徳循環経済のモデル

「サーキュラー・エコノミー」という言葉があります。これは直訳すると「循環経済」となります。世界の人口増にともない、資源乱用・廃棄により地球の環境が破壊されていくなかで人類はこの問題に正しく向き合う必要があるとして近年この言葉も出てきました。国連も「このままのペースで地球温暖化が進んだ場合、早ければ2030年にも深刻な気候変動が生じる」と警告し、「あと12年しかない!」と危機感を世界に発信しました。

人類の意識の改革として現在の大量生産大量消費の経済から循環経済への転換は、「取って、 作って、捨てる」という意識を「取って、作って、作り続ける」の意識に換えようというのが一般的な概念です。実際には、現在の資本主義経済の仕組みそのものの大転換、人類の個人による富と貧困の欲望との挑戦ですから一筋縄ではいかないのも明白です。

海にはプラスチックゴミが膨大にあり、空は排ガスやフロンなどで汚染され、土は農薬や廃棄するゴミが埋まり、食べ物は添加物や薬品漬けになり、生き物たちは絶滅を続けていく。この現状のままでいつまでも環境破壊が続けば、巡りめぐっていくらお金や富があっても社會が崩れれば個人もまた崩れるのは自明の理ですから人類が協力して何とかするしかありません。

人類は、欲望と道徳といったもののバランスを保つ必要があります。自然の一部として利子で暮らしてきた持続可能な社會の時と比べ、現在のように自然を凌駕し自然を征服して根こそぎ奪い取ろうとすれば持続不可能なのは誰でもわかります。

それが分かっていても心の余裕やゆとりを失い自分だけは決して損をしまいと、みんなで競争し自利自得ばかりを追いかければ余計に競争は激化し、さらに余裕を失い安価で便利で安いもの、スピードや効率優先、つまりはお金ばかりを求める経済が加速して環境問題が引き起こされていくのです。

豊かさの価値観を転換するというのは、人類の意識の一大事ですが誰かが率先して取り組もうとしなければこの競争は終わることもありません。どんな未来にしていきたいか、どんな社會にしていきたいか、人類はそれぞれにそれぞれの場所や人種で文化を醸成してきました。文化があるところに余裕もまたあるのです。

日本の歴史を鑑みれば、発展させた循環経済は江戸時代の江戸は無駄がなくみんなが協力し合って都市を形成してきました。自然のものを活かし、永く無駄なく使い切り、みんなで協力し分け合って助け合い暮らしてきました。そういう文化を持っている私たち日本人は、本来世界に先駆けてサーキュラー・エコノミーのモデルを発信していける国民なのです。

子どもたちのことを思うと、今しかできないことに気づきます。一円対話で産み出す傾聴による心の余裕も社會教育の一端ですし、暮らしの甦生で取り組む様々な実践もまた本来の徳の豊かさに気づく社会変革への一端です。たとえ小さな挑戦であろうとも、強い意志で臨めば仲間が顕れ時間をかけて人類の意識の改革に貢献できるように思います。

カグヤの実践を通して、日本的な徳循環経済のモデルを実現していきたいと思います。

 

余裕の好循環

人は自分の使っている言葉の中に、心の豊かさが出てきます。使っている言葉を知ることで、自分の中の心の状態を確認することは大切なことです。自分の言葉を気を付け、自分の言葉を澱み濁らないように心の手入れをしていくことで心の状態を整えていくのです。

例えば、心の豊かさに対して心の貧困というものがあります。

日本は経済大国になり世界3位のGDPの高さを持ちますが、自殺率でも1位、2位の高さです。実際に、経済合理性を優先して物質的には裕福になっていますが心の貧困や格差というものは広がっているといわれます。

この心の貧困というものは、自分の心の状態が貧しい状態とは心の余裕がない状態だと言えます。心の余裕やゆとりがあれば、他人や社会に寛容になるものです。自分の事ばかりに忙しくなってしまうと、人は心の余裕がなくなっていきます。自利と利他という生き方がありますが利他に生きる人たちは心の余裕があるように思います。

心の余裕というものは、つながりや循環、そしてみんなで助け合っていきている信頼している世界が観える状態であるとも言えます。いつか切り捨てられるのではないか、いつか要らなくなるのではないかと、自分の事ばかりを心配して心は余計に貧しくなっていきます。

最近では歪んだ個人主義の影響で無縁社会などといわれることもありますが、こういった社會のゆとりのなさや余裕のなさが心の貧困を広げているように私は思います。立場や権利よりも、つながりや絆を感じることや、利他に生き、多くの人たちに活かされている自分を知り、感謝で恩返しをしようと生きている人は心に余裕が出てきて心が豊かになっているように思います。

自分の仕合せとは、自分が活かされている感謝を心で味わうことからはじまるように思います。自分自身の仕合せや豊かさを感謝でみんなと分かち合うとき、心に余裕が生まれ豊かさが滲みだして周囲を豊かにしていくように思います。この心の余裕とは何か、それは心の安心のことです。心が安心するためにも、みんなと信頼し合うようなつながりや絆、関係を自らが主体的に結び、自分自身の心の中にその信頼関係や安心基地を築く必要があるのです。そういう意味で、言葉はその信頼関係や安心基地を築く大切な道具なのです。

日々の自分の言葉がどのような心を顕しているか、その言葉を省みては現代社会に刷り込まれないためにも敢えて心が豊かになるような言葉をたくさん発して、子どもたちの社會が豊かなるように余裕の好循環に貢献したいと思います。

甦生の思想

今回、組子ガラスや格子戸をなるべく多く取り入れて古民家を甦生しています。最近では洋風建築が増えていく中で組子を使ってものも少なくなってきましたが模様の入った木組みの建具や窓を観ているとその美しさにうっとりするものです。

そもそも組子というのは、組子細工とも呼ばれ、小さく切り出した木片を、釘を使わずに組み合わせて美しい幾何学模様を描く工芸品のことをいいます。木片の切り出しから行い、各パーツには組み合わせる際にパーツ同士を噛み合わせるための溝を彫ります。切り出したパーツをカンナやノコギリ、ノミなどを使って調整し、一切釘などの金属を使わずに丁寧にひとつひとつ手作業で組み合わせます。木を組み込んでいく工程は紙1枚の厚さでもずれてしまうと組み付けが出来なくなるほどの細かい作業で、熟練した職人の技術と木を知り尽くす知識が無いと作ることができないほどです。一般的にも最低でも10年の修業は必要だといわれています。

組子の歴史は現存する最も古いものは飛鳥時代に建てられた法隆寺の金堂や五重塔などの高欄に施されています。そこで今でも仏教建築の一部で伝来してものではないかといわれます。

平安時代末期には建具が貴族の暮らす寝殿で使われ室町時代には書院造りの建築で使われます。そして障子の桟や襖などにも細工を施すようになり装飾もより細かく美しいものになったといいます。江戸時代には数々の紋様と組み合わせ種類も200種類以上を超えるといわれています。

これらの紋様は、唐紙のときのブログにも書きましたが先人たちはその紋様に偉大な意味を見出して、紋様の力を身近に受け取ることで健康や幸福、願いや祈りの縁起にしてきました。ちなみに組子と合わせて格子というものもありますが、この格子は格子のマス目は魔物を見張ると言われ、魔除けの意味があります。細かく数が多いマス目は、子孫繁栄の思いも込められています。格子は権威や伝統の象徴として世界の建築で使われています。

これらの組子の紋様や格子を通して光が入ってくる陰影の美しさは、まさに光の芸術でもあります。私たちは、あらゆる紋様から自然の叡智を学び、自然を身近に生き方を磨いてきたのでしょう。

時代が変わっても、大切な生き方が伝承されていくように子どもたちへの祈りを形にして甦生の思想に活かしていきたいと思います。

復古起新

日本では少子化や過疎化の影響を受け、廃校になるところが増えてきています。さらに、全国の自治体で学校の統廃合を進めた結果、ますます廃校が増えています。

私の郷里にも、数年の放置でまるでお化け屋敷のように廃墟になってしまっている廃校がカラスをはじめ野生動物の巣になっていたりします。解体費用がかさむことと、使い道がないことからそのまま放置されているのでしょうが空き家問題と共にこれから解決していかなければならない重要な課題の一つです。

文部科学省の「文部科学統計要覧」によると、1989年(平成元年)の小学生の数は約960万人、中学生の数は約561万人だったが、2017年(平成29年)には小学生は約3分の2の約644万人、中学生は約4割減の約333万人まで減っているといいます。そして、2002年度から2015年度までの14年間に全国で6811校、年平均486.5校が廃校になっています。つまり、これからも年間500校近い学校の廃校が進んでいくことになるのです。しかし建物も壊れないように頑丈に建てられているため、解体する費用も多大な資金が必要になります。そのため何とか廃校を活用しようと、文部科学省が「みんなの廃校」プロジェクトというものを推進して活用が広がっているとも言います。

具体的には、オフィス・工場、児童・高齢者などのための福祉施設、アート創造拠点などの文化施設、体験学習施設・宿泊施設など、大学・専門学校などの教育施設、特産品販売・加工施設などで利用されています。

空き家問題も同様ですが、その場所が時代に合わなくなり使われなくなったものをどう温故知新するかという問題は時代の変化と共についてくる問題です。人が集まらなくなった場所に、また人を集めるのですから目的が明確でなければなりません。

何のためにその場所を使うのか、つまり目的を定めその価値を磨いていかなければその場所の甦生は難しいのです。

むかしは「見立て」といって、あるものを別のものに見立てて蘇らせる智慧が先人にはありました。今の時代のように単一消費のみの一方通行の世の中ではそのアイデアも出にくくなってきているかもしれません。現在の経済合理性の資本主義の世の中では、再利用ということもその経済価値観の中で判断しますからまた消費されて同じように空き家や廃校になっていくのです。

私が取り組む、復古起新は「磨く」ことに力を入れますから根本的な価値観を根底から変えてしまう仕組みです。引き続き、子どもたちに大切な文化が伝承されていくように実践を積み重ねていきたいと思います。

 

正直の徳

「正直」という言葉があります。これは、「正しくて、うそや偽りのないこと。また、そのさま。」とあります。具体的には、事実に基づいて嘘偽りなくありのまま伝えることを言います。しかしこれは生き方であるのはすぐにわかります。

生き方が正直な人は、事実や本質を見極めていますからいつも相手は自分の心や天に対して恥ずかしくないかという道や徳を常に確認し内省しながら歩んでいきます。

正直という言葉で有名な諺に、「正直の頭に神宿る」があります。これは正直な人には必ず神のご加護がある」という意味です。他にも似た諺には、「正直は一生の宝」があります。これはその正直さが周囲の信用や信頼を得て幸福を運んでくるからです。まさにこの正直こそが、宝のような価値のあるものということです。「正直は最善の策」などは、嘘ばかりついては嘘で塗り固められた嘘八百ばかりなってしまいます。嘘をつかないことこそが真実や本質、道理から外れないということでしょう。

これは嘘偽りない誠実な姿になるというのは、自然界にあるいのちそのものの姿です。自然が正直ですから、正直に生きていれば必ず自然は味方になってくれます。しかし正直でなければ、自然と反しますから自然淘汰されていきます。

正直さというものはそれだけで神のごとくであるという意味は、自然と一体になっているいのち本来の生き方が生き方に出ているからきっと「神=自然」として畏敬が顕れ偉大な存在に感じるからでしょう。

人間は純粋無垢に魂を磨いていけばいくほどに、この正直の徳の偉大さを感じるものです。見た目が少し損をしているように見えたとしても、実際はその損は徳を積んだことであり自分自身を磨いたという精進になります。

生き方は長い年月で醸成されていきます。どのように生きていくか、どのように生きてきたかはその人の生き様が決めていきます。自分が大切にしたい生き方を守ることが正直であるということでしょう。

子どもたちが正直の徳が伝承できるように、私自身、自己と正対し自分の中の誠や真心を磨いていきたいと思います。

 

美味しいもの

先日、聴福庵で鮎の炭火焼きを行いました。時間をかけてじっくりと弱火を通して備長炭で焼き上げる鮎は格別で薫りも味も見事でした。一緒に食べた方々もみな、こんなに鮎は美味しいのかと喜ばれました。

そもそもこの弱火でじっくりという料理方法は、古代からある調理法の一つです。むかしは、縄文土器の中に食べ物を入れそれを蒸し焼きにしたり、煮込んだりして料理をしていました。

大切な食材や食料を焦がしたりダメにしたりすることのないように、「時間をかけて」じっくりと弱火で調理したように思います。

この弱火というものは、素材の旨味や持ち味を発揮する仕組みとしてはとても効果があるように思います。備長炭でも、弱くなってきた炭火で調理すると深くて繊細な味わいが出てきます。これは水も同じく、井戸水をじっくりと弱火で沸かすとなんとも言えない円やかさが出てきます。

現代では「じっくりと時間をかける」ということを排除した料理法ばかりが増えてきました。本来は、「時間をかける」というものもまた「美味しい」につながる大切な要素であったはずです。

しかし時間をかけずに美味しいというものが優先されると、料理法は強火で早くになってしまいます。もしくは調味料や味付けばかりのノウハウが増える一方で舌先三寸を誤魔化して美味しそうな料理を美味しいものであると認識させたりもします。

私たちが美味しいと感じるのは、五感で味わうときです。目でみて、においを嗅いで、触感を味わいという具合にすべての器官をフル稼働させています。しかし今は時間がないからと、見た目ばかりにこだわり目で食べているような具合です。そのうち、カロリー計算された栄養ドリンクや簡易的な補助食品ばかりをとるようになってきました。

時間をかけないことが最良とされている価値観の中では、本来の美味しいものは出会いにくいのかもしれません。食材が少ないからこそ、食料が足りないからこそ、また旬が短いからこそ、私たちはそれを大切に美味しくいただくことで食欲だけを満たすのではなく心の豊かさもまた充たしていました。

満足するというのは、この心と五感と材料全体を豊かに味わうときに得られそれを美味しいとしたのでしょう。

改めて今の時代でも、本物の美味しいを子どもたちと分かち合えるように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

自然農の豊かさ

昨日、福岡にある自然農の田んぼで草取りと合わせてイノシシとスズメ対策を行いました。昨年、同じ時期に稲の花の咲くころに田んぼに入ってきてはぐちゃぐちゃにされましたから今年はと思っているとやっぱりまた入ってきていました。

自然と共に生活をしている野生動物の田んぼに入ってくるタイミングはいつも同時期でよく作物を観ているし、よく時機を外さないものだと感心するばかりです。大体、イノシシが入ったあとはスズメが入ってきますからこちらも毎回同じようにタイミングが分かってきますから対策もまた取れるものです。

昨日は、イノシシ除けの柵を設け、スズメ対策には釣り糸を田んぼに張り巡らせました。残りは、カメムシやウンカですがこればかりは農薬を使っていませんからどうにもならずカマキリや蜘蛛、その他の生態系を増やすことで対策を立てるしかありません。

今年は苗があまり元気がなかったからか、穂をつけるタイミングや根の張り具合などもあまりいいものではありません。しかし、野生の農場の中で様々な野草に負けず劣らずに真摯に生きる姿からたくさんの勇気と誇りをいただきます。

稲たちの育つ力を信じるということは、育つ方に加勢するのではなく見守る方に加勢していく必要があります。それが場づくりであり、それが環境づくりであり、関係性づくりです。

これらの相互扶助の努力によって、自然の恩恵を身近に感じていのちは充実していくのです。そのいのちの歩みと共に保育することは、自分自身のいのちを見守ることにもつながります。

自然農の豊かさというものは、収量のことが第一ではありません。どちらかといえば、この野生の中で自分もしっかりといのちを充実させていくその自然を味わい、自然の恵みや力を味わうことの豊かさがあるように思います。

お金では買えないもの、今の一般的な価値観では測ることができない喜びや仕合せがこの田んぼの中には無尽蔵に存在しています。

暮らしは、いつもわたしたちに本物とは何かを教えてくれます。引き続き、子どもたちの未来に向けて脚下の実践を積み重ねていきたいと思います。

智慧のつながり

物事の中にはないものの中から何かを産み出すという発想と、あるものの中から何かを産み出すという発想があります。しかしそれを突き詰めてみると、すでにあるものの中からしか産み出していないという事実を知ります。

どんな素材もどんな内容も、私たちの短い命の中の知識では見えていないだけで本当は永遠のつながりの中で存在しているものをちょうどよい時期に思い出して引き出したかのように産み出していくのです。

新しいものというものや古いものという時間的な感覚の中で私たちは、その新旧に意識が捉われていますが実際には本物があっただけです。その本物とは、すでにあるものの中からもっとも本質的であるものを産み出したということです。

その本物とは、歴史の中に存在していますし、自分の五感の中にも存在しています。そして記憶の中にも存在し、細胞の中にも存在します。そのほか、美意識の中にも存在し、場の中、空間の中にも存在します。

そういう存在を発見できる力こそが、本物を引き出す力なのです。

本物を引き出すには、自分が本物を知る必要があります。そしてその本物は、自然の智慧の中から引き出されていきます。私たちのいのちのつながりは、智慧のつながりでもあります。

智慧のつながり、まさにそれが伝統の力なのでしょう。

引き続き、暮らしの甦生や民家甦生から人類の甦生、社會の甦生を産み出していきたいと思います。

脚下の実践

人は、自分自身を如何に磨き練り上げていくかということに全生命を注入していくことのように思います。これを修身ともいい、人間は自立することではじめて人格と徳を兼ね備えた人物になるように思います。つまりは、人間が目指す理想の姿が修身によって人徳になるということなのでしょう。

しかし実際は人間はつい環境によって怠惰に流されますから、己と向き合い己を正すことは難しく、日々の自己との対話や正対をもって修練や修身をもって錬磨していくしかありません。

森信三さんは、自立ということについて様々な言葉を遺した方でした。この方の言葉には修身とはいかなるものかということが明快に記されています。

「いったん決心したことは必ずやりぬく人間になることです。」

「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」

「できないというのは本当にする気がないからです。」

「己を正せば、人はむりをせんでも、おのずからよくなっていく。」

「道徳とは自分が行うべきもので人に対して説教すべきものではない。」

「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」

「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」

自分自身、自己研鑽と自分の霊性を高めることこそが本来の自分のやるべき挑戦ということです。誰かと比較したり、自分の中で平均と調整したり、ここまでやったらとか評価を気にするのは、自己とはあまり関係のないことです。

自立というものの本質は、自分自身の初心や覚悟を磨いて人格を高めていくこと。そしてそのためにも人は協力し合うことで通してその学び合いの場を醸成していく必要があるのです。

自立と協力は、人間が学び高めていくために欠かせないものです。

子どもたちにどのような場を用意していくことが、もっとも人間として高まっていくのか。脚下の実践から、深く味わい創造していきたいと思います。

感謝祝詞

昨日、元土師宮だった郷里の老松神社でご先祖様たちへの感謝の祈祷をしていただきました。ここは、私の苗字と関係する先祖のルーツである野見宿禰をお祀りしておりその子孫である菅原道真も合祀しています。

もう1000年以上前に建立された神社ですが、今でも歴史を感じる境内とお社には清々しい風が吹いていました。今回は、特別な感謝祝詞を宮司様に用意していただき一族みんなでその祝詞を奏上するという具合に進行していきました。

その祝詞の内容が素晴らしく、記録のためにもここでご紹介します。

「安らかな心と清らかな気持ちで老松神社の神様の大前に謹んで申し上げます。神様の広く厚い御恵みや高き尊き教えによりまして親族家族たちが睦び和みましてこれからも力を合わせ心を一つに身を慎み事に励み、ご先祖様に喜びと感謝の心をもって麗しく奉仕する姿をご覧いただき子孫が永く栄え家も身もより高くより広く反映するやうに謹んでお願い申し上げます」

思い返すと、はじまりを辿れば最初の二人が私たち子孫の両親です。そしてそれから何度も枝分かれしていき今の私たちまで到達したことになります。苗字もむかしはなく、時には名前もなかったかもしれません。

その今の自分があるのは誰の御蔭様かと感じるとき、偉大な恩恵を思わずにはおれません。そういう今までの経緯を偲び、尊敬と信心を思う中に非常な感謝の心が湧き出ます。

宮司様からは、神社とは本来は感謝をするところですと話がありましたがまさに私たちは今の自分の存在に対して偉大な畏敬の念を忘れることがなかったからこの伝統や信仰が今でもしっかりと残っているように思います。

お盆やお彼岸は、先人たちの霊や魂が帰ってくると信じられていました。遠大な歴史と膨大な人々の魂を鎮めることは、今の私たちがそれを継承していることを思い出し感謝し続けることです。

子どもたちの一部として私たちの魂は生きていきますから、今しかできないこと、この生きる意味を確かなものに転換していきたいと思います。