運を拓く

先日、郷里のある方から古民家甦生の取り組みで嬉しいお知らせをいただきました。地道な取り組みが一部の方々に知らず知らずに認められて応援してくださっていますよという内容でした。私たちは地道に自分たちの信じたことを継続するだけですが、まわりまわって地域の方々に伝わり応援していただけるのは本当に嬉しいものです。

先日からやなせたかしさんの言葉を紹介していますが、「運」と「継続する」ということについて語られていたものがあります。

『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。「継続は力なり」という。同時に「継続は運」なのだ。』

この運とは何か、それは道のことだと私は思います。道をやめないからこそ運がある、そう考えるともっとも大切なことは「道の実践を継続する」ということであろうと私は思います。やなせさんは、継続の人でした。どんな状況になっても、周りからどんな批判や批評、諦めそうな出来事があるときでさえ、継続をした方でした。

『「運がよけりゃ」と、棚の下でぼた餅が落ちてくるのを待っていても、そんな好都合なことは起こらない。自分でぼた餅をつくってこそ、類は友を呼ぶではないが、いろんな餅が寄ってくるのだと思う。自分自身も、世に出なくとも、代表作がなかなか描けなくても、黙々と漫画を描き続けてきた。アンパンマンはそうした長い歳月から生まれた「運」だったのだ。』

アンパンマンがヒットしたのは70歳を過ぎてから、それまでの継続が実を結んだといいます。

代表作をつくりたい。漫画家としてのアイデンティティを持ちたい。そんな長い間の願いがかない、アンパンマンの人気が高くなったのは、なんと七十代に入る直前、六十九歳のときだった。遅咲きも遅咲き。よく「大器晩成」とおだてられるが、いやいや、「小器晩成」の典型だ。でも、大器でも小器でも、いいじゃないか。せっかく生まれてきたのだ。絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。

『「継続は力なり」というが、あきらめないでひとつのことを思いを込めてやり続けていると、ちゃんと席が空いて、出番がやってくるものなのだ。』

だからこそこう言います。

『運は自分で拓くもの 運は自分が呼び込むものつまり、運は天が定めたものではなく、自力で動かすものなのです。』

運は継続によってはじめて拓かれる、そう考えれば継続とは運を自分で動かす大切な実践ということです。誰がどういおうと、どんなことになろうと、自分が信じた初心を貫くことで運ははじめて拓けるものです。

引き続き、子ども第一義の理念と一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

幸福の本質

先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。

改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。

「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。

そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。

私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。

幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。

つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。

当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。

子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

老い

老いというものがあります。仏陀の説く生老病死の中の老いは、人間だけではなくすべての生き物が宿命的に備わっているものです。その老いというものは、経年によっていのちの変化していく様のことです。人間も若いころは考えもしないことを、歳を経ることによって次第に老いを意識するようになります。

つい年齢の刷り込みを受けることによって、私たちは歳をとるイメージを勝手にもってしまうものです。20代はこう、30代はこう、50代はこうで、80代はこうだと誰かが勝手に決めた平均年齢での状態を誰かに常識を刷り込まれ思い込んでいるものです。

しかし実際には、身体機能などは衰えてきたとしても武道の達人や芸術家の極みの人物のように無駄な動きが全部とれて自然体になり万物すべての力を活かす能力を持てるような人もいます。若いからいいのではなく、極まったから価値があるのでありそこに年齢はあまり関係がありません。

ただし年々の修行において、余計なものが磨かれてそぎ落とされていく中で余裕が生まれその余裕によって老境に入ります。

若いころに分からなかったことが経年変化をすることで次第に気づいていくという歓びと仕合せは、老いによって気づけるのかもしれません。

そう考えてみると、若いころはできるようになったことが喜びであり一つ一つできることに幸福感を味わいました。老いていけばこの逆にできなくなることが喜びになり、それが一つ一つそぎ落とされていくことが幸福感になっていくのでしょうか。

今の私にはわかりませんが、老いることで顕れる歓びを探している途中です。

昨年より古民家甦生に取り組むことで、何十年前も何百年も使われていたものに囲まれる暖かさや懐かしさの中で味わい深い時を楽しむご縁をたくさんいただきはじめました。そこでの学びは心の余裕ともいうか、真善美の持つ豊かさともいうべき妙味を感じる時間のようなものです。

そこでは一杯のお茶を炭を熾し立て静かに縁側にいて四季の流れを眺めるだけですが、そこには確かに老いる中でのみ感じられる経年変化の心の素晴らしさがあるような気もします。

自然を見つめ、自然と一体になり、自然体に近づくために老いに素直に向き合っていきたいと思います。

聴き上手

諺に「話し上手聞き上手」というものがあります。これは話の上手な人は人の話を聴くのも上手だという意味です。この反対に「話し上手の聞き下手」もありますが、これは自分の話にばかり夢中になり相手の話を聞かないで一方的に話をするという意味です。

さらに「話し上手よりは聴き上手」というものもあり 、これは話し上手を目指すよりも聴き上手になった方がいいという意味です。

この聴き上手とは何か、少し掘り下げてみようと思います。

そもそも人の話を聴くというのは、単に言っていることを頭で理解すればいいわけではありません。それはどんな意味で言っているのか、そこにはどんな深さがあるのか、そして自分の中でそれはこう受け取っていいものかと、相手の話を聴きながら本当に聴いているのは自己との対話です。

この自己との対話は、相手を中心にして自分はこれを聴いて何を感じたか、何に気づいたかと常に自問自答しながら深めていきます。そのうえで、相手が言わんとしてくださっていることを天の声ように謙虚に受け止め、これはこのような意味ですか?それはこれで間違っていないかと素直に確認していくこと。それが聴くという行為であります。

この聴くという行為とは逆にもったいないことをしているのは、自分の思い込みで単に聞いているだけということになります。これは読んでいるものもそうです。本当にその意味なのかが深まっていないものをその時の「自分の思い込みのみで解釈」して話をちゃんと聞こうとはしない。そういう素直ではない姿勢では、周囲はその人に話をすることも次第にやめてしまいます。話し上手よりも聴き上手というものは、ちゃんと人の話を素直に聴く方が話ばかり上手くても人は離れてしまうという意味もあると私は思います。何のために話すのか、何のために聴くのか、それが人間にとって必要なことだからです。

さらに素直に聴く力というものは、ただ黙って相手の言う通りのことに従順に従えばいいというものではありません。素直に聴く力は、相手を深く尊敬し相手が言っている言葉の真意を自分自身の真実や本質から深く掘り下げて、相手の言っている言葉以上の価値を相手に敬意をもって確認することです。その際、ひょっとすると自分の方がその意味が深まっているのなら相手のいう事が如何に素晴らしいかも気づく自分がありますからそれを称賛し共に深めていくくらいの人こそが聴き上手といわれるのです。

よく学んでいる人や、物事の本質を深めている人、体験を内省し自分を磨いている人は聴き上手です。なぜなら、その人が聴けば自然に相手のいいところが引き出され、その人の智慧も活かされ、まるでどんなにくすんだ物体もその人の前に立てば澄み切った鏡のようにすべてを明瞭に写し出すことができるからです。

素直な人は、思い込みで人の話を聴くことはありません。さらには自分勝手な解釈で他人の親切を棒にふるようなこともありません。話を聴くという心の態度は、相手の真意を確かめて自分自身の至らなさを恥じる謙虚さがあってはじめて醸成されていくように思います。それが相手の立場を思いやる徳になり、聴いたことで福にする力になっていくと私は思います。

善い聴福人を目指して、本質を確かめ意味を深め学問を究め、徳を磨いていきたいと思います。

 

用力

能力主義という考え方があります。これは1970年代から80年代にかけて多くの日本企業で取り入れられた賃金制度に関する考え方で、その人が保有する能力を反映して賃金を決定したものです。同時に成果主義というものもうまれ、その人が出した成果に対して報酬を支払うという考え方です。

この頃から、人は評価によって有能か無能かと分別を意識するようになったように思います。今でも社会全体の中には、有能な人ばかりが出世し、無能な人は切り捨てられるとし、派遣を中心に能力で人が移動するという仕組みで人材も動いています。そしてもっとも価値があると教え込まれるものは、有能であること、そしてさらには万能であることが求められていきます。

この万能とはなんでもできる人のことであり、能力が高い人が世の中に必要されていると教え込まれ多種多様な資格をもっている人が重宝されるといわれています。言い換えれば、どこでも使いやすい人という意味で万能を求めていた企業があったのかもしれません。

しかしこの能力というものは少し掘り下げてみればわかりますが、そもそもそれを用いる人がいなければその能力は発揮されることはありません。いくら自分は能力が高いと周りに自慢して誇張してもそれを用いたいと思う人がいなければ社会でも組織でも嫌がられる存在になってしまいます。

能力ばかりを高めて、成果ばかりを求めて一人その能力を見せつけても気が付けば誰も自分と一緒にやってくれなくなったという話はよく聞く話です。例えば、営業会社で能力主義と成果主義を用いて競争させてトップセールスマンが出てきてその人が成果を出して能力を褒めたたえても、そのうちその人は周りとの関係が築けずに成果がでなくなれば周りが悪い、会社が悪いと、すぐに飛び出していきます。会社の中はギスギスしたものになり、居心地がわるくその能力が使えなくなればその人は会社から不必要だといわれ解雇されたりするものです。

これは能力というものを中心に人間を管理することで起きることです。個の能力だけを評価するというのは、チームや全体との連携に大きな欠陥があるのです。海外の企業では、個は独立していますから転職をしながら能力を使ってもらえるところに移動しながら働きます。しかしそれは組織の中でその能力を活かすために能力だけではなく用力も備わっているということです。

この用力の用とは何か、それは有用の用です。

有能であることばかりを優先するのではなく、その能力をどのように用に立てるかという有用さが全体と一緒に働いていくことになります。言い換えるのなら、仕事をするためだけの能力か、それとも共に働くための用力かということです。

人間は、用いる人があってはじめてその能力が活かせます。自分を使ってもらえるように周りにならなければいくら自分が有能だからとじっとしていても誰もその人を用いません。能力ばかりを磨いてきた人は、用力が足りず自分が何をしていいかわからずに孤立している人が多いです。この用力は、如何に全体のために自分を用いるか、如何にみんなのために貢献するか、如何に自分の我を優先せずにみんなの仕合せのために自分を用いていくか、そういう利他や利益を産み出せる人になるということです。

有能な人は、イコール有益な人ではありません。時として有能な人が有害な人になることがあります。これは自分の用い方を間違っているのであり、能力主義で評価されてきたことで物事を能力だけで判断する刷り込みが抜けないから無能を恐れ有害になるのです。

人の仕合せは、単に自分だけがよくなれば幸福になるのではなく、自分が周りのお役に立てば仕合せになり幸福感を味わえます。どんなことをしたとしても自分がみんなのお役に立っていると実感できるのならその人は働くことが幸福だと実感します。こうなれば有用な人になった証拠であり、みんなにとって有益な人になっているということです。

自分はこの能力があるのだといつまでもその能力に固執してその仕事にしがみ付くのではなく、みんなのために全体のためにみんなに用いてもらえるような存在になるように協働でチーム全体のために尽くすならその人は有能から有用になり有益になってみんなの仕合せを創造する人に変わります。「またあの人たちと一緒に働きたい!」といわれるような用力の人は、みんなの仕合せを創造する人たちになります。

何のために働くのか、刷り込みを取り払い掘り下げてみると人間であることの意味や本当のことが観えてくるはずです。

用力を高め、子どもたちみんなの仕合せのために働く幸せを伝道していきたいと思います。

 

変化の最中

先日、終わりがはじまりということについて書きました。これは「今」というものを中心軸に物事を捉えるとき、始まりと終わりは常に表裏一体ということの意味です。同様に明暗も陰陽も、上下も左右もその中心は変化その最中に存在します。

そう考えるとき、変化とはその両方が移り変わる瞬間に発生していることに気づきます。それが終わりが始まりであり、始まりが終わりである証明です。

しかし人はそれまでの過去の習慣を変えられず、今までと同じように終わりをそのままに終わり、始まりもそのまま終わらせてしまうものです。つまりは何も始まらずに何も終わらないという状況になって停滞してしまうものです。

せっかく頑張って始めたものもそのまま終わってしまえばそれは始まっていなかったことになります。そしてそのまま終わらせてしまえば始まりもなかったことにしてしまいます。

何かをちゃんと始めるというのはその分、同時に何かをちゃんと終わらせるということを意味するのです。つまりは今までの何かを終わらせてはじめて、始めることができるということになります。今までのものを持ちながらその手に新しいものを持つことはできません。もしも両方に持つのであれば、その両手に持てないものはどこかに置くか誰かに渡さなければなりません。自分が持つしかないと思い込んでいつまでも手放すことができなければ、いっぱいいっぱいになったその手には新しいものを持つことができなくなります。器と同様に、その器に何を載せるか、私たちはそれを転換しながらその時代を生きているからです。

さらに人間には決して終わることがないこと、終わってはならないものというものがあります。それが変えてはならないものであり、変わらないもののことです。これは理念や初心、目的や信念、道などもそうですがこれは始まりも終わりもない永遠のものです。

しかし時代は変わっていき環境も変化していくのだから、何かが始まり何かが終わるのは世の常です。その時にいつまでも過去にこだわり、それを手放さずに変化しなければそのまま時代と共に淘汰されてしまいます。それが自然の理だからです。だからこそ、過去にそれがいくら良かったとしてもあるときに次への挑戦がはじまるときその功績や成功を手放さなくてはなりません。いや、むしろその成功事例や功績こそを手放さなければ終わりがはじまりにならないからです。

変化と永遠は、温故知新する中で常に向き合う大きなテーマです。諺に、「創業は易く守成は難し」とありますがはじめることよりも終わりを始まりにしていくことの方がよほど難しいことなのかもしれません。

引き続き、次世代の子どもたちの環境のためにも変えていくことの重要さを実践により伝承していきたいと思います。

調和する生き方~ベテランの意味~

歳を経ていくと、体験を積んだ分の知識が増えていくものです。そして歳をとっていくのだからそれだけ様々なものが身に着いていきます。人は誰しも最初は新人で、その後、中堅などと呼ばれ、最後はベテランなどと言われます。それは経験年数と共に、それだけの経験と知識が増えていき立場や肩書なども変わっていくからです。

先日、ある人から老害という話を聞きました。そういうこともあるのかと私にはとてもショックな言葉でしたが、謙虚さを失えば誰しもそう呼ばれるかもしれないと感じたものです。

老害という言葉を辞書で調べると、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪。」と書かれています。この対義語には老益というものもあり、主に「チームへの貢献度が高いベテラン選手、全体や組織への貢献度が高い経験豊富な謙虚な老人」ということでしょうか。

同じベテランでも、いつまでも自分が自分がと自分が全面的に前に出てしまい自分が正しい、自分がリーダーだといつまでも先頭でやろうとすると周りが育たなくなっていくように思います。逆に、自分よりも全体を思いやり若い人たちや経験が足りない人たちのフォローやカバーに入ることで次世代を育てたり、大事な局面で心を支えたりすればベテランとしての価値が引き出されていくようにも思います。

人間は誰しも老人になっていきますが、自分自身が今、どのような状況なのかを客観視し、自分自身がどうあることがもっとも全体の役に立つのかを考えて行動するにはやはり謙虚さや素直さが必要になるように思います。

そしてこの謙虚さや素直さは、感謝の豊かさと徳の積み方によって磨かれていきます。

経験することで何を磨いてきたか、老いていく中で何をそぎ落としてきたか、それが歳を経た時に顕著に顕れるのかもしれません。私も老いていますから、いつまでも過去のままでいることはできず降りていく時季を迎えています。尖がったり、偏ったりが磨かれて調和されて一円になる時期です。

降りていく時だからこそ「人は皆わが師」であると尊敬し心を高め、自分自身を謙虚に見つめて素直な感性を常に磨き直していきたいと思います。

 

人生の創作活動

人は自分という存在を自覚するのは、周りの人たちのことを深く知ることで理解できるものがあります。どのような家族や友人や仲間に囲まれているか、その環境の中で自分自身が形成されてきたことに気づきます。自分が今、自分を自覚できるのは与えられてきた環境やご縁によって自分自身になったともいえるからです。

そう考えてみると、自分はこれまでどう生きてきたか、そしてこれからどう生きていくかという事も考えていくことができます。生まれながらに恵まれた環境を与えられて、善い人、善い友、善い教えに触れてきた人は仕合せに気づきその恩恵に感謝しながら肯定的に生きていけます。しかし時として恵まれない厳しい環境を与えられてしまい、善いものに出会えない場合はなんでも否定的にしてしまうことがあります。

人生は巡りあわせではありますが、どのような道を生きてどのような人生を送るかは生れ落ちたところで決まります。与えられた場所に感謝して、その場所をもっと善くしていこうとする努力こそが人生の醍醐味であり、そこに不平不満を言って腐っていても何も変わることはありません。

自分自身を変えるということは、今の自分を創り続けるという努力が必要になります。それは日々に感動や感謝、そして感激をする心、感性を磨き、心を瑞々しくし続ける努力とも言えます。心が閉ざされて感情も冷めてしまえば、与えられた環境を活かすことができなくなります。また同時に環境を感じる力がなくなり、環境に流されてしまうようになります。

人間は環境を創造していくことができる生き物ですから、与えられた環境下の中で如何に五感を研ぎ澄まして自分自身を毀していくかは人生の命題であり、それぞれの大きないのちのテーマです。

人生は死ぬまで自分自身を創造していく創作活動です。

子どもたちにもその後ろ姿から何かを感じ取ってもらえるように精進していきたいと思います。

四時ノ循環

吉田松陰に「留魂録」というものがあります。これは処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた弟子たちや同志へ向けての遺書とも言えます。

その中の第八節に四時ノ循環というものがあります。原文を紹介すると、

「 一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

「今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。
蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す。
秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、 醴を為り、村野歓謦あり。
未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。
吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず實らざるに 似たれば惜しむべきに似たり。
然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時 なり、何ぞ必ずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。
禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。
十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。
三十は自ら三十の四時あり。
五十、百は自ら五十、百の四時あり。
十歳を以て短しとするは蟪古をして霊椿たらしめん と欲するなり。
百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲する なり。
斉しく命に達せずとす。
義卿三十、四時巳に備はる、亦秀 で亦実る、その秕(しいな)たるとその粟たると吾が知る所に非ず。
もし同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、 乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志其れ是れを考思せよ。」

自然界と等しく、いのちは永遠に循環しているものです。いつがはじまりでいつが終わりか、そんなものは本当はないに等しいものかもしれません。そう考えてみると、すべてのいのちが循環を已まないようにあらゆるいのちはその使命を全うしているともいえます。

そしてそれは傍から見れば、早死にした人であっても、結果がうまくいっていないように思われたとしても、その人にはその人の大切な役割があり、それを果たしているとも言えます。

同志や仲間たちに死を恐れさせず、自分の天命を全うせよと自分のいのちの最期に語り掛けて至誠であり続けよと教えます。塾生たちと一緒に、そして同志たちと一緒に、自分のすべての生命を受け容れ全うしようとする純粋な魂には感動するものがあります。

思想や志は、たとえ体躯が朽ちても永遠に遺るものであるのは循環が証明しています。如何に好循環を産み出すかは、その人の生き方と生き様次第です。

循環を忘れないようにいのちのままに魂を磨いていきたいと思います。