個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。

 

自分の磨き方~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~

昨日、臥竜塾の塾頭に依頼され高杉晋作の生き様についての談義を一緒に行う機会をいただきました。思えば開塾の時に、草莽崛起と記帳した本の言葉の御縁から繋がっていることを感じ有難い気持ちになりました。

何年もかけて人が成長していく様子や、塾生たちが実力を備えていく姿を拝見することは御互いの学んだ期間を確認することにもなり改めて初心に帰る貴重な時間になりました。

高杉晋作についての印象は風雲児というイメージがほとんどです。しかしその日記を紐解き読み込んでいくと、親を思う親孝行の心境や吉田松陰先生を慕い一所懸命に先生の遺訓を守ろうという誠実な姿が観えてきます。また大義を優先し自分のことなど度外視してでも純粋に道を探究し学を深め実践を愉しんでいる子どものような姿もまた観えてきます。

その時代時代に、死生観を持ち必死に生きた人は学問が成熟しています。高杉晋作は『少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。』とあります。論語にある「古之学者為己、今之学者為人」にあるように、死生観を持つ志士の学問は世間から有名になり評価されるためにするものではなく唯一人自分自身の人格を練り上げるためにあるのでしょう。

本来の学問は道ですから、最初から高杉晋作は道を求め続けていたのでしょう。それが吉田松陰との同行した約1年の薫風により花開いていくのです。本気の師弟関係というものは、その真心に決した覚悟があってのものです。今のように知識をただ教えるための偽りの師弟関係ではなく、その道と志が同じくしてこそ本物の師弟ではないかと私は思います。

吉田松陰は「師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」と言います。

直言直行、必ず実行せよと弟子たちに語りかけるのは即ち本物の師弟の道、つまりは本物の学問を指導しようとしたからに他なりません。このような本気の情熱で語り掛けるなら、その弟子たちの志は養分を得て大きく開花していくように思います。人と人の一期一会の御縁というものは、まるで道中にある大義という糸を通して紡ぎ合っていく一反の織物のようです。

最後に、私が高杉晋作の日記の中で深く共感する一文があります。それは野山獄「先生を慕うてようやく野山獄」と書いた獄中日記の中にあります。

自叙(甲子四月、西海一狂生東行、野山獄北局第二舎南窓の下に題)

「予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い、茫然として黙坐し、身を省み心を責む。すでにしておもえらく我れすでに獄に下る。死測るべからず、何ぞ身を省み、心を責むるを用いん。ただ、槁木死灰死を待つのみ。一日、自ら悟りて日く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。これ、聖賢の道、何ぞ區々たる禪僧の所為を傚わん。よって書を獄吏に借り、かつ読み、かつ感ず。或いは涕涙衣を沾し、或いは慷慨腕を扼す。感じ去り、感じ来り、窮極あるなし。乃槁木死灰に向くは人道に非ざるを知る。しこうして朝に聞き夕べに死すは眞楽量るなしとす。心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。これ文、やむをえざる所以を記すなり。」

どんな時であっても人の道は、生死は度外視しても道を学び続けることであるという魂の言葉。つまり朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりという本物の学問を師と一緒に歩んでいたのだろうと感じ、そこには孔子や老子、仏陀もかつては学んだ境地に達しているように感じます。

こういう言葉を実践と内省に由って日々に高め、体験の中で自らを磨き貫いていた高杉晋作の日記の数々には今でも魂が揺さぶられる思いがします。どんなことがあっても龍になると決めた生き方と生き様からもう一度、”自分の磨き方”を見直していきたいと思います。

御縁と機会に深く感謝しています。少し熱が入り過ぎましたが、志士との語り合いはどんなときにも愉しいものです。その場の中に、見守られている有難さを改めて実感しました。

ありがとうございました。

 

信なくば立たず

藩政改革の手本として今でもひときわ異彩を放っているものに『日暮硯』があります。これは真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親(おんだもくたみちか)の事績を説話風に記したものです。

二宮尊徳の改革の中にも、この恩田木工の実践が参考になっているのではないかと思うところが所々にありました。理念を仁に据え、「信なくば立たず」を何よりも優先した誠実で思いやりのある政治をして松代藩とその人々の心を豊かにした人物です。

最初にこの日暮硯で印象的なのが、恩田木工が「一切の嘘をつかない」と全ての民に約束をすることです。混迷の時代、領地内の人々の心が荒廃している状況において心が荒廃するその元の理由をまずはじめに断ちます。そしてそれは単なる宣言ではなく、対話によって有言実行されていきます。最初から疑心暗鬼であった人々に対して、誠心誠意、本心から伝え、それを一つ一つ対話によって解決していきます。

対話による解決ですから長い時間をかけて、徹底して少しずつ丁寧に進めていきます。その一つ一つの信が立って大きくなっていくにつれ藩政改革は実現していきます。

どんな人にも思いやりを向け、役人たちが過去に賄賂で問題を起こしていてもその人たちを自分が引き受け、善い人間として活かせるように指導していきます。恩田木工はその際こう言います。「人というものはよき人が使えばよくなるものでござります。悪い人が使えば悪くなるものでござります。」と。まるで曲がった板の上に真っ直ぐな板を乗せればそのうち真っ直ぐになるというように、あまり曲がっているかどうかを問題視していません。名前に大工とありますがまさに「立(建)てる」ということに関して心にまで精通している方だったのではないかと私は思います。

心の荒廃は、心を直すところからはじまります。何が人々の心を荒廃するのか、政治に関わる人たちはまずそのことを理解する必要があるように思います。どんな小さな組織であってもそこには政治が発生します。だからこそ組織のリーダーは仁政がどのようなものであるかを自覚し、その実践がどのようなものであったかを歴史から学び直す必要があるように思います。

結局は今の日本の借金体制や、ギリシャをはじめ世界の財政難において、今のように心が次第に荒廃し混迷を深める政治や社会情勢の中で、再び二宮尊徳や恩田木工、上杉鷹山、といった思いやりの政治を実現する改革者が必要になってくると私は思います。歴史を学び、もう一度、これからの時代の在り方を示して発信していきたいと思います。

最後にこの恩田木工が亡くなった時に、ある藩士が日記に綴った文章を紹介して終わりたいと思います。

「恩田木工民親殿急逝。この人君子なり。上を敬い、下を恵む。仁徳ふかかりければ、一人もこの人をいただかざるものなし。刻苦勉励す。元日に倒れ、その報、一日にして全土に渡る。人々、日待などして、本復を祈る。本日ついに際まれり。誰も力を失ないて、誰言うともなく、松飾り取り入れ、歌舞音曲やむ。かつて物語で知るも、眼前かように人の慕うを見るとは・・・」と。

思いやり信を立てた生き方の先人の事績は、後世の私たちにまで余韻が香ります。感謝のままに実践を学び直していきたいと思います。

いのちのままに

昨日から鞍馬山に来ています。

不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。

昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。

私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。

いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。

当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。

常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。

自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。

いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。

自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。

だから自然は私たちの先生です。

先生はだからみんな丸ごとで先生です

本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。

 

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。

 

 

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。