仕事一魂~自物一如の精神~

仕事というのは、元来はどのようなものかと考えてみます。

辞書には「1 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。「やりかけの―」「―が手につかない」2 生計を立てる手段として従事する事柄。職業。(yahoo辞書より)とあります。

一般的には、仕事とは会社に入り自分の与えられた役割を果たしてその報酬を貰うという感覚があります。例えば、仕事を発注した人と発注された人の間で何をしてもらうのかを決めてそれを行い結果を出すといった感じです。しかしそれで仕事が成ったかというと、それはまた別ものであろうと私は思うのです。これはその仕事と定義しているものの質によるからです。

ものづくりの人に本田宗一郎があります。以前、静岡のものづくり伝承館に訪問しその歩んでいきた生き方や生きざま、そこに展示されている商品を見てきました。そこには、数々の道具たちや、生み出したそのもの、また物語や声、手の傷痕まで紹介されています。その際に、如何にそのものと一体になってその人が生きたかというのを実感したのです。

そのものに本気になるというのは、その物と一体になるということだと思います。これを自他一如と言いますが、その人と自分を分けない、そのものと自分を分けない、仕事とプライベートを分けないというように、自分の全てを「没頭」させるほどに全身全霊の全てを懸けて取り組む中にその本田イズムを体験したのです。

その仕事にどれだけの魂を籠めたか、その仕事にどれだけの命を懸けたか、そして自分の持つあらゆる魂の全てを注ぎ込んだかということがその軌跡から実感できるのです。自分のことなどは入っていない、自分がどこにいるのか分からない、つまりはどれも他人事などが入り込む余地がないものが元来の仕事の本質であると気づくのです。

本田宗一郎が言う、やりたいことをやれとありますがここでのやりたいは中途半端なことでありません。 全てに遣り切っているから、どの仕事も本人そのものであったのだと思います。仕事を趣味にし、仕事に生き甲斐を感じ、仕事が大好きであったその人の生き方から、私たちがつまらない刷り込みの中で働いていることに戒めを感じました。

これはやりたい仕事があったからそうなったのでしょうか、そうではなく全身全霊でどの仕事にも本気で没頭したからやりたいことが観えていた状態だったのではないかと私には思えます。

その時、人事を尽くしているので天命が観えてきます。やりたいことは何かもそういう時にこそ顕われてくるように私には思えます。強みにいつまでも特化できないのは、やらなくてもいいことに時間を費やしてしまうからです。

没頭するほどに取り組んでいるか、その仕事と一体になるほどに遣り切っているか、仕事か自分かの違いがないくらい本気でやっているか、自問自答は今を中途半端にやろうとする自分への自戒にしていこうと思います。ダイヤも磨けなければ、使う場所が合わなければいつまでもただの石ころです。

ものづくりの魂を持った日本人の鑑として、先人の歩んだ生きざまを誇りにして自分も新たな創造という仕事、その変化への挑戦に突き進んでいこうと思います。

自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。

人間の道

昨日、致知出版社の方が来社してくださって一緒に社内木鶏会を行いました。この社内木鶏会とは、人間学の本、「致知」を使ってそこから気づいたことを一緒に学び合う勉強会です。

もうこの社内木鶏会もはじめて6年半ほどになりますが、もうそんなに経ったのかと懐かしくなりました。私たちが始めたころは20社くらいだったそうですが今では800社にもなったとのことで感慨も一入でした。

最初の出会いは6年半ほど前、致知出版社がまだ青山にあるときに社員皆で訪問し藤尾秀昭社長にお会いしたときからです。お時間がないと仰っていた中、若い私たちにホワイトボードを使って2時間以上も親切に人間学のことを情熱を傾けてお話をしてくださいました。

その時の情熱の燈火をそのままに継続してきた今までであったように思います。私達の身のまわりにも随分、致知を購読する人たちも増え、その出会いの素晴らしさ、その感動した学びの邂逅はいつになっても心に鮮明に思い出すことができます。

生き方を通して人は、人生を学び、そして互いに活かしあって伸ばしあっていく人間の道を人間学という言葉を通じて教えてくださったこと心から感謝しています。

またちょうどここ1か月ほど、深い悩みがあったのですが昨日の突然の致知の社員の方の来社で解消することができました。継続すること、実践することがテーマの記事で昨日は社内木鶏会を行ったことも意義があったように思われます。

思い返せばあの当時、致知がちょうど月刊発行部数が6万冊くらいだとお聞きしていました。そして、この致知の部数が10万冊にいったら日本が変わるというお話をしてくださったのです。

この10万冊で日本が変わるという話は、教育者、森信三先生が亡くなる少し前に藤尾社長にお伝えになったというお話です。それから6年半、今の部数を確認したら99600冊まで来たとのことをお聴きしました。

あと、400冊というお話をお聴きした時、本当に嬉しくそして励まされ勇気をいただきました。続けていく中で、いつも10万冊にいついくのだろうかと気になりながら拝読してきました。その中で、新春セミナーの様子や、周りの取り組み、致知から出版される本もいくつも購入する中で、いつの日に10万冊なのだろうかと思っていたからです。

それがあと少しだとお聴きし、心躍る気持ちと、勇気を奮い立たせてくださいました。諦めずに続けて実践していけば、必ずその時が来るという実感です。それまでのプロセスそのものが、成功なのだと改めて実感しました。

10万冊いくことが問題ではなく、10万冊に辿りつくまでの全てが世の中を変えることになるのだと思えるからです。実際は、目に見える成果は儚いものですが1000年単位で物事を捉えれば、大きな変化、普遍なカタチが顕現したことが観えてきます。

偉大な循環の中で、自らの真心の一燈を確かなものにしたというのはそれだけで大変尊いことだを思います。このタイミングでお聴きできたこと、来社いただいたことに有難いご縁を感じます。

ちょうど色々なことで自信を失いかけそうなとき、やはりいつも身近に励まして下さる方々いらっしゃるということ。何よりも感謝します。そして天がその機会をいつも私達に与えてくださっているように思います。応援し励まされそして前に進む、人は互いに元気を出せと肩を叩きながら背中を押しながら歩むのが人間の道なのかもしれません。

出会いが人を創る、そして道が出逢いを開くということです。

一期一会を実践できる今に心から感謝します。

 

夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

縁愛4

ドイツに来て3日目が過ぎました。

昨日も、子どもたちの発達から活動を工夫する様々なアイデアを現場で確認することができました。子どもたちがやりたいことを邪魔しないというのは、子どもを信じ、子どもが育とうとすることを受容することにつながっています。

人は自分がやりたいと思うことを認めてくれることほど信じられているという実感を持てることはないようにも思います。私も今でも、誰が何と言おうとも自分の内面の直観の声に従い、それが後で意味があったと実感するとき偉大な見守りをいつも感じています。

信じるということは、その人の遣りたいこと、その使命を丸ごと認めることだと思います。世界を変える道もまた、子どもを信じるところにあるのです。

さて、サブテーマの人間愛もいよいよ深まってきました。

人間は愛を試されるとき、そこには自分がされたくないことを他人にしたときに実感したりするものです。もしくは自分がされたいことをされたいこと以上にしてくれる人と出会ったときにも感動し実感できるように思います。

そうして愛を確かめては、何を愛し、何を守るかということを学んでいくのです。人は自分の大切にしているものをそれぞれ持っています。特にそれは物だけではなく、その心にもこれだけは守りたいと思っているものがあるのです。

それが例えば、友の道であったり、親子の道、家族の道、つまりは連綿と受け継いできた美しい心の顕われの行為になるのかもしれません。子どもはそれを誰が教えなくても自然に身に着けていて、自分たちの大切にしたいことがあれば何よりもそれを優先し守ろうとします。

大人になって、それができなくなるのは社会や周辺の大人の影響を受けて守りたいことを諦めるからかもしれません。そういうものを諦めない大人たちが子どもたちを守ることができるとき、愛は受け継がれていくのかもしれません。

私の師も、平常は優しい懐の大きな存在ですが背中の後ろに守りたいものがあるとき不動明王のように烈火の如き炎で立ちはだかり子どもたちを守ります。私はそこも大変尊敬していて、憧れ、いつの日か自分も守りたいものを守れる真の強さを持ちたいと思ったのです。

愛とは、つまり守りたいもののことを言うのかもしれません。

ガンジーにこういう言葉が残っています。

「死と引き換えに、愛する誰かを守った人は、完全なる愛を成就した人だ」

自分よりも大切なものがあるという至上の役割がある幸せ、そこには決して揺るがない信念とつながりが自分を守る。そのために自分をこれ以上なく遣り切り実践し尽くした生涯を送れるならその人は愛に包まれた最上の人生を歩んだといっていいかもしれません。

人間の世に生まれ愛を知ることは、自分が大切にしてきた守るものを知る事なのでしょう。
日々は愛の中にあることを知り、より強く愛していきたいと思います。

する人~主人公~

人は、何かを行おうとし真理や法則を学べばそれを活かしてみようとします。

しかしそれがいくらいいと分かっていても、それを使いこなそうとしてもなかなか簡単に分かるものではありません。例えば、見守ることが信じる事だと言ったとしてもそれを自分の生き方にまで昇華できるかどうかは大変な努力が必要だと私は思うのです。

人間はどうしても、無意識に自分のやりやすい方、自分ですぐにできる方に周りを合わせさせ自分の方を変えようとはしないものです。つまりは、大変だらしない存在であろうとも思うのです。

早起き一つ、整理整頓一つ、親切丁寧一つもなかなかできないもので、いくらそれが善いと分かっていても気が付くと自分の欲や感情に負けて流されてしまうものです。

これは人間は元来強くない存在だからこそ、自分で強くなるためにも、いくら最初に決めたことがあったにせよそれを忘れないために自分を知り、自分を正し、そのための実践を心を籠めて精進し、日々に内省を続けていかなければならないのではないかと思います。しかしそういうことを怠り、自分で自分の努力をしなくなり、「する人」から「させられる人」になってしまう時、人は流されるのです。

そして「する人」とは、自らが決めた結果に責任を持つ人であろうと私は思うのです。

遣り切るという言葉もそういうところから生まれてきているもので、何よりも大事なのは主人公は自分だということを常に自覚し、だらしない気持ちを律し、怠けている態度を制し、常に理想や理念、夢に自分を近づけるために努力精進を継続していくことが「する人」になることであろうとも思うのです。

東井義雄さんの詩に「自分は自分の主人公」があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

どんなにつらいことがあったにせよ、どんなに自分のだらしなさに嫌気がさして苦しかったにせよ、それが誰しもに共通する人間というものであろうと思います。だからこそ、生き方を決めて生き方に沿って生きようと挑戦していくことこそが尊い実践だとも思います。

最後に、その東井義雄先生がこう言います。

「道はたくさんあるようだけれど、一つしかない、自分がどう生きるかの道以外にはない、テクニックじゃない生き方の問題だ」(仏の声を聞くより)

常に自分がどう生きるのかを向き合い、どう生きたかを向き合い、どう生きようとしたかと向き合い、他人を合わせ鏡にして内省して生き切ること。人生を受け身にさせられないように、より一層自らのいのちを輝かせ続けることこそが自分を大切にするということかもしれません。

人生の真の尊さもまた、そういう境地にあるのかもしれません。

実践できることに感謝し、今日も大切に理念の実践に取り組んでいきたいと思います。

反骨精神

植村直己を調べていくことで、新たな一面を知っていくことができます。自然へ安らぎを求める人は、どこか人間社会では理解されにくい一面を持っているように思います。

周りから見れば、当たり前のことであっても自然美が分かる感性があるということはそれだけ繊細で神妙な心を持っているということです。それにそれだけ独自性がある人は、そのもので価値が光っているものです。

そういう人たちが、今の社会で生きていくのは本当に難儀なことではないかとも思います。それは軽度発達障がいの子どもたちや、特殊な個性を持つ子どもたちの扱いがあまり平等ではない現場をみると実感します。

自分が何をもって貢献するのかというのは、人々の人生のテーマです。

ひょっとしたらその人の本当の仕事は、今の社会にはまだ存在しないのかもしれません。
しかし昔は、そういう個々の使命を温かく見守り大切に緩やかに育ててきたようにも思います。

人はそれぞれに大切な唯一無二の役割がありますから、それを一部の大多数の社会の柵の中で歯車にして潰すということはあってはならないことのように思います。そういうゆとりと余裕こそが、新しい人たちへの夢と希望を譲る道になっていくからです。

天は二物を与えないといいますが、それぞれにその人の持つ個性はその人にしかなく、それを存分に発揮して世の中に貢献できる道もまた考えていきたいと思います。先般、オランダに訪問した際も日本の数倍の職種を国家が認めていて、大切な職種は守ろうとする思いやりがありました。これも個性を大切にしてきた教育の将来が社会に反映されているのです。

経済ばかり効率化ばかり、そして目先の損得ばかりを優先すれば本当の人財はこの国では活かせなくなるようにも思います。人権や民主主義とは言いますが、その実は数の論理で長いものや大きいものには巻かれろというように、要所要所に罠があるように思います。その古い慣習や人々の固定概念、新しいものへの嫉妬などが邪魔をしては子どもの心は動けなくなります。

私はこれからの世界にはより一層、多様な職業、色々な仕事があっていいと思います。そしてそれらが受容できるように、それをやってもいいという大人のモデルが子どもたちにはこれからはますます必用に思います。

自分の好きなことを仕事にしていく力が、まさに今の時代には求められているように思います。
その意義を伝えるためにも私はいのちを懸けています。

「ようやく此処まできたのだ、負けて堪るか」と真摯に弛まず諦めず、反骨精神を持って新しい世界へ挑戦していきたいと思います。

子どものままに

小学生の高学年の頃、尊敬する人はと言われたら植村直己と答えていたのを思い出しました。何冊も、違う種類の植村直己の本を読んでは感動して何回も読み直したことを覚えています。

何があんなに感動したのか、それを大人になって星野道夫の写真展にいったときに思い返しました。私には何か、この二人には共通するものを感じるのです。自分の心を映し鏡にして、子ども心をそのままに自然のままの姿を維持しているからのように感じます。

その植村直己が、子どもたちに語りかけた言葉があります。

「 君たちに僕の考えを話そう。

僕らが子どもの頃、目に映る世界は
新鮮で、すべてが新しかった。
やりたい事は何でもできた。

ところが年をとってくると疲れてくる。
人々は諦めみんな落ち着いてしまう。
世界の美しさを
見ようとしなくなってしまう。

大部分の人は、夢を失っていくんだよ。

でも、僕はいつまでも子どもの心を
失わずにこの世に生きようと思う。

不思議なもの、
すべての美しいものを見るためにも・・・

いいかい、君たちはやろうと思えば
何でもできる。
僕と別れた後も
その事を思い出してほしい。

やろうと思えば何でもできるんだ。」 (植村直己 42歳)

この後、マッキンリーに最期の単独登頂を実現し行方がわからなくなりました。

子どもの心は、好奇心であろうと今でははっきりと確信します。どんなことが起きるのか分からないけれどそのワクワクを信じて歩んでいくこと、自分の人生を疑わずに直観を信じて突き進んでいくこと。

そういうものの中に、魂の望む自分の道があり、そこに無限の可能性があるように思うからです。この無限の可能性とは、宇宙の広さや時空を超えたつながりの中にある自分を認識できるという意味で私は使います。

子ども心は、誰にしろ持っていますが様々なしがらみがそれを抑圧していくように思います。
美しさは、その全てを美しいと思えるほどに学ぶ事のように思います。

自然の間でも人間の間にもまた、美しいものばかりです。
美しい感性をそのままに、子どもから子ども心をいつまでも学んでいたいと思います。

いつまでも子ども心を邪魔しないでいられる大人になりたいと思います。

本気のエール

昨日のある園の面談で、若い職員が自分の人生はもっと他にいい場所があるのではないかという相談を受けました。

若い時は、焦りからもっと他の道があるのではと選択肢ばかりを模索し浮き足立っていたものです。もちろん、その年齢での葛藤があることはそれ自体が成長している証でありそのままでいいと思うのですが人はそれをどのように通過するかで、同じような体験の気づきを他人に伝えることができるように思います。

発達というのは、真剣に取り組んだものだけがその通過の価値を知るように思います。

昔を思い返せば、子どものときに身に着けた自分の好き勝手な価値観で生きてきたものが在る時、社会に出ることで自分の思っていたものとは違うと感じることでその当時の今の自分を信じることができなくなったりしたものです。

私の場合は、留学から就職、すべてに自分の価値観を揺さぶられるような実体験を通して、人は価値観がそれぞれに異なる中で生きていて自分次第でいくらでも幸せになるのだと気づき、自分を無理に通して頑固に生きるよりも、どの業種業態であろうとも自分がどのような価値観を持って今を生き切っていくのかという判断基準を得たように思います。

そうして自分で考えるということをはじめたら、今までの学生時代のように誰かが与えてくれて用意してくれた中で自分勝手にいるのではなく、ちゃんと社会を見回して自分が何を遣り切ることが社会のためなのかと自分で考えて行動していかなければなりません。それは自らの足で自らの定めた目標に向かって自らに課題をかしてしっかりと日々を歩くという体験をすることのように思います。

道に迷う時は、その場所をより深く、より強く歩かなければならないと思います。それは自分に向いているとか向いていないとか、そういう外側の判断基準で信じるか信じないかではなく、自らが自らを信じるという覚悟を定めることに似ています。

過去も今も、誰にせよすべての人生には一切の無駄がなく、今、学んでいることはとても自分の成長にとって常に大切であるように思います。そしてどの今の瞬間を切り取っても必ず大切な意味が潜んでいると信じて、全身全霊で一心不乱に正直に取り組んでいくことで自分で考えなくても自然に自分の未来への道は開けていくように思います。

比較競争の中で育てられれば、選択肢が多いからや、情報が溢れるからなどという理由でいつまでもあれがよかったのではないかとか、本当は自分はこれがしたかったのではないかとか、向いていないのではないかと理屈や言い訳ばかりを並べては自分のことばかりを心配して悩むものです。しかし自分で決めたかのように見えるこの道も、本当は目には観えない有難いご縁で天が与えてくださった自分にしかなできない成長していくための唯一無二の機縁であるのです。

全てを受け容れて、今を肯定することは、自分に自信を持つことにつながっていくように思います。これでいいと思えるためには、これでいいと思えるほどに悔いがないように迷いなく今与えられている環境の中で真剣勝負を続けていかなければなりません。

昔、尊敬するあるコンサルタントに迷った時にいつも諭された言葉があります。

「理屈はいい、本気になれ、本気であればそれでいい」と。

本気になれば本物になり、本物になれば一人前になっていきます。「自分が本気かどうか」は、世界でたった一人の自分を生き切っていく上で最も大切な価値基準であろうと思います。

自分と本気で向き合い、本気で対話し、そして本気で信じる事から人は正しく成長していくのだとエールを送ります。

本能知識

子育ての方法について不思議なことを発見します。

全ての生きものは、本能というものがあり誰が教える事もなく自らで出産し自ら育児をしていきます。教えてもらって知った育児法と、教えてもらわなくてももともと備わっている育児法があります。

教えてもらっていない育児法は、私たちが元々知っている知識です。教えてもらったほうは元々知っていたけれど忘れてしまった知識ともいえます。

つまり私たちは知った知らないではなく、もともと知っているものを忘れただけか知っているから知ろうとしないのかというのが本来の知識であろうと私は思うのです。

そういう忘れ去られたものをもう一度、この世の中に可視化していくことはとても大切ではないかと私は思うのです。

例えば、自然から学ぶものも当たり前すぎて誰も気づいていませんがそういうものを一つひとつ人が観えるようにすることで発明だとか発見だとか言われるものです。

自然の観察眼が磨かれれば、次第に新しい発見は増えていくように思いますから今の世の中の発見は全てあるものを再発掘しているだけとも言えるのです。

しかしそれを観るためには、本能にアクセスするような元々あったものと対話ができなければいけません。それは直観とも言われ、そういう直観を磨いていくことでより一層、今の世の中に必要な材料を自然から探し出すことだと思います。

あらゆる知識が増えて、あらゆる知識に制御されるこの時代に、そのように刷り込みが取れている人にめぐりあうのも稀だと思いましたが、子どもを観ていたら育児を考えていたらそれはとても自然な行為なのかもしれません。

動物の本能や子どもの自然の姿に、どのように生きてきたか、どのように生きようとしたか、どのように生きていきたいか、それを実感するのです。尊い知識に触れられるように、実践により知識の削除をより強めていきたいと思います。