能力の本質2~役に立てること~

「人はどういうときに喜び、幸せを感じるのか、人から愛されること、人にほめられること、ひとの役に立つこと、そして、人から必要とされること、これは、人間の究極の4つの幸せです。」

これは、日本理化学工業を見学した際に大山会長から「働く幸せ」について教わった内容です。

そして「働く場である企業だからこそ、君がいて助かったよ、ありがとう、また頼むね、という言葉が自然とでるのだと思います。人間誰しも持っているという、人の役に立つことが幸せだと感じる脳、「共感脳」が、人に役に立ったときに満たされる、幸せだと感じられる、まさに、自分の存在を確認できるからなのでしょう。世のため、人のためというと大げさになりますが、人間だからこそ、このように素晴らしい能力を持てるわけで、本当にありがたいと思います。」と続きます。

この「役に立つ幸せ」は、人間だからこそある素晴らしい「能力」だと言います。能力があるからその人は役に立つのではなく、その前の段階でその人は役に立ちたいことが能力であると定義されているのです。これは何よりも大切なことだと思います。

自分の能力を技能や知識だと思い込んでいる人は、自分が失敗しそうなことやできそうにないことには手を出しません。自分が向いている組織に属せば役に立つところがたくさんあるのかもしれませんがそうではない組織に属せば無力感を感じて腐ったりもします。しかし実際は、向き不向きではなく役に立とうという気持ちさえあればどんな小さなことでもできることで役に立っていけば相手や周囲から「ありがとう」という感謝をもらえ幸せを感じるのです。

本来、働くことは幸せであり、幸せは働くことで得られます。それを勘違いして評価されるために、自分が認められたいために、もしくは周りにいい人だと思われたいためになど、自分自身の価値を証明させたいために働けば不幸を感じるようになるのです。自分の能力が活かせないといくら愚痴をいったり、自分は何もできないなどと諦めてじっとしていたりして働くことが次第に面白くなくなってきます。

働くことが楽しい人は、どんなことでも役に立ったと思えば仕合せを感じるものです。自分が相手のためにできることを自分ができることでなんでもやっているうちに相手から感謝されるのが嬉しくなるからです。

みんなが楽しく仕合せに働く組織は「ありがとう」という言葉がたくさん飛び交います。なんでも役に立つことをしていこうという気持ちが溢れるからです。本来、仕事とは何かとシンプルに言えば誰かの「役に立つ」ことでしょう。自分が役に立っているかどうかを考えて悩むよりも、「ありがとう」と言われるような働き方を工夫した方がいいということでしょう。

ありがとうと言われる働き方は、相手を思いやり自分が手伝いたい力になりたいと何でも取り組んでいくことです。できることはなんでもやるということでもあり、できないことでも何か力になれないかと努力することです。

そうやって何かで役に立ちたいという思いがあれば、きっと人はその人のことを嫌いになることはありません。最初は下手で迷惑をかけるかもしれませんが、それでも何か力になりたいと思えばそのうちに上手になってきます。本来の人間の能力とは、役に立ちたいと思うことで磨かれていくものです。つまりは能力とは、役に立つ能力を得るということです。そしていくら能力があってもそれが役に立たないのは本当は能力ではないということです。

能力=役に立つことであり、役に立つ能力こそが本来の能力の意味なのです。そうなるとその人が役に立てるように周りも気にかけて配慮したり、その人がさらに役に立てるように協働したり、お互いに役に立てるように働くことが幸せを創造していくように思います。

何かの能力さえつければ誰かの役に立つという刷り込みを取り払い、本来の取り組みの順番を間違えないようにすることです、できないことばかりを追い求めず、できるところからみんなの役に立てるようにすることが能力、つまりは自分も「人の役に立ちたい」という能力を持っていることを信じることです。能力を無理に活かそうとする苦しい生き方ではなく、役に立てるのなら何でもやるという生き方の方がしなやかで楽しい生き方です。

最後に大山会長の言葉です。

「働くことが幸せということを前提にしたら、世の中はもっと良くなる」

役に立てることが幸せということを前提にして、能力を持てば幸せという刷り込みを捨てれば世の中は本当に豊かになると私も思います。みんなが安心して役に立てる歓びを感じられる組織を広げていきたいと思います。

能力の本質

能力主義の刷り込みの一つには「優秀」であるという評価があります。その優秀さとは学校でいえば全教科で高得点を取り、成績優秀、学校の思う人物像に近い人たちが選ばれました。

周りからどのように思われるかを優先し、周りがもっとも評価できる人物になることは優秀な人になることです。もしくはそこまでいかなくても、マジメにやっていればその評価から外れることはなく安心して平均内に収まっていることで「できる方」にいることができます。しかしあまり平均内にいると平凡という意識を持ち、能力が低いと自分に自信を失います。また平均よりも下になるとダメな人や知能が低い人などと評価されます。学歴も同じく、いい大学かどうかで優秀が決まるように能力は成績と結果によって評価されるのです。

優秀の対義語に劣等があります。これは他の人よりも自分が劣っているという見方のことです。劣等感がある人は、周囲の評価を気にしているからより優劣を意識します。周りから優秀と言われるために自分の評価を気にしてはマジメにやって優秀であろうとします。そのうちに自分の能力は、周囲の評価によって優劣を決める人になっていくのです。

本来の能力とは、他と比較するものではなくその人の個性です。しかし刷り込みを持つ人能力か個性かに分かれており、能力がある人は個性とか言いませんし、逆に能力が低い人たちが個性を言っているという具合です。つまり周りから能力が優秀であると評価されきた人たちはなかなか自分の個性を認めようとはしないのです。そして劣等感に苛まれている人たちは個性をいくら認めても本人がそれを個性だと認めようとしません。

この優劣をつけられて評価され、自分の能力ばかりを信じてきた人は常に周りのことも優劣で評価しますし、自分のことも優劣で評価しようとします。比較競走の刷り込みはこの優劣刷り込みのことでそのままでいいや、自分らしくあっていいは通用しないのです。

しかし、子どもたちを観ているとどの子もその子にしかない天の才能を持って生まれてきたのが分かります。木の葉に同じ葉が一枚もないように、指紋が同じ指紋が一つもないようにみんな最初から異なる個性を持っています。しかしその個性を天才とは呼ばず、そこに評価を入れて優劣を決めさらには障害などと呼んだりする。

動物で例えれば、うさぎと亀がいてみんな早く走らせて優劣を競うとすればうさぎが早いことはすぐにわかります。亀が自分が遅いといつまでもその競走で頑張ってもうさぎを超えることはありません。今度は水に潜ることを優劣で競ってもうさぎはどんなに頑張っても亀ほど水に潜れません。お互いがもって生まれた差異があるのに同じにしようということが無理があるのはすぐにわかります。

しかし人間はもともとみんな同じであると錯覚するあまり、本来の個性の意味が分からなくなっているのです。みんなが官僚にして政治家になったり今の社会システムのエリートになるために生まれてきたのならその能力評価一つで合う人間を育てていけば今の社会構造が保てると考えるのでしょうがそんな歪なものは長続きするわけはありません。

それぞれの個性、天才をどうみんなが発揮してお互いに競走するのではなく協働するか。そのためにはまずその能力主義や能力評価の刷り込みを捨て去ること、優劣で自他を裁く癖を改めることが先決です。

本当の優秀の意味は、「優」の語源は悲しむ人の側でその人の悲しみに心を痛めわが事のように悲しんであげる字を顕します。つまりその人物は「やさしさ、気遣い、思いやりの深さ」に対してとても「すばらしい、優れている」という意味です。そこが人よりも秀でているということ。

つまりは能力とは本来、誰かのためにと必死に自分を真摯に使い切る人たちが秀でていくもので劣等感や競争で得るものではないのです。自分から周りの人たちや助けたい誰かのためにや、困っている人たちのために、社会の役に立つために全身全霊で本気で身を投じていく人が能力が高まり秀でて「優秀」になるのです。

能力から入るのではなく、誰かを思いやり力になることから入ることが本来の個性を磨いていくことです。能力が個性ではないのです。だからこそ無能と呼ばれることを恐れず、役に立たないと周りから言われることを気にせず、ただ相手のために真心で遣り切っていく生き方を選んで本物の個性を発揮してほしいと願います。

本当のことを自覚し、改心していき子どもたちの勇気になる生き方をしていきたいと思います。

「できるできない」という刷り込み

能力主義、能力評価というものがあります。幼い頃から自分の存在価値や自分らしさではなく、自分の能力を拠所にしてきた人は周囲に対して自分は何の能力があるかという評価を意識しながら生きていくものです。またそういう能力に対する刷り込みがある人は、何かしらの結果はすべて能力によって可能だと信じ込んでしまいます。

本来は能力だけでその結果が得たわけではなく、その人の真心や身を削るような真摯で誠実な努力や行動によって出来たものでさえその人の能力の力だろうと思い込んでしまいます。運も実力の内という諺もありますが、本当は能力は付属的要素であってもっとも大切なのは思いやり行動したり、初心を忘れずに遣り切るときにのみ他力が働いて物事は成就することがほとんどです。

この能力刷り込みというものは、「できるできない」という判断基準を持ちます。そのできるかできないかというのは、自分の能力でできるかできないかという判断基準です。

例えば、仕事でいえば自分にできることをやることを責任感があるとし、自分にできないことをやるのは無責任という考え方があります。これは能力で仕事を判断する場合は、能力を超えることをやって失敗したら迷惑をかけるのだからできそうなことしかしない方がいいという考え方のことです。自分のできそうな仕事を探し、自分のできることだけをやっていく仕事というものは能力があればできるものです。しかしもしも自分の能力を超えたことが発生したとしたら、そこでやめてしまったりそれ以上は踏み込まなかったりします。

ここでの踏み込むというのは、どこまで相手の問題や課題に責任を持つかということです。本来は、能力でできるかできないかで仕事をするのではなく相手のためにできるかできないかで仕事は行うものです。

言い換えれば、「自分にできないことであったら誰かできる人を探してでもその人の助けになってそのために自分にできることはなんでもやる」というのが本当の責任感ということになります。

実際に能力を拠所にその評価を気にしている人は、能力で解決しようとするあまりできないことをやろうとしてできることをやりません。できないことをやろうとするというのは心を籠めないで理屈ばかりで乗り切ろうとしたり、思いやり勇気を出して行動をすることを避けては、その場限りの技能やテクニック、ノウハウなどに頼ってしまいその能力でできそうなことにばかり頭を悩ませることをいいます。

人間は自分の存在価値を認めていけば能力が存在価値ではないことに気づきます。自分の持ち味もまた能力のことを言っているのではなく、その人の個性のことを言っているのです。個性を尊重するか、能力を尊重するか。本来は個性の中に能力があるのですが、個性を潰されて能力ばかり評価された人は能力がなくなれば即ち自分は無価値だと信じ込んでいますからどうしても能力を手放せないのかもしれません。そういう生き方は苦しい生き方だけでなく、周囲も人のことも苦しくしていきます。

相手のためにできることはなんでもやろうと生き方を定め仕事をする時、人は自分の能力を超えて働く必要が出てきます。その時こそ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」にあるように能力に頼らず、信じることに頼ります。信頼関係というものや絆は、能力によって結ぶのではなく相手のためにと保身を捨てるときに得られるのです。

「できるできない」ばかりに囚われている人は、必ず其処には能力評価の刷り込みがあります。個性をもっと大切にして、自分にしかできないことに取り組む必要があります。一度きりの人生、たった一人の自分、その自分の魅力を自分が引き出すのも自分、誇りをもって取り組むのも自分、もっと自分自身を信頼して大切な初心を守るために心のままに生きてみてもいいのではないかと私は思います。

できないとかできるとかで心を蔑ろにして本当の自分自身を誤魔化せば、個性はその他大勢に埋没していきます。もっと自分らしく、自分のままでいい、できないことはできる人に助けてもらい、自分にしかできないことでみんなの役に立てばいい。

自立と共生は、保育の要です。

引き続き、刷り込みを取り払いもっと個性が発揮できる社會になれるように私自身も真心の実践を磨き続けていきたいと思います。

恩送りの生き方~いのちを愛おしむ~

先日、福岡に桧山タミさんという92歳になる料理家がいることを知りました。昭和25年、タミさんは26歳で結婚。しかし、そのわずか6年後に夫を病気で亡くし2人の子どもを育てるため、料理教室で生計を立ててきたそうです。桧山さんは食べる人のことを考える「思いやり」の心をとても大切にしていて電子レンジなどは使用したこともなく、お米は炊飯器などは使用せず、最も善いのは「炭による火力」だということを仰っています。

また料理を作る際に何より大切なことは食べる相手のことを思いやることで、季節の野菜などを食材を使うことも推奨しておられます。そして著書にある「いのち愛おしむ 人生キッチン」(文春e-book)にはこうあります。

「竈で煮炊きした大正の生家でも、子育てと仕事に奮闘した昭和の町屋でも、ひとり暮らしの平成のこのマンションでも、台所がいつも生活の中心にあります」

暮らしの中心は時代が変わっても台所であるという信念で昨年行われた私塾の公開講演のテーマでも「がんばらない台所」とし、その目次を観ると(①自然とのつながりについて②学校では教えない旬の野菜③自然に反しない調味料④道具のちから⑤料理の基本、おいしいご飯を炊けること⑥便利が不便をうむ⑦子どもの頃、何を食べたかで決まる⑧みなさんに伝えておきたいこと)となっておられました。

また料理することは「毎日の一食一食が家族と自分の命をつなぐ営みだから」といい、台所をいのちの拠所にしてご自身の生き方を今でも磨いておられるように思いました。生き方から出てくるその言葉は優しく、心に響いてくるものがあります。

「時代が変わっていってる。それには反対できない。自分で(実践して)いけるものを見つけないといけない。手は抜いてもいいけど、心っていうのは思いやり。その人に対する思いやりを抜いたらだめ。いまごろのお母さんは忙しいから、なかなかできないけど。忙しいってことは、“心を亡ぼす”という字。言葉じゃないけど、思いやり。」

「この人は疲れているか、疲れていないか。疲れているなら、お茶でもコーヒーでも、例えば紅茶を甘めにしてあげる。その程度。“疲れとう”と言ったら、“背中さすってあげよう”と言うと、それだけで、ほっとする。だからお金とか、物じゃない。気持ち。」

ここからもわかるのは料理は形式などではなく真心や思いやりを優先、まさに生き方を語られます。

私も日々の暮らしの実践や聴福庵での炭を使った料理を磨いていますが、まさにこの生き方と実践こそ私の目指す竈主としての生き方ではないかと感動したのです。今後の聴福庵の「澄料理」の根本理念の参考にさせていただきたいと思っています。

最後に桧山タミさんの著書の「あとがきにかえて」より、

「女性はもともと強く、男性はもともとやさしいのです。だから、強さを学ぶために男性は生まれたのです。女性は強いからこそ、やさしさを学ぶために生まれてきたのです。やさしくなるというのは、ただ他人任せに甘えることではありません。人にやさしくするためには自分の心身の強さを持って、そばにいる大事な人たちを温かく応援できるということ。目に見えない思いを日々「料理」にこめることは、命を愛おしむこと。あなたのキッチンが、楽しく豊かで、いつもおいしい匂いのする、家中で一番幸せな場所になりますように。」

やさしさと恩はずっと子々孫々まで巡っていきます。真心を籠める生き方を私も貫いていきたいと思います。

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。

自分を知る

人間はその人らしい時、もっとも自分が何のお役に立てるのかを自覚することができます。自分にしかできないことに出会ったとき、人は幸福感を感じるものです。それは全体の中に自分が活かされ、自分が活きたことが周囲を活かすことを実感することができるからです。

しかしこの自分というものを知るためには、素直でなければなりません。あまりにも周りを塗り固めて本当の自分を隠し続けてきた生き方をしてきた人は、裸になることができない分、自分らしさにも気づきにくいようにも思います。

さらけ出す勇気というものは、自分自身でありたいという心の声でもあります。そういうものを隠し続けて偽物の自分を演じ続けていたら、自分らしさが分からないだけではなくお役に立つところが見えずに幸福感を感じることができなくなってきます。

周りを見てはこれでいいのだろうと言い聞かせることは、自分を生きることではなく周りの空気や評価を気にして生きていく方を選んだことにもなります。自分という物がどのようなものか、そして自分のままでいいと自分が認められるということがどういうことか、それが自分を知るということでしょう。

自分を知るためには、先ほどの裸になってさらけ出してみてありのままの自分を見つめてみる必要があります。みんな馬鹿になるのを嫌がり、普通でいたいと思うばかりに他の人と違うことを避けようとします。馬鹿になるのは馬鹿にならないくらい重要なことで、一度自分という物を素直に見つめてみてはじめてその両方が分かるようになるのではないかとも思います。理屈ばかりで学んでいると、馬鹿になることや恥をかくことを嫌がりますが人生において失敗や辛酸をなめることは自分らしく生きるためにとても重要な経験ではないかとも思います。

馬鹿になるという言葉でいろいろと格言を探してみると

「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘(こだわ)らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる。」(宮崎道雄)

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」(アントニオ猪木)

「利口なんだったら、バカにもなりなさい。バカは利口にはなれないんだから。」(永六輔)

これもまた馬鹿であることの価値を語った言葉です。馬鹿になることは決して悪いことではなく、自分を知るためのもっとも最善でもっとも価値のある方法なのです。そして恥だからという言葉は、恥を知っている人が使っていいということがここからもわかります。恥を知りなさいと言われるのは、自分をさらけ出しなさいということで、もっと自分自身を認める勇気を持ちなさいといわれたのです。

最後にとても心に響く永六輔さんの応援メッセージです。

「コラ!あんまり勉強すると、バカになっちゃうぞォ!」

いつまでも本当の自分を知らないで死んでしまうようなバカにならないように、恥を知りさらけ出す勇気を大切に生きていきたいと思います。

子どもが憧れる生き方

先日、地上でもっとも偉大なショーマンと呼ばれた実在の興行師を演じたミュージカル映画「グレーテストヒューマン」を観る機会がありました。この映画は、差別や偏見のトラウマに打ち克ち、人間の本当の仕合せとは何かを見出していく映画だったように思います。

私が特に映画の中で感動したのは、それぞれが仲間を得て誇りを持ち自分らしくいることを大切に生きるようになった人たちの姿でした。その証拠に映画の後半に一緒に働いてきたパートナーが「あなたのせいで全てを失ったが、愛と友情と誇りを持てる仕事を手に入れた」という言葉が出てきます。

この全て失ったというのは、権力や地位や名誉や富のことです。それらを手放して新たに手に入ったものが愛と友情と誇りをもてる仕事であったのです。それは決して金銭で買えるものではなく、生き方を換えることによって得られることです。

世の中には、大多数の人たちが持っている価値観があります。これを常識とも言えます。皆と同じようなものを手に入れて自分もそれを持つことを保守ともいい、少数派になることを革新だとも言えます。

私はかつてこの映画のように、みんなと同じようなものを手に入れたいと世間の評価に従い自分をその場所へと運んでいきました。しかしある時、自分の人生に素直になりたいと決意し、世間の評価からは程遠く、オリジナルで絶対的少数の方へと生き方の舵をきりました。

その御蔭で私も、愛と友情と誇りをもてる仕事に巡り会うことができ今があります。

人生は一度しかなく、自分というものは一人しかありません。自分らしく生きることは、自分自身の今を最善であると肯定し、自分のあるがままであることに誇りをもって生きていくことです。

周りから何と言われようが、他人からどう評価されようが、本人が仕合せを噛み締めながら自分らしく生きられればそれで世界も幸福になっていくのです。それが自然であり、自然界のようにすべての生命は有機的に繋がっているからこそ自分がもっとも自分の天命に従いその天命を遣り切っていけば周囲のお役に立てるのです。

そして金子みすゞさんの蜂と神様の詩にあるように、どんなに小さな存在であっても神様の内にあるのだから、幸福を見せびらかす必要もなく、むしろ自分らしくいることの仕合せを味わって生きていけばいいだけなのです。

私は子ども第一義の仕事に誇りを持っていますが、これは自分の中にある子ども心に正直に誠実に生きていくことで子どもが憧れる存在になりたいと思っています。それはひょっとすると世間ではおかしな人と笑われたり、変人や狂人だと罵られたり、気持ち悪がられたり差別されたりするかもしれません。

しかしせっかく生まれてきたこのたった一つのいのちの花を、自分なりに咲かせたいと願うのは子どもの夢ではないかとも思うのです。子どもたちに寄り添う見守る仕事をするからこそ、私自身は自分の子どもに嘘がない生き方をしていきたいと思います。

引き続き、愛と友情と誇りをもって初心伝承に邁進していきたいと思います。

意味がある仕事

仕事と作業というものがあります。仕事は価値やプロセスを重要視するのに対し、作業は結果や効率など重要視するものです。仕事も作業も何のためにやっているのかを忘れただやることが目的に変われば価値は失われ楽しくなくなっていくものです。

そもそも生き方なども同様な話で、何のために生きるのかを忘れない人はどんな時もプロセスや意味に価値を置き初心を忘れずに心を籠めて取り組みます。ブログ一つ書くのにも書くことが目的ではないのだから何のためにやっているのかという本質から外れることがありません。そうなるとやっている価値がそのまま文章になりますからその積み重ねでまたプロセスが豊かになって意味が充実し楽しくなります。

しかし心を使わずに頭でっかちに価値を忘れてしまえば、意味もない早く終わらせることだけが目的になり単なる無機質な作業になってしまいます。やらされる仕事というのはこの無意味な効率だけを重視する作業のことで、目的やその価値を見失って働いている状態のことです。本来は価値のある仕事だったものを、自分から進んで無価値の作業にしていくのでは楽しくなることは絶対にありません。実際作業した方が効率よく終わるし、目に見える結果は出ましたから仕事をした気になってしまっているだけで、本来の仕事をしたわけではありません。やらされる仕事と、遣り甲斐のある仕事はまったく別のものなのです。

会社であれば理念があり、方向性があります。そして自分が何かしらで貢献できる方々のために自分の全身全霊、誠心誠意を傾け創意工夫して問題を一緒に解決していこうとする。これは決して作業をしているのではなく、働くことです。

意味を見出し価値を高め、本質から外れずに常に内省しながら働く人は、これは一体何か、何のためにやるのか、何が求めていることなのかと目的に照らしつつ仕事をしていきます。その人の仕事はとても創意工夫に満ちており豊かで楽しいもので、何をやっていても自分から面白くして充実し遣り甲斐をもって取り組んでいます。嫌々ながらやらされているのなどなく、自分から進んで喜んで取り組んでいきます。

そういう働き方や生き方をする人は、その人生も活き活きしており、その人に仕事が集まりますし次第に周りから信頼され遣り甲斐が増えていきます。どんなことも無意味な作業にすることを嫌がり、常に意味のある作業にしようと自分から求めては変換して価値を見出していきます。

本来価値があったものが次第に価値がなくなってしまうのは、自分が価値をそこに見出せないことに由ります。主体性というものは、自分から何の意味があるのかを日々に発見し続けることでもあり、これが目的に対してどのように発展していくのだろうかと好奇心をもって創意工夫を楽しんでいくことで心がついてくるように実践していくことです。マンネリとはその逆の状態になったことを言うのです。

もうすぐ人工知能やロボットが身近で一緒に働くことになり、作業の方はほとんど人間に取って代わられるのは明白です。その時、今もやらされていることを嫌々しながら不平不満を漏らし、楽しくない仕事をしている人はすぐにやる仕事がなくなるように思います。本来の目的や理念、真心を籠めて楽しく豊かに生き甲斐や働き甲斐を創造していく人は、価値を生み出し価値を発展させていくのだから仕事が誰かに取って代わられるということはないでしょう。

全体最適というのは人間社会全体のためにどう生きるのか、自分のやっていることの価値が何かを正しく理解し、ただ正解のためにやらされるのではなくプロセスを常に大切に意味を創造していくことで得られるように思います。言い換えれば、どんな仕事も価値を創造し「意味がある仕事」にしていくということです。それが本質的な生産性を高めることになるからです。

働く仕合せは、意味を感じながら働くことで得られます。無意味で無駄、無機質な生き方をしないよう意味を見出しプロセスを大切にし、繋がりや豊かさを感じる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。

 

むかしの保育

昨日、かつて廻船問屋だった家を修繕し保育園にしている施設を見学させていただくご縁がありました。江戸末期に建てられた家が、今も息づき子どもたちを見守り育てている様子にただただ感動をしました。

昔、大きな蔵があったところは今ではたくさんの乳児たちがお昼寝中でしたが、上品な階段箪笥で二階にあがれば嫁入り道具が入っていた長持がいくつもそのままにありました。確かに家が今でも生きて、子どもたちを見守っている存在を感じ懐かしく有難い気持ちになりました。

こういう古民家を遺そうというのは今の時代では大変難しいことで、新築を建て直した方が安くできるし簡単で維持をしていくことや修繕していく方が何倍も何十倍も苦労をします。それでも大切に敢えて修繕を続ける理由を前園長先生にお聴きすると、「ご先祖様が遺してくださったものだからそれを大切にしたいだけです。」と仰っている姿に日本人の文化と精神、生き方を改めて感じることができました。

このように昔からあるものをいのち永く使われた中で保育されることが、子どもたちの未来にどのような影響があるだろうと思うとこの保育園の存在自体が大変貴重であることが分かります。「もったいない」ということを口先で教えるのではなく、まさに今の大人たちの生き方や家の体現する姿で教えずにして教えていると実感するからです。

見守る保育を提案する新宿せいが保育園の藤森平司園長が主催する臥竜塾ブログに、「家こそがルーツ」という記事があります。この記事にある通りまさに日本のルーツを持っている物語に溢れた保育園に直に出会った気がして、魂が揺さぶられ心和やかで豊かな気持ちになりました。

その保育理念も「遊べる子ども」を目指し、世界一楽しい保育園にしたいと語っておられ、見守る保育の実践に取り組んでおられました。

私たちが定義している保育は道であり、道は生き方のことです。

日々にどのような生き方をするかは、かつてからどのような生き方をしてきたかを伝承していくことでもあります。道は永遠に繋がってこの今を創造し続けるむかしから貫かれた生き方がこの今に伝道し人々がその道に感化され歩いていく人が一人またひとりと増えていくことでその大道が踏み固められていきます。日本人とはそうやって出来上がってきたのです。

古街道沿いにあるこの保育園が風土の中で子どもと道を見守り続けているのを感じ、家の持つた日本の佇まいを観ました。私はこの出会いに大いに背中を押され、偉大な勇気をたくさんいただいた気がします。

私が取り組んでいる古民家甦生もまた、日本人の道の甦生を志すものです。子どもたちのいのちの根を日本文化という地下水脈から吸い上げていけるように、「むかし」からある大切なものをいつまでも守り続けそれを譲り渡していくことに使命を感じます。

今では新しいものばかりが価値があり便利なものや流行の情報ばかりに目を向けている環境に溢れています。しかしこうかって「むかし」のものに思いを向けて観ると如何に自分たちの今がどの方向からやってきてこれからどの方向に向かっていけばいいかを省みる機会になります。

過去はまさに未来から訪れるものであり、この今はそのつながりの中で次に譲り渡していく今であるのは明白です。それを伝統の日本の家が見守っている中で行える保育はまさに私の理想のするところです。

子ども第一義の理念を通して古民家甦生の本質を学び直しつつ、子どもたちが安心して暮らしていける社會にしていけるよう社業や使命に専念していきたいと思います。

 

自然の導き

昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。

振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。

先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。

この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。

こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。

そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。

この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。

誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。

引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。