道中学

今の私のことを振り返ってみると、過去に出会った人の影響を受けて形成されていることがわかります。素晴らしい生き方をしていた憧れの方々、あるいは反面教師にした方々、自分がどう生きたいかということを思いここまで来ました。

思い返せば、生き方というものが人生を決めるもっとも大切なものであることに気づきます。そのわりにあまり語られることがないのもこの生き方というものです。そして生き方が決まれば、次はあり方が決まり、そして働き方なども決まります。最後は死に方というものも決まるのです。

私たちは産まれてきて死ぬまで日々にどう生きるかということを問われ続けています。未来のことを憂うばかり、過去のことを後悔するばかりでは今に集中することはできません。今とは、日々のどう生きるかの答えです。その答えを日々に生きていくのだから、一生懸命である以外はありません。

一生懸命とは何かということを考えていると、全身全霊という言葉が浮かびます。全神経、五感総動員して全集中するという具合です。直観も働かせ、イキイキと青春の今に存在するのです。

サミュエルウルマンの誌にあるように、心の若さを持ち続けて学び続けて已まない人生が一つの一生懸命というものでしょう。どうしても日々の目先のことに流されていると、次第に流されて大切な初志や理念、初心を忘れてしまうものです。

そうならないようにと振り返りをして、また今日を再スタートする。いつも新鮮で創造する一日であるのなら、人生は常に青春そのものということでしょう。

私の尊敬してきた人たちはみんなそんな日々を生きてきました。どんな日々も自分の志を磨き高め、そして夢に前進していると学び続けておられました。亡くなるその時まで、感謝と青春の学びの日々です。

憧れた人たちのように今を生きる。

先人も同じような日々を送ってきたと思うと、今も一緒に心の中で歩んでくださっていることを思います。道中の出会いやご縁をいつまでも大切にしていきたいと思います。道を歩む日々に心から感謝しています。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

英彦山への道

昨日から英彦山の宿坊、守静坊に泊まり込みお庭のお手入れをしています。昨年の今頃に、ちょうど工事をスタートして振り返れば一年になります。建物の方はある程度、落ち着いてきましたがお庭の方はほとんど片づけができていませんでした。

気が付けば、この山での暮らしというものも少しずつ観えてきています。綺麗な空気と風、山の鳥が鳴き、せせらぎの音が聴こえ、清らかな夕陽、静かな星空があります。

山は自然のリズムを生きていて人間のスケジュールのこと、喧騒を忘れさせてくれます。

思い返せば、この一年間、どれだけ英彦山と自宅を往復したのだろうかと。途中、英彦山の三山の風景が訪れるたびに心に染み入る憧憬がありました。縁あって、私は英彦山にずっと見守られてきた人生でした。

幼い頃、名前をつけていただいたのも英彦山の霊泉寺。祖父が何度も何度も英彦山に連れてきて遊んでくれました。両親とも正月には参拝し、大人になってからもできる限り時間があるときに子どもたちを連れて英彦山に来ていました。京都の鞍馬寺とのご縁から九州の天狗とのご縁も深まり、毎月のように英彦山と京都の往復する十数年も送りました。そして今では宿坊のお手入れに毎週のように来ています。

こうやって英彦山に関われることが何よりも有難く、仕合せを感じます。

今では法螺貝もはじめ、薬草をはじめ滝行など修験道も学び始め山の文化を学び始めています。

いつからこうなっていたのか、こうなるとわかっていたのか。

守られているというのは、身近な存在に何度も気づき直すことかもしれません。当たり前ではない当たり前に気づく時、人は自分の人生で関係の深いご縁の存在を自覚します。

そして守られている存在に感謝できるとき、その徳に報いたい、ご恩返ししたいという真心に気づきます。感謝はつながりの中にあり、いつまでも人伝えに循環していくのです。

なぜ英彦山にとはもう思いません。英彦山に大切に守られてきたからその恩返しになると思うから今の私の行動があります。この先も、こうやって愛し愛された英彦山と共に歩めることに真の喜びを感じます。

いつまでもこの静けさを保つ荘厳で慈愛に満ちた英彦山と一緒に喜びを分かち合っていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には「厳しいけれど豊かな環境のなかで、恵みに感謝しながら、土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格」のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

真心を磨く

現在、人間社会が自然を凌駕するような生活に一変しかつての自然との関係は崩れてしまっています。人工的な自然を自然とし、人間の法を自然の法と挿げ替えていることにすらも気づかなくなってきました。教育や環境によってさらに自然という本来の真の自然は遠ざけられ、私たちには人間が作り出している人工的なものを自然と呼ぶようになりました。

都市型の生活においては、自然はほぼ失われ人間の人工的な暮らしが当たり前の日々に代わります。水よりもお金が重要視され、これはいくらくらいかかるものかということが生活の中心になっていたりもします。

本来、人間は自然の中で活かされているそのほかの生き物と同じ立場にいるものです。虫たちも鳥たちも、またあらゆる小さな生命、そして植物のような存在にいたるまですべて自然が等しくいのちを活かしています。その一つとして人間もいるのだから、みんなが循環し助け合い支ええ合う中で私たちは生きることができいのちは輝きます。みんな謙虚に生きて、自然の恩恵をいただき暮らしを充実させていくのです。

それが人間の生活だけで好き勝手していくなかで自然を破壊し、自然を征服していきました。資本主義の本当の問題は人間の問題ですが、もっといえば人間と自然の関係の問題だともいえます。

人間が謙虚になっていかなければ資本主義がどうかとか環境問題がどうかとかの問題ではありません。本来、自然に活かされている人間はどのくらいの自然のおこぼれに肖り生きていくかを問題にしなければならないと私は思うのです。

そもそも暮らしフルネスの足るを知る暮らしというのは、自然との関係の話です。自然の恩恵は人間だけにあるものではありません。これはみんなのものです。ある時は、猪のものですしあるときは鹿のものにもなります。

うちの畑でも猪が入り、掘り起こされました。せっかく種を蒔いたのにとショックをうけておろおろとしますがお互いに生きていますから仕方がないと少しの対策をしたらまた種を蒔き直します。また別のところを掘り起こせるように配慮して、全部を奪わないようにしたりもします。生きているのが人間だけではないのだから、どうやったらみんなが喜ぶかを考えて農業を生産するのです。

つまり自然からいただく生産は、みんなで分け合う生産であるということです。

太古の時代から私たちは徳を循環させてここまで生き延びてきました。みんなで分け合い、助け合うことは徳の循環を促していきます。そしてその方が自然の恩恵や利子をたくさんいただくことができるのを知っていました。

自分が精いっぱい、自然と一緒に生きていけば自分も喜びみんなが喜ぶことに気づいていたからでもあります。人間の世界は、そうではないから傲慢になっていきます。奪い合い、戦争し、悲しいことがたくさんおきます。自然の災害は深い慈愛がありますが。人間の災害は辛い後悔があります。

自然と人間がどのように折り合いをつけていくか。そろそろ本気で向き合う時代に入ってきているともいえます。その中心を私は「徳」であると確信しているのです。引き続き、変わらぬ日々でも自分を変え続けていくためにも実践を真摯に積み重ねて真心を磨いていきたいと思います。

結びの甦生

人はあらゆるつながりの中で生きているものです。そのつながりは網目のように広がり、それが結ばれています。蜘蛛の巣のように空中に網をはり、その中を揺らいでいるかのようです。

このつながりや結びつきというのは、点ではありません。つねに結ばれているからそれは全体を感じるときに結びつきを深めていくことができます。

現代は、分断の世の中で専門的に分化して理解していく手法が学問の中心になっています。何かを分けて考えているうちに網であることを忘れていくのです。循環もまた、途切れ途切れになっていて結ばれているようで分かれています。

その分かれているものを無理やり結ぼうとしても、分かれたあとは結び直すと歪になります。結び直すには、まず丁寧に解く必要があります。その解くというのは、なぜ絡まったのかということを一つ一つ見つめていくことです。

これは歴史を甦生することに似ています。本来、あったものが絡まっていくことを遡りそれを取り払い、綺麗に手直しし、元の状態に戻します。これは分断される前、つまりは分断されていなかったことに気づくプロセスのことです。

私たちは分化し分断したといくら思っていても、本当は分化して分断されていないことに気づきます。それは私たちの命も同じです。先祖代々、親祖にはじまり今まで途切れたことがなったからこそ今の私は生きています。

これは分断されず分化されていないことの証明でもあります。

本来、世界というものは元を辿れば一つです。人類も遺伝子が解明したように元々は同じ先祖を持ち、今も同じ命として結ばれています。肌の色も移動する中で変化しただけで、言葉も違いも文化の違いも風土に合わせて染まっただけです。元は同じ、一緒の存在で結ばれています。

戦争というのは一体何かと最近はよく考えます。

子どもたちの100年後、1000年後の未来に何を遺していけるのか。

本来の結びつきを甦生することではないかと、使命を感じています。引き続き、暮らしフルネスの実践とつながりを甦生して未来を易えていきたいと思います。

秋の味わい

この頃の雲のグラデーションはとても美しく、清らかで寂しい感じがします。秋が深まってくればくるほどに賑やかだった夏の気配がなくなってきます。哀愁の風が吹いてくるのです。

この季節というものは自然界だけに止まりません。人間界にも同様に四季があります。歴史の四季があります。繁栄と衰退、一つの季節がありまた次の季節へと時節が移ります。季節が廻り、それまでのことも一つの節目となり終焉します。そしてまた冬が来てすべてを雪が覆いかぶせます。

春になり新芽が出たらそれが新たな季節の到来です。その新芽を見守ることで、新たな季節がはじまります。新芽はどこにあるのか。それは自然の中にも人間の中にも、そして心の中にもあるのです。

私は振り返ってみると、新芽ばかりを見守る人生を歩んできたように思います。保育に関わる仕事というのは、新芽を見守ることです。この先、どのようにそれぞれの木に成長していくのかを見守るのです。

屋久島の母樹や、私の故郷にある楠や杉のご神木のように季節を廻ってもまだ存在し新芽を見守り続けているものがあります。どのように見てきたのでしょうか。何度も同じように秋を体験し、冬の時代を耐えたのでしょう。時に強風で枝が折れ、またある時には腐り枯れたこともあるのでしょう。

大地に根をはる強さゆえに、地球そのものの意思を持っているのかもしれません。

その点、私は夢半ば、挫折はしていませんが忍耐と葛藤の煩悶と歓喜の充実の日々です。何が子どものためにもっとも善いことか、童心と道心を掛け合わせながら暮らしフルネスという実践をしながらこの地に根をはっています。

何が一番長く、そして知恵を伝承させうるか。地球の知恵から離れずに如何に文明と折り合いをつけていくか。まだまだ答えはみえませんが、自分の答えは生きていきます。

秋の風景を観ながら、綴っていきましたが今は秋を味わいたいと思います。

日本語の感覚

私たちの日本語を改めて感じていると、そこに尊敬や親愛の気持ちが籠っているのが分かります。それを感じるのは「お」がついている言葉に触れるときです。

たとえば、おとうさん、おかあさん、おかげ、おれい、おちゃ、おさけ、おいのり、おひさま、おつきさま。あげればきりがないほどです。それはおいのちに対する自分の心の姿を顕現しています。

まるで自分の家族や兄弟、親子のように親しく近い存在として、また最も尊く偉大な存在として接していることが伝わります。これは自然に対する、私たちのものの見方であり、自然との接し方そのものともいえます。

むかしウェブの事業を立ち上げたときに、C3研究所として「かわいい」ということをテーマに取り組んだことがありました。日本語のかわいいは、小さくて愛おしい、素直で無垢なものが強く海外の言葉ではないものがたくさんありました。

私も古いものに触れるときに、懐かしいと感じて甦生していきますがこの懐かしいもまた尊敬や親愛の気持ちが入っているものです。

この感覚の正体はなんだろうかと少し掘り下げてみるとこれは慈母心であることがわかります。すべてを慈しむ優しい母親のような真心のことです。これは地球そのものの本体でもあります。

この世にあるすべてのものを慈しみ親しみ尊敬し愛する心、これは地球の存在です。この地球の存在と一体になることで、私たちはこの世のすべてものと一体一致する境地を得て感覚を結んでいくように思うのです。

言葉というのは便利な道具ですが、その言葉の背景には合理的ではない太古からの生き方や心が入っています。現代は、乱暴な言葉が氾濫し、心を用いなくても言葉だけで交わしている状態が増えてそれを学んでまた言葉の意味まで変わってきました。

日々の言葉を気を付けて使っていくことは、先人たちが目指した姿に近づいていくことでもあります。時代が変わっても、変わってはいけないものをよく観て気を付け、本来の歴史をつないでいきたいと思います。

徳積の本命

歴史というものは知恵そのものです。一般的にいう教科書の歴史は知識としては持てますが実際の歴史は知識ではありません。まさに先ほど書いた知恵です。知恵というものは、伝承されることで維持することができます。いくら知識で記録してもそこには知識しかありませんから活用することができません。

歴史の遺産や遺物が活用されずに朽ちていくのも、町の負担や負債のようになるのも知恵の歴史ではなく知識の歴史が使われるからです。私のところにも文化財の活用のことで相談を受けることがありますが、本当の知恵をつないでいない現代において知識をいくら活用しようとしてもそれでは活用になることはないのです。

私が取り組んでいる徳の甦生は、知恵の甦生でもあります。私にとっての徳=知恵であり、徳積みというのは知恵を磨くという言葉と同義です。なので徳積財団は何の財団だと聞かれたらそれは知恵の財団であると私はいいます。

知恵こそ本来の財であり、それを守ることこそが真の経済を豊かにすると考えているからです。

人はむかしから今に至るまで、たくさんの道を歩んできました。その道は古代から今でもつながっていてこれから先の子孫にまでずっと続いていきます。

その道を守るというのは、まさに徳を積むことと同じなのです。

私たちは先人の偉大な徳をいただき今があります。今の私たちは先人たちが歩んできた歴史のなかで活かされているのです。その活かされているという事実と真摯に向き合い、それを用いるというのが活用するということです。そのためにはまず知識になってしまっている歴史を知恵に甦生する必要があります。私はこの甦生することに使命を感じて取り組んでいます。

私たちの郷土、筑豊という地域は古代には「やまと」があった場所です。というより日本にはやまとがあるのです。私は英彦山の宿坊の甦生においてそのやまとの存在を実感しました。この日の本は、日の子の山のあるところにあったと知恵を感じるのです。霊山というのは、神仙ともいわれ人はいのちを育む偉大な水が産まれる場所を母としました。天地をつなぐところ、それが山なのです。

そして山からどのように歩み、いのちは育ち、道ができて今に至ったか。これは神話として知識にするものではなく、今も神道、かんながらを共に歩み知恵にしていかなければ天命を生きられないのです。

今でも私たちがそれを辿ることは道を甦生することでもあります。徳積財団の本命として、歴史の甦生は徳の甦生でもあります。これからじっくりと時間をかけて子孫へ徳を伝承し知恵を伝道させ、未来にも豊かな宝が活用できるように取り組んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの理解

昨日は、ある自治体の職員さんたちが聴福庵に視察に来られました。あまり対外的には視察は受け容れていないのですが、かねてから深いご縁のある地域の方々でもあり共に学び合う気持ちで情報交換をする機会がありました。

私はよくそもそも論の話ばかりをします。そして目標よりも目的の話をします。また対処療法よりも根源的な解決方法について話します。時間軸も長く、短期的な評価は後回しに行動し実践している事例ばかりを話します。こういうことを並べていたら、世間一般的に流行っているまちづくりの話とは異なり聞いている方も固定概念との折り合いがつかず大変そうです。

しかし実際には、歴史を学べばその意味がわかります。

いくらその時々で最高のものであってもすぐに人が代わり時代が代わり価値観が変わればあっという間に最悪の結果になったりもします。その時々の最高の方法や答えだと思えるものほど信用のないものはありません。だからこそ私は先人の知恵や、伝承された文化の知恵を重宝してそれを現実の取り組みに取り入れているのです。

ただしこれはどれも評価しにくいものです。中庸のようなものであり、中心を捉えることができなければ理解していくことも難しいものです。世の中はほとんど二元論で考えられます。それは言葉という道具が便利な構造をしている分、分断したもので知識を理解するという仕組みになっているからです。

本来は分かれていないものも分けて考えているうちに専門的になって知識は偏りますが、実践していなければ中庸も中心も捉えることはできません。それが知恵だからです。

私はどうも知恵を話しているようで、そもそも知恵だから話でわかるというのは限りなく不可能です。なので共に実践して体験しながら学んでいく、共に知恵を使い共有していくという方法が必要です。

それがあまり視察を受けても意味がないことがわかり受け付けなくなっている理由にもなっています。一緒に実践したり学び合ったりするには場が必要です。その場をどのように創造するかは、共に志を持ち取り組む仲間になっていくということでもあります。これは自分に見返りを求めず徳を積み、子孫のために何をするか決めていくことに似ています。

まだまだはじまったばかりですが、同志が増えていくのを感じます。真摯に日々の暮らしフルネスの実践を丁寧に取り組んでいきたいと思います。