美化~善いところ探し~

人は物事の捉え方で物事の観え方を変える生き物です。

自分がどのように観るかで対象となるものの見え方が変わってくるからです。私たちは物事を観るとき、足りない方を見るか、足りている方を見るかでその見方が異なります。以前、「コップの水の話」を聴いたことがりますがこれはコップに半分水が入っているとして半分しかないと思うか、半分もあると思うか、もしくは水があって有難いと思うかという物の捉え方の話に似ています。

同じ物を視るのなら「美化」した方がいいと思うのですが、実際には減点法で足りていない方ばかりに目を向けては自分のことも美化できずに苦しんでしまうのです。「美化」を辞書でひくと、「美しくすること、美しく変えること」とあります。自分自身を美化するというのは、自分の善いところを探し、自分の善いところを認めるという努力のことです。

以前、「美化」という言葉を知るとき斎藤ひとりさんが「幸せのデコレーション」というたとえ話をしていたのを聴いたことがあります。これはケーキのデコレーションのように、そのケーキをどう飾ってあげるかで幸せが何倍にもなるという話です。とても素晴らしいたとえ話だと感動したことを覚えています。

そもそも美化するというのは、「善いところを観る」という実践です。そのものの持っている持ち味を見つけたり、そのものを尊敬して徳性を発見したりするものです。

人のいいところを探して褒める人は、それだけで人を美化してその人の優れたところを引き出していきます。よく褒めて育てると言いますが、言い換えればその人を美化して育てているということです。善いところを見つけられるのは、自分の善いところを認めているからです。自分の悪いところばかりみてしまうのは、自分に対しても人に対しても減点法で足りないところばかりを探してしまうからです。

「成功する人くさる人(寺田本家23代目当主寺田啓佐)KKロングセラーズ」の中で美化に関してこういう一文が紹介されています。

「美化って、やっているうちに楽しくなって、意識しなくても、自然と美化できるようになるんだね。ただ、今まで美化をしてこなかった人だと、やりはじめの頃は『自分は、まだ相手の欠点ばかり探しちゃうんだ』とか、『自分はまだ人を冷静に判断して、正しいことしかいえないのか』とか、思ってしまうことがあるの。そんなときは、『美化してこなかった自分が美化を心がけようとしている。成長したじゃないか』とか、自分で自分を美化してね。自分を美化することも大事だよ。できない自分で美化すれば、人一人救ったことになる。なおかつ、たいがいのことは美化できるようになるからね」

最初はなかなか美化できず、悪いところばかりを探してしまうけれどそのうちに人の善いところを観ようとしているうちに自分が変わっていくものです。その間も、自分は善いところを探そう、自分はもっと人を認めていこうと努力しているのだから、以前の自分よりも成長しているじゃないかと自分を褒めていくことが美化そのものになっているということです。

競争社会の中で、様々な人から足りないところばかりを指摘され、標準で平均、常に誰かの評価が入って点数をつけられてきたトラウマはそう簡単には拭いされません。しかし善いところを探そう、美化していこうとすることで自他は認められ自他のいのちはより一層光り輝いていくように思います。

素直になりたい、謙虚になりたいと思っても、その初段になるのも一生かかるものです。子ども達のためにも、足るを知り、善いところを認めるところから精進を続けていきたいと思います。

 

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

徳を尊ぶ

人間に限らず、全ての生き物には何かしらの長所があります。生命というものはそれぞれに自分の得意を伸ばして生き延びてきたとも言えます。自分の得意分野を伸ばしていけばそれが自分が生きていく上での最良の戦略となるのです。

しかし同時に良いだけかといえば、そこには不得意も発生します。その不得意が出ることを気にしていたら何かをするたびに気になって得意を伸ばすことができなくなります。それに自分は得意のそれしかないと覚悟を決めている人であれば諦めもつくのでしょうが他にも得意がいくつもあると思っているから色々と不得意が気になるのでしょう。

老子に「その長ずる所を尊び、その短なる所を忘る。」があります。

この不得意であることを忘れてしまうという言葉はとても意味があるように思います。また、その得意であることを尊ぶということにも重要な観点があるように思います。

自分が天から与えていただいた徳はこれであったとそれをどれだけ自分が尊重しているか、そしてそれが何よりも尊いからこそ他のことを忘れることができるか。そこに本来の強みを活かし自分を役立てる工夫があるように思います。

何でも得意になっているうちに得意がなくなったり、不得意をなくそうと努力しているうちに得意がなくなったでは本末転倒です。得意を見極めるためには、周りの得意を観続ける実践が必要です。そして同時に周りの長所を尊ぶ実力も必要のように思います。

老子の「足るを知る」も同じく、ないものねだりはやめてあるものを如何に活かすかが徳を伸ばし自分を役立てる真髄なのかもしれません。自分の都合が入れば入るほどに短所を視たり、悪いところに見えたりしていきますが本来のあるがままのそれぞれの徳性を重んじていけるような自然体な内観力を磨いていきたいと思います。

 

自分に正直~自他信頼の境地~

先日、自分との信頼関係の築き方が他人との信頼関係の築き方であるという話をお聴きする機会がありました。つまりは自己信頼=他己信頼といことなのでしょう。これを少し深めてみたいと思います。

たとえば、「他人のせいにする」という生き方があります。これは何かの事物があったとき、すぐに環境のせいとか、誰かのせいとか、忙しさのせいにします。これは幼少期から沁み付いてしまうもので、叱られて嘘をついたり上手くいかないときに言い訳をしたりしているうちに次第に甘えが入り自己形成に沁み付いてしまうのかもしれません。そしてこの「他人のせいにする」に落とし穴があるのは、他人のせいにはしないと自分で思っている人でも「自分のせいにする」ということも「自他のせい」は変わりませんから結局は同じ甘えに陥ってしまうことです。

自分への甘えが入ってくると斜めに物事をみてしまい、何を直せばいいかが分からなくなります。素直になれないと物事の実相は正しく顕れず、そのことから迷い惑い自分を見失ってしまいます。そういう時は一度立ち止まって、自分は今、正直かどうか、誰のせいにもしていないかと自分を見つめ直す必要があるように思います。

この「自分に正直」というのは、誰のせいにもしないということでありそれはお互い様なのだからお互いに素直に実践を積み重ねましょうという境地です。そして自分に正直であるというのは自己信頼にとって何よりも影響を与えます。自分というものをどれだけ丸ごと認め、自分を信じて実践を続けるか、そこには心が決めた覚悟に対してその自分の努力を肯定しています。誰のせいにもしないというのは、自分が甘えなければいいということであり、直すのは自分自身であると常に自己発奮し自助努力する心の態度を優先するということです。

人は誰もが目標に挑む際には、みんなそれぞれに足りない中でも必死に努力しているものです。そういう仲間や師友にめぐり会えることは稀ですがもしも得ているのならみんな自他一体の克己の勝負をそれぞれに続けているものです。誰かのどうこうではなく、自分はどうありたいかということを何よりも重んじ、自分がそうなっていくことに余念なく精進します。これが道であり、道は自分の足で歩むからこそ前進している実感があるのです。

自分の思い通りにいかないことを他人のせいにしたくはなりますが、しかし思い通りにいかないからこそ思った以上のご縁に出会える。そしてそこにはやはり自分を甘やかさない自己信頼があって同じように他人に対しても甘やかさない他己信頼があるように思います。ご縁に気づく感性というものも、この自分に正直である人でなければなかなか磨かれないように私は思います。

つまりは「自分に正直」であることこそが、何よりも「自他信頼の境地」でありそれは天に対しても誠であるという真心の実践者のことです。まさに孟子にある「仰いで天に愧じず、俯して人にはじざるは二の楽しみなり。」の嘘のない楽しい人生道場です。

自分の決めた自分の在り方に対して嘘をついたり誤魔化したり言い訳したりしないでいいように、初心で決めた実践を感謝で愉しみつつ、日々を精進していきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。