愛着形成~故郷の存在~

今、古民家再生を通して郷里故郷のことを学んでいます。

故郷というものは、自分を形成した場所であり、自分の原点がある場所です。故郷にある懐かしさとは、先祖たちが子ども達のためにと遺してくださった深い愛情を私たちは心で感じているのです。

この愛情を受けて私たちは健全に育ちます。これを愛着ともいいますが、自分を形成する際に必要不可欠なものです。この愛着はどのようにつくのか、それは好きになっていくことでついていきます。つまり、好きこそものの上手なれという諺もありますが好きになるから自然に愛が発生し、その愛を纏うことで愛着ができるのです。

そして愛着を持てるようになるには、好きであろうとする努力と同じことが必要です。相手の美点をみることや、相手の持ち味を探すこと、相手が偉大な存在であることに気づくこと、尊重することで次第に好きは高まっていきます。

尊敬することも尊重することも全部丸ごと含めて「好き」の中には入っているとも言えます。古民家再生は、まちの景観維持でもあり、まちの暮らしの継承でもあり、まちの人々の心の伝承でもあり、まちの美しい豊かな自然を遺すことでもあります。近代化で壊れてしまった様々な歴史や文化、先祖の遺徳を丁寧に直し修復修繕していく中で次第に故郷への誇りと自信、愛を学びます。

故郷の再生は何か新しいことをやるように感じますが実際は会社を善くしていくこととまったく同じです。社員が会社を好きになれば当然会社は良くなっていきます。社員に好きになってもらう努力は経営者の最大の責任です。それに社員も一緒に一体になって会社を好きになることで御互いのことを好きになり誇りと自信を持ちます。会社もまた自己を形成した大切な思い出のワンシーンであり暮らしと切り離すことはできないのです。

だからこそ故郷が愛の原点であり、愛着形成は人々の故郷そのものなのです。

そう考えてみると一つ一つの思い出をどのような環境で自分が見守られてきたか、それを省みるとそこに偉大な愛が潜んでいるように私には感じます。見守るということの実践は、好きになること好きになってくれるようにここが相互主体的に努力することからはじまるのかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念にそって子どもに譲っていきたい生き方と働き方を実践によって深めていきたいと思います。

場とは何か1

古民家を再生していく中で「場」について考える機会が増えています。古来より「場」というものにはチカラがあります。その場を活かして人々は神事を行い、暮らしを実現させてきました。この「場」とは何か、これから少しずつ「場」について深めていきたいと思います。

例えば、山野に行き清らかな川のせせらぎの澄んだ空気の中で休んでいるとします。その時、私たちの心は清浄な気持ちになってきます。この時、自然が私たちに働きかけるものと私たちが自然を感得していく相互作用があります。つまりその時、そこには確かな「場」が存在しているということに気づきます。

この「場」は御互いの主体的な影響力によって高められます。これはもともと其処にあったものに自分が近づいていったのか、もしくは自分の心が感応してそれを創りだしていくのか、それはお互いの結びつきや繋がりに由って変化していくものです。

さらに例えるのなら、庭をつくるときその庭に対して自分がどのように関わるか、どのように美しく育てていくかと接していけばその庭は次第に変化していきます。そして庭が変化するとき、その庭には「場」が創出されます。そこには美しく育てていく仲間が集まり、一緒に育ち合い成長をし続けて「場」のチカラを発しています。

私たちは何もなかったところに「場」を産み出します。そしてその「場」が私たちに関わり始めます。つまり環境というものは、場の働きのことであり、場が働くということは人間と環境の相互作用によって発生しているのです。この相互作用は共に働き次第に相乗効果を産み出します。

この相乗効果こそ自然界のバランスのことであり、調和はこの場の働きによって行われているのが自然なのです。自然というものを感じるとき、自然は場によって創造される調和であることに気づきます。

自然農の実践において感じるのも、自然の様々ないのちが複雑に絡み合ってその土地の風土の中で私を含め一緒一体に暮らしていく中でその人を含めた自然の田畑が出来上がっていきます。ここには人と風土の一体感の中で発生した「場」ができたのであり、自然の働きと人の働き、その相互作用によって安心安全な作物ができ、風土の他力が働き相乗効果の「場」のチカラが発揮され続けます。言い換えるのなら、生き活かされる共生の場ができるということです。

人類が今、課題になっている協働や協力、共生や自立といった社会問題のすべての課題はこの「場」のチカラによって再生も回復もできるように思います。

子ども達にどのような「場」を譲っていくか、そして私たちがどのように「場」から学び直しをしていくか、見守られてきた過去の自然や歴史を省みながら温故知新していきたいと思います。

好循環の実践

古語に「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」があります。この言葉は江戸時代の大名で剣術の達人でもあった松浦静山の剣術書『常静子剣談』で出てくる言葉です。

これを紐解けば「道にしたがい、道をまもれば、勇ましさがなくても必ず勝ち、道にそむけば必ず負ける」と記されています。

この考え方は、百戦錬磨の場数を踏んだ実力のある人が持つ境地のことでありこの時の不思議な勝ちとは何かということです。この不思議というものを少し深めて見たいと思います。

不思議というのは私にとっては他力のことです。自分以外のチカラが働きそのチカラによって物事が動いていくということです。自分は何もしていないのに、自分の思っている以上のことが起きて結果的に勝ってしまう。まさに運の善さというか、好運をいつも持っている人は不思議なチカラでいつも幸福に恵まれていきます。また逆に何をやっても不運である人がいます、自分の力を頼り自分の力のみを信じてやっていてもいつも邪魔が入り負けてしまいます。この理由は何か、それはチカラというものの理解に由ると私は思います。

もともとチカラとは何か、それは自分が引き寄せるチカラのことです。それを王道や自然の道といってもいいかもしれません。どんなに自分が頑張ってチカラを入れていても、それが自然の流れとさかさまであれば動かすのは至難の業です。しかし、もしも自然の流れに従って重力や引力を活用し上から下へとチカラを活かせばほとんど自分の力を使わなくて頑張らなくても少しの工夫で自然に重たいものは動かせます。

このようにもともとあるチカラを用いることは自分の力ではなく、「御蔭様のチカラ」を活かそうとする考え方です。これを道ともいってもいいかもしれません、自然のチカラを使えるようになるには他力が観える必要があります。

例えば運の善い人がいます、まずそれは物事が動くのは自分のチカラだと慢心していない謙虚な人のことです。なぜ謙虚な人が運が善いのか、それは周りの御蔭様に気づいて感謝しているからです。周りが動いてくださっているからと周りが動いてもらえることに素直に感謝する心が他力を活かすことをその人に感得させます。その他力のチカラが観える人は、自分が何をすれば周りがもっと動くのかを知っています。これは自然に精通しているといっていいかもしれません、こういう無我の境地を持つ人はいつも真心を活かして真心を盡すことが出来るのです。

古語に「積善の家に余慶あり」という諺もあります。善いことを積み重ねていく人はいつもなぜか不思議なチカラが入り好運が起き続けていくということです。これこそまさに不思議の価値を知り、その不思議がいつまでも続くように謙虚に好循環の実践を日々家人たちが積みかさねているのでしょう。

また負けに不思議の負けなしというのは、全部自分に何らかの問題があるということです。負ける人は自分には非がない、自分のせいではないと、いつも自分の言い訳をします。また自分が言い訳をするのは自分がやっていると勘違いしているからです。御蔭様が観えない人には、自分がさせていただいているとは露ほども思わず自分がやっているから上手くいっているという勘違いをしてしまいます。自分がやっているのは、あくまで御蔭様の他力を引き出す努力であって自分がやっていることはないのです。人の道は、謙虚さや素直さ、また感謝の心でいることで道に従い道にそむかないことになることを言うのでしょう。

好循環の実践を行うことで確かな勝ちを積み重ねていくことこそ古今一流の流儀だと思います。世界でも通じる本物の実力者とはみんなこの共通の境地を会得しているように思います。

子どものためにも、どんなときにも好循環の実践を繰り返し積み重ね余慶を愉しみ真心を盡していきたいと思います。

京町家の心構え

昨日、1700年創業で12代薬業を商ってきた京都府下京区の伝統的商家の京町家泰家を見学するご縁をいただきました。ここ泰家は幕末の大火で焼失後明治2年に建てられた京町家です。

建物は築140年ほどになりますが、代々家に続いている暮らしや文化、その生活の本質は今もなお継続されその佇まいから家の息づかいを感じました。現在、郷里の町家再生に手掛けていますが家が喜ぶ使い方とは何か、家主としてどうあるべきかなど、子ども達のためにどのようなことを遺せばいいか、その他、秦様より体験からの示唆深い気づきを教えていただきました。御縁に深く感謝しております。

昔から日本には「場」や「間」、「和」という考え方があります。例えば「場」というのものには場力というものがあります。現在ではパワースポットとか言われ、ブームになって旅行するときの目玉になったりしていますが本来は「場」は日本人にとってなくてはならない大切な感性の一つでした。

自然界の中でも、土地にはその土地に場のチカラがあります。その土地のチカラを観えるようにして神社が建っています。また人が集まるところにも場ができます。この時の場は、人物によって場が醸成されます。松下村塾の吉田松陰なども同じく場を創造したとも言えます。

昔から私たちは暮らしの息遣いを通してその場を発酵させてきたとも言えます。私が郷里で行う高菜漬けについても、その自然農の田畑をはじめ漬物の発酵場、一年のめぐりなどを通してそこには確かに暮らしが誕生し「場」が創造されるのです。

この「場」のチカラというのは、自然のチカラの一つであり人間が本能的に持っている大切な能力の一つでもあります。今の時代はこの「場」というものをあまり活用せず知識や頭でっかちになり場を壊していることにも気づかないように思います。

例えば、無機質の狭い会議室の中で蛍光灯が明々としている中で語り合うのと、神社仏閣のような美しい境内で穏かな風や光、鳥の声や水の音、植物たちや木々に囲まれる中で語り合うのとではその「場」のチカラによって語り合いはまったく異なるものになります。

私たちは心を原点回帰するとき、もしくは平常心というものを取り戻す時、「場」によって活かされて心を研ぎ澄まして洗い清めていくのです。家というものは、家主がいてその家主の生き方や暮らし方、その日々の心の様相が永い年月で醸成され息遣いの中に残存して「場」が生まれるのです。

京町家といっても、今では外国人たちの間で町家泊がブームになり不動産をはじめ外国人の資産家がリフォームをして貸し出したり、ちょっと古く質の高い町家があれば飛ぶように売り買いされているとも言います。暮らしの息遣いの方には一切目もくれず、日本風の建物に泊まって雰囲気を味わってもらうことで旅行の目玉にしています。

観光の本来の意味はそのものの持つ徳性を発見しその徳性によって己を磨くことを言います。家には主がいますから、その主とその家人たちの暮らす「場」を実感し、その一家が持つ佇まいや息遣いを感じることが本来の家の学び方だと私は感じます。

私たちの会社も一家にして4年目になりますが、その家の人たちの生き方や日々の実践、家風とも言える家人の風格が次第に家を形成していくのを感じます。初代の当主が何を大切にして代々に初心や家訓を文化として継承してきたか、それをどれだけ永い年月をかけてその後受け継いだ人たちが大切に守り継承してきたか、その目には観えない永い時間のシステムの中に本当の真価が遺っているのです。そしてこの日本人の生き方こそが真の財産であり、国の宝です。

泰家のような国の宝に気づける国民性を育てることが、国を存続させることだと私は感じました。子ども達にとってこの古民家は、家が見守ることを伝承するものであり、家の中の暮らしが日本人としての原点を伝授してくれるものです。家は教師そのものなのです。家と教育は決して切り離すことはできないのです。

今回の訪問で子ども第一義における古民家再生の意義を改めて感じ直し身が引き締まる思いがしました。引き続き、何度も深めながら改めて家にある暮らしの息遣いから生き方を教えていただき、町家の原点、町人そして商人の心構えとは何かを学び直していきたいと思います。

本当にありがとうございました、今後ともよろしくお願いします。

観光の本質

時代と共に言葉の意味は変わっていきます。それはその時代の人たちの価値観によって言葉は変化していくからです。かつて使われていた言葉が、かつてと同じように使われていなければ同じ言葉でもそれは全く異なる言葉になってしまいます。

何かを深めていくとき、その言葉がどこからはじまったのか、その語源が何かということを調べることはとても大切なことです。それはその意味を自分なりに深め、なぜ今のような言葉になったのかの経過を知ることになり、そのものの本質を再確認することが出来るからです。

例えば、「観光」という言葉があります。この言葉は本来、中国にある「易経」の「観国之光」から抜粋された言葉です。意味は、直訳すると「他の国へ行って、良い点を見て学んでくる」ことになります。

この言葉が日本で使われるようになったのはちょうど幕末の頃、アメリカと条約を結ぶための使節団が乗った船に「観光丸」と名付けたことが、日本で「観光」という言葉が使われた起源であるとも言われています。そして大正以降、「tourism(ツーリズム)」の訳として用いられるようになり、昭和に入り観光は旅行や娯楽、遊興、物見遊山や見物のように使われています。平成になると、娯楽、遊興、余暇や余興を楽しむことのようにその意味は変わっています。

本来、この観光の意味する観るのは光、この光とは文化のこと。正確には「観國光」という意味であり、言い換えるのならクニに暮らす人々の精神性、生き方、生き様、さらにはその国の持ち味、徳性、美点、善いところなどを見極めることが観光の醍醐味でもあります。

人々がその土地に行き、観光をするというのはその土地の大切な文化を学び直すことです。そしてその風土の文化に触れて、その文化の美点を吸収し、善いところをたくさん学ぶために行う学問の実践ということです。

同じ言葉であっても今の時代の観光とかつての人々が行った観光が異なるのは言葉を見れば明白です。だからこそ、その土地や風土の観光を考える人たちは本来の意味での観光を見つめ直さなければならないと私は思います。

なんでも経済とばかり結びつけてしまうと、儲けることばかりや儲かることばかりで営利を優先して本来の観光からかけ離れてしまうこともあります。以前、ある観光地へ訪問したときその場所でお店を出している人たちはみんな都会から商売のためだけに週末にきて稼いで帰る人たちばかりで地元の人たちはほとんど誰もいませんでした。

いくら観光名所にしたいからと、本来の意義や目的が変わってしまえばそれは単なる娯楽場所で終わり行楽は流行がありますからいずれは廃れるのが目に見えています。その土地の文化、その美点をいつまでも錆びさせないように磨き続けて光らせ続けるのが私が思う観光の本質です。

古民家の再生をしながら、家をただただ磨き続けていますがその磨き続ける先に強度の未来が光ってくるようにも感じます。子ども達に美点や良い点、また徳性や風土歴史の素晴らしさを伝承していけるように暮らしの再生を実践していきたいと思います。

お祭りの真価

昨日、地元の神社の宮司からお話をお聴きする機会がありました。現在、過疎化や高齢化が進み神社での活動を維持することが難しくなってきています。かつては氏子という神社のある地域で暮らしていた人々が地域の発展に貢献し、祭祀を神職の人々ともに執り行ってきました。

例えばお祭りなども祭祀の一つで、日本では古来よりお祭りを通して地域の人々の心の穢れを祓い清め、仲睦まじく暮らしていくことを実践していたとも言えます。これは海外でいうイベントではなく、日本伝統的に古来より伝承した神事です。

このイベントというものは、主催者がいて新しく始めるものであり、それに対し祭りは昔からの風習であったり何かを祀るものがある際に使われる言葉であるといいます。なぜ今はイベントになってしまうのか、それは経済効果を狙って企画者がイベントサービスを通して提供者と受給者が分かれてしまうところに由ります。しかしお祭りは本来地域の人々と一緒一体になって行われるものであり、そこに提供者と受給者が分かれません。

つまりは皆が主体的に自発的に参加するからこそお祭りになるのであり、そのお祭りを通して人間関係を円満に保ち、先祖たちや祖霊への感謝の心を取り戻し己に負けないようにみんなで精進してきた実践でもあります。

今では神社でのお祭りも宗教だとされることもあり、宗教の自由を名目にお祭りを廃止させたり参加を禁じたりする人もいるとのことです。

昨日、宮司の言葉でとても印象的だったのが、「地域の神社の荒廃こそが、その地域の荒廃そのものになる。祭りがなくなれば地域がなくなる」と仰っていたことです。地域の祭りがあればコミュニティが発生し犯罪率も下がっていくという統計があります。祭りが地域を繋ぎ、祭りが助け合いの文化を醸成するのです。

今年は祭りを深めていますが、祭りの持つ本来の意味を考え直してみたいと思います。古来から私たちの先祖は祭祀を通して謙虚であること、素直であることを優先していこうと皆で助け合って暮らしを実現してきました。

暮らしが消失してきている今では、次第に地域での祭りも失われてきています。イベントは長続きせずその場限りで終わってしまいますが、人々の心の中にある感謝の心が祭りを継承し伝承させていきます。

もちろん地球温暖化とか、世界経済の悪化とか世界に目を向けることも大切ですがその足元にある地域のことを考えずに世界を語ってもそれは本質的に改善改革をしているわけではありません。

地域の文化、町並み風景などから切り離され繋がりや絆がなくなると人々は生き甲斐を失い急速に衰えていくといいます。今の日本がどこか元気がなくなり、挑戦する気風が衰退するのは地域が弱っているからではないかと私は感じました。

暮らしの再生は地域の再生でもあります。

目に見えない価値が分からなくなってきている今の時代、損得勘定では測ることができない徳の価値を再定義し、目に見えない価値を可視化していくことは私たちが古来から安心し勇気づけられた付加価値に気づき直すことです。

引き続き、子ども達のためにも何を伝承していくのか真摯に向き合い見つめていこうと思います。

 

 

省みること歩むこと

人は振り返ることで歩みを進めていく生き物とも言えます。この時の振り返るとは、単に再び思い出すという意味ではなく「省みる」ということです。日々というのは大きな変化の中で過ぎ去っていきます。その情報量は自分が思っている以上に膨大なものが入ってきており、その情報量を処理することも難しい時代になっているとも言えます。

しかしそのまま情報を処理しないままでいると心が忙しくなり、目の前のことしか見えなくなってしまいます。そうなってしまえば自分が何のためにそれを行うのかや、何の意味があって今こうしているのかなどの価値も感じなくなってしまうものです。また周りの人たちとの御縁や、自分の影響力なども気にならなくなってしまいます。

そういう時こそ、自分のやったことを一度省みることが何よりも重要だと思うのです。そうやって省みることではじめて、本当はどうしたかったのか、本来はどうありたかったか、また自分自身の改善と修養につとめようと思い直すのです。

江戸時代の儒者、伊藤東涯に「君子はおのれを省みる。人を毀(そし)る暇あらんや。」があります。(立派な人間になろうとする人はまず己自身を省みるものです。他人の文句や批評などをしている暇などはあるはずもない)といいます。

また論語にも「曾子曰わく、吾(われ)日に三たび吾が身を省(かえり)みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(とも)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」があります。

これは味わい深い言葉で、いつも内省をするときに自分自身はどうであったかと思うと未熟な自分が恥ずかしくなり改善しようと思い直すのです。これらの省みるということは、停滞していた自分自身を前に進めることであり、現実の今をあるがままに受け止め自分自身がどう変わっていこうかと感じることでもあります。

人は自分が変わることで、流れに身をゆだねていくことができます。それはまるで清流の中のたまりにつかまってしまっている落ち葉を水が押し流すように、朝靄の真っ白な景色が風によって吹き流されていくように、ふたたび歩みがはじまり時が進んでいきます。

忙しい時だからこそ敢えて省みることや、大変な時だからこそ内省を怠らないことこそが己に負けず己を活かす克己の工夫になっているように私は思います。

引き続き内省することの価値や大切さを、実践を通して周りを感化できるように日々に怠らず取り組んでいきたいと思います。

 

 

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

歴史との対話~先祖になること~

古民家再生を手がけていく上でいつも感じるのが先人たちの暮らしを感じることです。現在は文字を使って文章で物事を伝えようとしますが、先祖たちはそのほとんどを文字ではなくそのものと対話をして伝承し続けてきました。

例えば、古民家であれば家の柱と対話し先人がどのように組んだのかをその意味を感じ取りメッセージを感受しました。他にも生活の道具一つであっても、大切に使われてきた道具が何に使用されたのか、どのように物と接してきたかのメッセージも感受しました。

この感受したというのは、その物との対話をして直感していくものです。現代は、そのものとの対話をしないですぐに理解しようとします。説明書やマニュアル、文章がなければ使い方が分からないとしすぐに投げ出してしまいます。これは生き方の変化であり、そのものと対話をして感受感得し深めるということなしに簡単便利に誰でもわかるようなものが人気があります。勉強をするのもさせるのも速効性があり、すぐに誰でも平均化できるものがよく売れています。

しかし本来、その物の由来はかつての先人や先祖の恩徳そのものでありその方々がどんな真心や思いでそれを遺し歴史を紡いできたかというものを伝承するのが子孫の勤めでもあります。

それは決して簡単便利に平均化されたものを単に使えばいいのではなく、そのものの真価に触れて今の時代ならその真価をどのように再定義して活かそうかと温故知新することが今を生きる私たちの本来の使命だろうと私は思います。

そうやって伝承されていくのが文化であり、文化のない単なる文明の利便性だけを追求するのなら歴史と対話することがなくなってしまいます。なぜ歴史が必要かということが分からないで今を生きているというのは誠に滑稽な話です。この歴史というのは、そもそも先祖と対話をするために遺すのです。私たちは歴史に触れることで今を感得し、今の自分があることの意味を知ります。知識だけが膨大に増えて何でも分かった気になり知ったかぶってみても、その本質を感受感得していないのはスキルだけが上塗りされる中身のない薄っぺらなものです。

歴史を学び直すのは、歴史と対話していくことです。そして歴史と対話することは、先祖になることです。

先祖の暮らし方に触れ、先祖たちは子ども達を深く愛している真心や愛情を感じない日はありません。先祖たちが子ども達のためにと実践してくださったこと、里山然り、古民家然り、自然に逆らず福を惜しみ少しでも子孫へ渡せるようにと気遣ってくださった姿に恩徳を感じます。

子ども達である私たちが歴史と対話し感受感得するものは先祖たちの恩徳であるべきでしょう。

私も先祖の一人として、先祖として子ども達に生き方を譲り恥ずかしくないような暮らしを実践していきたいと思います。子ども第一義は、実践躬行にこそありますから引き続き家から生き方を立て直していきたいと思います。

 

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。