心の太陽

人間は振り返ることで、自分というものに出会います。自分のことを知るもっとも有効な手段は、この振り返りをするという習慣を持つことです。1日にたとえ5分でも、10分でも振り返る人は、自分を見失うことはありません。

私はこの日々のブログは振り返ったことを深めたものを綴っています。振り返りの時間は、もっともゆっくり振り返れる深夜に行います。そのほかにも、朝起きてからの日記や夜寝る前、他にも日中でも少し時間があれば振り返ります。

いつから振り返りオタクのようになったのか、それはメンターの影響が大きいと思います。

私のメンターは、「省みる」ということを何よりも重要にする生き方をなさっています。論語の三省を人生の自戒のようにされておられます。この三省は、一日に三回省みるという意味ではなく、漢字の三は、無限に広がっていく三ですから何度も何度も振り返るということです。

孔子は、論語で自分のことを三省で語ります。

「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」

毎日、孔子は自分の初心を失っていなかったか、自分を見失っていなかったかと、動機はどうだったかと、3つの軸によって自分自身を振り返っていたのです。

例えば、ご縁を大切に生きていきたいと願ったなら、自分はご縁に対して誠実だったか、活かしきったかと、ご縁あるたびに自分の動機や初心を確認していかなければなりません。そのうえで、安易なことをやっていたらすぐに反省し、ただちに修正できるものはし、できないものは次に活かし改善する必要があります。

こうやって習慣を持つことで、次第に自分を見失うことなく心のままに生きていくことができるようになるのです。

人生は自分自身との対話です。

自分がどう生きたか、納得のいく人生だったか、それは自分にしかわかりません。自分の心を無視して誰かのせいや環境のせい、言い訳をしてそのまま終わるのも一つの人生、それをすべて自分を磨く機会であり砥石だと福に転じて自分を味わい盡していくのもまた人生。

選択するのは常に自分自身の心です。

決心するというのは、その心を最期まで維持し続けるということです。そうい意味でこの維持こそが習慣であり、継続が力そのものである由縁なのです。

心は常に存在し、消えることはありません。脳の作用や感情によって霧がかかり曇ってしまっているだけです。どんなに曇ってもどんなに嵐がきても、太陽がまた出てくるように心も同様に風がやみ穏やかになれば澄んだ空気と共に太陽は現れます。だからこそ、私たち人間は心にいつも太陽を持ち続ける必要があると私は思います。

この振り返りの習慣は、心の太陽を確認する習慣です。

自分を見失わず、子どもたちが自分の人生を生ききることができるように私自身の背中を通して子どもたちに伝承していきたいと思います。

人類保育の道

人類は、集団をつくることで生き延びてきた生きものとも言えます。敢えて集団をつくったのは、自分を守るためでもありました。一人だととても弱く、生き延びていくことができません。

だからこそ集団をつくり仲間を持つことで、協力し合い助け合ってきました。その証拠に、人間は一人でやっていても面白くないや楽しくないなどという感情を含め、仲間と一緒に取り組むことで仕合せを感じるようにできているからです。

無人島で一人で暮らしてみるイメージを持てばすぐにわかりますが、いくら成功したからと一緒に喜んでくれたり、感謝されたり、ほめて貰ったり、共感しあったりすることがなけばそのうちつまらなくなっていくものです。

人は人と一緒にいることで、ヒトが人間になったといいうことでしょう。その人間の特徴とは何か、それは「仲間を大切に思う心」ということでしょう。以前、NHKのグレートジャーニーの中で皮肉にも人類は仲間を大切に思うことから戦争が起きたという表現がありました。確かに、仲間というもので敵味方を分けるとそこにはお互いに正義が生まれます。本来は仲間同士で起きた、尊重と寛容の精神で助け合うところを損得利権や自我欲が優先され身勝手な正義が集団によって認知されればそこには対立構造が生まれてしまいます。

対立から対話へというのは、本来、みんな仲間ではないかと確認し合おうということです。同じ組織の中で敵味方に分かれて、いざこざをしているところを見かけますが本来の仲間とは何かということを思い出すことでしょう。

組織というものは、自分を大きな意味で守っているところです。自分を守っているところだからこそ、その守っているところを守ろう。それを拡大させていけば、家族から会社、地域社会、そして国家、世界、地球というように守り守られている存在に気づくのです。

視野の狭さというものは、この逆であり、自分を守ることを自分で必死にやればやるほどに家族を守れず、会社を守れず、地域も守れず、国家も守れず、世界も地球も守れません。

自分を守っているものは何かともう一度、客観的に見つめることで自分が本来守るべきものは何か、そして自分はなんと大きなものに守られていたのかと感謝に立ち返ることができるのです。

これと同様に地域貢献とかボランティアとかを仕事と分けるのではなく、自分を守ってくださっているものを守ろうとすることは人類の発展や地球の成長に必要なことなのです。特に子どもたちの未来を思えば、自分が守っているものが何かを確かめることができます。

人間は、集団をつくりましたが問題はそこに甘えすぎてしまうことです。それは自律ではなく、自立でもない。守られるのが当たり前となってしまい、自分が貢献することをやめてしまえばそれは単なる甘ったれになってしまいます。

得意なことができる人に甘えることは、自分の得意なところで貢献する覚悟がありますから共生と貢献の関係が成り立ちます。自分ができないことは得意な人に頼る、しかし周りができないことは自分の得意に頼ってもらう。まさに信頼関係を築くことで、仲間を思いやる心が人類を対話や平和へと導くように私は思います。

身近な人たちとの小さな人間関係が、世界の戦争にも平和にも左右していきます。一人一人の人間の心の中に如何に平和を築くかは、人類の最大のテーマであり私たち子孫に与えられた最も重大な課題です。

自立と自律は、私たちの本業のテーマでありそれが仕事です。

引き続き、人類の未来を省みながら保育の道を弘げていきたいと思います。

 

善の本体

孟子に「性善説」というものがあります。これは人間の本性を善とするという考え方のことです。そもそもすべての人間の心には本来善への可能性が内在し、その兆しを四端(したん)といい(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))の情としました。この四端を拡大していけば、人間の善性は仁義礼智という形で完全に発揮できるといったのです。

この4つの感情とは現代語にすれば、あわれみいたましく思う心、不善を恥じにくむ心、目上にへりくだり譲る心、正邪を判断する心のことでこれは最初から持っているというのです。

人間が素直になれば、これらの感情は持っているというのは生まれたばかりのいのちにはその道理が備わっているという言い方なのです。確かに、生きていくうえで必要な道理というものがあります。

それはこの自然界、宇宙においても従わなければならない絶対的なものがあります。この地球に生まれた以上、これがなくては生きていくことができないというものはもともと備わっているはずです。

水や空気、光や熱なども当たり前すぎて気づきませんが、生きていくためには欠かせません。これらは情となり心となり、私たちのいのちと密接につながっているように思うのです。

そしてそれらを総称して孟子は「善」というのではないかと思うのです。つまりいのちは水であり、水が善であるということ。

老子に「上善水如」があります。

これは最高の善は水であるとし、万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善と称えます。

つまりは、善であるというのは水のような存在のことであるということです。人間は生まれながら水を持っている、その水には性質として低きに流れるというものがある。だからこそ、水は環境を受けて変化する。環境としてこの世にある道理を色濃く受けて善になるということでしょう。

つまり「善」は、宇宙における万物自然の道理のことです。

いのちはどんないのちも道理に逆らうことはできません、いのちは道理に従うことでそのものの本来の本性が引き出されていきます。本性を引き出すとは天命を生きると同義語です。

人間は水のように澄んだ存在に近づけば近づくほど、より本性の価値になっていくということです。本性の価値とは地球といういのちの姿です。無為自然とも言います。

善を循環していけるように、新しい仕組みを考案中です。

子どもたちが安心してこの先もずっとありのままであるがままに暮らしていけるように今できることの最善をいのちを懸けて取り組んでいきたいと思います。

 

居場所

先日、居心地について改めて考える機会がありました。この居心地という言葉は、居と心地からできた日本語です。居は落ち着く場所のこと、そして心地は仏教語であり、心を大地から支えるものとあります。心が落ち着き心の支えになっている居処ということになります。

この居場所というものは、改めて考えてみるととても大切なものであることがわかります。人間は何をして誰といてどこにいてどうしていることがもっとも気楽にいられるか、この居場所とは自分の心が安らぐこと、常に落ち着いている空間や関係ができていることをいいます。

つまりは日本文化でいうところの場と間と和が存在し、心がそのものと一体になって自然に解けこんでいるようなものをいうように思います。

そして居心地が悪いとは何か、それは自分が無理をして自分本来の心が落ち着かないこと。この無理をするというのは、素の自分の価値を否定し自分を偽っている状態になっているということです。言い換えれば、素を出せないということです。この時の素とは何か、それは素心のことで素直でいられない状態になっているということです。

素直になれないのはなぜか、それは自分の感情に囚われたり、相手を勝手に思い込んだり、自分が他人にどう見られているかばかりを気にして本音を誤魔化していたりという状態のことを言います。

本人にとっても居心地が悪いと思いますが、周囲の人たちもそのような人たちがいることで居心地が悪くなるものです。居心地の善さというのは、みんなで協力して居心地を善くしていく必要があります。

それはどのようにしていけばいいか、それは本音の対話を通じて行われていきます。本音の対話とは、心音の対話です。心がどのように感じたかを素直に言える関係、お互いに素心のままで尊いと思いやれる関係、そういう絆を結び合っている居場所は居心地が善いと感じるものです。

人間は色々な価値観の人がいます、生まれながらに異なれば育った環境でも異なります。そういう人たちを同一の価値観で同一の環境下で管理することは不可能です。特に現代は多様性が尊重され、人口減少の中でより協力して助け合って生きていく時代に入っていますから余計に居心地を気にすることが増えています。

だからこそ居心地がよくなるための努力を、みんなで一緒に取り組んでいく必要があります。一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う関係を築き、役割や力が発揮できるような場や空間を環境に創りこんでいくこと。

これからのリーダーは、この「居場所」の価値に気づけなければ人々の調和や協働を引き出していくことはできません。今の職場や日本の環境を見つめ直し、何の刷り込みを取り払い、何をどこから改善するのか、そのプロセスを経て本物の居場所を創造うのが私たちの会社の本業の一つです。

子どもたちが安心して自分らしく生きて、自己を発揮していけるように見守る環境を弘げていきたいと思います。

 

家の徳

先日、福岡でたくさんのお弟子さんがいらっしゃるお茶の先生の実家の築250年くらいの古民家甦生の相談にのるご縁がありました。昨年の水害で1階部分が大幅に破壊され、この2年間の湿気やカビなどでとても住める状態ではなく解体して新しく建て直すか、それとも修繕をするかを悩んでおられました。

地域の方々からこの家は地域のシンボル的な存在の家でありこの家だけはなんとか壊さないでほしいと頼まれるそうですが、実際には費用も具体的な方法もまったく検討がつかず立ち竦んでしまっている状態でした。しかしご先祖様やご両親、地域のことを考えたうえで遺そうと決心されました。

以前、この地域では130年くらい前に大火がありほとんどの家は消失してしまったといいます。しかし唯一この古民家だけが、燃えずに残ったそうです。その理由は、地域の人々がここだけはとみんなで集まり守ったからだといいます。

当然その時代は、現代のようにホースで放水などではなく近隣の家をみんなで道具を使って急ぎ解体してそれ以上、隣の家に火がまわらないようにする防火方法で消火していました。つまりこの古民家を守るためには近隣の数軒の家を壊して守る必要があったのです。そこまでしてでも大勢の方々が、協力してここだけはと守ってくださったからこそこの地域で唯一、250年建ったままでいるのです。

しかしなぜこの古民家をそこまでして守ったのかとその理由を地域の方々にお聞きすると、この古民家の家は代々お米問屋で貧しい人たちや生活できなかった人たちに進んでお米を恵み助けていたからそうです。さらには、むかしこの地域で大規模な一揆が発生した時にも農民たちはこの家だけは傷つけず守ったといわれています。それで日ごろから恩を感じていた方々がいつも四方から集まりみんなで守ったのだろうと仰っていました。

きっと代々のご先祖様たちが人々の間で徳を積んできた歴史があり、その徳に報いようとして人々がその時代の災害から愛をもって家を守ってきたのでしょう。そして現代になり、大規模な水害で壊滅状態になったまた古民家を再び守ろうとする動きをこれからはじめることになります。

費用があるわけでもなく、具体的な公的補助金が入ることは一切ありません。

しかし私はこの「家の徳」を信じ、未来の子どもたちにこの道徳の伝説を子孫へ伝承するためにもこの古民家の甦生を丸ごと引き受ける覚悟を決めました。

道徳というものは、一体どこからはじまるのか。それは人々の愛の中からはじまります。美しい話を語り続け、地域に永く愛され続けるこの古民家は日本人の子どもたちを永遠に見守り育むはずです。

道徳は一般の教科書には書かれていなくても、人間はその場に来てみれば必ずそこに何かを感じます。私たちの精神文化の中に息づく、道徳心というものは場の力によって甦り、そして和の空間の中で活かされ続けます。そしてそれが愛であり、愛は循環することで人々の心の中を廻るのです。私たちに空気が必要なように、私たちには愛が必要ですからこれは決して失われないものの一つなのです。

そして伝統的な日本の民家はまさに、民族でいうところの精神的な長老であり指導者、そして親であり先生なのです。ただの家を残すのではなく、民家を遺す、そして道徳を遺すということ。

生き方は、まさに代を重ね徳を積むことで高まり、より一層、美しく光り輝きます。

まずは家族が災害前よりもかえって福になって快適に暮らせるように智慧を絞ります。この場で育った子どもたちが、将来どのように日本を変えていくのかとても楽しみです。

おもろいか

昨日、私が尊敬する芸事の先生と一緒に雛祭りの見学に同行するご縁がありました。この先生は、茶道、華道、書道、陶芸に絵付け、料理に詩に絵画、他にも数えきれないほどの芸事に達している方です。どの作品も一流の業界紙に特集されるほどで、自らを数寄ものと名乗っておられます。

なぜ数寄ものかとお聴きすると、ものが好きだからと仰っておられました。つまりもの数寄だからと。その証拠に、この先生にかかればどんなものも輝いて持ち味を発揮します。ものの持ち味を引き出す室礼はまさに圧巻で、先生の作品からは壮大な物語を感じます。

この壮大な物語の源泉は、先生の歴史や由縁に精通していることもあります。日本の故事や由縁、そして伝説などもよく見知っておられ、それを物語として結び表現されるのです。

まるで物がすべてを語るように、この先生にかかれば物がひとりでに語り始めます。それを観てわかる人はすぐにそのものが何を語っているのかを直観するのです。昨日の雛祭りに同行しても、「これはもっとこう配置したほうがいい」とアドバイスを受けているとものの楽しみ方を学びました。この世のものをどのように見立てるか、まさに雛祭りは小さな世界の見立て遊びでもあり、まさに家の中に一つの自然や宇宙を表現する舞台のようです。

そう考えてみると、私たちにとっての舞台とは人生そのものです。

それをどのように面白く演出するか、そしてどのように楽しく結んでいくかはその人の生き方、そしてかかわり方、布置の見方などに因るように思います。四季のめぐりのなかで、どのようなテーマを持ち、何を組み合わせ、面白がるのはまさにこの世を美しくして暮らす日本の精神文化のように思います。

先生にお会いすると実力の差を実感しますが、それにも増して観ている世界に好奇心が湧き、これからの新たな場数や新境地にわくわくするばかりです。大阪生まれ大阪育ちの先生なので「そっちの方がおもろいやん」と、なんでも「おもろいか」と判断する生き様に生き方の方にも大きく憧れました。

子どもの心は、自分が守り育てていけば必ず唯一無二の自立になる。年齢は関係なく、若くても好奇心が枯れている人もいれば老いてもますます好奇心が瑞々しく偉大な人もいる。

一生の一度の人生だから、自分軸を大切におもしろく生きてみたいと思います。次回は具体的な「ものがたり」を学べることを楽しみにしつつ子どもたちに日本人の智慧を伝承していきたいと思います。

次のステージ

人は自分の意識次第で世界観が異なります。この世界が一体どのように観えているか、それはその人の意識次第です。しかしこの意識というものが、すべての世界を見ていますからこの世を生きていくのに大きな影響を与えてしまうのです。

この大きな影響は例えてみるとすぐにわかります。ある人は、この世界を自分にとってよくないものばかりと思ってみていればこの世界への不平不満は募るばかりです。しかし逆に、この世界は自分のとって善いことばかりと思っている人はこの世界は十分足りていて満足しています。

そしてまたある人は、この世界は最初からすべてにおいて完全であるとし宇宙のように存在そのものがあり活かされていると思っている人であればこの世は自分次第ですべて叶うものであると特別な世界を創造していくことができるのです。

つまりは、ある・ないで意識する世界の人。そもそもが存在があると意識する世界の人。この差は、同じ場所にいても世界が全く異なって観える境地にあるということです。

人間は、何をもって先達というのか。そして道の達人というのか。それはもちろん技能もありますが、その意識が完全に一般的な人たちと次元が異なっているのです。この異なりは、観えている世界観が異なるということです。

雨を見てもただの雨ではなくその人は、自然を観ます。智慧を見てもただのそれは智慧ではなく、宇宙そのものを観ます。このように意識が達した人は、居ながらにして無、無にして在、そういう境地の体得があるのです。

私も直観的に機縁や機智を獲得していくタイプですから、観えている世界の異なりはよく感じます。ある時、リンゴが木から落ちて万有引力を悟るように意識は私たち人類の世界を丸ごと変革してしまうのです。

子どもたちの意識を、身勝手な大人が刷り込んで可能性をつぶさないように、子どもの無限の可能性を引き出せるような生き方や会社にしていきたいと思います。次のステージを楽しみたいと思います。

天のメッセージ

人生の羅針盤の言葉の一つに、老子があります。孔孟の教えも己に克つことに満ちていますが、自分で自分を正しく理解し、己を制し律し克つことができて人間力は磨かれています。

しかし、どうしても己に負けて無意識にうちに現実から乖離し、真実から遠ざかってしまうと本当のことや真理がねじ曲がってしまうものです。そういう時こそ、先人の智慧に触れ反省をして素直に謙虚に学び直す必要があります。

老子は特に、人間力について精通しているように思います。

「賢者は人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない。」

「優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。」

謙虚でいなさいと諭します。まさに謙虚は魔除けなのです。

そしてこうも言います。

「他人を知るものは賢いが、自分自身を知るものは目ざめた人である。他人に打ち勝つものは強いが、自分自身に打ち勝つものは偉大である。」

「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。」

自分自身に打ち克つことが本当の「力」であると。力とは、決して能力や権力ことではなくまさに自分に克つことこそが「力」の本質だといいます。

そしてこうもいいます。

「優しい言葉をかければ、信頼が生まれる。相手の身になって考えれば、結びつきが生まれる。相手の身になって与えれば、愛が芽生える。」

本物の信頼とは、優しい言葉の中にあるもので相手の身になっているからこそ結ばれると。そして思いやりをもって接すればそれが愛になると。どの時代もどのような人も、信頼はやさしさと思いやり、まごころを通してしか結ばれないということです。

無為自然を説く老子はこう言います。

「現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。物事をそれが進みたいように、自然に前に流れさせてやりなさい。」

すべては天にお任せしていけば、なるようになると。だからこそ素直に謙虚に任せて信じて自然であれといいます。

最後に、老子の格言です。

「足るを知れば辱められず、止まるを知ればあやうからず。」

私自身、日々のご縁をすべて天のメッセージと受け止めながら自分自身を見つめ反省して生き方を老子に学び直したいと思います。

祈年祭4

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼで無事に祈年祭を行うことができました。前回同様に、むかしの田んぼの中に祭壇を設けお祀りして宮司様に祝詞を奏上していただきました。

祝詞も仕来たりも古代からの祈りが甦生されたもので、祈年祭の意味を深く味わう善いご縁になりました。美しい空と田んぼ、澄んだ空気、そして春風に純白の和紙がたなびく様子にこれからはじまる稲との四季の暮らしを想い、荘厳で清浄な心持になりました。

お祀りが終了し、宮司様と一緒にみんなでお神酒をいただきましたがその際に「おめでとうございます」という声を合わせました。

通常ならば何もまだ収穫をしたわけでもなく、結果が出たわけでもないのになぜおめでとうございますなのかと思うかもしれません。しかしこれは古代から連綿と続いている日本人の精神文化を象徴するものなのです。

「前祝」という考え方があります。これはあることが善い結果になるように確信して祈り、結果が出る前に先に祝ってしまうという考え方のことです。よく前祝として、祝宴を開いたり、桜の花の下で宴会をして新しい年度の未来を祝うものもその一つです。

これを別の言い方では予祝とも言いますが、予めそうなると信じて先に祝ってしまうというのはどのようなことがあったとしてもそれは丸ごと「福」であると信じる気持ちがあるということです。この「福を待つ」という生き方は、どんなことがあっても希望を失わず与えられたすべてのご縁を神様からの恩恵としてみんなで受け取り味わっていこうとする素直で謙虚な生き様です。

宇宙自然の道理として、福は追いかけるものではないということ。すでに福は身近に訪れており、それを信じて待つことこそが福を知り福になるという真理をいうのでしょう。

幸福に気づかない人は、希望や夢までつまらないものに変えてしまいます。なんでも面白がるところに発酵があり、どんなことでも天与の徳であると楽しむところに希望や夢が存在しています。

私たちのご先祖様たちが、かつてどのような環境下や状況下であっても希望を見失わず福を待ち、夢を実現してきたから今の私たちが生き残っています。その中で特に大切に重んじてきたものこそ、いのり福で居続けることだったのでしょう。

子どもたちにも、そのような先人たちの智慧や遺徳、また伝承されてきた前祝の意味や価値をむかしの田んぼを通して継承していきたいと思います。

祈年祭3

いよいよ今日は、「春祭り」として祈年祭をむかしの田んぼで行います。春が到来し、あらゆる生きものたちが田んぼから甦生してお米と共にいのちの廻りがはじまります。このいのちの廻りのこの時季にあるお祀りは自分自身の初心を確かめるためにもとても善いご縁になります。

ここ数年の異常気象で、災害や干ばつ、様々なことが世界中で報道されます。当たり前にできるお米はなく、自然の猛威を感じ、自然を畏れながら自らを慎み、自然と共に歩んでいくのが私たちの先祖が生きてきた生き方でした。

現在では、お金を中心にした経済が優先されていますから民家稲作一体の暮らしではなくなりより自然が遠ざかっているから余計に感じにくくなっていますが本来は自然に対して謙虚に素直に自分たちを省みて正していくことで様々な災害に対して未然に対処し、さらには復興の活力を養ってきたとも言えます。

世界でもっとも自然災害の脅威にさらされる国土だからこそ、私たちは自然から様々なことを学び智慧を獲得してきました。その証拠に、自然豊かで水の多い田んぼが私たちの生活を潤しています。

稲は古代より稲霊と呼ばれ、私たちの親祖と共に暮らしてきた祖霊として祀られてきました。祖霊とは家族の魂のことです。つまり家族の一員として大切に祀ってきたということです。この家族は、他にも五穀があり、一緒にこの世で生きながらえるパートナーとして大切に守り続けてきたのです。

稲作をすればすぐにわかりますが、他にも稲作の仲間に蜘蛛やツバメ、田螺やトンボなどもいます。これらのことを同じいのちとしてみて家族として祀るところに、日本人の精神文化が息づいているのがわかります。

少しでも調和が崩れれば、すぐに稲が育たなくなる。そうならないように、数々の祈りを捧げながら謙虚さを保ち自分たちの生活に怠慢はないか、傲慢はないかと欲を戒めつつ慎ましく暮らしてきました。

祈りと共にはじまる暮らしは、自然の循環に逆らわず自然と共に生きていくという生き方の伝承なのです。一時的に大収穫を得て、大量生産できたとしてもそのツケは必ず数年後に訪れます。自分たちだけよくなるようなものや、自分さえよいと思うような生き方はその時はよくてものちになれば後悔がきます。

何度もそれを繰り返してきた歴史を持つからこそ、稲作に祈りを籠めて先祖たちは私たちに暮らしを伝承してきたのではないかと私は思います。だからこそタネを蒔くとき、どのような初心で種を蒔くか、それが大事なのです。

祈年祭によって自分の初心を振り返る素晴らしいご縁に感謝しています。