かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

運の善さ~早起きは三文の徳~

人は運の善さというものがあるように思います。

いつも運が善い人と運が悪いと言っている人がいますが、これはその人の生き方のことを言っているように思います。運が善い人というものは、信仰心が高い人とも言えます。自分が何か偉大な存在に見守られ歩ませていただけていることに感謝の心を持っているということです。

自分のことが信じられるというのは、見守られていると実感することです。そしてそれは見守ってくださっているから安心して前進するということでもあります。

昔から早起きは三文の徳ということわざがあります。

これは早起きをすると何かしら善いことがあるという意味ですが、これは信仰心がそうさせるのではないかと今では確信します。早く起きるのは、御蔭様に気づくからです。そしてそういう見守りの存在に気づいているから早く目覚めその感謝の心のままに動いてみようと思うのです。

感覚的ですが人は結果が視えていれば動くというタイプと、結果が視えていなくても信じているから動くというタイプがあります。前者は運が悪いと言っている人が多く、後者はいつも運が善いと言っている人が多いように思います。

これも運が善いというのは、「きっと善いことがある、きっと善いことになる」と信じているからいつも運が味方するのでしょう。そうやって善いことがあり善いことになると信じているから朝早起きして動くことができるのです。

畢竟、運の善さというのは信仰心、運に包まれている仕合せを信じて歩んで往こうとする生き方が習慣になっているのです。つまり運とは、「活かされている」という存在に目覚めているということです。活かされている存在の自覚こそ信仰心であり運の善さということです。

私にとっては南無阿弥陀仏もアーメンも、同意義として「おはようございます、おかげさまです、ありがとうございます」のあいさつの中にすべて入っています。そしてまずその最初の実践は、「お早うございます」に他なりません。

早起きとは信の実践そのものであり、運を信じていますという合図なのです。

夏期実践休暇にての報告をまとめていますが、今年も偉大な存在の導きと、そして偉大な存在の見守りの中で自己の気づきと目覚めをいただきました。心を澄ませて、心新たにまた挑戦させていただく有難い日々を精進していきたいと思います。

 

 

心掛けという実学~学びの実践~

人間に限らず、自然界にある全てのいのちは御互いから学び合って成長していく生き物です。

周りを見ては周りの生き方を見習い、周りのもので善いと思えるものを自分に取り入れて吸収していく力があるように思います。自然は素直ですから、御互いが自分の特性を伸ばし、その特性をより活かすことに憚ることがありません。

しかし人間は、自分が正しいという価値観を持つことで善いところを吸収する力が衰えてくるように思います。人のいうことを素直に聴けなくなるのも、自分が思い込んでしまっている正しいという狭い視野と価値観に囚われてしまっているからです。

「人皆我師」という格言があります。

これは全てが師、つまりは自分が他人の話を素直に聴けるかということですが、実際はほとんどが聴き洩らしているもので聴いているようで何も聞いていないということが多々あるのです。それは相手の心や思いやりを感じようとはせずに、自分を優先しようとする我が邪魔をするからです。

人の忠告や注意を聴かない心というのは、頭で分かっているからそれは知っているから言われたくないなどと思うのでしょう。しかしそれを言って下さる方が、どんな思いで伝えてくださっているか、どんなに真心で心配してくれているかを思わないのではあまりにも自分勝手で独りよがりになってしまうのです。

そんな態度では何も学べず、そして一度そうなってしまうと、学びというものは単に自分だけのちっぽけな世界で学んだ気になっているだけで本来の自分を変革するような学びに到達することはありません。学が実学にはならないという意味です。

基本の姿勢が相手の仰っていることを相手の真心で受け止めてそのまま味わう素直な心を持つ必要があるように思います。

相手の言って下さることを本当に聴いているかは、言われたことをただやればいい意味ではなく、言われたことを言って下さる人の心を遣ればいいということなのです。

頭でっかちになってしまい心を優先しないような生き方をしていたら道場に居ても道場に居ず、実践しているようで実践していないということになりかねないのです。

心を入れるというのは、全ての基本ですがそれは心がけを決めるということです。それは論語の「己に克ち礼に復る」ということに尽きるということかもしれません。

もう一つの格言、「人のふり見てわがふり直せ」があります。

常に自分自身の姿勢を省みて、教えてくださっている真理をひとつひとつ丹誠を籠めてものにしていくときに相手への感謝が示せると思います。感謝も頭ですることではありませんから、感謝するのなら変わってみせていくのが本質的に感謝ができたということなのでしょう。

心を鍛えていくというのは、心がけを優先するということでしょうから実践を丁寧に積み上げていくことしかありません。まだまだ自分も礼に欠けるところが多く、本当に反省することばかりです。

日々の心掛けを積み上げられられることに学びを実らせ歩んでいきたいと思います。

日記伝~真心の伝承~

二宮金次郎正伝(モラロジー研究所)という著書がある。これは二宮尊徳の子孫で総本家の現当主が金次郎の人生の軌跡を再現したものです。

もともと二宮尊徳は死期に及んで「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と日記に書き記しています。

実際の人生は、周りが解説したり政府が勝手に解釈したものを編纂したりしたもので理解できるものではなく、金次郎の日記にこそ真実が書かれているということでしょう。同じことを論語、大学を記した曽子が臨終の際に弟子に語ったのがこの「予が足を啓(ひら)け、予が手(て)を啓け。詩に云う、戦々兢々として深淵に臨 むが如く、薄氷を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後、吾免(まぬか)るるかな、小子(しょうし)。」があります。

どれだけ必死に道を守り通してきたか、どれだけ真摯に信念を握り続けてきたか、その軌跡に実感するのです。どの時代であっても、理想の政治が誰にしろ受け容れられるわけではなくギリギリの状態で取り組んできたのがわかります。

君子もとより窮すと論語にもありますが、そもそも苦しい状況の中を歩んできたのです、死してのち已むという心境はようやくここまでで尽きるといった道の厳しさを説いているようです。歩んできた人にしか分からない境地がそこにはありますし、それは道を歩み切った方々が臨終が近づくについて実感できる境地なのかもしれません。

人は必ず死を迎える日が来ますから、それまでどのように生きたかというのは死に顕われるものなのでしょう。後世の人が改ざんしていいところ取りをしていきますが、本来、手に取るべきものはその人の日記にこそあるのかもしれません。

以前、慈覚大師円仁の日記を拝読し感銘を受けた時も同じ感覚でしたし、高杉晋作の日記の時も同じでした。実際に周りが評価している人物像とはかけ離れたものがその日記にはあり、道を歩んだ人の心に近づくには日記を読み解くことが大事なのでしょう。

その二宮金次郎正伝の中に素晴らしい言葉と出会いました。

「本来君ありてのちに民あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのちに沼あるにあらず、沼ありてのちに始めて蓮生じるものなり。」

意訳ですが(本来は君主があってから民衆があるのではない、民衆があってのちに君主がおこってくる。蓮があってから沼があるのではなく、沼があるからこそはじめて蓮が生まれてくるのだ。)という意味です。

本来は組織も同じく、スタッフの方々があってこそリーダーはおきます。リーダーさえいえばスタッフがあるわけではありません。同じく民衆があってこそ政治があり、政治があるのは民衆の安寧が先だということです。

あの藩政を優先して一部の方々が利益を独占していく時代に、孔子と同じく理想の政治を説き、そし具体的に荒廃を癒し復興改革する心田開発の技術を持ち、私達に一円融合する生き方を示してくれた聖人、それが二宮尊徳です。

私たちは今、世界を含めて大変危険な状況に陥っています。世界人口増加、貧富の差の拡大、消費が生産を上まわり、生きものたちの絶滅速度は急激に広がっています。このままでは、欲があらゆるものを呑み込み止められなくなってしまうかもしれません。文明が崩壊していくとき、いつも同じことで乗り越えられずまた同じことを繰り返してしまいます。

同じことが起きるのは今度こそはという人類の文明実験であるのは論より証拠です。その今度こそに二宮尊徳の思想と技術は私たちが子孫繁栄するための要になると私は信じています。

最後に尊徳の言葉で締めくくります。

「天つ日の 恵み積み置く 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」

天地自然の恵みは無尽蔵なのだからそれを掘り出すのも刈り取るのも自分次第なのでしょう。日記が続いていることを忘れずに、心の希望を勇気に換えて、その徳の無尽蔵を自らが掘り起こし、取り出して子どもたちや多くの方々にその真心を伝承していきたいと思います。

顕彰の証

陰ながら善行を積み上げてくことを陰徳といいます。

顕彰という言葉がありますが、あれはその人の陰ながらの功績や善行、真心を忘れないという意味で使われます。彰という字は、明らかになるという字で、同じく顕という字もはっきりと明らかになるという意味です。

これは何が明らかになるのかといえば、目には見えないけれど偉大な恩徳が明らかになっているという意味です。

吉田松陰は、自分が正しいと信じて実地実行するのならば誰が分かってもらえなくても後の世に同じ聖人の道を志すものたちがいつかは自分のことを分かってくれるから気にせずに突き進めと弟子たちや自分を叱咤し善行を積むことを優先した人物でした。

それは留魂録にも、生死を度外視というものの中に確かな徳を積むことの価値を述べています。そしてそれはやはり死して彰かになっているものであり、後の世の志士たちに顕かにされていくのです。

表彰というものは、その陰徳を顕かにしていくものです。

その人が自分が信じた正しい道を踏み固めるとき、誰がわかってくれなくてもどんなに評価してもらえなくても、それを観ているものがあることを全体に伝えること。決して目立たなくても、決して覚えてもらえなくても、その人が積み上げたことが後の世に偉大な功績を遺したことをはっきりと明らかにすることが社會をよりよくしていくことにもなるのです。

今の時代は、表彰というとすぐに人を操作したりとか動かすためにとかいいます。しかし本来はそういうものではありません。

祖先や古人たちは、善いことがいつも観えていました。心が澄み善行や陰徳を常に観える目がありました。だから人が陰ながらやっているのを察して讃えて、常にそういうものを見つけよう、そういうものを育てて守っていこうとする真心や思いやりがありました。

今ではそういう陰徳を観ようとはせずに、見た目や結果がよかったものだけを褒め称え、その陰で目立たずに地味に世の中のことを憂い、平和な社會のためにと徳を積む人たちに気づかなくなってきました。

昔、「木を植える男」という絵本を読んだことがあります。その絵本にはある荒れ果てた村を、一人の男が生涯を懸けてどんぐりの種を植え続けて後世にその村が豊かな森林や水に溢れ、たくさんの家族が移り住み幸せに平和に暮らす村になった話です。

あの絵本にも、表彰や顕彰という意味が籠められています。

そういうことを忘れてしまう組織や社會というものの中に欲や悪行を蔓延らせる何かが潜んでいる気が私にはします。

これから考えようとしてしている私たちの顕彰の仕組みは、子どもたちにそういう陰徳を忘れてほしくないという祈りと願い、そしてそういうものを私たち大人が何よりも大切にしていきたいという覚悟です。

出会いはいつも私に有難い贈り物をいただけます、ご縁こそが御蔭様でありそれが顕彰の証ですからしっかりと受け止めていきたいと思います。

社會徳

ここ数日、社會に関することを書いていますがそもそも社會をつくる仕事とはどういうことかということを掘り下げてみます。

そもそも社會というのは、人間が一人以上存在する中で成り立つものです。もし無人島に一人で生活するのなら、別にそこに社會は必要ではありません。当然、生きていくためには人間以外の生き物たちといきていきますから広義でいえばそこにも社會はあるとしますが今回は人間社會ということにします。

つまり人間が一人以上になれば社會を形成しますから、社會を形成するというのは人格を形成するということです。人格を形成する必要があるのは、そこに道徳がなければお互いを尊重し合うことができなくなるからです。道徳とは自然の一部である自覚のことです。

先ほどの無人島であっても、人間がもしも道徳から外れるならば島にあるものを全て殺傷し搾取し、あっという間に島の生物たちが死滅してしまいます。そうするとその人間も終には死んでしまいます。そこに人格が形成されれば、社會を活かそうとし周りを助けて自分も共に生きて貢献する道を選んでいくはずです。そうすればお互いに長くその島で幸せに暮らしていくことができます。

このように社會を形成するというのは、その人格を形成するということです。そしてこの人格形成というものが私にとっては教育の本義です。教育とは社會を形成していく人材を育てていくために行うものでしょう。つまり見守る=保育に対して、人格=教育というのを根底に持つのが本来の日本人の民族性からの言葉の意義でしょう。

それを忘れていくら難しい議論を戦わせても、結局は欧米文化の枝葉を揺さぶっているだけで自分たちの持っている日本人の精神を活かしているわけではないのです。

話を戻せば、社會というのは道徳によって行われるときもっともお互いを尊重し合う平和で豊かなものになります。そのためには、人間から道徳をどう引き出していくか、道徳をどう高めていくかということが基本になるように思います。

孟子は、惻隠の情といって人間はもともと善であるという言い方をしました。この善は善悪の善ではなく、そもそも天が与えた天性と天命を持っているという意味での善であると私は定義します。

そういう天の化身が人間なのだから、天の真心を持つ人間から道徳を引き出していけばいい、政治はそうあるべきであると説いているように思えるのです。

だからこそ如何に道徳を引き出していくかは道徳を教えることではなく、その人を信じて見守りその人の善いところを認めて褒めて表彰していくことのように思います。

二宮尊徳は、徳に報いるという言い方をしました、報徳のことです。人間には誰にしろ必ずその心身に徳を享受されている。その徳を引き出し報いようとすることに社會の社會たる価値があるのでしょう。

如何に社會に徳を引き出していくか、ここからが新たな挑戦です。

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。

健康

人間は、健康であるということが何よりも大切であるように思います。

身体の不調が起きると、精神や心が乱れます。また精神や心の不調が起きれば身体が乱れます。健康というのはバランスのことであり、そのバランスが崩れるから本来の自然からかけ離れた生活を送り不調が起きるともいえます。

自然というものも、気候の変動から日々の気温の変化、また全体との変質で常に変わりつづけて已むことはありません。そんな中で生活する私たちも自然の一部ですからその変化に巻き込まれ続けていくのです。

何も変化のない日など送れるわけはなく、いくら本人が変化を避けようとしても人の老化と同じく変化していないものはないのですから日々に変わりつづけていく必要が生じます。

身体の健康管理は、目に見えやすく体調の不調や病気の兆候によってはやめに察知することができます。たとえば、皮膚に出てきたり、下痢をしたり、熱がでたり、頭痛がしたりと、身体がバランスを崩す時には崩れてきているサインがあります。それを治癒するには、食事や睡眠を改善し規則正しい生活を心がけたりすることで次第に回復していきます。

また難しいのが心の健康管理です。心は目には見えにくく自分が不調かどうかを察知する方法があまりありません。しかしよく観てみれば、自分が忙しい時や余裕がない時、他人を不信がるときや人と一緒にやりたくないとき、もしくは未来のことや過去のことばかりに思い煩っているときは心のバランスが崩れているサインでもあります。それを治癒するにも、深呼吸をして心を落ち着かせたり、思いやりに触れたり、内省を規則正しく行うことで次第に回復していきます。

それに精神の健康管理もありますが、自分の志がどうなっているのかなどは考えることもありません。精神が不調になってくると怠惰になったり、自分に甘くなっていきます。志を忘れたり、何のためにという本質を見失ってしまいます。これも精神が不調をきたしているのです。常に日々に真剣に一心一事に打ち込み、規則正しく自らを練磨し修養に努めることで同じく次第に回復していくのです。

身体、心、精神と書きましたがこれらは分かれているものではありません。これらはお互いにつながりあっていますから、これをバランスよく維持していくのが健康であるということです。その健康というものを維持するのの本質は、規則正しいかどうか、道理に合っているか、そして実践しているかどうかです。

これらは「実践」によって調和するものですから、実践なくして健康であるということは考えられないのです。実践することができるというのは自分がバランスを崩さないという規則正しい生活をする覚悟を決めているからできるともいえます。

つまり長くなりましたが、実践できていれば健康であり、健康であるというのは実践ができているということなのです。

実践をせずに、色々とやってみてもそれは結局はバランスが崩れたままに直そうとすることに似ていて結局は崩れてしまいます。そうならないようにするには、常に健康を維持していく精進こそが何よりも世の中に自分を役立てて自然体になっていく真理なのでしょう。

最後に実践人の家の森信三さんの言葉で締めくくります。

「人生二度なし、真理は現実の真っ只中にあり」

空想も妄想でもなく、ただ目の前にあるものは現実だという事実、現場実践の今、此処というのがバランスの調和した場所であることを忘れず健康である正しい日々を学び続けていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

利己心の魔

先日、見学した日本理化学工業で大山会長は「利他心」の大切さを教えてくださいました。この反対に利己心というものがあります。

これはどういうものかということを考えてみることにします。

利他心が人の為に自分を尽くしていくことに対して、利己心というのは自分の利害のために動き他人のことを考えない心のことを言います。利他で生きる人は、常に自分の心も感情も澄まされていますが利己で生きる人は嫉妬、不満、不足、不安、怒り、恨み、悪感情に苛まれています。

そもそも人間というのは、波があるものです。心が澄まされ清らかであればあるほどに相手のことを思いやり他人のために自分を尽くせることに幸せを感じられるものですが、ひとたび自分の感情に呑まれれば正しくないようなことを平気で行っていたりするものです。

自分が大変だと余裕がなくなれば余計に心は乱れ感情も波立ち、まるで嵐のような世界の中で暴走する車のようになってしまうものです。利己心が働くときはそういう時で、そうなってしまえば他人の迷惑なども顧みず好き勝手に我儘をして周りを困らせてしまうものです。

直接的に困らせてはいないと本人は自覚していても、実際はその波長は必ず周囲に影響を与えます。私自身も、その波長をもつとすぐに周りに似たような人たちの波長を感知して伝染してしまいます。これをメンターは波長同通の法則と仰っていましたが、言い換えれば自分の波長次第でいくらでも貢献することができるということです。

もしも自分の波長が、正しいことをさせてください、他人に親切にさせてください、誰かの御役に立たせてください、子どもたちのために力を使わせてくださいと祈るように実践していれば、自ずからその波長が周囲を巻き込み、周りも同じような波長の人たちが集まりご縁はさらに善い方へと広がっていくように思います。

しかし逆に利己心に呑まれてしまえば、自分自身の身中の虫、己心の魔、己そのものに負けてしまいバランスを崩して外界を破壊するような暴挙に出てしまうかもしれません。そうなっているときにいくら感情を抑えようとしてもすでに利己心に呑まれているのでそれは取り払うことができません。

先祖たちはそれを自覚していたからこそ、神社に参拝し心を澄ませる精進を怠らなかったのではないかと私は得心しています。つまり清めたまえ祓いたまえのことです。心を澄ませるというのは、いつも神様と同じ道を歩んでいるというかんながらの真心で生きることだからです。

それは自分が真心であったか、思いやりで実践できているか、その学びが他人の御役に立てているか、誰かの幸せのために自分を尽くしているかと、常に自分を正しい方へ、誠の方へ、感謝の方へと自己実現させているかということに由るように思います。

克己の工夫というのは、如何に自分の心を澄ませていくのかということに尽きるように思います。利己心の魔を退治するのは、利他心の澄んだ真心です。

これは人間生きている以上、「生き方=活かせ方」ですし「働き方=働かせ方」ですから日々に修養を怠らず、常に自己との対話と内省によって高めていくものだと私は思います。

言うのは簡単ですが遣るのは一生であるのがこの自分を修めるということです。日々、正しいかどうか、誠かどうか、心が澄み渡る利他心で歩めるように先に自らが魔が入る隙を与えないくらい心と正対し、善なるご縁を大切に有難い一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

今の時代、人々が神社に穢れを祓いに行くことも少なくなりました。子どもたちの魂も今は色々な大人の波長で影響を受けています。だからこそ逞しく健康を心がけ、かんながらの道を弘め、自らが動く存在として市井の中で正しい自己実践に努めようと思います。