旅の醍醐味

旅という言葉があります。この言葉の語源は諸説あるようですが「他火」や「他日」ではないかといわれています。辞書によれば、「住み慣れた場所を離れること」と定義されています。そして英語ではtravelとも言いますがこの語源である古代ゲルマン語では「産みの苦しみ」ともいうそうです。

旅行は今では旅行会社のツアーのように、リゾートに遊びにいくように楽しいものと認識していますがむかしの旅は、つらく苦しいことであったことが語源からもわかります。

よく考えてみれば、自給自足する場所をようやく手に入れそこで住み慣れた家や暮らしを離れるというのはそれだけ危険や苦難を伴ったものです。現代のように便利な移動手段もなく、宿泊施設などもなく、食料は限られたものだけで常に心の緊張を保つ必要もあり、大変な覚悟と決意が求められたように思います。

かつての古の旅に関する格言も、今の時代に読むと意味がはっきりと伝わってこないのは時代的な環境や価値観の影響を受けているからです。もしもその時代に生まれていたなら、その言葉の意味もはっきりと共感し理解したかもしれません。

つまり人間は同じ言葉を使っていたとしても、同時代の価値観で同体験を積んでいない限りその言葉の持つ意味が分からないということです。これは同様に、人生に対する価値観と体験も然りです。

言葉を学ぶということは、時代が異なっても同じ生き方をしてみるということでもあります。その言葉に近づこうとして、今の時代なら何をすることがその意味に一番近づくかと考えてみると少し意味が深まります。そのように自ら体験して近づこうとすることが、冒険であり挑戦であり旅の醍醐味かもしれません。

旅をするというのは、今の時代も危険も苦難も本当は付き纏うものです。しかしそれでも得たいものがあり、それでも叶えたい夢があるのなら敢えて飛び込んでいく勇気が必要になります。

旅には日ごろ得られない大切なコトや物語に満ちています。

人生の旅を味わい、新たな挑戦の扉を開いていきたいと思います。

浄化場

現在、復古起新している「場」に日本古来からある蒸気浴を建設する構想を温めています。現在、サウナブームということもありサウナに関心を持つ人も増えていますがその目的や使い方によってサウナの定義や種類も異なるように思います。

私はかんながらの道の実践もありますから、私にとってのサウナの定義は「浄化場」になります。聴福庵も浄化を目的に「場」を醸成するために実践と甦生を続けていますが今度取り組む「場」もまた浄化を中心に建築を進めていきます。

そもそも浄化はその人次第のことでもありますから、それぞれに方法もやり方も異なります。古来から私たちは水のチカラをお借りして穢れを払い浄化していきました。その浄化の方法は、洗い清めることです。つまり水に流すことで清浄にするという方法です。

実際には、水そのものに浄化力があり水はすべてのものを透過して元の状態に回帰させていく力を持っています。実際には、水だけではなく風、火、土、月、木などすべての元素にもまた浄化のチカラが備わっています。

つまり浄化とは、原点に帰すチカラそのもののを指すのでありそれをどのように治癒に活かすかが私の場道家としての力量ということになります。

例えば、サウナであればその浄化のプロセスの結果として汗が出てきます。人間はこの世でもっとも汗をかく生きものですから汗を出すことで水を発散させていきます。他にも呼吸をはじめ体のあちこちから私たちは水を出し続けています。水が澱むことで人間は様々な健康的な問題を抱えていきますから澱まないようにすることこそが浄化の大切なポイントです。

その意味で、汗をかくというのは色々な意味で効果があります。特に精神的に病んでしまう理由に汗をかくことが少なくなっていることも起因します。私たちは汗をかいて働くことを喜びにしていた民族です。みんなで汗をかき、みんなでご飯を食べることで豊かさを味わい心も体も浄化していました。

最近では、便利さの中でIT環境が整備され空調のきいた場所で簡単で取れるサプリや加工食品を食べ働いていますから汗をかくこともなくなってきています。そのことから精神的にも肉体的にも病んでしまうことも増えています。自律神経のバランスもそこから崩れてしまいます。

汗をかくための「場」というものの価値は、このバランスを整える効果があります。何を整えていくのか、何を浄化するのか、その本質を確かにすることが私の取り組む「浄化場」の創造です。

引き続き子どもたちに懐かしい暮らしや心のふるさとを譲り遺せるように着々と実践を積み重ねて磨いていきたいと思います。

自然治癒とは

病気を観察していると、治癒というものの定義が色々とあることに気づきます。本来、自然治癒は元にあった状態に近づけていくことですが現在の治癒はどちらかといえば進行を止めることに使われているように思います。

治ることがないことを知りながらも、これ以上悪くならないように症状を止めることを治癒というのでは根本的な解決することはないようにも思います。

例えば、風邪薬でいえば症状を緩和してもそれで治癒するわけではありません。他にも湿布薬なども同様に痛みを感じにくくはしますがそれで治癒するわけではありません。

薬を飲めば治ると思い込んでいたり、貼れば治ると思い込んでみてもそれは症状を止めただけで治癒ではありません。病気が出ているときに、無理に動いたり薬を飲んだからと休みもせずに同じように活動すれば病気が治癒すること難しくなっていきます。

病気とは、ある意味では自然な状態から外れてしまった状態だとも言えます。バランスを崩すようなことがり病気になり、それを治癒するためには自然に治癒するまで養生するしかありません。

自然治癒を働きやすくするのは、元の状態に近づける生活を行うことです。例えば、食べ物であれば不自然な加工品ばかりを摂取する生活を、玄米採食や発酵しているものなどむかしからの日本伝統食を中心に風土で取れたもの、また幼少期から自分の身体に馴染んでいるものを食べていることで回復しやすくなっていきます。

自然治癒するには時間もかかりますが、日ごろから自然治癒の状態を働きやすくするための工夫があることが治癒の大前提です。睡眠も、呼吸も、そして運動も、休憩も、精神の安静もすべてにおいて元の状態にするためのものです。

つまりつきつめれば元の状態がわからなくなることを病気というのかもしれません。原点回帰するということや、自然回帰するというのは、何が元であるかを知ることです。

それは理念や初心も同様に、何のためと本質を突き詰めれば本物や自然体になるのと同じです。

子どもたちが確かなものを見失わずに安心して生きていけるように、日々の実践の姿から伝承していきたいと思います。

火のおもてなし

今年は台風が来たこともありお盆の期間は自宅で先祖供養などをゆったりと行うことができました。数年前から先祖のルーツを辿り、自分が今あるまでにどれだけ多くの方々が存在してくださったのかと感謝してからはこのお盆の期間は私にとっては特別な伝統行事になりました。

本来の伝統は本質が伝承されていくものですが、生活様式が変化し伝統も本質も次第に消えかけていますから無意味なことにならないように常に自分の頭で考え自分の身体と心で体験して学問に昇華し続ける努力が必要です。

江戸時代まではこの時期になると「藪入り(やぶいり)」といって仕事を休んで実家へ帰り、家族全員で先祖の供養をしていたといいます。むかしの懐かしい暮らしを甦生させつつ改めてかつての伝統を踏襲していくことは自分たちの先祖から日本人としてのの大切な心や生き方を学び直すことです。

私はまさにここに本来の教育の本質を感じていますから、私は子どもたちのためにも自らで体験し深め味わい取り組んでいるところです。

お盆の作法の一つに「迎え火」・「送り火」というものがあります。この「迎え火」とは、あの世からご先祖様の霊が迷わずに家まで帰ってこれるように焚く火のことです。そして「送り火」とは、ご先祖様がこの世からあの世へ迷わずに帰ることを願い、焚く火のことです。

今ではなかなか見る機会も少なくなってきましたが私が幼いころまではお墓や菩提寺に家族全員で提灯を持って行きお墓の前で提灯に火を入れその火を消さずに持ち帰り火を仏壇に移すという流れで行っていました。祖父と二人で行くこともあり、夕暮れ時の墓場には怖いものを感じていました。

そしてお盆の期間を家で過ごした先祖の霊たちを無事に墓にお送りするために今度は仏壇の火を提灯に移しそれを消さずにお墓や菩提寺へ持参しお墓の前で提灯の火を消してご先祖様の霊を送り出していました。

この火を用いて先祖の霊魂の送り迎えをすることでおもてなす仕組みに、ぬくもりや豊かさ、そしてやさしさや真心を感じます。聴福庵を通して、私も火を使ったおもてなしをしていますが火にはどこか心を穏やかにし和ませるものがあります。

私たちのいのちは、火でできています。この火のチカラとは、科学ではまだ証明尽くされてはいませんがいのちの原点であり、私たちは火を燃やすことで生きることができ灰になることで次のいのちの循環を担います。

火を用いて暮らしていくことは、いのちの大切さに気付き直すことです。このお盆のおもてなしは、私にとっての暮らしそのものであり、それは火を使って行うところにその醍醐味があります。

現代は、生活様式が変わったからと和の伝統を和風に換えてしまっていますが変えてものと変えてはいけないものというものがあるのです。

伝統を正しく伝承するためには、自分の実体験での気づくを磨いていく必要があります。子どもたちのためにも、一つ一つの暮らしを丁寧に甦生させていきたいと思います。

花火の心

夏といえば花火大会がありますが、改めて花火の歴史を少し深めてみようとおもいます。

花火は一説によれば紀元前3世紀の古代中国、火薬の基本となる硝石が発見されてからがはじまりといわれます。日本での歴史に残る最初の花火はそれから約2000年後の天正17年(1589年)7月、伊達正宗が観賞したのがはじまりといわれています。

また慶長18年(1613年)8月駿府で、徳川家康に、英国人ジョン・セリーヌが、同行の中国人の手で花火を見せたという記録も残っているともいいます。

そう考えると日本では戦後時代に鉄砲が伝来し火薬を使った兵器が広がったころにその火薬が平和利用されだしたということかもしれません。

またおもちゃ花火は、どの時代からというのはありませんが調べると1659年に初代鍵屋の弥兵衛が葦の管の中に火薬を入れた初歩的なおもちゃ花火を考案し売り出したことで江戸で爆発的な人気を得たと記録があります。

もうそれから360年も経っていますが私たちが庭先で遊ぶおもちゃ花火はとても伝統的なものであるのがわかります。現在は、様々な彩色の花火がありますがこれは明治以降に西洋から塩素酸カリウムやストロンチウム、バリウムなどの彩色光剤を輸入することにより産み出され、世界一といわれる日本の花火の基礎がつくられたといいます。

火薬は使い道次第では危険なものにもなりますが、それを豊かさに転じれば人々の心を癒し楽しませ、豊かな風情を担う道具にもなります。日本人の心を花火に観るのは、このように使い方や使い道、生き方や生き道を福に転じる力があるのを実感するからかもしれません。

子どもたちに花火の美しさと日本の心が伝承できるように暮らしの意味を一つ一つ、重ねていきたいと思います。

お墓と向き合う

昨日は、お墓の掃除やお盆の室礼、お花の手入れなどを行いました。この夏真っ盛りの時期に、この強烈な暑さと線香の組み合わせに懐かしいものを感じます。

最近では、少子化の影響もあり無縁仏にならないように墓じまいするところも増えてきているともいいます。お寺によっては永代供養や墓守をするところも増えてきています。

思い返せば私もなんとなく幼いころから祖父母に従って墓参りをしていましたが、現代の都市化した生活に墓というものは遠い存在で、仏壇も神棚もなくなってきている近代住宅においては余計に印象も薄くなっているように思います。

そもそも日本の墓の起源を辿れば、古事記の神話にある千引岩だといわれています。これはあの世とこの世を結ぶ場所に置く、岩が境界線であるということを示しています。世界のお墓事情になると、お墓を持たずに埋葬するところもたくさんあります。

日本においても、縄文や弥生時代に死者を弔うために石を用いたともいいますがその後は鎌倉時代ころまでは五輪塔や多宝塔などといったものがありましたがお墓は江戸時代に入るまではそんなに一般的なものではなかったともいいます。江戸時代までは天皇家や殿様、特権階級に墓はありますがそれ以外の階級ではお墓は禁止されており川辺、海岸、山の中で埋葬されていたともいいます。ではなぜ江戸時代から一般庶民までお墓を持つようになったかといえば、島原の乱以降、政治的にキリシタンの取り締まりと寺院による檀家制度によってすべての人たちの先祖代々の帳簿のようなものを記録するようになったからだといいます。

明治に入ってからは、家ごとに埋葬する仕組みが導入されそれぞれの家単位でお墓を建立していきました。そういわれてみれば、過去帳には先祖の名前がありましたが墓は江戸時代以降からのものと明治以降のものがほとんどです。

何のために墓地を持つのか、当然、自分が死んだ後に埋葬する場所が必要な時代でもありどのように亡骸を片付けるかも考えないといけません。生きているうちはあまり死のことを思いませんが、人は誰しも必ず死にます。だからこそ、死をどのように受け止め、死をどのように受け入れ、死を準備することは生きるためにも大切なことです。

先祖たちもそのように死と向き合い、生を全うしてこられたからこそこのお墓のことを考える機会があることは大切な行事であろうとも私は思います。

ちょうどいい機会、今年もこの盂蘭盆会の時期に子どもたちに伝承したい本質を深めてみたいと思います。

心豊かに

昨年、ルーツを辿ったことで先祖代々がどのように一生を歩んできたかを学び直す機会がありました。その御蔭でお墓参りにいくところが増え、この盂蘭盆会の時期はいつも以上に活動的になっています。

それに加え、むかしからの暮らしの甦生に取り組んでいると室礼をはじめ伝統的なものを伝承するためかなりの時間を要しています。

先日のブログにも書きましたが、むかしは常に心豊かに先人とのつながりやご縁や御恩などを感じながら感謝で歩んでいましたから今のスピード時代には合わない手間暇を喜んでかけていましたから改めて今の社会のありようを内省する機会になっています。

そもそも時間というものは、単にスピードだけを現わすのではなく「豊かさ」を顕しているようにも思います。持ち時間は人それぞれに異なり、ある人は永遠の時間を持ち、ある人は一瞬の時間を持ち、それぞれの生き方で時間の質量は異なります。

人生の永さも人それぞれに異なるように、想いの永さも、肉体の永さも、すべてその人の時の中に存在しています。

その時を豊かにしていくというのは、すべてを永くしていくということです。つまりは、寿命を全うするということかもしれません。自分自身の今にどれだけの覚悟と哲学と実践を凝縮させているか、そしてそれを今に集中し切るほどに心が一つになっているか。そこに生き様が顕れ寿命もまた盡されます。

畢竟、人間は生き方が時間を決めるということでしょう。

一期一会に自分にしかできないことをやり遂げて、ご先祖様に恥じないように天命に生きていきたいと思います。

豊かな暮らし

今年も聴福庵の床の間には、ご先祖様方が無事に来庵していただけるように準備をして静かに待っています。具体的には、菊の花や鬼灯(ほおずき)などをしつらえ、おもてなししています。

このお盆は以前にも紹介しましたが、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい故人の魂があの世からこの世に戻ってこられる期間のことをいいます。この期間に亡くなった家族やご先祖様の精霊を迎え、生きている親族と共にひとときを過ごし、またあの世へと帰っていくという日本古来の祖霊信仰と仏教とが繋がって続いている伝統行事のことです。

今回は鬼灯をたくさん用意し、玄関から庵内で寛げるように配置しています。この鬼灯は迎え火の際の提灯に見立てたものです。小さいころ、私も迎え火をもってお墓に行きそのまま帰宅してご先祖様をご案内したことを覚えています。子ども心に蝋燭の火が揺れて少し怖くて、ただ先祖を身近に感じて少し温かい気持ちになったことを覚えています。

このように道しるべになってご先祖様を迎えにいくところに、自分もいつかこのように子孫たちが迎えてくれるのだろうという安心感があります。地上の暮らしが土に還ることで墓になります。墓で暮らしている人たちが、この時だけ地上で子孫たちと共に和合して幸福を味わう時間はとても豊かです。

むかしの人たちは、感謝の機会を設けることで自分たちがこの世で無事に生きていける有難さや御蔭様をいつも感じていたように思います。物が少なかった時代だとしても、心はとても豊かだったように思います。

この鬼灯ひとつの捉え方でも自然界で旬である鬼灯を提灯に見立てたり、仏さまが空洞になっている場所に身を宿すと信じられたり、農作物が不作の時など、お供えものに彩りを与えていたと聞くだけでも心の豊かさを感じます。

豊かさは常に心の中にあります。

豊かな暮らしを味わいながら、感謝の日々を歩んでいきたいと思います。

情報の本質

情報の伝達方法というものは様々な動物や昆虫によって異なるものです。私たち人間もあらゆる方法を用いて感情や情報を伝達しますが生きものたちはそれぞれの特性を活かして情報伝達を行っています。

例えば、昆虫のミツバチはミツバチダンスというものがあり八の字のダンスによって蜜を取りにいく花畑や花の種類などを伝達します。それを見ても普通は何をしているのか私たちにはわかりませんがミツバチ同士だと理解し合います。他にも犬などの動物も、吠え方や臭いでお互いの情報交換をします。カラスにいたっては、かなりの量の鳴き声を使い分け会話をしているともいわれます。

情報伝達というものの手段はそれぞれで異なりますが、生き物たちは大切な情報は遺伝や本能によって伝承されているのです。

私たちは言葉を使いますが、これはあくまでのちに開発された便利な道具です。しかしその情報は全体の情報の一部を切り取り、それを可視化したものであるだけで解釈の仕方がいくらでも出ますから情報操作されていきます。

現在、世界が真実の情報が分からずあらゆる情報が操作されてグローバリゼーションの価値観が広がったように便利な情報伝達の道具が発明されてはそれをどのように使うかで歴史は変わってきました。

これは道具の活用と同じで、道徳的な活用とそうではない活用で大きな差を生んでいくのに似ています。情報もまた同じく使い方次第で、どうにでも操作していくことができるものになっています。騙したり悪用したりという使われ方が当たり前になればなるほどに情報リテラシーを身に着ける必要があるからです。

何が本質なのか、何が真実なのか、常に物事の中心を見抜く力を高めていくには思想を磨き、実践を積み、全体を俯瞰し、歴史に精通し、人間の性質を究め、社会という生きものを洞察していくような見識眼が必要になります。

日々の小さな情報を鵜呑みにするのではなく、自らの頭、手、五感、つながり、行動、などそのあらゆるすべてを用いて自ら精査していくことです。こういう時こそ自分たちに本来備わっている直観や、第六感を磨くことで時代の情報を読み解けるかもしれません。

子どもたちには真実を知り、本質を磨くことの大切さをIT技術の思想を通して伝承していきたいと思います。

忍耐の徳

以前、私に「忍耐」ということの価値を教えてくださった方がいます。言葉では知っていたものですが、私はその方にお会いするまで「我慢」ということとあまり違いがないように認識していたように思います。

人生は様々なことが発生しますが、それを真っすぐに受け止めて敢えて忍耐を味わうことで心の持ち方を転じる生き方を観て感銘を受けました。その生き方は、まさに生きる力根源であり、人生というものを丸ごと味わい成長しようとするいのちの醍醐味を感じました。

人は、心の持ち方次第で立っている場所がたとえ同じでも世界の見え方が全く変わってしまうことがあります。同じ太陽でも、同じ風でも、同じ出来事であっても、心の持ち方次第では別世界になっていきます。

自分を生きるというのは、自分の世界を創造していくということですから自分がどのような人生を生きようとするか、自分の人生をどのような世界であろうとするかはその人の生き方が決めるのです。

そのうえでこの「忍耐」というのは本当に素晴らしい徳目であろうと実感したのです。

忍耐というのは、どのような時にも生き方に不動の心を持ち、そして全ての出来事を丸ごと心で受け止めるといった「心の持ち方」の指針なのです。私自身も、その方の生き方を通して、不動心を持てるようになりたいと思うようになりました。

言葉の表現はそれぞれに異なっていても、憧れる生き方や尊敬する生き様はみんな共通するものがあります。もともと目指す在り方を今の時代でも伝承していけることは、それぞれの人生の指標になりそれが子どもたちに伝道されていきます。

学んだことを学んだままにお返しできるように、自己との意味づけや人生の醍醐味を大切にしながらご縁を紡いでいきたいと思います。