素直とは正しく向き合うこと

覚悟というものを認識するのに逃げないというのがある。

逃げないというのは何を持って逃げないと定義するかと言えば、来たものに私心を入れずに真っ直ぐに向き合うことをいうように思います。

これを正対するといいますが、それではその反対は非正対というのではなく斜に構えるとか逃げるという言い方をするように思います。

本来、人は素直かどうかなど自分のことは実はよくわかっていないものです。それは、自分が自分を分かっているようで自分のことが一番よく分かっておらず、無意識に自分を正当化しては自分と向き合わないように都合よく調整していることが多いからです。それは私心や欲がメガネを曇らせているからのように思います、自分を直視するということは私欲にとって都合が悪いことが多いので避けて通っていたいからです。

例えば、全ての問題や事物はすべて自分の内面の問題から発生するのに対してそれを何かのせいにしたり言い訳をするときなどもこれは自分が向き合いたくないからそうしているのです。特に影響力のある人は、自分を知るということから逃げていては人はそれを一緒に学ぼうとしなくなっていきます。だからこそ、人はみんな自分という生き方としてどのような心構えをもって心掛けを大切に行うかで、他人から尊敬されたり認められたりして互いの信頼を紡いでいくように思います。

そう考えてみると、この心の構え方というものが生き方のことをいうのかもしれません。

心構えとは覚悟のことで、自分が決めたことから逃げないということに他なりません。何を決めたか、何を信じていくていくか、人はそれをもって自分らしいというのかもしれません。だからこそ人はその都度、覚悟を自問し、それを周囲に確認し、自らが正しくいようと向き合うことで自分らしい生き方を貫いていけるように思います。

それを自分の都合で決めたことを誤魔化し、事があれば逃げて、そして自分を正当化していけば素直に反省することなどはできずそれによってまた同じ過ちを何度も繰り返してしまうように思います。

間違いは間違いとして、信頼できる人に正してもらおうとする姿勢そのものが素直な姿でありそういうものが逃げない覚悟ではないかと思います。そしてこれは紙面や机上で学ぶものではなく、実体験を通じてその時、自らの道に照らしてどのように判断したかということが自分を生きたということになるのでしょう。

万物は相矛盾し、渾沌としているのだから永遠のテーマばかりでこの世は存在します。
それは友情であったり、愛情であったり、そして信頼でもそうです。

そもそもつながりの中で異なるなどという人間の複雑奇妙さのことなど分かるはずもありません。だからこそ一日一日と、日々に発生する出来事に真心で正対していくことがもっとも価値のあるものかもしれません。

このブログもそうですし、世の中には終わりがあっても永遠のテーマがあることばかりです。
精進していこうと思います。

慙愧の士魂

文天祥の生き方から、学び直すことがたくさんあります。

元々、南宋の宰相でしたが元に滅ぼされる間、数々のものを捨て去って大義のために尽くしていた人です。最期は、その命も捨てて義に生き、そして仁を為します。

仁とか義とかというものは、机上で理解するものではなくその身を捨ててこそという境地ではないかと思います。

公治長第五の中に「子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色、三已之、無慍色、舊令尹之政、必以告新令尹、何如也、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑齊君、 陳文子有馬十乘、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉 得仁。 」がありました。

ここでは、二人の人物が挙がってこれらは仁ですかと子張が孔子に問います。しかし一人は忠実な人で、もう一人は潔白な人だといいます。

単に言葉で理解できるものではないのがこの仁という概念です。

いくら思いやりを持てといってもそうはもてるものではなく、いくら真心でといってもそれは真心が分かるはずもありません。他人にはそういうものは伝えるものでも頭で理解するものでもないからです。

ただそうしたいからそうするだけの理由で、自らの身も名も捨てていくというのが本来の仁というものかもしれません。自分が大変なときに、他人のことも大変だと思えていること、そして自分のことよりも偉大なもののために自分を使うことができること、そういうものの中に真心を感じます。

文天祥は、自分の覚悟を生きた人のように思います。
吉田松陰にも同じ心を感じることがあります。

何を求めているのか、何を理想とするのか、何のために生きるのか。
そこに志とは何か、至誠とは何か、真心とは何かを感じます。

その文天祥の辞世の句には、留魂録と同じ光を感じます。

「孔曰成仁(孔(孔子)は仁を成せといい)
孟曰取義(孟(孟子)は義を取れという)
惟其義尽(惟(た)だ其の義を尽くさば)
所以仁至(仁に至る所以(ゆえん)なり)
所学何事(学ぶ所は何事ぞ)
而今而後(而今而後(じこんじご))
庶幾無愧(庶幾(こいねがわ)くは愧(はじ)無からん)」

義を尽くせば仁になる。
常に自らの覚悟に愧じないでいることが学ぶこと。

魂を揺さぶられる詩に、見守り励まされより深く前へ進もうと思います。

 

継続の妙

先日、9年前から毎月一度収録をしているGTウェブラジオが無事に100回目を迎えることができました。

収録している先生が多忙なのは当然ですが、そういう私も日程を調整していくのには色々と工夫も必要でした。もともと多動で何でも興味を持つことから、一つのことに長続きしないタイプでしたが不思議ですが継続していくことができました。

決めるということや言行一致していくということは、流されないということですが流されないために日々の行いを持つというのは内省していくにも効果があるものです。

人は日々の喧騒の中で、自我が揺さぶられ情にほだされ、または今の安逸なサービスに囲まれた生活の中で迷ったり惑ったりを繰り返していくものです。それを日々の日課や継続していくことで、原点を忘れないことや自分がもっとも大切に決めた時のその「心のありよう」を忘れないでいようとすることが自分を守ることにつながるような気がします。

ブレナイというのは、自分の心で決めたことに誠を尽くしていくことのように思います。

そして継続というのは、それが現象によって惑わなくなること、遠くを観て自分を正し続ける実践を行うことになっているのだろうと思います。平常心とか、無我とか、そういう境地というものは遠くの光を観続けて実践に断じていくという状態なのかもしれません。

先日のウェブラジオの収録では、昔のことや苦労話なども行いました。

過ぎ去ってみると、大変だったことが全て愉快な出来事であったこと、それでも今も新鮮な気持ちで取り組めていること、いつまでも錆びないことを学び続けられていることなどを再確認することもできました。

関係がいつまでも古くならないというのは、真摯に学びの姿勢が最初にお会いした時から互いに変わっていないということなのかもしれません。ご縁というものの神妙さと、一期一会の邂逅の有難さを実感します。

常に初心を大切に、明鏡止水の心技体で新たなスタートをきっていこうと思います。

自律と自立~苦しいよりも楽しい方を選ぶ~

以前、見守ることの話の一つで、ある園から自律の話を聴いたことを思い出しました。

普通の保育園では、一般的に子どもたちは大人の言うとおりに厳しくしつけられ、一斉画一の中では放任か指導かという二極の考え方で保育を行っています。なので子どもたちは自分で考えて自分を律するというよりも、先生の顔色をみたり空気を読んだり、むしろ好き放題に過ごしているところが多いそうです。

しかし見守る保育を行う園では、子どもたちが自分で選択をし、自分で責任を持ち行動していく中で周りに甘えずに自らを律する力を持てるようになっていきます。社会で共生していくには、この甘えは禁物で甘えてしまうことで周囲に迷惑をかけるようになってしまうからです。甘えるのではなく他人に頼ることの大切さを身につけるのもこの幼少期の社会での体験が活きるように思います。

以前、私が最初に就職したところである上司にこんなことを言われたことがあります。「君は私から厳しく注意され指導されるのと、私から何も言われないのはどちらが本当に厳しいと思うか?」と尋ねらました。その上司は、かなり厳しく言う人だったので言われる方が厳しいのではとその時は返事したのですが実際は「君は私に何も言われなくなったら御仕舞でそこからは自分でやらなければならないんだぞ、言われているうちはまだいい、それを忘れずに必死に私が厳しいうちに学んでおきなさい」と諭されたことがありました。

これは今思い返せば、他人から注意されず誰からも言われないということはこれはよくよく自分を厳しく律し、甘えを捨て去らなければ責任を持った一社会人として会社で自立できないのだぞということを言われていたんだと思います。そのあとは、実際に何も言われなくなり自分で必死に言われないことの厳しさを味わいながら難しい仕事を取り組んだ思い出があります。

もう一つ別の話に以前、師から子どもの夢をみた話を聴いたことがあります。園にいる他所から転園してきた在る子が「僕はまえの園のように先生や周りに何でも指示して指導されて遊びも全部決めてもらった方がいい」と言われたそうです。しかしそれに対して「そうだね、大変だよね。でもこの園はお友達のみんなと自分で選択して自分で決めて、自分で全部やっていく園だからね」というと、「まえの方が楽だったのにね、、うん、分かった、いいよ」といったやり取りがあったそうです。

これは一つの自律のことを指すことで、甘えないというのは自分で甘えないということが分かるということができるようになるということです。例えば、仕事でいえば接客もそうですし、日々の業務連絡や全体への参画もそうですがそこで甘えるというのは自分のできることのモノサシで自ら周囲に甘えて妥協してしまうことをいいます。ここでは他人を頼ってでも品質を徹底して維持していこうではなく、自分に出来ない場合は出来ないのだから仕方がないと誰か任せにしてしまい甘えてしまうが妥協という意味です。

例えば、高級な旅館や飛行機のファーストクラスに乗ったとするでしょう。いくら常連だし、株主であったり、経営者の親友だからといってもそこでのサービスが二流であったり、いい加減な対応をされたらいくら仲が善いからといってもそれは大変不愉快な思いをします。

以前、伊勢神宮でご縁があった運転手や神職の人達もお仕事が大変厳しかったと言っていました。そこには公職や皇族の方々もいらっしゃるし、信奉していらっしゃる方々もいるので24時間365日、全く一切の気を抜かずに勤めていたと話を聴いたこともあります。自分でそれができない人たちは1,2年ですぐに辞めてしまったと言っていたのが印象的でした。

自律するというのは、甘えを断ち切り集団が目指す夢や理想のために自ら妥協点をてっぺんに合わせるために他と協力して他に頼りながら進めることができるようになるということであろうと思います。もちろん、理念をどうしても優先するからと他のことができなかったということはあるかもしれません。しかし本来は、それも実力をつけて理念をやって現実もそれに見合ったものがあって当然といった甘えのない自分を打ち立てていくことで会社もはじめてその価値に見合ったサービスや営業を展開していけるのではないかと思います。

この見守るの大変気を付けないといけない点は、そこが甘えになって本来の「らしさ」というものをはき違えてしまうことかもしれません。自由奔放に自分の好き放題でいることはらしさではなく甘えです。本来のらしさというのは、見守られる中で自律し自立することではじめて自分にしかできないことができるようになる、つまり社会や集団、世界へ貢献することができるように思います。

この自律は人生の中では大変厳しく辛く苦しいものかもしれません。しかし甘えてしまうことはそれ以上にもっと苦しむことになるだろうと思います。同じ苦しみも甘えているときと、頼るときでは質が異なっているからです。苦中楽ありの方の苦にしていくことが、私が善く言う「一緒にやれば苦しみは半分、歓びは倍」の意味になるからです。

楽しくなるにはやはり自らで自律できるようになり、自らが自立していくしかありません。人生は自然と同じものだからそこから習い、そもそも厳しいものだからこそ甘えて苦しむよりも、信じて楽しむ方を選んでいく方が尊いように思います。

理念から自分で考え抜いて、どうあることがもっとも自立なのかと出来事から内省し子どものことで深めていきたいと思います。

自分を尋ね、道を訪ねる

道を歩んでいく中で先覚者という人たちに出会うことがあります。

私の師もそうですが、その後ろ姿からどのように道を歩んでいるのかを学び習い歩んでいく楽しさを味わっていくことができるのです。他にも何百年も何千年も時のふるいにかけられても残存している書物や言霊、その生きざまや思想にも道の心得が学べます。

畢竟、この世に何をしにきたのかと問われれば人は学びに来たといっても過言ではないと思います。だからこそ、真我というものに気づけるかどうかはとても大切なことであるように思います。

人間には感情がありますし、根深いところに我が入るので真我といった無我の境地でいることはなかなかできません。いくら自分が素直になったと思っていてもそれは怪しいものだったりするからです。ただ穏やかでいることと静かでいることと、真実を信じるというのは同じことではないからです。

先日、師が常に他人の話を聴いて自分を確かめるようにいるのではないかとインスピレーションがあったのも道はそうやって正しいかどうか確かめていくものであるからかもしれません。そうして自分でいくら善いはずと思い込んだとしても、そのどこかに我が入り混じっているかもしれない、気づいていないかもしれない、そう自戒しているようにも思うのです。

だからこそ無我の境地や素直な姿というのはいつも周りを信頼して今の自分を正しく観つめては道が正しいかを確かめていくのかもしれません。自分の中には、自我と真我が存在していて共存して日々の生活を送っているものですからどちらの自分も自分ですからこのバランスを維持していくには多くの矛盾を抱え込まないといけないからでしょう。

だからこそ、自分でバランスが取り難いのだから他人を頼り、信じている証として、まずは相手の話を傾聴していく姿勢を忘れないでいることのように思います。分からないときは道を尋ねる、不安なときは先覚者に習い道を訪ねていくのがいいのかもしれません。

道は一人ではなく、仲間がいるから楽しいように思います。この時の仲間は別にただ一緒に居る仲間のことではなく、何を信じて生きるかを持っている人たち、同志と一緒に歩んでいるのだという楽しみのことです。

距離も時空も場所も超え、正しい道を一つ心に歩んでいこうとすることが天にお任せしていく生き方なのかもしれません。学びを昇華し、子どもたちに少しでも自分を譲っていきたいと思います。

自立の勘違い

先日、自立の勘違いについて大きく気づき直すことがありました。
それは自分流というものを持っている人が自立を勘違いしているということからです。

例えば、自分流などという言葉は、自分では真似ていると勘違いするときに使う言葉です。実際は自分に自信がない人ほど自分流などというものでコピーではないものをコピーしていると勘違いしているからそう思っているのです。

一流の仕事を真似るや習うというのはどういうことかというと、その人の背景にある今までの体験を習うや真似るということに他なりません。表面上だけを似せてそれで自分はいいとなるのは、決して本当の真似ではないのです。

イチロー選手の振り子打法のコピーをしたといくら本人が思っていても、それは決してイチロー選手の真似とはいわないのです。イチロー選手がやっていることはその心技体全てに到達した本質をいい、それを自分もできると安易に勘違いしているのは大きな間違いだからです。振り子を似せてもなぜ振り子なのかの本質は真似していないからです。なので自分ではもうやれると先に思い込んで自分流で勝手にやっていても、本番になれば誰の目にも振り子打法の本質と全く違うことをしていることは明白です。

だからこそ、本当にコピーするのならイチロー選手が行った全ての本質を自分で”ものにしたか”どうかを自分でやりながら真摯に確認してこそはじめて自立できているかどうかの確認になるのです。これは武道の師弟関係のようなものと同じく師から弟子が己で学び己で習うのに似ています。

本当の習うというのは、その人が過去に取り組んできた練習や訓練の仕方、仕事で言えば取り組み方やプロセス、積み上げてきた修練などの全てを”自分のもの”にするために真摯に直向に習うことではじめて仕事の仕方が理解できてくるともいいます。習うというのは、鳥が親鳥のやってきたことと同じように体験を積み確認しそれをものになっているかどうかを見守ってもらうことをいうからです。

例えば、身近な例でいえば一流の経営者の仕事を真似るというのはとても至難のことです。

なぜなら、その一流の経営者は過去にどれだけ質の高い体験と経験、自分のリスクで修羅場や真剣勝負などを得て、膨大な量の知識と膨大な量の智慧を己から一流に習いものにしているから一流の仕事ができるのです。一流が難しい仕事を簡単にやってのけるのも、それは頭がいいからや能力が高いからではなく過去にそれに掛けた時間があったからです。つまり一流の経営者の仕事がわかっても、一流の経営者のように一流の仕事ができないのは一流の仕事の仕方を学んでいないからです。

なぜ人はこうやって自立の勘違いが発生する本質は、頼ることができないからです。

例えばイチロー選手に頼ることができれば、それを習うことができるようになります。それを一人で頑張り頼ろうとしなければ、単にコピーですからそれは自分流になるしかないのです。いつも大事な場面でイチロー選手をあてにしなくてもいいようになるには自分でできるようになるための真の実力をつけるしかありません。

本来の自立というのは、自分から信頼関係を築き、自分から習い、そして自分から頼ることができて自分でできるようになることではじめて自分で立ったとなります。

過去の教育や家庭環境から誰も信頼せず、一人で頑張り一人で立てることが正しいと間違った価値観を植え付けられた人たちが結局は一人で無理をしていつまでも自立を勘違いしてただ一人だけでやることを正しいと思い込んでしまうのかもしれません。

本来の一緒に取り組むというのは、それぞれが己でできるようになるという互いに認め信頼しているという証であり、それがあってはじめて社会の共生と自立を育んでいくのだろうと私は思います。

子どもたちに自立のモデルを志すからこそ、真摯にこのことは考えていなければなりません。

家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅最終日~

インドの旅も最終日に入り帰りの航空機内で独りふり返りをしています。

あっという間の充実した4日間で、まだ情報の整理などもできていませんが初めて訪問したインドとそこで暮らす人たちの話を直にお聴きし体験しより深く学ぶことができました。

人間の社会というものは、本当の問題を表面上の違いで覆い隠していくものです。本来は、自然に沿って何もしなくてもいいものを余計なことを手出しすることから問題を広げていくものです。何かを優先すれば、そこに歪というものは発生していくのが自然であろうとも思います。

だからこそ互いに歴史は異なれど本来の互いの姿がどうであったか、同じアジアの異国を観ながらが自国のことを客観的に改めて考えることもできました。

今回の旅では幸せの本質についてもテーマを持ち、同時に鑑み深めていきました。

そうした中でよくよくふり返れば、世界が異なったとしても時代が異なっても人が運命が異なっていても、幸せということについては万物共通して同じであるものを発見しました。これは人々は平等に時空を超えて幾世代もかけて私たちは幸せというものが何かにいつもそれぞれがご自分で辿り着いてきているから分かるのです。

そう考えれば、実は幸せであることが何のことかを忘れてしまうことから他人は不幸になっていくのかもしれません。

人は幸せを忘れないでいるのは、常に自分でいることができるからです。それは本来の自分がどのようであるのかを人は知るために、一生をかけて学び育っていくようにも思うからです。そうやって自分を知り、自分を使い、自分を活かすことは世界共通の幸福につながっているのだと私は感じます。

今回の旅の最期は、釈迦のこの言葉で締めくくりたいと思います。

「天上天下唯我独尊」

世界に一人だけの自分をその手にしっかり掴んで、我が幸福の道を歩めばいい。
幸せの本質を心に抱き、自分をさらに精進していきたいと思います。

物来順応~変化自在~

昨日は新年の祈祷と会議が行われました。
心新たに書初めをし、昨年のふり返りをして今年の方針を確認するのは大切な機会です。

私たちは根本が変わることがないので昨年に引き続き「リカンパニー」ですが、その他の課題は常に変化し改善していく必要があるので節目節目に確認することを大切にしています。 不易と流行ではないですが、何を変えずに何を変えるのかはそれは変化というものを正しく受け止めているからできることであろうと思います。

変化し続ける日々というのは、何をやめて何をはじめるかということの繰り返しです。
何度も何度も今までの習慣を新しいものへ変化させていくようなものです。

慣れてくるとマンネリ化してそのうちに本質が見失われてきたりするものです。
だからこそ客観的に間違いに気づけばそれを変えるという連続が今の自分を醸成します。

今までは要らなかったものでも、それがもう一度必要となったりもし、またはいくら苦手だと避けていてもそれは必ず通らないといけない道であったりもするのです。

自分の都合の良い道ばかりではなく、時には荊の道もあれば歩けないようなでこぼこの道もあるのです。それをちゃんと自分にばかり合わせずにもっと踏み込んでその道を楽しんでいこうと取り組む先にこそ変化の兆しを得るように思います。舗装された道路ばかりしかない今の時代にそんなところばかり歩いていても次第に面白くなくなっていくのかもしれません。

気づいたらその次には改善するくらいで居る方が考えすぎなくて心地好いのかもしれません。目標や計画、効果検証も期限を切るというものも、実際は道を楽しくするためにこそ用意するものかもしれません。

昨日は、その他に久しぶりに佐藤一斎の「言志四緑」からの文章に出会いました。

それは「物来順応」という言葉です。

これは剣の極意、武士道の在り方を示したものでこうあります。

「剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、これを動かすのには自然のままに動き、わだかまりなく実に広く万事万物にかたよることなく公平な公明正大であることである。これを静にするには、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。」

これは私の意識する「先待ち」という思想にも共通し、どのような事件があっても動じずに穏やかに処していこうとする錬磨修身の私の目指す生き方とも同じです。その境地へはまだまだ道は遠いですが、遠いということはそれだけ有難いことではないかとも思える日々です。

今日からはそれをいつも体現してくださる師と同行しインドに行きます。
どんな出来事が待っているのか、もう今この瞬間から旅のシンクロニシティに出会っています。

2013年のテーマ

昨年も本当に沢山の仲間に見守れながら学ぶ事ができた素晴らしい一年になりました。
我が道を往く中での出逢いは人生の彩りを美しく善いものにしてくれています。
迷ったこともありますが、それでも前進できることに幸せを感じます。

また今年も有難いことに師からテーマを戴きました。

どんな時もブレずに、道を歩み成熟していく姿に尊敬と信頼の念が深まっていきます。
一人で歩む道が、これだけ長く一緒に歩めることができて学びを共にできています。
離れていても心の中ではいつも見守り合っている人がいる。
これが道の楽しさではないかと思うばかりです。

今年のテーマは

「我を省く」

これは我を通そうとする心を省いていくこと、そういうものが無我につながっているという意味になりますが実践は自分との正対ですからこれからが楽しみです。真理もそういう境地ではじめて体得できるのではないかとも感じます。揺るがない信念の確立と共に、今年の柱に据えていこうと思います。

最後に、

故郷で冬の美しい月を観ました。

・・・雲の晴れ間には、あの透明な光と無数の星々。

自然というものに近づき、真善美を味わい尽くした人生を送っていきたいと思います。