螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

ZEN

今日、11月1日は釈宗演氏の命日です。この人物は、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として有名です。ちょうどZEN2.0とご縁ができ、鎌倉に学び直す機会ができましたので改めて深め直してみたいと思います。

釈宗演氏は安政6年(1859)福井県高浜町に生まれ20歳のときに鎌倉円覚寺に修行の場を移し25歳で今北洪川老師より印可を受けています。その後は、27歳で慶應義塾にて福沢諭吉より洋学を学び29歳のときにスリラカに留学します。そして明治25年(1892)34歳で円覚寺派管長に就任します。

1893年にはシカゴで開催された第1回万国宗教会議に日本の仏教代表として参加し日本人として初めて欧米諸国の人々の前で仏教についての講演をされたといいます。その後は47歳で建長寺・円覚寺の管長を退き、廃寺寸前であった東慶寺の復興をされたといいます。大正8年(1919)、11月1日、61歳で遷化されました。

この釈宗演氏の遺した修養座右の銘は私の提唱する「暮らしフルネス」に通じるものがあるのでご紹介します。

1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごしましょう。

2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせましょう。

3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしましょう。

4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごしましょう。

5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しましょう。

6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しましょう。

7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えましょう。

8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしましょう。

9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きましょう。

孔子の大学にある、天子から庶民にいたるまで如何に暮らしを整えていくのかというのは普遍的な道理です。この釈宗演氏もこの日々の暮らしの実践を重んじていたのがわかります。

明治の廃仏毀釈で仏教はとても荒廃しました。現代の仏教が原点回帰して発展したのにこのZENは日本だけではなく世界的に大きく貢献しました。一期一会に今の環境を受け容れ、敢えて世界への布教し日本に回帰するという生き方。

学ばせてもらうことばかりです。ご縁を大切に、英彦山甦生の参考にしていきたいと思います。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

答えは初心

人生を歩んでいると、大事な局面で大切なことを教えてくださる人と出会います。もちろん人だけではないのですが、人づてで私たちはアドバイスをいただき人生を好転させていくことができます。それを人の運ともいいます。私の人生を振り返ると、本当に善い人に巡り会ってきました。その御蔭様で今の自分があります。

感謝の心というものは、この一期一会の出会いの美しさやすばらしさを感じるときにこそ磨かれるようにも思います。

私たちは生きている中で、傲慢になりやすくすぐに初心を忘れてしまいます。毎日、お手入れをしていても埃や塵が積もっていくように謙虚さから遠ざかります。そんな時、貴重な意見や真心で整える機会を得られることはとても有難いことです。

昨日も、ある方とのお話の中で「神さまを喜ばせる」ということを思い出しました。

日本人は元々、世界の宗教と同じように祈願をしますがそれよりもずっと前に「喜ばせる」という素直で明るい清らかな心を持っているように思います。例えば、神社でも舞を奉納し、みんなで直会をし、行事をし、そこには和があり、笑いがあり、結びがありました。

日本人はもともと調和を尊び、日々に穢れていくものを祓い清らかでいよう、そしてみんなで喜び合う明るい民族です。まさに清く明るく楽しく生きていこうと初心をもっている民族だと感じます。そこに伝統や歴史が重なり、自然から学び共生し合う美しさや本質を極める精神、そして善きことを実践して精進して徳を積んできたように思います。

私は一体、何を甦生させようとしているのかを思い返すとこの初心を思い出します。

人生の中ではたくさんの手段があり、その手段探しや実現するために日々に追われますが本来は初心を遂げるためにその手段があるだけです。

自分自身がどうあるか。

原点回帰すると、周りに答えはなく自分自身の生き方の中にこそ答えがありその答えをただ真剣に生き切ることで答えを生きることができます。答えは初心なのです。

子どもたちのためにも初心を忘れずに、丁寧に自分自身を生き切っていきたいと思います。

種

人の一生には自然と同様に四季があるといいます。これは吉田松陰の遺書「留魂録」の中であり大河ドラマでも現代語で分かりやすいようにして紹介されました。そこにはこうあります。

「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。ひとにも同じように四季があります。ひとの命とは歳月の長さではない。それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。私は30歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。どうか一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」

これは人の寿命のことです。50歳で亡くなる人、10歳で亡くなる人、90歳で亡くなる人、20歳で亡くなる人がいます。そのどの人にも寿命があり、そこには春夏秋冬という人生のめぐりがあるというのです。

そして松陰は、人生で大切なの寿命の長さでないというのです。例えば、100歳まで生きている人がよくて10歳で亡くなる人はよくないではないというのです。通常は短い人生でと嘆きたくなります。吉田松陰も数え30歳で亡くなっています。しかしその中でも人生の循環があったといい、魂は春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄えることをやったというのです。そして収穫をして次の春の種となったというのです。

これはどういう意味か、それぞれに解釈はあると思います。

私は、もともと魂というものはこの世に身体を借りて顕現しているという見方を持っています。私たちは身体を借りて生活することで様々な体験を通して魂を磨いて光らせていきます。目的があるのではなく、まさにこの四時ノ循環をしている途上ということです。

その中で、一つの実をつけては次の種になっていく。繰り返し何千年も何万年も前から私たちはそのいのちのめぐりの繰り返しを続けて今に存在しています。これは普遍的な事実であり、農に関わる人なら種まきをして収穫をしまた種まきをすることを毎年繰り返しているのがわかります。

この世に生まれ出でてもっとも重要なのはそれを体験して全うすることだと私は思うのです。

しかしその周囲に生きる人は、その人ともっと長く過ごしたかったし別れがとても辛く寂しく感じます。その人が種として未来にまた次の場所で収穫をするのがわかっていても、目の前からいなくなる喪失感は大きいからです。

残されたものはその人の分まで、その人がやりたかったことを継いでいくことでその人と一緒にこの世にいる感覚を得られます。自分自身の与えられた天命や物語が続いているならまだ私たちも四時ノ循環の最中であり途上です。

その種を蒔くのは私たち残されたものです。

その人の分までよりよく生きて、自分も次の種になれますようにと祈りながら歩んでいきたいと思います。心からご冥福をお祈りしています。