仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。

学び方を学ぶ~発見の日々を生きる~

日々に学んでいると、新しい発見に満ちています。そういう日々を過ごしていくことが好奇心を育んでいくのかもしれません。

例えば、新しい自分というものに出会います。そのキッカケは誰かから認められたり褒められたり、もしくは指摘されたり、指導されたりしたときに気づくものです。

何も誰からも言われず、自分だけで理解するのは限界があり自分の都合が入ってしまって盲目になってしまうものです。そういう時に、素直に言っていただける人がいること、正直に伝えてくださっている存在があることが何よりも尊いと感じます。

自分というものはどのように仕上げていくのかも自分次第です。自分の人生も自分のドラマも自分の生き方もすべては自分次第で如何様にも変化させていくことは万人に与えられている自由です。

人間はどのような環境下でも私心が出過ぎると、周囲との関係に軋轢が発生したり、偏り過ぎたりしてバランスを崩してしまうものです。その私心をどのように修正するのか、どのように調整するのか、そこには人の意見を素直に聴ける力に左右されています。

そしてそこを一番邪魔するのは、知識といった先入観ではないかと私は思うのです。

それを刷り込みとも言いますが、刷り込みがあることで素直にならず、刷り込まれたことで正直が分からなくなる、本来は子どものときに学んだ学び方を、どこかですり替えて別の学び方を学んでしまったということなのでしょう。

自然の学び方と人工的な学び方、その両輪を合わせていくには自然の学び方を優先し、その後に人工的な学び方というように本来の学び方を続けていくことなのでしょう。

畏れを抱きつつ、慎み学ぶというのは古来道を歩んだ先人たちが指導した学び方の極意です。

そうやってまず学ぶ前に、その学び方を学ぶところからはじめるというのは自分自身の無意識下にある刷り込みをまず疑い、自分の刷り込みを取り除くところからはじめるという意味なのでしょう。

私も、師に出逢い師から本質を学び、本質に気づくことで自らにある刷り込みに気づくことができました。その刷り込みをひとつひとつ取り除くうちに、本来の自然、赤ちゃんの頃の学び方を思い出すのです。人間として学ぶのは、万物全てにおいて丸ごと学ぼうとする力、発見していく歓びと発明していく幸せ、つまりは新しい自分に出会い続ける価値があることを自覚するのです。

刷り込みというのは、当たり前のところにありすぎてそれが観える人になるか観える人から指摘されるかもご縁のように思います。真理にあって真理に気づくのもまた人間のご縁ですから縁尋は本当に奇妙なのものです。

だからこそご縁をいただけるように願うように、自分から自分の価値を日々に再発見し再発掘していくことは刷り込みを取り除くことと同様に何よりも大切な学び方のポイントであろうと思います。

日々、新しいものに気づく感性を、流されずに楽しむ好奇心を甦らせて新生し続けようと思います。忙しい時こそ、仕事の量が多い時こそ、学ぶ機会が沢山来ていることに感謝し、どんなことも見逃さず遣り切っていきたいと思います。

志道の心得

吉田松陰に「士規七則」というものがある。

これは従弟の玉木彦介が元服したときに作り送ったものを歿後に子弟たちが復刻しそれぞれが持って自らの規範としたものです。

そこには道を歩むものとしての心得が書かれています。先日もまた新たに松陰先生とのご縁があり実践の大切さとその心構えについて学び直すことができました。

まずこの士規七則の冒頭にはこういう言葉ではじまります。

『冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。 顧ふに人読まず。即し読むとも行はず。 苟に読みてこれを行はば、則ち千万世と雖も得て尽すべからず。 噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざる人の至情なり。 古人これを古に言ひ、今我れこれを今に言ふ。 亦なんぞ傷まん、士規七則を作る。』

私の意訳ですが、(本を読めばどれも善いことが書かれていてそれを学ぶことができる。しかし考えてみたら、それは読んだとは言わないのではないか。それは読んだことを実践しないからだ。正しく読みもしも実践するならばその書かれたものを永遠に実践してもし尽くせるはずもないほどのものだ。それなのにここにまた私は書こうとし言おうとするのは知っていることをどうしても伝えたいという人の情から興ってくるのです。先人たちはこれを昔から言っていますが、私も今ここにこれを言うことにする。心配しても仕方がない、ここに士規七則を創ります。)

つまりは、ともかく「実践」することが全てにおいて何よりも重要だということを述べているように思います。論語読みの論語知らずではないですが、実践してこそ価値のあるものを読むだけで分かった気になるような人物にはなるなと諭しています。

真理ひとつ、先人の人生で掴んだ叡智ひとつ、すべては実践することで永遠に学ぶ価値があるままだとしています。

今回はその中の一つの言葉と出会ったので自分なりに刻んでみます。

「士の道は義より大なるはなし、義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。 」

これも意訳ですが(志の道は、大義を超えるようなものはない。大義は勇気によってはじめて実践され、勇気は大義によって伸びていくのです。)と書かれます。

孟子の「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(自分で素直に内省し、そこに正義があると思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも私は全うする)という意味でしょう。

吉田松陰は文字通りの人生を歩んでいます。孟子の講義をしながら、学問とは実践することであると何よりも背中で示したのが松下村塾だったように思います。

本ばかりを読み漁り、実践をしないような生き方をするのは勇が減退しているからかもしれません。もしくは義が弱体しているのかもしれません。天地人の中で、老子や孔子があってもそのどちらにも偏れば実践よりも盲目な批評や評論ばかりに陥るのかもしれません。

自らの決心やその真心にどれだけ純粋にいられるかは、日々の心掛け次第、自分次第なのでしょう。

克己復礼、胆力を磨き、実践を高めていく努力に邁進していこうと思います。
吉田松陰先生には鏡としていつも生き方を正していただけます、有難うございます。

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

道導~みちしるべ~

人は道を通して学問を深めていくもののように思います。道があっても道に入らぬではないですが、同じ道を歩くのならやはり道なのだと決心して歩く方が楽しいのです。

少し考えてみると、自ら歩み出したものと誰かによっていつも歩かされたのでは同じ道であっても大変勿体ないことをしているように感じるものです。

人は何かの判断をするとき、辞めればいい、避ければいいという発想が元にあるとします。すると、そこから道から外れようとするのでしょうが結局はどこにいっても道はあり、”どの道やらないといけない”のです。それが自分のたった一度の人生、「生きている」という自然の摂理だからです。道に気づけなければ一生なんとなく終わることもできるのでしょうがやはりそれではもったいないのです。

この「どの道遣る」というのはとても大切なことのように思います。遣ると決めれば道が顕われ、遣ると決めないから道が観えないとしたら、まず今立っているこの道を、とことん遣り尽くそうと覚悟を決めることでどの道もまた開いていけるようにも思います。

そもそも学問というものは、理屈や名誉のためにしているとおかしくなるように思います。どのような学問を見てきたか、どのような学問をしてきたかというのは自らの人生の判断基準になるように思います。目的があって学ぶのですが、その目的を見失うから道が観えなくなるものになるのかもしれません。

中江藤樹にこういう言葉が残っています。

「人間、学問に志すというのは、道に志すものでなければならぬ。ところが今の学問は、己の知恵を磨くより、人に誉められたいという名誉心、はなはだしきは、金銭のために学問をするということで、その志たるや実に卑しい」

道に志すというのは、正直に学問をすることのように思います。正直であるというのは、日々に真心を持って体験したことを内省し改善しまた新たな実践を積み重ねて精進していくということであろうと思います。

しかしそういう体験を避けて思い通りにしようとし、反省ばかりをしては実践を怠り後悔ばかりというのでは自らの道を歩もうとしていないのではないかとも思えるのです。

道は、決心するところに顕われ、正直に行うときに歩んでいるように思います。そして志すにはそこに大義や正義があり、目的や理念に立ちかえって初心のままでいることのようにも思います。

昨日は、リーダー研修がありましたがリーダーの心得とは何か、愛敬するということや人格を磨いていくことの大切さを改めて感じ得ました。善い先生の道導があってこそ、はじめてその道は伸び拡がっていくのかもしれません。善い師善い友とのご縁は掛け替えのないものです。

「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす」(中江藤樹)

真心を尽くして一日一日、またそのご縁を活かしていきたいと思います。

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

時々の初心~人の成長~

ソフトの名前の変更にあたり、色々な意味を考え直しています。

能の大成者の世阿弥に「時々の初心、忘れるべからず」という言葉があります。これは、出会いというもので置き換えて考えてみるとその本質が理解できるように思います。

出会いというものは、それまでの出会いがあります。ある出会いから、人は様々なことを学んでいきます。それは職業との出会い、出来事との出会い、人との出会い、場所との出会い、様々な出会いを生きています。そうして出会いから何かを学び、そして卒業したら次の出会いを学ぶのです。

同じ人と一緒にいても、御互いが出会ったことから学び、卒業すれば御互いに次の学びに進んでいくのです。御互いがずっと一緒にいられるというのは、御互いが努力精進するのを已めず常に切磋琢磨し学び合って成長進化し続けている証だともいえるようにも思います。

先ほどの時々の初心というものは、一つの物事を乗り越えるときそこでかつての初心に別れを告げて新しい初心に出会うという意味ではないかと私には思えるのです。

昨日のセミナーの情報交換会でも、見守る保育ということを学ぶと1年目も5年目も10年目でもその時の見守る保育に出会うということ、つまりは道というものには終わりがなく常に初心を新しくしていくことが大事だということをお話ししました。

これは温故知新と同じ意味であり、常に新しくしていかなければ初心を忘れてしまうのだということなのです。

ソフトを新しくするというのも、それまでの初心を卒業しもう一度、新たな初心に出会うという意味ではないかと思えるのです。それは単に新しく販売するとか、数字を出すとかという意味ではなく、自分を新たにして新しく次の初心を達するために真摯にゼロから学び直すということであろうと思います。

それは説明を単に変えるなどという次元の話ではなく、そもそもの新しい初心を築くことのように思うのです。またはじめから行うのかということを人は嫌がるものかもしれませんが、それでは初心に出会えません。

初心に出会い続けるのは、「もう一度新しく出会いたい」と願う心からはじまるのかもしれません。

人は長年共に過ごしていても、そのうち次第に落ち着いてくるものです。しかし進化成長を已まない人と共に過ごすなら自分自身も同様に新しくしていかなければなりません。そこには過去の出会いとは別に新しい出会いへと刷新していく努力がいるように思います。人は成長し合える人と出会いたいと心で願っています、だからこそ自分も一緒に成長できる関係でありたいから常に自己改心の努力をするのです。

つまり挑戦するというのは、新しくするということです。そしてそれが時々の初心ということであるのです。日々は真剣勝負です、ややもすると昔の学びの方が楽なのでそこに依存してしまいますが過去は過去、それをすでに習得したのならスパッと卒業して次の学びへと駒を進めることが進化成長の法理です。

同じソフトをやるにも、まったく異なる新たな意識に変えて最初からやり直していこうと思います。バージョンアップをやめてから4年目に入って、ようやく新たなバージョンアップに行き着きました。また次回もその時が来るのでしょうが、伴に理念の大切な道具と歩める日々を継承し歩めることを心から有難く思います。

しかしいつの時代も道具が変わるのではなく、変わるのは道具を用いる人の方だと心を定め気を引き締めて初心を学びこんでいこうと思います。

新たな出会いと別れに心から感謝しています。

個から全体へ

昨日、ある園での研修の中で個から全体への話をしました。そもそも全体から個へというのと個から全体へというものは何かということを深めてみます。

私たち人類は集団を形成してから国家というものを創りあげてきました。国家というものは集団を統治するという考え方を持ち、権力によって個を抑制して国家の利益を優先させてその中で生きているともいえます。

当たり前すぎて考えなくなっていますが、国民というのはその国家の中に存在する民ということです。その中で暮らしていくためには、国家のルールに沿って私たちは統治されているともいえます。個が勝手なことをしては、国家は治まることがないから全体から個への教育を受けてきたとも言えるように思います。

なので、明治維新などのときなど国家が入れ替わるときは個がそれぞれに自由な発想を持ち国家を揺るがせて国を換えてしまったのです。本来は国家が変わるときは、革命などが行われますが私たちの国の歴史では聖徳太子の時代からそれを尊ばないという思想が根付いていました。

個から全体へという発想というものは、「和をもって貴しとなす」という理念に由って語られています。個というものは、一人一人の主体性のことを意味しています。権力による統治の中での個ではなく、個の一人一人が主体的に協力して国家運営をするときまさにそこにより善い一家ができあがるという考え方のことです。

与えられた仕事を受け身にやらされている中でやるのではなく、自分には何ができる、自分にしかできないことは何かと主体的に自らが働きかけて役割分担していくことこそが本来の集団の持つ本質的な意味なのです。本来の社會というものは、人というものは協働して協力しあっていたから自然の中で逞しく親しみ生き続けてきたものであろうと思います。

それがいつ頃からか、権力の統治の中で過ごしていれば生き残れると考えてしまうようになったのでしょう。本来の個が死んで、集団を優先するというのは本末転倒であろうと私には思えます。個が生きて、個を優先するというのはその人らしさを存分に発揮することで多様性を認める神代から夢みた理想の一家を実現するということです。

それは祖神が長年、幸せに暮らしてきた生き方を真似ることなのです。

個を発揮するというのは、個を見守ることがあってはじめて実現します。それは権力による統治ではなく、和をもって善治したといってもいいのかもしれません。

そしてそのためには、総力であったかということが大切なように思います。一人一人が誰も怠らず必死に努力し一生懸命に全体のために尽くしているか、国家に依存するのではなく、国家に貢献しようとしたかということです。

個から全体という言葉には、八百万の神々を畏れ慎み生きていくという智慧が入っています。引き続き、テーマに持ち実践していこうと思います。

古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

口伝

宮大工棟梁の西岡常一さんの著書「口伝の重み」(日本経済新聞社)には、技法というものが如何なるものかということが書き記しています。

先祖代々の重みを、受け継ぐということがどのようなことであるのか、その生き方や生きざまを拝観していると心に染み入るものがあります。

姿勢とか、考え方とか、今の自分に照らすとちゃんとやらなければという激励を戴いている気がしています。その中で、代々、西岡家棟梁が受け継がれた家訓を祖父から伝えられる場面があります。

正座して、父と一緒に聴いたとあり、これが祖父からの最期の教えだったと言います。受け継ぐ側も承る側も、そのような大切なことを最期にするというのは清々しく感じます。これを思う時、私が教えるということが安易ではないか、心して教えていたのかと思うと恥ずかしい思いがし、本来の心というものは教えにもあるのだと痛感いたしました。

その口伝ではこうあります。

「仏法を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず」
「天神地祇を拝さずして宮を口にすべからず」
「法隆寺大工は太子の本流たる誇りをもて」
「伽藍造営には四神相応の地を選べ」
「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは木の癖組み」
「木の癖組みは工人等の心組み」
「人の非を責める前に自分の不徳を思いをいたせ」
「百工あれば百念あり一つに統ぶるが匠長が器量なり」
「一つに止めるの器量なきは謹みおそれ匠長の座を去れ」

これら一つ一つは、いつ頃からあったのかもわかっていないそうです。しかし、その一つ一つは先祖がそれぞれの人生を生き切る中で生涯をかけて艱難辛苦の泥沼の中から咲いた蓮の花のような叡智であろうと思います。

文章に書けばすぐに書けますし、読めばすぐに理解はできますが、その重みを理解することなとはできません。それを口伝で伝え、家訓とするのにはそれ相応の理由があり、先祖たちが失敗を積み重ねて乗り越えてきたなかで遺したものであろうとも思うのです。

震災で、津波に関する石碑のことなども同じことを繰り返さないようにと子々孫々への思いやりをもって先祖が様々なことを伝承してくださっています。神話もまた、先祖が私たちに語りかけてくるのもどのような国を造れば善いのか、そしてどのように暮らしていけばよいのかを教え導いてくださっているものです。

それを受け賜る側の姿勢として、今の自分はどうであろうかと猛省する気持ちがします。そして、先ほどの口伝の続きにはこう書かれています。

「諸処の技法は一日にして成らず祖神達の徳恵なり」

全ての技術とは、必ず一朝一夕になるものではない、長い時間をかけて猛練習猛特訓の上で築いてきたものであるということを諭してくださっています。決してできないからと諦めるのではなく、その上で何をすべきか、どのように真剣に猛稽古に打ち込むかといった祖神たちの見守りを感じるのです。

口伝とはその重みを感じる側がいて受け取る側がいるのかもしれません。子ども達のことを思えば、伝承していくことの大切さを改めなければと決意に満ちます。真摯に一つ一つを古道に照らし学びとっていきたいと思います。