準備不足の本質

今の時代は便利になり、衛星から雲の様子や天気の状態などを分析し天気予報を配信しているとも言えます。今日明日から、一週間先くらいまではそれらの動きを見ながら予測することができています。

しかしこの予測が必要なのは、近くにあるイベントの準備などで用いられますが農家や漁師、その他、自然を相手に働く人たちにとってはここ一年から数か月先まで予測して準備をする必要があります。

自然農や炭実践をしてみて気づくのが、かなり早い段階から準備しておかなければ本当の意味で自然を予測することができないということです。例えば、作物であれば昨年の状況や田畑に生えている雑草、虫たちの状況、動物の様子を観察しながら蒔き時や場所のことを考えていきます。また炭であれば、薪を乾燥させるのに3か月から1年ほどかかります。

本来の未来予測というものは、予測が分かるから準備をしなくていいではなく準備することが予測になっているということです。この先、どうなるのかをある程度想定し、そのためにできうる準備は全て行うというものです。これは人間の持っている本能の力をよく使わなければなりません。前者のものは本能を使わなくても知識があれば使えます。

一見、知識で行うものの方が優れているように感じるものですが目先のことばかりに苦慮しては対処療法ばかりするのが果たして本当に便利かということです。以前、オランダに訪問したとき、コンビニが少ないということで不便だと思っていたらオランダ人にとってはコンビニは準備して買おうとしなくなるから私たちにとっては不便だということであまり増やさないと聞いたことがあります。

似たような話でブータンでは化学肥料をほとんど使わない「世界最先端の環境立国」と言われますが、これも化学肥料の購入のために他国に依存する方が不自然だという考えを持っているからです。

実際に、時計を外してみたり、天気予報に頼らないで、自分の感覚を使ってみるととても便利なものでその御蔭で自動的に様々なことを直感的に理解して準備が進みます。そのあとに知識を使えばより正確に精度の高い予測ができるようになります。

人間のもともと持っているチカラを使わないのを便利というのは、相当頭の怠け癖に刷り込まれているということかもしれません。時間がかかることを優先したり、手間暇をかけることを大切にしたり、面倒くさいということでもやってみると自ずから自分の本能や感性が働いていることに気づくものです。

そして自然を相手にするのなら、人間の心を相手にするのなら、それは敢えて日本では不便というものを選んだり、非効率というものを味わったり、皆が捨てていくものを拾ったりすることで自然の本能や感覚的直感は研ぎ澄まされるように思います。

人の心に関係する仕事も、同じく自然の一部です。心は頭ではないのだから、真心や思いやりというものも敢えて自らが苦労を背負い込み、自分を後回しにして利他に人事を盡していくことで自然と同じように予測ができ準備に専念できるものです。

準備不足というのは今の時代では畢竟、頭だけで考えて計算することであり、準備万端というのは心を遣って頭で考えることを言うのでしょう。

自然から学ぶためには、自然がどうなっているのかを知識ではなく体験で身に着けるしかありません。そしてそれは日本の伝統技術や伝統文化の中にも反映されていますから、そこから学び直すことも大切なことのように思います。

準備でバタバタしないように、丁寧に準備を続けていきたいと思います。

2016のテーマ

昨年も本当の多くの方々の御蔭様と見守りをいただき無事に一年を過ごすことが出来ました。光に影が付き纏うように、常に自分が生きて周りに活かされていることが存在しています。私たちは一人では決して生きられず、生物非生物に至るまであらゆるものの存在の御力をいただきこの世に存続することができています。

このように当たり前の存在ではない、「有難い存在」にいついかなる時も気づける自分でいようと思っていますが、恵まれすぎると足るを知らなくなるのが人間の慾です。

よく考えてみると、全てを必然と思えるかということが足るを知り今に感謝する妙法なのかもしれません。人はこんなはずではないと物事に不平不満を思うより、これは何を教えてくださっているのか、何を与えてくださっているのかと謙虚に素直になるのなら物事は全て必然であることしか発生していないと気付くものです。

どんな禍も転じて福にしていく生き方というのは、運命を信じて天命を守り人事を盡すということのように思います。そのためにも日々に分相応を守り吾唯足知の境地を得るために今年も御蔭様の実践を精進していきたいと思います。

昨年は、「時代に翻弄されず初心を忘れない」ことをテーマにしていましたが、その初心や理念に見守られた有難い一年を過ごすことが出来ました。今年、メンターからいただいたテーマは「もののはじまりを知る」ということです。

これは時代時代で変化が著しく人は翻弄されてしまうものです。例えば、新しいものが入ってくると古いものが否定されたりしますがそれが新しいか古いかではなくそのものが何であるのか、つまり本質を常に捉えることが大事なことだと私は聴きました。

そしてその時、伝統とか、伝承、文化とか、始まりを知ることが、翻弄されないためにとても効果があるとのことです。なぜならどんなに新しく発見されて過去のものを否定されたとしても伝承は否定されることがないからです。この「もののはじまりを知る」ことは、大元が一体何かということを知るということです。そしてそれを知ることこそが初心であり、本質を守ることです。

時代が変わっても、道は太古の昔からはじまりずっと今に繋がっています。

そしてそれを鑑みると今此処に繋げてくださった多くの方々の御蔭様がいつまでも息づいていることに気づき感謝の念がこみ上げてきます。降り積もるこの葉をかき分けて先人たちの足跡を観て学び、その真心を丁寧に継承し子ども達に譲っていけるようまず自分たちが初心を忘れないで実践を高めていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

祈りの実践

先日、あうん健康庵にて有難い真心の籠った最幸のおもてなしをいただき私たちにも一生の思い出ができました。御縁は本当に有難く、「祈りの力」という小松先生の著書のタイトルに惹かれて知人からご紹介をいただいてから自然治癒ということの本質について深めることができています。

そもそも「いのり」というものをどのように定義するか、そこに祈りのチカラを自覚するかどうかの差異があるように思います。日々に「祈りの力」を実践するものこそが、その祈りによって世の中が働いていることを知る様に私は思います。

かつて「代表的日本人」を著し、世界に日本人の徳を弘めた内村鑑三が「聖書之研究」の中で「祈りの特権」という語録を遺しています。

『人は窮すれば人に頼む。人の援助を得て窮地を脱せんとする。そして人の援助の絶えし時に行詰りたりと云う。彼は、おのれに祈祷の特権あるを忘れるからである。何がなくとも祈る心はある。これさえあれば、われに万物ありである。』

私の意訳ですが、「人が困窮すれば誰かに助けを求めそれが尽きた時、行詰るといいます。しかしこの時、自分には祈りがあるという実践、その初心を忘れているからそうなるのです。どんなものが不足しても祈る実践はできないことはない、つまりこれさえあるのなら自分には万物が足りているのです。」

人は祈ることを忘れることで困窮していきます。言い換えれば祈らないから困窮するのです。この祈りというのはピンチこそ祈るのではなく、やはり日々に初心を祈ることのようにおもいます。この祈りの特権というのは、人が素直になり謙虚になる唯一の方法です。困窮して行詰るのは自己中心的で自利にばかりに心を奪われてしまうからとも言えます。もしも利他に生き、三方よしの全体のためにと人事を盡して天命を待つ生き方をしているのなら困窮ではなく天から与えていただいた試練だと感じるものです。

それは「試されごとは頼まれごと」という言葉もありますが、それだけ天が頼ってくださっていると感じる感じ方もあるのです。試練は「初志」を鍛錬し、「初心」をも研磨してくれますからその試練によって人は養分を得て養生し成長するとも言えます。

話を戻せば、祈りの力というものは日々に初心を忘れない実践を行ういます。それは理想を信じる中で魂を純粋にし、魂のままに遣りきっていくことに似ています。

世界には同じようにこの世に産まれてきて何かを直感し、生き方を変えて一隅を照らしともに世の中を明るく美しくしようと実践する方々が沢山います。そういう人たちと一緒に祈り続けるのなら、いつの日か必ず人類は目覚め安心の世の中を築いていくはずです時、大事なことは真心と思いやりを忘れずに一緒にいつまでも祈りの実践を行うことのように思いますそうすることでたとえ時代り変わっても伝承され継承され、その祈りは永遠になり無限の刻を歩み続けていきます。

「祈り」は人間に与えられた「至大至高の叡智」であるということです。

最後に内村鑑三はこう締めくくります。

『祈祷の哲理を解せずといえども、祈祷の実力を知る。われは弱き人である。されども祈祷の人である。ゆえに強くせられ、また人を強くすることができる。大なるかな、祈祷の特権。』

未来がどうなるかは、今の自分の祈りの実践によります。倦まず飽かず怠らず、精進を続けて子どもたちの未来のために祈りを積み重ねて研ぎ澄まし、祈りそのものに近づいていきたいと思います。

心が優先

今の時代は知識が豊富になり、何でも解決方法をインターネットをはじめ本を読んですぐに活用することができます。しかし同時に、優先順位が求められている時代に入ったとも言えます。

例えば料理をする際、食べたいものを考えてレシピを検索します。そしてレシピをみたすぐにその通りに料理をすればある程度はおいしいものはすぐにできてしまいます。つまり頭で考えた通りに頭で近づけていくことができるとも言えます。その際、注意する必要があるのは先に心を優先してから頭を使っているかということです。

ここでは頭と心という言い方をしますが、頭でいいなと思ったことをやるのではなく、まず先に真心や思いやりを優先しその後にその具体的な方法として頭を使うという意味です。今の時代は知識が豊富になり便利になることで心は使わず頭だけでやっていることが増えたとも言えます。

便利か非効率かではなく、心を優先しているかどうかということが大事なことなのです。

心を入れずに頭で生きていくことは確かに便利です。面倒であればあるほど心のチカラは生きてきますが、簡単便利であればあるほど頭は動いていきます。電気一つスイッチを入れればすぐに暖房がついて暖かくなるのと、薪や炭で火をおこし暖めていくのでは時間も労力もまったく異なります。しかし前者は心は使わなくてもすぐにできてしまいますが、後者はそこまでしてやりたいかというくらい時間も労力もかかり不便なものです。

頭で考えていてもコツは掴めませんが、心を優先して頭を使うことでコツは身に着いていきます。そうして心を遣って行動することを優先し、それを知識で深めていくことができるようになってくると自然との向き合いが上手になってきます。

先ほどの暖房一つでも、スイッチ一つで暖めるのか、手間暇かけても火をおこし暖めるのでは実践していることが異なります。自然を相手に日々に取り組むことは心を高めて五感を磨くことと同じです。

これからは機械がより高度に発展し、ロボットや人工知能が人間の代わりに働きはじめる時代ですからなおさら感性を磨き、人間にしかない直感を研ぎ澄まし、人間力を高めていく必要があります。それが心を優先するということです。

心を優先する訓練というものは、自然を相手に暮らしていくことです。発酵を学んだり、御米や野菜を自然に育て、生き物たちを慈しみながら一緒に生きていくことや、生活の中で必要な道具をかつての親祖からの伝承を学び直し受け継いでいくことも心を優先する実践になります。

もちろん情報化社会ですから頭脳を磨くことも大切なので、新しいものの価値もまた身に着ける必要がありますがそれは心が優先しての話です。心が優先しない技術や知識というものは本当に危険極まりないものです。それは自然を相手にする危険とは異なり、まるで欲の化け物を相手にするような危険が伴います。

人類はどう自分に打ち克つかというのは歴史の教訓の中で何度も気づかされます。栄枯盛衰、どんな文明も必ず滅びました。それは心が優先されなくなって滅んでいくのが分かります。真心や思いやり、仁とも言いますが時代が変わって技術がいくら進んでも大切な優先順位は間違わないぞというその時代その時代の人たちの信念が未来を決めているのでしょう。

子ども達のためにも、何を優先して生きていけばいいか、今の大人たちが変われば子どもが変わり、子どもが変われば未来もまた変わるのですから常に自分自身に矢印を向けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

徳の御姿

先日、私のメンターの先生と10年目のテーマを確認する機会がありました。もう毎年毎年、この時期にテーマについてご挨拶をしテーマを共有し一年を振り返り10年にもなりました。

自信というものは決して結果に対してつくものではなく、自分の決心したことを実践してやり遂げる中で自ずからが信が積み上がっていくものです。私にとってはこれだけの期間に色々なことが起きながらも自分の信じた初心を貫くことができた御蔭様に心から感謝ともに自分に対する信頼にもなりました。

徳の高い先生と、道を一緒に同行できることは何よりも人生の仕合せです。

人は徳が磨かれ人格が高まれば高まるほどに道ができます。なぜならその徳に人が慕って集まってくるからです。私の尊敬するそのメンターの先生も、この10年以上御傍でご一緒していく中で多くの人たちが集まってきました。今でも全国各地から、いや世界からその人望を慕って人は集まってきます。不思議なことですが、自分が外に追い求めていかなくても自らが実践に由り思いやりや真心、その仁の姿を示すなら道中の同志たちが集まってくるように思うのです。

「桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す」

これは中国の司馬遷、「史記」にある故事です。桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。つまり徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえで使われます。

自らを研鑽し、自らの徳を高めることで道は自然に姿かたちを顕現させます。

有難いことに、道中の中で物言わぬ道が何よりも学びを深めてくれます。人に出会うことは徳に出会う事であり、徳を学ぶことは道を歩むことです。

その人物の価値というものは、どのような生き方をしたか、そしてどのような生き様であったかということに尽きるように思います。そしてそれはその人の徳が顕すものです。如何に日々を生きるかが、生き様ですから一日一生と日々に初心を生き続けることが本来の人生を生き切ったということでしょう。

子ども達や次世代のために、今を焦らず弛まず己に打ち克ち、「桃李不言下自成蹊」と実践していきたいと思います。

感性を磨く3

ここ数日で感性を磨くということを書いていますが、その感性は何を砥石に見立てて磨くかによって磨かれ方も異なります。先日、天然砥石をいただき来年から研ぎをはじめますが感性に通じる磨きがあります。

二宮尊徳に「天地の経文」があります。

「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」

二宮尊徳は書物や人から学ばず、常に自然の声を聴いて学んでいたことが分かります。日々に繰り返される天地自然の御姿をお手本に誠の道とは何かを自問自答することで学び直しを続けたとあります。

本来、感性とは自らに具わっているものです。なぜならそれは自分も自然の一部であり、自分も宇宙物と一体であるからです。人間だけを分別し、他のものと分けてしまうことの中に本当の問題が潜んでいるように思います。

人間というものは天地自然の一部にして、周りの全てのものと同化しているものという視点に立脚するのなら自ずから学びの対象は自分自身になるのです。本来、離れてはならないものと離れてさも分かった気になって自分の都合のよいものを師にして弟子にしてもそれは道理から離れていくものです。

創始の人々は、すべて自然から学び、自然の技術を道具にしてそれをもって能力を磨き感性を研ぎ澄ませてきたともいえます。創始の人々と同じものを見つめる心は、自分自身の感性を創始の人々に近づけていくことと同じです。

私たちの感性は知識によって磨かれるのではなく、自然によって磨かれるのです。その自然が知識で見ている自然であればそれは自然ではありません。空を見て空とし、雲をみて雲と理解し、太陽を見て太陽と理解し、月を見て月と理解する。こんなことでは本当の自然を理解することは絶対にありません。

そのものをそのままに感じる心が感性のことです。言い換えるなら、空は空と見ない、雲は雲と見ない、太陽は太陽と見ず、月も月と見ない。つまりはそのままの姿をそのままに受信し感応する心に耳を傾けて声を聴くのが感性です。

感受性を高める教育などと言われ、何を思ったか教科書を使い自然まで知識で教え込もうとしますがこんなものが果たして感性を磨くとは私には思えません。

感性を磨くには、感じる力を高めていくことです。それは耳を傾けることです、そして声を聴くことです。そういうことを素直にできるとき、人はその感性が磨かれ自然一体の素直で謙虚な姿に近づけるように思います。私が尊敬する空海も二宮尊徳も、また吉田松陰も、その他様々な先祖たちが実践してきた自然に学ぶ姿に今も心が融け合っていきます。

子ども達のためにも、何をお手本にして学び直していけばいいか、その刷り込みを取り払う環境を用意していきたいと思います。自然から学び直すことで、直感を養い、感性を高め、道理を学び、思いやりや真心を実践できる人に近づいていきたいと思います。

感性を磨く2

昨日、感性ことを書きましたが「直感」や「勘」はコツを掴んでいくという言い方もしましたが自然に触れ自然の智慧を会得することでその感性もまた磨かれていくように思います。

身近な自然物を使い、道具を一つ一つ拵えていくことは自分自身の中にある本能や感性を呼び覚まし研ぎ澄ますことになっていくものです。

先日、島根にて注連縄づくりの伝承に参加する機会がありました。稲藁を束ね、ねじり、巻き、そして結ぶことを取り組む中でチカラの入れ方を学びます。一つ一つの道具の中にはとてもシンプルですが何をすれば自然のチカラを活用できるのかをカラダを通して体験で直感して体得していけます。

これは五感を使って自然のチカラを活用し道具を創る中で身に着く智慧とも呼んでもいいのかもしれません。

かつて日本民藝館を設立した「柳宗悦」に「見て知りそ、知りてな見そ」という言葉があります。これは知ることを先にして見ることをあとにしてはならないという意味です。よく「考えるよりも感じろ」という言葉もあります。知識ばかりを先に掴み、そのあと智慧を掴もうとするのは無理なことです。

本来は智慧があってそれを知識で深彫っていくことが学問の楽しさであり、やってみて実践し行動してみて内省し反省し改善することが「コツ」を会得していく使命の活かし方のように思います。

今の時代は、知識ばかりが豊富で知っていることや分かった気になってはそれが安心だと勘違いしている人がいます。不安の解消と絶対安心とは異なるものであり、同じく信じる世界は知る世界とは異なるものです。人はなかなかそれまで身につけてきた知識を手放そうとはしないものですから、感じるチカラはますます減退していきます。

その柳宗悦の日本民藝館に「直感」の大切さについて語られている文章があるので紹介します。

「自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすものであった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。」(日本民藝館HPより)

この刷り込みのない無我の境地のすがたは、透徹された素直さによって顕れるように思います。素直さというのは人間の能力でもあります。どれだけ素直に自分が物事を直感できるかは、日々の暮らしの中で感性を磨いていく脚下の精進に由ります。太古の昔から無駄の一切ない完全体の美しいものを直感する感性や、素晴らしいものを産み出す感性は、自然の美意識や自然の活用技術によって会得していくように思います。

感性を磨いていくことはもっとも大切な人間力を高める方法かもしれません。

かつての親祖たちが産み出し創ってきた道具の中に、日本人の中にある感性の原点、自然美を私は感じます。引き続き子ども達に日本の中に遺る自然美、そして日本人の心に宿る美意識を伝承してその魂を譲っていきたいと思います。

感性を磨く

人間には「感性」というものがあります。

この感性とは生きていく上でとても重要であり、その感性が時代の先を読み、周りの人々を倖せに導いたりします。つまりはリーダーの資質の中で何よりも大切な能力であるように思います。そしてその資質には、素直さや自然環境を通して学ぶという謙虚さがあるように思います。

最澄の言葉に「おのずから住めば持戒のこの山は、まことなるかな依身より依所」という言葉があります。自分をどのような環境に運ぶのか、リーダーは常にその感性を磨くための精進を欠かすことはありません。私が風土を探訪して山に学ぶのもまたその直感を研ぎ澄ませていきたいからです。

人は本来、環境から学ぶ生き物です。その環境からカラダで学び、「勘」や「直感」というものを会得していきます。それは知識ではなく智慧であり、経験や経年を積んだ中で磨かれた感性のことです。よく「直感」で物事を決めていく人は、頭が良いわけではなくその人は磨かれている感性を持っているということです。そして感性とは鈍るものですし、感性とは磨くものですから感性に対する精進を怠るなら当然「直感」もまた冴えなくなってきます。

そしてこの「直感」や「勘」というものは具体的な「失敗の質量に比例する」ように思います。つまり、体験をし失敗をし何度も何度も繰り返し改善する、その勇ましい挑戦と、七転び八起きの逞しい生き方によって次第に磨きがかかり研ぎ澄まされていくのです。感性を使ってるというのは言い換えるのならば「五感をフル動員」して自分も持つ全てを出し切り使っているということです。その集積で得た境地のことを「コツを掴んだ」とも言います。

つまり心を澄ましたり、魂を磨いたり、真心を盡したりという行為は全て感性が関わります。その感性は機械やロボットでは持ちえないチカラであり、人間が人間たる由縁でもあります。そういう感性を磨いていくことは、自然の一部である自分自身の本能を使っていくことでもあります。

今の時代はすぐに知識ばかりを優先し、直感や勘というものを少し見下げているような風潮があるように思います。しかし本来は、自然の中で生きている私たちに感性が磨かれていなければ実際に悠久の永い年月に生き残ることはできなかったように思います。

敢えて厳しい環境の中に身を投じたり、敢えて苦しい環境の中で手間暇を惜しまないのは、その環境の中で感性が研ぎ澄まされていくことを自覚するからです。失敗を恐れずに何度も何度も場数を踏むのが大切なのはこの「直感」や「勘」のコツを掴むために必要なのです。

子ども達が何度も何度も繰り返しやってみては泣き、やってみては笑うのは、これらの感性を磨いている証拠です。子どもから学び、子どものような学び方を思い出し学び直すのは全てその悠久の年月で得て来た智慧に回帰することのように私は思います。

子ども達と同じように一生感性を磨いていきたいと思います。

自物一体~勿体ない~

昨日、石見銀山にある他郷阿部家にお世話になる御縁がありました。暖かい真心のおもてなしに懐かしい原風景を感じました。石見銀山は世界遺産にも認定されていますが、かつての風土の中にある暮らしがいつまでも遺るというのは先祖たちの生き方が遺っていることでありそこに日本人の心に触れると安心するのは原始の魂に触れるからかもしれません。

神話の昔から、何を大切にして生きてきたか、そして親祖たちが子孫へ譲ろうとして来たものが何か、「根」に触れるということは初心を伝承することです。初心は伝える側と承る側がいて存在しますから、どのような初心を持っているかが伝承の本質です。

昨日はここで不思議な体験をしました。

巷には、物が溢れ物が氾濫する時代だとも言われます。しかし本来は、物は有難い存在であり物は魂が宿る存在です。その物に魂が宿ればその物は語り始めます、それを物語と言います。

物語を語るものは全て伝承者であり、それを聴く私たちもまた伝承者です。生物非生物に関わらず、語りを聴けるというのはその真心に日本古来からある大切なものを譲られていることに気づきます。言い換えれば御縁のつながりというのかもしれませんし、さらに言えば縁結びの心、道理だと「循環の理」と呼んでもいいのかもしれません。

私たちは物を大切にすると思う時、物より高いところで語られることがありますが実際は物と同じところで物を大切にしているかどうか、それは無我の境地というか無から有が生まれそこから空間が出来上がるように無に没頭することで物の美の真価を味わうように思います。

つまり物を大事にというのは、自物一体の境地のように思います。勿体ないという意味も、そのものに入りそのものとなるという「ものづくり」の真心です。

物事、物語、物造、そのものが何を語るのかを素直に聴ける感性こそが空=間によって磨かれていくのかもしれません。「美しい」と感じる心は、空間の美、勿体ない中にこそ存在するように思います。

まだ触れたばかりでこれからの実践になりますが、ここでの暮らしの生き方を見習い、実践を学び直していきたいと思います。

また最後に、石見銀山の風土から山と暮らし、山を見守り、山と暮らしてきた歴史を直感的に感じ、”お山と語り合う”ことの大切さをはっきりと気付かせていただきました。

有難うございました。

クニの真玉~光と初心~

かつてクニ造りのはじめに、「大国主」と「少彦名」の二人が私たちの繁栄の礎を築いたと古事記や日本書紀にはあります。大国主がクニをどのように治めていけばいいかを天に問い、海から光の玉と共に顕れたのが少彦名です。

この二人はまずこの国の理念を定めます。それは大国主の様々な物語がその生き方を示しています。因幡の白兎の話、その後の黄泉の国での素戔嗚との話、クニ造り、クニ譲りとどんな人物であったのかはその神話から想像で近づけます。

そして参謀でパートナーでもあった少彦名と共に、その徳の統治の手段を「医」と「農」によって行います。これは今の言葉に直せば、「医」は養生の在り方、そして「農」は暮らしの在り方を示します。

少彦名については、農業技術、のみならずあらゆる産業の祖とされその方法を伝授し国を富させました。この親祖はカミムスビの子であり「天津神」といって天照大神と同じく、天界の神様の一族です。その少彦名との出会いがなければ、大国主は国を繁栄させることはできませんでした。

古事記と日本書記にはこうあります。

「百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙る」(古事記)

「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)

つまりは、全ての人々がこの少彦名と大国主の御蔭様で元気に幸せに暮らしていくことができていると示します。この二人がいなければ、私たちのクニははじまらず存在すらしなかったということです。それくらい重要な人物こそがこの少彦名です。そしてその少彦名は国の発展と共にいなくなります。少彦名がお役目を終えこの世を去ると、大国主が一人でどうしたらいいのかと途方にくれます。すると三輪山の大神山にて光の玉に再び出会い、少彦名に出会った時の「初心」を思い出し、下記のような天津神の太祝詞を唱えます。

「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸(さきわ)いたまえ」

ここに、何を祈っていけばいいのかをはっきりさせ、少彦名のいなくなった後もクニを治めていく覚悟を決めるのです。

出雲は今でも根のクニ(島根)と呼ばれます。私たちの暮らす島の根があり、その根とは心の故郷のことです。心の故郷に真心はいつまでも伝承され、いつまでも遺る神話や遺跡から先祖たちが私たちに譲ってくださったものが何かを感じるとることが出来ます。

時代が混迷期に入るとき、人は初心に帰る必要があります。今のクニにもっとも何が必要か、これからの未来の子ども達に私たちは何を譲り遺していくのか・・・。

もう一度、少彦名と大国主の実践したことを省み、私たちの故郷にある真心を学び直していく必要を感じます。光の玉によって気づくとありますが、この光の玉は真玉と言い、これは真心のことです。

光る真心とは徳のことであり、民を思いやり、その声を聴き、衆智を集めることによって全ての発展の理念としたということです。孔子が仁の政治を説きましたが、この神話を聴いたらなんといっただろうかとおもいを馳せます。

今の私たちの先祖には脈々とはぐぐまれた徳の血脈が遺っています。

根の心に触れて、また新たな心で御縁を深めていきたいと思います。