直になっていると言えます。人の話が素直に聴けるというのは、人の言うことを単に逆らわずに聞くことではなく心が澄んだ状態であるがままのことを聴けるということです。

よく他人に質問して何かを訊いているのに話をまったく素直に聞かない人がいます。それは自分の我があるからですが、素直ではない状態だから訊かないのはすぐにわかります。自分自身の心が澄まないので、澄ませていきたいと思って訊くのならその人は謙虚ですから素直に近づいていくこともできるかもしれません。

しかし最初から我が強く出て自分の思い通りにしたいと思っているのもがあるのなら、本当のことを素直に直観できる感覚はそこで働いていないと私は感じます。

素直さというものは、直観力であり、そして浄化力であり、研磨力でもあります。どれだけ研ぎ澄ましていくか、そして洗い流していくか、心を清らかにして真実を明らかにしていくかというものであろうと思うのです。

素直にいきましょうと声掛けするのは、お互いに心を澄ましていきましょうという掛け声をすることです。みんなが素直になるのなら、本当のことがわかり本質のままにお互いに協働して助け合い、清々しく明るく物事に取り組むことができます。

つまり素直にという意味は、「清々しく明るく」いましょうということだと私は思います。人間は、常に相手がどうかではなく自分が澄んでいることが重要です。そうでばければ、この世にいて本当に起きている事象や出来事、ご縁を理解していくことができなくなるからです。

日々の喧騒や荒波、濁流の中であっても深海のような静けさ、水面の鏡のような美しさを保ちたいと思います。子どもたちのためにも、むかしからある日本人の智慧を伝承していきたいと思います。

農泊の本質

以前、ヨーロッパに滞在していたときにドイツで民泊を体験したことがあります。そこは、年老いた夫婦がかつて息子がいた部屋を旅行者に開放していました。表看板に「部屋がある」と書かれた表札がかけられておりそこで交渉して泊まります。簡単な食事も提供されていて、ゆったりと過ごしたことを憶えています。

他にもフランスやイタリアで同様に田舎の民泊を体験しましたが、どれもその土地に相応しい人と、相応しい料理、風景、そして文化を体験できるものでした。その土地での体験はいつまでも心身に沁みこみ、懐かしい思い出になっています。

思い返せば、あれは単なる経済効果を狙ってやっていることではありませんでした。あれは、地域を守り、古民家を守り、暮らしを守るためにそれぞれが自分のできることで精いっぱい努力している人々の姿でありその故郷を子孫のために大切にしたいと願う思いの結晶であったように思います。

日本では、すぐに金儲けの手段としての●●というように何か西洋から持ってきてはそれを真似して広めます。そして流行らなくなればすぐにやめては、別の金儲けをはじめます。そのうち、その地域は疲弊してきてさらに廃屋が増え、文化が途切れ、子どもたちは離れ、そして過疎地のように荒れていきます。

経済効果ばかりを追いかけているうちにミニ東京やミニ都会の考え方を田舎に持ち込み、そのうち田舎の善さも消失していくのです。これは、ヨーロッパと日本の文化の違いとかではなく単に古いものや伝統文化に対する意識の差があるだけのことです。

古民家などもヨーロッパではとても大切にされます。特に古い土地、風土、家はその地域の文化の象徴でもありいつまでも子どもたちに遺していきたいと思っている風景です。

その風景を守ろうという取り組むの中に、農泊、グリーンツーリズムがあり地域の人たちの真摯な取り組みがあります。いつまでも故郷を大切にしたいという思いが人々をその地域に集め、同じように故郷を見守り続けたいという人たちが立ち上がってそこに仲間ができていくのです。

私が見てきたヨーロッパの農泊には理念がその地域にありました。どんな地域にしたいという願い、それは本来、どの自治体でも持つべきもののはずです。しかしそれを実践に移そうとすると、ないものねだりばかりして何もできていません。その理由はほとんどがお金になっています。

私はお金で古民家を甦生しているのではなく、お金で暮らしを甦生しているわけではありません。子どもたちに何を譲り遺していくのかを考えたとき、故郷を甦生させていつまでもこの故郷を大切にして見守りたいと願い投資していくのです。

この投資は、世間一般のお金儲けのための投資ではなくまさに未来、子孫への投資です。これを徳積みという人もいますが、むかしの人たちは当たり前にみんな行っていたことです。

自分のことしか考えないといった部分最適では、結果的に自分も破滅してしまいます。全体快適といって、自分が損をしても全体のためにと投資したならそれが長い年月を経て子孫や、そこで暮らす人たちのためになっていくのです。

そういうものに投資できる人というのは、実はとても幸せなことです。なぜなら、自分が今あるのは先人たちの投資の御蔭であることに気づけるからでありそうやってみんな守られてきたことを実感し感謝に生きていくことができるからです。

誰でも廃屋、廃村にならないように取り組もうとするその志、そして生き方を選択する人が出るのならその地域は必ず復興し復活します。要はその初志初心を貫けるかどうかということでしょう。

子どもたちにいつまでも伝統文化や暮らし、その土地や人々の歴史の徳が守られるように脚下の実践を積み上げていきたいと思います。

参道の甦生

先日、福岡にある英彦山の参道を歩いて社殿まで訪問する機会がありました。雨が上がったすぐ後だったので、濡れた石や岩、そして砂利から清浄な雰囲気が醸し出していました。

雨垂れによって、石のあちこちに小さな穴がありました。長い年月をかけて、木から滴ってくる雫が石に落ちることでこれらはでてきます。参道は、長い年月を経た美しさに満ちており参拝する往来で私たちは悠久の歴史を感じ、自然の持つ壮大な営みに触れて様々な執着が取り払われていくようにも思います。

参道でウィキペディアを調べるとこうあります。

「参道にある灯籠、常夜灯はもともとは仏教寺院のものであり、平安時代以降、神社にも浸透したものである。また参道に敷かれる玉砂利は、玉が「たましい(魂)」「みたま(御霊)」「美しい」という意を持ち、砂利は「さざれ(細石)」の意を持ち、その場を清浄する意味を持っている。敷くことによってその場所を祓い清める意味があり、なお参道を進み清浄な石を踏みしめて本殿に進むことによって、汚れた身を清め心を鎮めて、最高の状態で祈りが出来るようにしてある」

この参道という仕組みは、とても大切な智慧であるように私は思います。目的地についていきなり参拝ではなく、そこまでの道を歩かせるという智慧です。

私たちの人生は、歩くことと似ていて目的地に向けて自分の足で一歩一歩と進んでいきます。乗り物にのって簡単に目的地にたどり着くのではなく、まさに自分の身体だけを使い歩いてたどり着いていくのです。

歩いては拝み、また歩いては拝むという繰り返しで私たちはその日その日に発生した穢れを祓って浄化して甦生し続けていきます。魂はもともと透明であり、その透明に様々なものが纏わりついていくのでそれを透明にし続ける智慧が必要なのです。それを繰り返すためには、砥石のようなものが必要で私たちは研磨することでまたもとの状態に回帰していきます。

もとの状態というのは、神様と一体になっている姿であるともいえます。言い換えれば、赤ちゃんのときの自分です。赤ちゃんのままの魂でいられるように私たちは様々な体験をしてもその本体をいつまでも忘れないようにしているのです。

魂とはここでは玉石のことで、玉石を磨き合いながら研ぎ澄ませて心身を浄化するということ。それを美しい参道を歩むことで思い出しているのです。そして参道を囲み見守る宿坊での暮らしは、まさに先達が実践するこの世での歩み方の体現であり、私たちはその先人の知恵や精進の姿に生き様を見直し参考にしまた現世でのあり方を磨いていくのです。

修験という山の参道には、私たちの生きる道、生きるための智慧が遺っています。

参道の甦生は、人々の生き方の甦生です。

子どもたちのためにも、美しい生き方を参道によって伝承できるように取り組んでいきたいと思います。

一枚板の価値

藁ぶき古民家にご縁をいただいた古木の一枚板のテーブルを入れてこれから甦生していきます。もともとこの一枚板というのは、長く育った古の大木から取り出されたものです。そこには偉大な生命力を感じ、いつまでも長くいのちをつないできた歴史を感じます。

まさにこの古木の一枚板は古民家に相応しいテーブルであり、ここでこれからどのような暮らしがはじまりそこでどのような団欒があるのか。ここで暮らす人を支え、豊かさの一つの象徴となるようにテーブルには特にこだわりを持たせました。

もともと一枚板は一生ものといわれるように、それだけ価値のあるものです。費用も高額で数十万から数百万するものもあります。なぜ高いのかといえばそれは希少でありかつ長持ちするからです。

本来、古民家というのはどのような定義をしているのかはわかりませんが私にすればこの一枚板のようなものと同質のものであると感じています。

長い年月を経て、艱難辛苦を乗り越えて育った立派な大木を木挽き職人がしっかりと丁寧に選別し丁寧に取り出していく。それを見事なまでに磨き上げ仕上げたものが一枚板です。当然、長持ちするのは当たり前で数百年を持ちこたえるものもたくさんあります。

木は一般的には、木の時に生きた年数以上は耐久できるといわれます。樹齢200年であれば、200年はもつのです。というと、古民家で使われている素材(私の言う古民家は年数ではなく日本の本物の民家のことを言う)は、同様に数百年単位の木材を使って梁や棟に使われています。

それだけ長持ちし、寿命があるということです。つまりそれだけ価値があり高額であるものなのです。しかし実際に今では、新築信仰で張りぼてばかりをつくり古民家の価値はほとんどありません。むしろ迷惑な存在のように扱われます。

これは本物がダメになったのではなく、本物の価値をわからなくなった人が増えただけともいえます。なんという悲惨な時代だろうかと思うことばかりですが、町に出れば安価で偽物、便利ですぐにダメになるもの。量産型で画一的で希少なものなどはほとんどありません。

そんなものを使っても、すぐに壊れますし、先ほどの一枚板のテーブルのように暮らしの中心を支える大切なものとして働きはどうなのだろうかと思います。

善いものがわかる、つまり本物を知るというのは私は人生において何よりも重要なことであろうと思います。私の甦生する古民家が、なぜ皆さんに喜ばれ感動されるのかといえば別にセンスがいいからやデザインがいいからというわけではなく、本物にこだわっているからだともいえます。

その本物は何でも本物という自然物だけにこだわっているわけではありません。時代的に文明のものを使って仕上げますからそこには自然物ではなく人工物です。しかしこの時の本物という私の言葉は、「本質的か」ということも本物の理由の一つにしています。

つまり何のためにやるのかということにこだわっているということです。

長くなりましたが、一枚板というものを通してこれからこの説明をするときにはこの古民家の価値と一緒に伝道していけるように思います。木造建築の価値、木の持つ徳を子どもたちにつないでいきたいと思います。

お手入れの循環

最近、捨てないということについての動きが活発になってきています。資源が枯渇してくればくるほど、資源のリサイクル化は進んでいきます。しかし実際には、膨大な量を生産していれば捨てなければこの世はまるでゴミ溜のようになっていきます。

現在は、資本主義経済を循環させることが大前提ですから両立するというのは如何に経済を回すかということですがそれでは本当の意味で解決することはありません。

私は捨てないということよりも、本物にするということだけで十分解決すると感じています。

例えば、日本には伝統職人さんたちがいます。彼らは、自然物を上手に活かし、里山循環の中にしっかりと溶け込み、自然の一部としての役割を見事に果たしています。藁ぶき職人であれば、その地域の藁やカヤ、葦などを用いて家の屋根を葺きます。また左官は田んぼの土などを活かして土壁を塗ります。また森林を手入れし炭焼きをし、大工さんらはその木を用いて家を建てます。竹の手入れによって数々の暮らしの道具を人々はつくります。かつて、私たちは「何が本物であるか」を知っていたのです。

その時、私たちは捨てるのでもなく作り続けるのでもなく「手入れする」ということだけに専念したのです。

私は今の時代、もしも世界が変わりこの人類の方向性を導けるとしたらこの「手入れ」をするということだと確信しているのです。そのことから、徳積財団を設立し、暮らしフルネスを起草し、「お手入れ」のための活動と実践をこの地から発信しています。

物を大事にすること、もったいなくいのちをいただき伸ばすこと、このすべては「お手入れ」する心から育つものです。自分の心をお手入れし、身体をお手入れし、そしてお導きやご縁にお手入れする。当たり前のことかもしれませんが、自然はみんなでお手入れをすることで循環を守り続けてきたのです。

現代はこのお手入れの反対のことをみんなでやってます。やりっぱなし、なげっぱなし、捨てっぱなしで作りっぱなし、これがゴミの正体であることに気づく必要があると私は思います。

日本にはそもそもゴミという概念がありませんでした。八百万の神々の一つであり、それが他の神様のお役に立つ大切な存在でした。だからこそ、ここ日本からこの思想や生き方を伝道していくのが今の世代の使命だと感じています。

子どもたちがこの先、100年後、1000年後、どれだけの自然に見守られているのか。自然の回復力と人間の魂の真の成長を信じて、子どもたちのために日々のお手入れ、修繕を伝承していきたいと思います。

私の目的

私はこの「場の道場(BA)」で、日本の伝統的な文化を継承して温故知新しながら最先端の取り組みと融合させています。なぜこのようなことをするのかといえば、目的は明確で子どものためにということです。

この子どものためといっても、単なる一般的な世の中で使う子どものためではありません。もっと広義で子孫のためといった方がいいのかもしれません。子孫たちが安心して世界の中で自分らしく自分を生きていけるように先祖の思いやりをつなごうとしているのです。

私の暮らすこの場には、古いものと新しいものが共存し共生しています。よく言われるのが、ハイブリット型や善いところ取りなどとも評されます。しかしそれは、ちゃんと日本人の精神や魂、生き方を大切にしながら時代の中で創造されてきたものとの調和した暮らしを実践しているだけのことです。

先祖は、私たち子孫のために色々と深く考えてくれて偉大な思いやりを遺してくれています。その先祖の生き様や人生を無駄にしないのが、私たち子孫たちの責務であり使命であるはずです。

今の時代は、そんなことを思わず刹那的に今の自分の人生や世代だけがよければいいという短絡的な生き方が増えています。どれもこれもすべてその原因は、忙しくなることで暮らしを手放したことに起因しています。

暮らしがなくなれば、先祖の思いやりも届かないところにいってしまいます。私たちの先祖は、決して単なる文字や記録で子孫が守れるとは思っていませんでした。なので色々と工夫して知恵を働かせたのです。

その一つが、日本の家屋であり日本の伝統行事であり、まさに衣食住を含むこれらの「暮らし」にその仕組みをを入れたのです。

そしてそれを甦生し続けて温故知新する人物を、道を通して育成してきたのです。私が場の道場を開いた理由、そしてなぜ今、ここに「場」を誕生させようとするのかはその手段の一つであり目的を実現するためです。

子どもの仕事をしてきたからこそ、何をすることがもっとも「子ども=子孫」のためになるのかと四六時中ずっと思い続けてきました。そうすることで先祖とつながり、子孫へ譲り遺していく初心伝承文化に気づいたのです。

これから目的に人を集めるための動画を撮影していきますが、目的を忘れずに丁寧に取り組んでいきたいと思います。

甦生の技術

この世の中には、時間というものがあると信じられています。他にも自分というものがあるとも信じられています。つまり人は何かを信じればそれがあると信じるようにできています。

実際にないものであっても、自分があると信じればそれがあるのです。

その中には、本当に現実としてあるものと、空想の中であると信じているものがあります。ある種の思い込みといえば、ほとんどすべてはこの世の中は思い込みでできていますが思い込みを超えるような発見があるとき人は真実に気づくように思います。

その時、目から鱗が落ちるような体験、また我に返ったような体験、自分というものを超えた偉大な存在になったような体験などがあるように思うのです。思い込みから解放されるとき、人間は今まで見えなかったものが観えるようになるのです。

例えば、「いのち」というものがあります。

一般的には、動物のように呼吸をして心臓を動かし活動しているものはいのちがあると信じています。その活動が停止したらいのちはなくなったといいます。植物であれば、花を咲かせていたらいのちがあるとし、枯れてしまえばいのちがないとしています。つまり動と静によって、いのちがあることとないことを使い分けているともいえます。

しかし、もしも静であることがいのちがあることで動であることがいのちがないとしたら混乱すると思います。例えば、石であればじっとしていればいのちがあり、壊れていけばいのちがなくなっていくということになります。他にも、静かな湖畔はいのちがあり、蒸発してなくなればいのちがないという具合です。

簡単に動と静で生き死にはすべて語ることはできません。

ここに一つ、「甦生」というものがあります。それは「いのち」そのものを観るために動静そのものとは離れた絶対的に存在する何かを可視化する技術です。私は甦生と浄化の道を究めていくものですから、いのちそのものの存在をどう磨いて徳を引き出し、それを活かすかということを生業にしています。

甦生というのは、時空を超えてあるものを世代を超えても受け継がれた存在を永続的に守り続ける力のことでもあります。甦生させていくことで、私たちは伝統を守り続けることができ、いつまでもいのちを輝かせていくことができるのです。

子どもたちにこのことを伝えていくために、映像を遺してみたいと思います。今、来ているご縁を一つ一つ噛みしめながら自分のやるべきことに専念していきたいと思います。

丁寧な暮らし

生き物は美しい造形物を作り上げていくものです。私は若い時に拾った一つの貝を持っています。そしてもう一つ、石英の勾玉を持っています。身近に置いておくと心が癒され美意識が高まっていくのを感じます。

自然のもつ造形物はまさに完全無欠であり、どのような状態になってもそのものらしく自然体で驚きと感動を与えてくれるものです。

まずこの貝は巻貝ですが、科学的には炭酸カルシウムとタンパク質を融和させながら成長していきます。最初は小さな姿から大人になっていくにつれて次第に貝も大きくなっていきます。

つまりこの手元にある巻貝は、この貝の一生を生きた証ともいえるものです。美しい海の中で仕合せに生きたこの貝の姿を眺めていたり触っていると私はいつも心が癒されその美しい貝の姿から海の中でどのように過ごして何を貝は感じて生きたのかというものが伝わってきます。一つ一つの曲線の美しさ、そして肌触り、手に収まるくらいの大きさ、そのどれもが飽きることもなく何度みてもうっとりするのです。

出会いは宮崎の日南の海で、仕事中に走っていたら海の中に光っているものがみえ、車を止めて石やサンゴがゴツゴツとした中での出会いでしたが発見した時の感動は今でも忘れることはできません。

もう一つの石英の勾玉もまた不思議な出会いでした。ある森の中の美しい水が流れている近くで微睡んでいた時に土の中に光るものを感じて掘り起こしてみたらそこにあったのです。ドロドロで真っ黒でしたが、水洗いしたら見たことのない緑色の美しい姿になり透明な光が出てきました。

これは数億年という単位で、水が薄く流れる鍾乳洞のような場所で少しずつカルシウムと水が融和してできたものです。水晶などは1㎜成長するのに少なくても100年かかります。数万年単位で水に溶けたシリカなどが固まって石になるのです。

つまりこの手元の石には億年単位の石の生涯があり、その美しさがあらゆる模様や姿形に出てくるのです。私はこの石に触れるたびに、その歴史やドラマ、地球内部での暮らしを感じて悠久の時を思い出します。

いつかは死に別れることもありますが、私の身体もまた自然物の一つで造形されたものですから違うものになっていくのでしょうがいのちの本体がなくなることはありません。

私たちが美しいと感じるものは、このいのちの本体に触れているからです。

私は芸術のことや専門のことはわかりませんが、美しいものは何かということは本能で感じます。人はみんな自然物ですから真の美しさがわかるはずです。自然物に触れて、一期一会に出会いつつづけることで美しい人生はさらに彩られていくものです。

日々の出会いを大切に、美しいものを見逃さないように丁寧に暮らしていきたいと思います。