襤褸の心

先日、聴福庵の離れの古布の襤褸を眺めながら改めて「ぼろ」の意味などを深めていました。私は人生の中でよくこの「ぼろぼろになっている」という気持ちになる体験から多く、そんな状態であっても信念に従って真心を盡したいと挑戦し続けてきました。今年は「許し」をテーマに取り組んでいますが、この襤褸と許しはとても密接に関連しているように思います。

そもそもこの襤褸というのは、襤褸と書いて「ぼろ」と呼び、擬態語のぼろぼろも同じ意味です。江戸時代以前、綿布を刺し子という技法で強化されたり穴があくと継ぎを当てボロボロになるまで使い込まれ、なおかつ裂き織りという形で布の命が尽きるまで最期まで使い切られていました。一代だけで着終わるのではなく、遺り続ける入り子々孫々の方々に大切に着られてきたものです。

これがフランスのファッション界に評価され、今では「BORO」として世界共通語となり欧米の染織美術・現代美術のコレクターの人気になっているとも言います。

このいのちを尊重して大切に使い切るというのは自他を思いやる心に充ちているようにも思います。そしてこの襤褸ほど許しに満ちているものはないように私は思うのです。

自分というものを削ぎ落していく中で、遺ったものが何か。ことわざに「ぼろが出る」という言葉もあります。隠していた本当の自分が出てくる、認めていなかった自分と向き合う、いくら表に出ないようにと振舞っていても自分自身のことは自分が一番身近でよく知っているのです。

それをいくら責めて心をひた隠しにしていても、心は限界になって表に出てきます。そしてぼろが出るのです。この襤褸とは自分自身のありのままの姿のことで、あるがままの心の現実のことです。

それを如何に許すか、つまりは自分を認めるかというのはとても難しいことです。自分のことをわかってもらえない、自分を理解してもらえないと辛く苦しみますが、それは自分が自分のことをわかってあげようとしないことから発生します。

自分というものを直視するのは、あるがままの自分を許し認めることが必要です。直視せずにいくら偽ってもぼろぼろになるだけで本当の自分という襤褸になるわけではないのです。

そのままでも美しい、あるがままでも必要価値があるというこの襤褸の心は私には必要不可欠なものです。まだまだ時間がかかりますが、経年変化とともに磨かれてそぎ落とされていくその凛として美しさに恥じないように私も学び直しを続けていきたいと思います。

暮らしのデザイン

昨日、友人の家の和室に備長炭を約500キロ投入し25キロの水晶を設置してきました。以前、聴福庵に来た際にとてもよく眠れたということで自宅もどうしても同じようにしたいということでお手伝いしました。

その他にも家のデザインのことを色々と質問されアドバイスをしました。友人からは仕事にした方がいいと勧められ、「センスはその人のものだからこのセンスを買いたい人がいる」と言われ何だか恥ずかしい気持ちになりました。

好きこそものの上手なれではないですが、何でも興味を持ち徹底的に没頭して深めればそのうちに知識だけではなく全体のイメージや具体的な方法、またそれができる職人さんたちと出会い、自分らしいデザインを創り上げていくことができるように思います。

このデザインという言葉はウィキペディアにはこう書かれます。

「デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。つまりデザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される。日本では図案・意匠などと訳されて、単に表面を飾り立てることによって美しくみせる行為と解されるような社会的風潮もあったが、最近では語源の意味が広く理解・認識されつつある。態に現れないものを対象にその計画、行動指針を探ることも含まれ、就職に関するキャリアデザイン、生活デザイン等がこれにあたる。」

デザインはここにあるように決して見た目のところの装飾をすることに限らず、そのデザインするための哲学や理念、行動指針を含めたものを総称しているのがわかります。つまりデザイナーとは、その思想を体現させる職業とも言えます。考えていることを形にする、思想を人々に明確に表現できるようにする人だということです。一つのことを突き詰めて思想を磨ききっていくとそこにデザインは産まれます。そのデザインの産物が、一つの作品ということでしょう。

聴福庵という作品が認められ、その作品の質から具体的なデザインを直観され、具体的なお仕事をいただけるのもまた有難い成果の一つであろうと思います。

古民家甦生を通して暮らしに触れ、暮らしの道具に出会うことで本物とは何かということを知りました。こうやって体験したことがすぐに他の誰かのお役に立つというのは有難いことです。

引き続き、子どもたちのためにも学問を深め世のため人のために自分を活かしていきたいと思います。

棟梁の心構えと心意気

150年古民家、聴福庵の天井板の張替えを先週から行っていますが今まで見ることもなかった立派な梁が現れてきました。重厚で歴史を刻んだ雰囲気のある飴色の偉大な梁は、屋根を支えるだけでなく家全体のバランスを保つ力の中心です。

改めてよくよく観察すると、大変なエネルギーが漲っておりその梁が家を保ち支えているのを感じてこれこそ家守主人の力の源泉であることを実感しました。大黒柱、小国柱などのすべての柱を繋ぎ橋渡しをするこの梁は、家のいのちの最重要部分ではないかと実感するのです。

改めて「梁」を深めるとこの梁という漢字の成り立ちは、水に両木をかけわたす形であると書かれます。これは「川の上を木で渡す橋」の意味で家の場合は内(うち)ですから内張り(内張)になりそれが、梁(はり)となったといいます。また他にもつっかい棒のことを「ばり」ということもあるそうでこの梁もばりも「張り」から来ているともいいます。この張りは「腫れる」が語源で丸く膨れた状態をいいます。漲るという字も、先頭に立つ勢い、力が充ち溢れるという意味で張り(梁)と同義です。

家をあらゆる自然災害から守るのが屋根瓦でしたが、その屋根瓦のすべての重みを受け止めて支えるのが「梁」です。すべての柱の上に水平に横たわりその重みをグッと堪えて偲び支えていく。まさに組織であれば中心核、大工ではすべての職人をまとめる頭、会社であればそれは社長であり、国家であれば大統領の役目です。大統領という字の統領は、棟梁から翻訳されたものです。そして家を建てるには棟上げという祭祀があるように、棟は家の天辺にあり屋根を司り安定を保ち続けます。

この「棟と梁」は常に一家の建物を支える重要な部分であり棟梁は集団の統率する中心的人物ですからそこから家を支えるもっとも重要な人物が棟(むね)や梁(はり)ということでそれを親方ではなく、粋で匠に優れ最も尊敬される人物という意味も込めて人々から「棟梁」と呼ばれ神を祭ってきたといいます。したがって棟梁になれる人は一家、一国、一族、一門の統率者であり中心となる人物が選ばれていたのです。

梁がむき出しになった天井を、聴福庵をずっと手掛けてくださっている棟梁と一緒にその梁を眺めていると棟梁が「このままいつまでもずっと梁を眺めていたい」と小さく呟いておられました。私も、屋根裏で日ごろは天井板によって隠れて日の目を見ないその姿を観て心に深く染み入る感動と尊敬の念を感じました。

家をもっとも支える存在とは観えないところをしっかりと全員の橋渡しをしている陰徳的存在なのかと感じ、改めて本来のリーダーや総責任者、そして主人としての覚悟を学び直した気がします。

私はこの古民家甦生そのものが経営の師であり人生の先生になりました。これは決して人間ではないし言葉で教えることはないけれど、そこには確かに人間としての生き方の証が随所に智慧として伝承されていたからです。私は今もこの伝統的な家によって保育をしていただいています。

世間は私のことを古民家好きな人や、普請道楽、また骨董趣味やマニアックな人などと勝手に評されたりします。そして本業の仕事もせずに古民家ばかり没頭していると周りからもいわれます。しかし私はその家から自分自身の生き方の研修をしていただき、生き様のご指導をいただき、自分自身を苦労によって成長させていただきました。実践とはその境地で没頭するまでやっていることを言うのであり、事物一体に真剣に没入しなければ学んだことにならないからです。ご縁を活かすというというのはそういうことなのです。

私はこの家から棟梁としての心構え、そして棟梁たる陰徳の心意気の意味など家から学ばせていただきました。きっと傍から見ても変人のように楽しんでやっていますからただの古民家狂いに見えるかもしれませんが、私はその都度に職人や道具からむかしの人々の心と対話し、智慧を伝承し、それを子どもたちの生き方に伝道していこうと思っているのです。そしてそれが保育の仕事につながっているからです。

暮らしとは本来、日々の心の持ち方のことであり、それをどのように美しいものにするか。そして道徳とはまさにその生き様としての実践をどのように積み重ねていくかということの連続なのです。実践とは現場で努力して高い志で深く学び続けることをいい、知識を単に増やすことではありません。実践するには苦労して楽しく道を歩む必要があり、学問を深め正しく実行することではじめて前進するのです。

つまりやっていることが良いか悪いか、正しいか間違っているか、関係あるかないかではなく果たして学んでいるか実践しているかが大切なのです。まさに匠とはそういう人物のことかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念に沿って深く広く学んでいきたいと思います。

かんながらの夢

先日、御縁あって東京の泉岳寺にお伺いすることがありました。忠臣蔵で有名な赤穂四十七義士の墓があるところでもあります。墓地では年齢が多様な日本人の参拝者が多くあり歴史の篩にかけられても未だに忘れられてはいません。

今の時代ではこの忠臣蔵の出来事の本質を深めようとするような学問も少なくなり、道徳が荒廃すればするほどにこの義士たちの理念が忘れ去られていくように思います。道徳の荒廃は大げさに聞こえるかもしれませんが私たち日本の民の原点から守り続けてきた生き方が失われていくことでもあります。

日本人が親祖より最も大切にしてきた生き方を守り続けるということは、言い換えれば子々孫々まで親祖の理念を維持していくということです。神社のお役目も本来はそうであったはずで天皇もまた祭祀によって理念を守り続けていらっしゃいます。そして世界のそれぞれの国には日本と同様にそれぞれのはじまりがあり、多様な国家や民族はそれぞれにその場所でその風土で誕生した道を歩み続けています。本来の道(聖道)から外れるとき、その聖道は途絶えます。途絶えさせないようにその時代時代の忠義の人物たちが理念を守り続けるから私たちは先祖の遺徳に感謝していくことができます。その遺徳を顕現させるものたちこそが義士なのです。

この義士は、先ほどの赤穂義士でも使われますがその定義は「人間としての正しい道を堅く守り行う男子。」ということです。この人間としての正しい道とは、道徳に則った人物ということになります。この道徳は、天地の至誠とも呼び、天地にあって常に中庸を貫き真心を盡すということのように思います。

赤穂義士たちの師は、山鹿素行です。山鹿素行と言えば、古学を究めた人物ですがこのアジアの原点や根本を突き詰めて達した人物です。私の定義する「かんながら」はこの山鹿素行と同じく自然です。山鹿素行はこのことを「天地」と定義します。

「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」

この世のすべての生成者は天地であり、永遠の道もまたここにある。聖人とは、この道を守り続ける人物であるといいます。何が人間の自然であるか、根本を説いています。故に「天地これ師なり、事物これ師なり」と言います。本物の師とは、天地のことである、その天地に生きる私たちの師は出会いであるとも。だからこそこう続きます。

「天地ほど正しく全き師あらんや。ただ天地を師とせよ。天地何を好み何をか嫌う。ただ万物を入れてよく万物になずまず、山川、江河、大地、何ものも形をあらわしてしかも載せずということなし」

この天地とは、自然の真心のことで風土の顕現した道理のことです。古来人はそれを神と呼びました。現代の神は、どこか人間の価値観で勝手に作りこまれたものを言いますが本来の神とはまさにこの風土のことを言うのです。天地のことを風土と呼び、その道を実践することを「かんながら」と私は呼ぶのです。

風土を改善するという私の夢は、言い換えるのなら風土に沿うということです。日本人であれば日本人の道徳を、日本の経営であれば日本らしい経営を、まさにその風土を師として風土を体現することが私のコンサルティングの中心なのです。

なぜならそれは親祖の祈りであり、孔子や聖人たちが願い続けた理想の道だからです。人類の平和はまさにその「風土を師と仰ぎ中庸を保つ」ということなのです。不思議にも今回のブログは私の遺言のようなものかもしれません。

義士たちがいつかここにたどり着くことがあるのなら、ぜひ一緒に問いかけてほしいと願います。「義」とは何かと、「志」とは何かと、そして「道」を想い直し「徳」を思い出してください。人類の成長を見守るのが保育であるのなら、私が子どものために何をしようとしていたのかを伝道してほしいのです。

最後に山鹿素行は学校を創りました、その学校はカタチは消えても心の中に存在し今でも子どもたちを見守り続けます。その学校は何か、こういいます。

「学問は天子より庶人に至るまで、一にこれ皆身を修むるをもって本となす。これを為すに学校が必要であり、学校と云うは民人に道徳を教えて、その風俗を正すの所を定むる事也。学も校もともにおしうるの字心にて、則ち学校の名也。学校のもうけは、上代の聖主もっぱら是れをもって天下の治道第一とする也。学校は、単に学問を教え、ものを読み習わせる所ではなく、道徳を教える所であり、つまり、人間を作るのが学校の目的である」

将来、私は学校を創りますが世の中の人が一般的に思っている学校とはあまりにも異なるかもしれません。しかしいつの日か、自然と調和し、人類がそれぞれに正しい道を歩んでいくことができるようにかんながらの夢を念じながら前進し続けていきたいと思います。

楽観力

人はポジティブとネガティブという思考を行き来することで感情が揺さぶられていくものです。喜怒哀楽を中心に複雑に入り組んでいる感情は、その人の心の表情として周囲の人間関係に影響を与えます。

いくら見た目が明るそうに見えてもその根が暗い状態であったり、見た目が暗くても実際はとても明るい状態である人もいます。つまりは人間は決して見た目と中身が同じではなく、自己を複雑にしながら社会で生活をしているといえます。

たとえば、他の動物でいえばほとんど顔の表情と心は同一で見た目通りの表情をします。犬であれば喜怒哀楽ははっきりしていますし、鳥もまたそのまま感情をさらけ出します。しかし人間は、見た目は喜んでいるように見せて実際は悲しんでいたりと、心と感情を別にしていくのです。これを何度も繰り返して自分を偽り続けると心と感情のバランスが崩れて疲れてしまうのです。

自分のままでいること、自分らしくいられる居場所があることは、自分の安心だけではなく周囲の安心をも創造します。安心できる場所があることで、自己のパフォーマンスを最大限発揮でき、他者の持ち味を活かしあうことができます。それができない状況は不安な環境に自分でしてしまうことです。自分を偽る理由はそれぞれにありますが、比較競争からのプライドであったり、もしくは自分自身がそういう生き方を続けてきたから自分の本来の姿が分からなくなったり、自分の価値観によって裁いていたりと様々にあります。

しかし最初からそうなったのではなく、過去の何らかの環境や出来事によってトラウマになったり、それによって自分が攻撃されたと思い込みずっと守ろうとしているとも言えます。

自然体でいいというのは、自分自身がオープンである環境を創り出すことです。何を言っても大丈夫、仲間がいつも見守ってくれているという意識で環境の一部になることが、見守る環境を準備することであり自分自身が安心していない状態で見守るというのは難しいのです。疑心暗鬼になり、いつ裏切られるかと見張り緊張しっぱなしの環境の中にいたら頑固になり空気も澱んでいきます。そのうち澱みが溜まり過ぎると流すことができなくなっていきます。いつまでもしつこく根に持つのは、物事をしなやかに受け流すことができないほど楽しくなくなってしまっているかもしれません。

実際に客観的に事実を観たらポジティブさもネガティブさもその中にどちらにも善いところがあります。常に自分自身がその善いところをみて自分自身の心の穢れや淀みを笑いによって澄ませていくことや、そのものを楽しんでいく工夫をすることでより見守り安心できる環境が醸成します。

楽しくないことを楽しくするには、善い側面を観ることや意味を深めて学ぶチャンスにするという前向きな心の態度が必要のように思います。前向きとは、今に集中して前進するということです。逃げると人はその思い出が辛い思い出になり、攻めると人はその思い出が楽しくなるといいます。つまり人生を楽しんでいる人はいつも逃げなかった人なのかもしれません。後悔をしたからこそ次こそはと楽しんでいくことが人生の醍醐味かもしれません。生き物はすべて前進していくことが人生の命題ですから、どんなことがあっても逃げずに前に進んでいこうと精進していくことで楽観力もまた高まってくるように思います。

根っから好きになり楽しくなるように働きながら子どもたちのモデルに近づいていきたいと思います。

 

乗り越えるということ

成長のことを思う時、自分の人生においてどこがもっとも成長したかと振り返るときそれは困難に立ち向かい困難を乗り越えた時のように思います。その困難は失敗の連続であったり、高い壁で八方ふさがりになったり、怪我や病気で苦しんだり、心身共に挫折したり、自分自身と向き合い「乗り越える」ことが求められた時のように思います。

この「乗り越える」とは何かといことです。

少し深めてみると、この乗り越えるのは順風満帆の時に使う言葉ではありません。逆境や困難の時に用いられます。人間は誰にしろ因果応報の原理が働きますから、今起きていることは過去の何かに起因しているものです。つまり変化は突然やった来たことではなく、必ずいつの日か起こりうる出来事がその時に発生したということになります。

その時、自分にとってはそれがとても受け容れ難い変化であり、その変化に順応しようと努力するとき、人はその意味を理解し努力をして乗り越えていくことができます。

この時の努力は、物事を福に転じたり、楽観的に今に集中したり、感謝にまで心を高めていくことをいいます。つまりは「心の持ち方を変えることができた」ということが乗り越えたということになるのです。

有難うという言葉も、難が有ると書いています。自分にとって困難な状況の時こそ、感謝で乗り越える、ありがとうで乗り切るという智慧が言葉に宿っています。

感謝の反対は当たり前といって、何でも当たり前になっていくとき困難に潰されていきます。ないものねだりではなく、如何にある方をみるか。そして足るを知り、頂いているものに感謝できるかが人を大きく成長させていくのかもしれません。

困難は人間を進歩向上するための砥石なのです。

一度しかない人生で、自分自身を向上させていくことは人格を磨き夢を実現するための唯一の手段です。歩みながら感謝、謙虚、そして素直と心の持ち方をどんな時でもその状態が維持できるように日々に精進していくしかありません。

子どもたちが憧れるような進歩向上を歩んでいきたいと思います。

 

成長主義~成長のバトンをつなぐ~

この世のすべての生き物はこの世に生まれてきた以上、すべて「成長」していきます。どんなものでも成長しないものはなく、様々な体験や経験を通して発達していくのです。

人間であれば赤ちゃんの頃から成長して大人になっていきます。しかしこれは不思議な話で、体が大きくなって歳を経て大人と周りから言われるようになっても私たちは成長し続けます。つまりは大人になることが成長ではなく私たちはずっと死ぬまで成長し続け、さらには命のバトンを繋ぎながら永遠に成長していくのです。

そう考えると、今の自分も成長の途中であり親祖から今まで多くの先祖たちがずっと成長し続けて今の自分にバトンをつないでいます。その成長のバトンを受け取って私たちは今、様々な成長の御縁をいただきさらなる成長に挑んでいるのです。

自分のことだけを心配したり自分の代のことだけを考えすぎると、自分が何のために生まれてきたのかを見失ってしまうことがあります。人類の成長、そして世界の成長、子どもたち未来の成長のためにと自己を超越すれば成功よりも成長が必要であることが分かります。

一時的な成功を手にしたとしても、それが成長とは限りません。現代は成果主義が蔓延し真面目で責任感が強く優しすぎる人は、すぐに自分を責め過ぎてしまいます。しかし自分を責めても意味がなく、それよりも自分が成長していることに気づき、その失敗の体験から学習しさらなる成長のための挑戦をしていくしかありません。つまりそういう時こそ成長中であり成長の伸びしろが増えていくときだからです。

人生の最期に「いい人生だった」と完結できる人は、本当に多くのいろいろな方々が自分の成長を見守り自分というものを育ててくださったという感謝と共に自分はこの世で何よりも成長できたと実感し、その成長をもって次の世代に夢を託していける仕合せに出会っています。それが「成長主義」です。

この逆に人生を見失い自分を責めるという心理は、その成長の過程を否定するものです。抑圧社会の原因になっている権力者の人間支配による成果主義や結果主義が人を歪んだ個人主義の価値観に追い込んでいきます。

本来は失敗して辛く苦しい時こそ、人は人間として大きく成長していきます。つまりは失敗し困難が訪れるとき、そして苦しい時こそ自分の「伸びしろ」があることに人は気づけるのです。責めるのではなく、伸びしろがあると自分を奮い立たせてまた挑戦をし成長の糧にする。まさに人間が人生を歩むというのは、いかなるときでも「成長を続ける」という選択なのでしょう。これが学問の価値です。

現代では、すぐに簡単便利に楽を選んですぐに結果が出ることばかりが価値があるかのような考え方があります。努力をせず苦労をせず無理をせずに効果的に手に入る仕組みばかりが重宝されます、しかしその方法は果たして成長を選んだかということです。敢えて成長を選ぶということは、より苦労の多い方に舵を切るということです。成長をした人は、人間として修養され一つの立派な人格、人徳を得ます。すべての命には善悪勝敗正否はなく、唯一の「成長」があるだけなのでしょう。

最後に出光興産の出光佐三の言葉です。

『一つの目的を達成するのに非常に楽な道と非常に苦しい道とがあるとする。苦しい道をとっても、楽な道をとっても目的は達せられるが、どちらを選ぶかといえば我われは敢えて難路を選ぶ』

成長を選ぶことこそ、成長のバトンを受け継いだ私たちの使命です。子ども第一義の理念に恥じないように、常に成長を選んで挑戦を続けていきたいと思います。

 

永遠の修養

人間は誰にしろその一生を多くの人たちに支えられて生きています。この当たり前のことを忘れて傲慢になるとき謙虚に気づかせてくれることがたくさん発生します。まさにその時、自分が見守られ支えられていることに気づき直すチャンスだったりします。

例えば、能力が高く何でも自分がやっているような気になったとしてもそれは本来誰かのためにと力を与えてもらったものであり、もともとは自分のものだったわけではありません。自分が能力が高いのは、それだけ頑張って努力してきたらですがそれは言い換えれば努力させてもらった相手があったり、頑張ることができただけの大義があったりと、それを助けてくださった人たちがいたり、知識を与えてくださる先人があったりと、全部自分だけでやったのではなくその目的や理由、周囲の支えによって得た経験や知識だったはずです。

傲慢になればその能力は自分が自分だけで努力で身に着けた自分のものだと思い込み、周囲に不満を持ったりするものです。悪くなると、自分だけが頑張って周りは何もしなかったと文句を言ったりもします。しかしよく考えてみればすぐにわかることですが、自分が期待されたことを頑張ったように周りに同じだけ期待しても周囲は自分の思い通りになることはありません。期待に応えたのは主観ですが、実際はみんなが支えてくださったのが本当の事実だからです。人間は誰も自分をみんなが支えてくださったからできたことで自分も同様に時として誰かやみんなを支えているのです。真実として人間は、一人では生きていけないことに気づくことがまずその人生立脚の原点なのでありそれを一生をかけて修行しているともいえるのです。

人が傲慢になる時、敢えて様々な事件が発生してきます。たとえば病気であったり、事故であったり、失敗であったりと大きな挫折を味わうのです。その時、自分がなぜと最初は思うのですが時間の経過とともに自分は果たして感謝があったかと、自分は傲慢になっていなかったかと謙虚さに気づき直すのです。大きな傲慢が大きな謙虚に気づくチャンスであり、大きな失敗が大きな感謝に気づくチャンスになるのです。

そうやって人生は何度も何度も順風満帆のようなときに足をふり払われては躓きころんで、そしてこけてはまた起き上がりの繰り返し。傲慢になって転んでまた謙虚になるようにと七転び八起きしながら前進してその人間としての人格を磨いていくのです。

人格がある人でなけれ決して天与の才能は活かせませんし、それは例えれば膨大が富があったとしてもそれに相応しい人物の格がなければそれを使いこなせないのと同じなのです。器に相応しい格があってはじめて持ち味は活かされます。だからこそ人間は徳を積む必要があるのです。本物のリーダーはみんな、それを自覚するからこそ学問の王道に沿って自己錬磨を怠らずに日々に実践と精進を続けるのです。

人間の器が未熟なうちはいくら能力だけあったとしても必ず何か怪我や病気、その他で躓きます。それを憎み恨むのは視野が狭いだけで、実際はあなたを心底思いやる真心の存在たち、先祖や神様、周囲の大人たちや親友や恩師かもしれませんが感謝に気づかせようとみんな支えてくれているのです。そういう存在を感じる心が成熟するほどに「感謝を忘れてはならない、謙虚さを学ばなければならない」というメッセージを感じる感性が豊かになります。

人間はみんな傲慢によって謙虚を磨き直し、挫折によって感謝を研ぎ直す、そして人間は転んだことによって素直さを洗い直すのです。

だからこそこの傲慢や失敗、弱さを敵視し否定するのではなく丸ごと受け容れるために病気や怪我などの出来事を味わいます。これらを自覚して感謝するから人はその分だけ強く優しくなります。弱さを知らない強さは傲慢を育てその分だけ自信を奪います。自信は常に信じ合うところにあります。みんなが自分を信じてくださったように自分もみんなを信じることこそ自信であり、自己を超越するとき信の本体にも出会うのです。信の本体とは何か、それが御縁なのです。自分に与えられたものが如何に多くの人たちの御縁によって与えてくださったものか、今の自分の実力は果たして自分が勝手に身に着けたものか。またそれをひとり向き合い、自問自答して自学自悟するのです。

畢竟、人間は生まれてきた以上は「永遠に修養」あるのみ。

深く自己を反省し見つめ直しながら、頂いた御恩や御縁を私物化せずそれをもっと自分を通して偉大にして皆様の御蔭様に与え直せるように日々にお互い様、御蔭様を味わいながら幸せに生きていきたいと思います。

きれいに明るく磨く人

先日、イギリスで19世紀から20世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、政治家、教育家のジョージ・バーナード・ショーの言葉に出会う機会がありました。

本質的でユーモアにあふれ、真実をありのままその通りに上手く表現できる文章の数々に磨かれた一点の曇りのない鏡のような心を感じました。いくつかの言葉を紹介します。

「いつも自分をきれいに明るく磨いておくように。あなたは自分という窓を通して世界を見るのだから」

自分の心を通して目は物事を観ます。美しい心を持つ人は美しい景色が、疑心暗鬼の目を持つ人の心には疑心暗鬼の世界が、本来の心は赤ちゃんのように純粋無垢、そこに様々な知識が発生し心が曇ります。その心の曇りを取り払うこと、それは自分の心と内省して日々に純粋な心を保ち続けるために心の垢を洗い清めながら拭いて初心を磨いていくということでしょう。

だからこそ彼はこう言います。

「間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である」

知ってしまい歪んだ知識を得れば、それが今度は自分の心を蝕んでいきます。今のような簡単便利に知識が先行して頭でっかちなれば心の手入れを少しでも怠れば心が迷子になったり心が澱んでいきます。心の状態が悪くなれば、それが感情や肉体、精神に影響を与え始めるのです。知識を深め続けるというのは、学問を実践を通して経験しそれを内省し深め、それを今の現実に活かし続けて高めていくことです。知らないことの方がまだましというのは、それは心の話を言っているからだろうと私は思います。それは彼の生き方にも顕れています。

「私は若かりしころ、10のことを試しても9つがうまくいかないことがわかった。そこで10倍努力した」

「学者とは、貴重な時間を勉強でつぶしてしまう怠け者のこと」

「できる者は実行する。できない者が教える」

「もし人になにかを教えようとすれば、彼は何も学ばないだろう」

「人間が賢いかどうかは、その経験のいかんによるものではない。
その経験をいかに活かすかによるのである」

学ぶということがどういうことか、実践するということがどういうことか、それを平易で分かりやすく例えています。日々に体験したことから気づいたことを改善しそれをまた実行する。当たり前のことですが、学問の本当の意味が洞察されています。

そして私が最も影響を受けた好きな言葉です。

「人は自分が置かれている立場を、すぐ状況のせいにするけれど、この世で成功するのは、立ち上がって自分の望む状況を探しに行く人、見つからなかったら創り出す人である」

何かの問題を決して環境のせいにはしない。なければ自分が探すか自分で創ればいいという。その通りです。

「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない」

変人でなければ進歩はありえない、常識に合わせていても世界は変わらないといいます。

「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである」

自分探しなど意味がない、自分をどう創るか、自分を創り上げてこそが人生であるといいます。

「富を産まずに富を消費してはならないように、幸福を創り出さずに幸福を消費してはならない」

自分が幸福を創り出しているか、ただ幸福に浸っているか。ここに未来がかかっています。いのちは確実に消費していきます、消費するということはそれは未来へ投資しているとも言えます。消費して消えていくだけ、現在ある資源を食いつぶして贅沢をしてただ自分のことだけを満たして死んでいくのか。それとも子孫たちのために、新しい生き方を示し未来への投資のために今の時代に何を創造しどれだけのものを譲り遺して改善していけるかそれは時代を生きるものたちの決断次第です。

最後に心に沁みた言葉です。

「為すべきことは熱を与えることではなく、光を与えることなのだ」

光を与えられる人になるように、自分をきれいに明るく磨いてこの世のために精進していきたいと思います。

本心~信念の実践~

社會の抑圧が強い場所や環境では人はその人に与えられた役を演じるようになります。自分らしくいることよりも、如何にその立場の人であろうとするのです。立場を守れば自分を守れると信じているから本心を隠して立場を優先する生き方を選びます。

この抑圧とは、行動や自由を抑え込まれることをいい自分の言いたいことも我慢し、やりたいこともできず、牢屋の中に入れられるような感覚を言います。みんなと同じでないといけないと個性を抑え込まれ、そうやって支配者が望んだ姿になれば優等生だ優秀だと評価されていれば役を演じることがいいこととなり、その役を演じているうちに本当の自分が一体どのようなものだったのかも思い出すことができなくなるのです。

本心を隠してというよりも、本心が何かすらもうわからなくなったりします。自分が本当はどうしたいのか、それは自分の信念に従うということです。自分の信じることはこうだから、自分は信念ままに生きるとできるのならその人は役を演じるのをやめることができます。

しかし信念を諦めてでも役を演じていたら、抑圧された自分がずっと我慢をしなければならずいつの日か無理がたたりいつの日か役を演じ切ることができなくなるのかもしれません。そうやって頑張ってみんなで役を演じ続けていたら、みんな本心が出せなくなりみんな自分を信じることができなくなります。つまり抑圧から自信がなくなってしまうのです。それが現代の抑圧社會の温床になっているのです。

自信とは、常に自分の信じる道に従って行動していく中で醸成されます。他人の評価ではなく、自分の信じたことをやり切る中で自分自身の本心と向き合い、本音を隠さなくてよくなります。本音と建て前を使い分け、いつまでも本心を隠して役を演じるていては自分自身が信じられなくなります。本来は当たり前のことができなくなる環境の中では、人は簡単に本心をさらけ出すことができません。役を演じるルールは絶対的であり、みんな本心を隠しあっていますから何を信じていいのかもわからなくなるのです。自分が演じみんなも演じるからみんな本心が分からなくなり孤独になっていくのです。誰も信用できず孤独になり精神が疲れていくのは演じるのが疲れた証拠なのです。

みんなが自信をもった安信社會を築くためには一人ひとりが日々に初心に帰り自分は何を信じて生きていくのか、そして信じたことに誠実に生きていこうと、勇気を出して自分の信じるものを優先していくことかもしれません。それは誰かに敵対することではなく、感情をぶつけることでもなく、自分は一体何を信じて生きていくかと自分の人生で実現したい自分自身の「心の本」(初心)と対話していくということです。

心は何をしたいのか、そして心は何を信じたいのかと、心を探していくのです。心の中にある自分の心の本は常に声を発しています。その声に耳を傾けてあげる、その声に共感し受容していく。子どもが泣きながら聴いてほしいと喋っている声に、寄り添い耳を傾けて聴いてあげるように心を抱きしめながら受け容れてあげることが心との対話なのです。

役を演じ続けて心を置き去りにしていかないように、そして演じているうちに心が迷子になり自分を見失うことがないように、日々に自分の心と対話をしながら信念の実践を一つ一つ積み重ねていけば心の不安もまた消えていくように思います。

日々の実践とは、心の対話であり自分の信念を磨く砥石です。

引き続き、弱い自分を認め受け容れながら弱さの中にある真の強さとやさしさに出会えるように諦めずに丹精を籠めて歩んでいきたいと思います。