学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

根治の道

手塚治虫にブラック・ジャックという漫画があります。天才的な技術力で治らないと見捨てられた患者を次々に奇跡的に治していきます。その代価として莫大な治療費を請求するのですが、それだけ本気かどうかを確認して心の底から直し体を直し生き方を直すような治療法が心を打ちます。

本来、医は仁術という言葉もあるように単に技術や能力があるから助けられるものではなくその人の丸ごとのことを観察し、何が根本的な問題かを見抜き、タイミングと治療法を考えてその人自身が治癒するのをどう助けるかということの中に真心と思いやりが必要になります。病気になるというのは、必ず原因がありますから根治するには荒療治が必要なこともあるように思います。

そのブラック・ジャックの中でとても印象に残っている言葉があります。

一つ目は、「医者は人のからだはなおせても・・・ゆがんだ心の底まではなおせん」という言葉です。治療はしても、根治はできない。心の底は手が出せないということです。これは本人が素直になれないのなら、どれだけ治療を施してもどうにもならないという諦観です。仏陀も「縁なき衆生は度し難し」と言いました。御縁がなければ心まではいかないものかもしれません。

そして二つ目は、「これだけは きみもキモにめいじておきたまえ 医者は 人をなおすんじゃない 人をなおす手伝いをするだけだ なおすのは…本人なんだ 本人の気力なんだぞ!」という言葉です。これはブラックジャックでも助けられなかった師匠が死の床でブラック・ジャックに語り掛ける言葉です。本人の気力と書いて「本気」ですが、本人が本気でなければどんな病も治らないということでしょう。

最後の三つ目は、ブラック・ジャックがメスの製作を頼む職人の方の遺書の一文です。「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」という言葉です。医の道は生き死にとは関係がないと言います。本来の道は、結果に対してあるのではなくその経過においてどれだけ真心を籠めたかに由ります。初心や道を忘れることがない様にという書置きを遺してこの世を去ったのです。

ブラック・ジャックには、人間の心身の病気を治癒するという大きなテーマがあります。自分と同じ苦しみを持つからこそ、同じように苦しんでいる人たちを助けたいと思うからこそ医師になったように思います。今の医者と違い、病気になれば病気だけを直して料金をもらうのではなく本質的に根源から治癒しようとすると今の時代は無免許医になってしまうのかもしれません。

昔の人たちは、医と病を分けていませんでした。

心を素直にして、体を健康にするには、自分の本心と向き合う必要があります。自分の本心を誤魔化し嘘をつき言い訳をすることから病は浸食してきますから、どれだけ素直を磨き、理想に対して日々に高めていくかは生き方と実践に顕れてきます。

子ども達のお手本とまではいかなくても、子ども達が目指す方向を間違えないように自分の間違いを早期に気づいて修正していきたいと思います。禍転じて福にしていけるように、心を素直に謙虚に御縁を尊び学び直しを続けていきたいと思います。

初心を忘れないこと

昨日、「忘」という字についてのことを書きました。人が人生の目的を忘れてしまえば木偶の坊のようになってしまうと江戸しぐさの中でも紹介されていました。この木偶の坊とはあまり今の時代は使われませんが何かといえば、「木偶」は木彫りの人形、または操り人形のことを指し人に操られるだけで、自分では何もできないことから、ぼうっと立っているだけの役立たずの人をたとえていう言葉です。

初心を忘れて自分で考えなくなっている状態は、心が亡くしているという意味です。

ではなぜ初心をなくすかということです。

人は人生の目的というものを誰しも本来は持っています。遠くを慮れば今どうあるべきかということを思い出せるものです。諺に「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。言い換えれば、近くのことを憂うばかりだから遠慮がなくなってくるとも言えます。

あまりにも不安を抱え、心配事ばかりに終始していたら本来何のためにやっているかなど考えなくなっていくものです。人は何かを判断するとき、損得で判断することがあります。自分にメリットがあるかどうかで考えていることがあります。しかし実際は、自分のメリットは誰かのデメリットになりますからいつも自分勝手に判断していたらその陰で辛い思いをしている人や迷惑をかけている人がいたりします。

だからこそ判断基準は、みんなが倖せになるかどうかであったり、周りがよろこんでくださるかどうか といった全体にとって自分が善い存在になろうと判断することで迷惑をかけていることを自覚し感謝を忘れないようにしているものです。

またそうやって決めたことや、自分がどう生きるのかを定めた初心や理念を決めた心のままに維持していくために実践があります。自分が決めたことを自分が忘れたらこれはもう救いようがありません。自分が決めたことだからそれを忘れないようにするのは自分にしかできません。

自分で決めたことを自分が忘れると心が泣いてしまいます。人はそんな時、心を亡くしたことを思い出して涙します。その涙を忘れないようにいつまでも心に決めたままでいることが実践でもあります。実践をするとき、頭では考えられなくても心は安心します。心が安心するのは実践を続けてくれているからです。実践を続けるということは、心が決めたままの自分を自分が維持し続けているということです。

忘れるというのは、単に暗記力が低いということを言うものもありますがあれは頭で終始行われるもののことです。本来の「忘れない」というのは、暗記ではなく心が決めた人生の目的や初心、理念を忘れることがないという意味です。

いくら忘れないでくださいねといったとしても、その人が実践を怠ればすぐに忘れてしまいます。一緒に心を寄り添っていくことの大切さは、「私は忘れていませんよ」といったその人が思い出せるように見守ることです。

自分を低く見て、理想を低くするというのは自分で初心を忘れてしまっているといっても過言ではありません。その人の理想を聴けば誰しも崇高な理念を持っています。その崇高な理念を周りからバカにされようがやり遂げることこそが理念を持つということだと思います。

理念を持ったなら忘れないために実践することだと思います。

吉田松陰に「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」があります。

自分の夢を忘れたり、自分の夢を卑下したり、自分の夢を亡くしていたらせっかくの一度きりの自分の人生を深く味わっていくことができません。一度きりの人生だからこそ、味わい深く悩んで愉しんでいくのが初心の有難さです。

初心を忘れないということは、全ての根本です。

引き続き、実践を増やし高めて継続していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

御気楽極楽~頑張らない~

頭で考えているように完璧にやることとベストを盡すということは異なります。頭で考えてここまでやればいいと思って目指す完璧は先に正解がありそれに近づけようとする努力のことです。そしてベストを盡すというのは、与えられている状況や環境の中でできることを精一杯やるということです。

しかしここに落とし穴があるように思います。

よく「手抜き」というのと「肩の力を抜け」という言葉があります。手抜きというのは手間を省いてしまうことを言います。本来の手間暇を怠りいい加減にやってしまうことを手抜きと言います。それに対して肩の力を抜けというのは、気楽に安心して物事を受け容れ取り組んでいくということです。言い換えれば頑張り過ぎないといも言えます。

これらのことが教えるのは、「頑張る」ということについての本質です。この頑張るという字は、我を張るとも言われます。自分の我を押し通すとき、頑張るというように使われることが多く、よく頑張りますというと無理をしてでも我慢してやりますという使われ方をしているように思います。

しかし本来、自分のやりたかったことをやっているはずが思い通りにいかないことで頑張ろうとし、そのことから無理をしてでもやるという意味になってしまっては頑張ると余計に物事は頑なになり苦しくなる一方です。では「頑張らない」というのは何か、それはありのままを受け容れるという意味ですが実際は目的が達成しなくてもやるだけやってみますという意味に使われています。

これは教育の刷り込みであり、小さい頃から勤勉を教え込まれ無理にやらされてきたり、考えさせずやらされることが沁みつくと「頑張る」という刷り込みにもっていかれてしまうのです。

今の自分をあるがままに受け容れることや、今の状況がもっとも自分に相応しいと受け止めること、そういうポジティブな心の持ち方ができるなら「今此処から学び直していこう」という心境を得ることが出来ます。そしてそうやって少しずつ我を手放すことをやっていくのが頑張らないことになり刷り込みも取り払われます。

頑張るという言葉の中には、もっと我を強くしてやれ、今のままではダメだといったネガティブな意味が潜んでいるように思います。本来、ありのままの自分を受け容れることは自分の長所と欠点を自覚する最上の道です。その上でどのように欠点を補い、どのように長所を伸ばすか、自分本来の持ち味に気づきそれを活かそうとすることではじめて人は本質的に人事を盡していくことができます。

単に勤勉に頑張れば人事を盡しているのではなく、今やっていることのすべては本来自分がやりたかったことだと初心を思い出し自分の天命を信じて今に集中して”お気楽極楽”に実践していくことができるならその人は本質的に人事を盡していると言えると思います。

もちろん大事な局面では「踏ん張る」必要があるときもありますが、決して「頑張る」必要はないように思います。老子に、「柔弱は剛強に克つ」という言葉があります。しなやかで嫋やかな生き方が、堅強で頑固な生き方を凌駕するという意味でしょう。

自然界も同じように、頑張らず受け容れてきたから悠久の年月変化を已まずに生き残り続けることができたように思います。今の自分を信じることは、今までの自分、これからの自分、そして世間様、自然界、全てを見守る存在として信じようとすることです。

今の自分が最も今に相応しいからこそ、今起きる出来事は訪れます。そしてその出来事を一つ一つ感謝でお受けして学び直していくことで人はその人らしく成長していくように思います。自分の決めた道だからこそ与えられた道を選ばないで歩んでいくことができるならその人は素直であり謙虚になっていると言えます。

無理をするのではなく、御気楽になることが何よりも信じるチカラを得て最終的な目的を果たす持続力になっていくと思います。まずは自分自身をお手本になるように日々のブログも、日々の実践もまた、御気楽に愉しんで味わい盡していきたいと思います。

理念と試練

人は誰しも新しいことに挑戦をすると決めれば同時に試練というものが訪れるものです。この試練とは何かといえば、成長するということです。今のままではなく、理想に近づこうとするならば当然そこには試練が待ち受けています。その試練に立ち向かい、それを乗り越えるときその人は成長したと言えると思います。

しかしその試練を避けては、試練からいつも逃げていたら成長が止まってしまいます。本来、目指している理想や理念があるのならそれに向かって片時も休まずに足を前に出して歩んで往く必要があります。自分の与えられた場所で人はそれぞれに試練がありますから、その試練を乗り越えて新たな自分に出会い続けていくのが人生の醍醐味のようにも思います。

理念というものは、その人が守りたい理想、または本質、言い換えれば志魂の声とも言えます。それを発してそれを信じるという実践は、常に物事が発生したときに判断基準や優先順位を理念に合わせて自分が守ると決めることになります。それを決めると決心したときからすでに試練ははじまっており、様々な出来事が発生したとしてもその時こそ「自分が試されている」とし、今まで安易に避けてきたものと向き合い、そこに自らで立ち向かい乗り越える勇気が必要になります。

この勇気は、信じるチカラのことであり試練を成長の善き機会機縁と捉えてピンチをチャンスにして福にしていく燃料になります。

気持ちがネガティブの時は、問題が起きるのを嫌がるものです。しかし気持ちがポジティブに転じていれば、問題が起きていることは自然治癒がはじまっているのかもしれないとし、いよいよ成長に転じているのだと信じて試練にじっと耐え忍び実践を積み重ねていけば時が次第に解決してその分、自分自身の信念もまた鍛えられていくように思います。

かのインド独立の父である、マハトマ・ガンジーにこういう言葉が遺っています。

「不幸は私たちに与えられた試練である。この試練を乗り越えたとき、すべてはきっと好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。耐え抜いたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。」

理念を発信するということは、それだけ世の中や自分の心に対して正直で居続けるということです。外側で様々な現象が発生したとしても、内側では不動の如く理念を守り続けるという強い意志と心の精進の継続が必要です。しかしそれは決して不幸なことではなく、有難い試練をいただいているとし、「きっと善いことになる兆しだ」と「天命を信じ人事を盡す」と転じていければ視野も広がり感謝の心で歩ませていただけるのかもしれません。

そんな試練の時、人間は寄り添って見守ってくれる存在があることで私たちはその燃料とも言える「勇気」を与えられます。見守るを学び直し実践するというのは、須らくこの理念と試練の中にこそあるのかもしれません。

見守り見守られる間に在る美しい魂の邂逅を味わっていきたいと思います。

王道~美しい魂~

「王道」という言葉があります。これは孟子が「徳を以て仁を行う者は王たらん」すなわち仁義の徳が善政となって流露するのが王道であると説いたことが有名です。言い換えれば、この王道とは原理原則のことであり、人としての道、大義のことです。

色々なリーダーはいますが、本物のリーダーとは時代、場所、国家、様々な違いや異なりなどもすべては関係がなくこの原理原則を実践するものこそがリーダーの本質とも言えます。

色々なリーダー論があり考え方も無数にありますが、その大本にある真の根本はこの王道のことです。この王道が実践できてはじめてリーダーはリーダーと呼べるものです。刷り込まれ本質もわからず、枝葉末節の派手な理論や仕組みにいくら長けて世の中の流行にのったとしても、この原理原則や王道を知らないし、やらないのではそんなリーダーは本来の意味でのリーダーではないと私は思います。能力がある人ばかりがもしもリーダーになってしまったらこの世から王道が薄れていくばかりです。

しかし古今、世の中には様々なことをいう人がいますが粛々と大義を実践している人は本当にごくわずかですが存在します。そういう大義の本質を学び直して、克己復礼し、仁に帰す人があるからこそこの世に王道が消えることはありません。

そういう日本のリーダーの一人に稲盛和夫さんがいます。生き方や働き方をはじめ、本来の人生の歩み方を様々な著書で紹介しています。今の時代は、粛々と実践して長い時間をかけて積み重ねて磨き上げて道を歩もうとするよりも簡単便利にエスカレーターやエレベーターに乗り込もうとする人たちばかりになっています。そういう時に、改めて自分の足で歩くことの大切さを後ろ姿で見せてくれる人がいることは本当に有難いことのように思います。そういう人物をどれだけ発掘して見直し、この世に輩出していくか、それがこの国の未来の姿であり教育の要であろうと思います。

稲盛和夫さんは西郷隆盛の座右「敬天愛人」を京セラの社是にしており、常に社員は原理原則に沿って王道を往くことを何よりも重んじる経営をしておられました。稲盛和夫さんの著書「人生の王道」(日経BP社)中に王道とは何かについて書かれている文章にとても共感するので紹介します。

『一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。それは、「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の先祖がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも、自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。

私は、心のあり方、考え方が、人生においていかに大切かということを、社員によく理解してもらいたいがために、次のような「人生の方程式」というものを考えました。(人生・仕事の結果 = 考え方 × 熱意 × 能力)

そして、何よりも大切なのが考え方です。考え方とは人が生きる姿勢であり、哲学、思想、信念、あるいは人間の志、心がけといってもよいでしょう。』

ここで何より大事なのは「心がけ」だと言います。考え方こそが生きる姿勢であるから、その考え方が原理原則、つまり王道に則っているかというのが自然体の人生において中心であるということを言います。考え方が間違い心がけを忘れると、どんなに熱意と能力があってもそれは成就しないということです。

なぜならそもそもの「考え方」が、邪道や覇道になり徳というものの姿を見失うならば人の道から外れますから自然の摂理や王道そのものから離れてしまいます。それは大きな目で観て地球が常に回転し廻るように、そして土や火、水がとけ合い循環する様に、御縁や出会いの繋がりによって自然が生成するように、本来の原理原則は悠久の時を永遠の調和のままに道を歩み続けている存在です。そこの中にあって生き活かされる私たち人間だからこそ本来の姿から目を離さず、王道の実践をもって歩みを已まない生き方と働き方を一致させていくことが「本来の人の道」、つまりリーダーのリーダーたる由縁なのでしょう。

そして文章ではこう締めくくられます。

『人生の目的とは、お金儲けや立身出世など、いわゆる成功を収めることではなく、美しい魂をつくることにあり、人生とはそのように魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所なのだと私は思うのです』

・・・自らを磨き美しい魂をつくること。

美しい魂とは、生き方から出てくる王道の中にある原理原則の鑑です。

子ども達にどんな背中をみせていきたいか、それはこの美しい魂の中に存在します。王道を思う時、私たちの祖神、天照大神の八咫鏡のことを思い出しました。引き続き王道を志し、日々に精進していきたいと思います。

生き方を換える

人はそれぞれに生き方といった自分の習慣を持っています。今までどんな生き方をしてきたかがその人の生き様ですが、その生き様が働き方や生活の仕方、思考、行動のあらゆるものを決めているとも言えます。

自分がどのように行動するか、いわばそれは日々の行動パターンや思考パターンなどが習慣になりそれが生き方になっているということです。その習慣が身に付いてしまうと、自分の習慣に従って人生もつくられていくものです。

人生には、前進か後退しかなく中間はないという言葉があります。地球が廻るように日々は循環していますから止まれば下がり、歩めば進むだけですから確かにじっとしていることは後退になります。自分の生き方も同じで、そのままにしていたらそのうち時代に合わなくなったり周りの環境に順応しなくなっていくものです。

また場合によってはいつも悪循環になる人と、好循環になる人がいますがこれも生き方の癖、習慣が決めているとも言えます。例えば、何でも先延ばしにしたり、言い訳をしたり、迷ってばかりいたり、周りの目を気にしたり、比較や正解探し、自分の都合ばかりを優先したり我儘だったりする生き方は悪循環になることが多く、そのことから不自然なことの揺り戻しで苦労することがあります。そういう自分の悪循環の流れを断ち切るには、今までの習慣、生活習慣を変えていくしかありません。自分の生活習慣が変われば意識が変わり、意識が変われば人生が変わっていくからです。

基本的生活習慣を変えるというのは、今まで早起きできない人が早起きして朝練をしたり、遅刻ばかりする人が時間を厳守できるようにしたり、食べ過ぎを腹八分目で止めるようにしたりと、ちょっとした変化ですがこの生活習慣が変わることでその人の人生の癖もまた変化し生き方が変わっていきます。

生き方が変われば自ずから働き方も変わりますし、逆に働き方から変えていくことで生き方を変えることができるものです。それを分けて考えて、生き方はそのままでも仕事だけはなんとかやり過ごそうと思ってもその人の習慣が変わっているわけではありませんからその癖によってまた仕事にも影響が出てしまうものです。

人生は生き方と働き方の両輪をどう実践によって一致させていくか、それは人生そのものを本来の目指す理想や本来の目的といっ初心に近づけるために必要なことです。理想や初心がないのなら、習慣を変えてまで自分を変えようとはしなくてもいいのですが、今までの生き方がその理想や初心に反する習慣を身に着けてしまっているのならばそれを新たな習慣で上書きしていくしかありません。

習慣は第二の天性とも言いますが、習慣が変わらないのに自分の生き方や働き方、考え方や行動の仕方が変わっていくことはありません。習慣を変えるというのは、自分の生き方を見つめる一つのバロメーターです。習慣を変えることを恐れる人は、今までの生き方を変えることを恐れる人です。

変わろうと決めることがあったなら、それを実践に換えて粛々と習慣になるまで継続したものだけが新しい人生を手に入れるのかもしれません。習慣と向き合うには、自分のパターンを分析しそのパターンを見つめそのパターンを変えてみると今までとは異なった感覚に出会います。その異なった感覚を持ち続けてそれが普通になるまで遣りきることができればその人は変わります。違和感があるうちは、まだ受け容れていない証拠ですから当たり前になるまで実践できるかどうかが生き方を変えるキーポイントなのでしょう。

周りが合わせてくれないと嘆く前に、自分が実践により生き方を変えたどうかを見つめることが自分を変えて世界を変えていく方法なのかもしれません。子ども達のためにも、悪循環を改善し好循環になるような新たな実践と習慣に取り組んでいきたいと思います。