相性

いい人が集まってくると、またいい人が集まります。このいい人とは、相性のいい人のことです。この相性は、ウィキペディアには「相性(合性、あいしょう)とは、二人ないし複数の人間が各々持つ性質や性格が合うかどうかのことである。転じて、機械部品などの物に対しても、組み合わせが良い・悪いという場合に相性という言い方をする場合がある。」とあります。

相性のいい人が集まるというのは、それぞれの個性があって組み合わせが善いことをいいます。

色々な人たちが集まるというのは、それぞれの役割が組み合わせられ自然体で活躍できるということです。そう考えてみると、お互いに居心地が善い関係とはそれぞれの個性が認められ尊重されている関係です。

この人はこんな人だからと、丸ごとその人の個性を尊重できるというのはお互いを尊敬する関係があるかどうかです。その尊敬の関係とは、その人の持っている善いところを観て、いい人だと実感することにあるように思います。

人は色々な側面を持っています、性格も人によって異なります。

ずっと相性がいいことが仲がいいわけではなく、相性には悪いもあります。その相性の良し悪しが相性の本質ではなく、違っているからこそみんないい人と思える日まで謙虚さと平常心を磨いていく必要があります。

社會というのは、実は誰もが必要です。

必要のない人はこの世に一人もいません、それは人を産み出した存在が自然であり神様のようであるから必ずそこに意味があり、全体をつながっているご縁があるからです。

ご縁を大切にする人は、いい人、いい時機、いい出会いと別れを大切にします。

子どもに学び、子どもを見守る世界をあたたかく育てていきたいと思います。

心待ち

昨日は、聴福庵の箱庭にある紅葉などの剪定を行いました。つい冬の時期の剪定をするのを忘れてしまい、初春にして虫や葉などで大変になりますが今年は無事に剪定できました。

どの木々にも特性がありますから、タイミングを外さずに手入れをしていく必要があります。特にタイミングはどれも事前にというのが特徴ですから、四季折々の時機を見逃さずに如何に心を使って「待つ」ことを楽しめるか。

暮らしは待つことで豊かになりますから、現代のようなスピード社會において待つこと待てることは大切な暮らしの実践項目です。つまり「待つ技術」を持っている人ほど、仕合せを感じやすいということでしょう。

例えば、待つことでいえば神仏に拝むというものがあります。日本人は、予祝といって先に感謝をしてその時を待ちます。「おめでとうございます」という言葉もまた、先に待っている言葉です。

すでに素晴らしいことが起きている、偉大な恩恵をいただいている、だからこそないものを見ずにある方を観ることで「芽出度い」ことが誕生していることを知る心で待つのです。

焦ったり不安になったりすると人は待つことができなくなります。うまく待つためには、プラスの方、いただいている方、すでにある方を観る訓練が必要です。もうないと観るか、まだこんなにあると観るか、それは心が決めるからです。

日本の暮らしの中には「もったいない」という思想があります。これもまた、ある方を観ることで感じられる心持ちです。豊かさはその心持ちが決めます。物がたくさんあってもまだ足りないと増やす人と、すでにこんなにあると足るを知る人。同じ人間でも心持ち次第で別人になっていますからそれは暮らしの中に顕れてくるものです。

暮らしを充実させていくというのは、その心持ちを豊かにしていくということです。日々の小さな仕合せを噛みしめていくことや、待つことの喜びを暮らしの中に見出していくことだったりします。

先ほどの紅葉であれば、この時期は水が少なくなりますから葉を落として春を待ちます。乾燥する空気の中で水分を維持することが難しいから葉を落として枝だけで蓄えた水分で乗り切ります。水を多く含み、それを出すから夏場はお庭を清涼にしてくれます。

紅葉と一年を共にするとわかるのですが、春の新緑の瑞々しく初々しい姿に心癒され、夏の生い茂った深い緑に心が洗われ、秋の紅葉の美しく物寂しい姿に心が落ち着き、冬の枝に飛来した鶯や鵯が鳴いている姿に未来への心待ちを感じます。この豊かさは、「一緒に」共生しているからこそ味わえるものです。

真の豊かさはあらゆる生命と共生し合い、そこで貢献できる喜びを味わうときに実感します。人間が仕合せを磨くのは、自然と共に生きるときです。

子どもたちにも、自然が共にあるように先人の智慧と伝統と文化を伝承していきたいと思います。

藁葺の甦生

来週は、いよいよ郷里の藁葺古民家の屋根の修繕を行います。阿蘇の茅葺工房の植田さんと知り合ってからもう3年以上になりますが、地蔵堂の藁葺はわけあって中止になりましたがそれが別の形で古民家の修繕でご一緒できることになり仕合せを感じます。

この藁葺や茅葺は、日本民族の循環の文化の象徴そのものであり私は日本が風土と一体に暮らしてきた証であると考えています。かつての日本の農村にはこの藁葺や茅葺がありましたがこれは家を守るだけでなくその地域の自然を守ってきたのであり、共同体としての日本民族の生き方や生き様を顕現したものなのです。

そこで暮らす人たちが、如何に自然と一緒一体になって地域を育て守ってきたか。千年以上、いやもっと前から自然と共に暮らしながらお互いに助け合い仕合せを紡いできた「場」がこの藁葺や茅葺の農村には感じられます。

明治以降になり、自然から離れた暮らしを行うようになりこの藁葺も茅葺もなくなりました。今の時代こそ、本来の日本人の自然から学び、自然と暮らし、自然の恩恵を分け合い育んできた智慧を甦生する必要性を感じるのです。

茅葺職人の植田さんが住んでいる阿蘇は、「九州の水かめ」と呼ばれている場所です。草原には、年間2500mm以上の雨が降ります。この水が阿蘇のあちこちから湧き水として出て九州の中、北部にある6本の一級河川になります。そして九州全体の自然と生態系を育むのです。まさに九州のいのちのゆりかごが阿蘇の草原なのです。

その草原を1000年も前から人々が大切に守ってきたことで、人間のみならず多くの生き物たちのいのちの循環を保育してきました。この日本人としての営みや生き方が、ふるさとの美しい原風景を遺し、子孫まで末永く豊かな暮らしを伝承してきたのです。今、その日本の農村文化の象徴とも言える日本の草原の数々が、失われようとしています。

もしこれらの草原がなくなれば、いのちの水かめとしての役割が失われます。手入れしているからこそ守られてきた人も含めた自然が、単なる野生の森になれば自然との文化が消え人間もまた生活できないような環境になり消えるのです。

これは農村の棚田などもそうですが、人間が里で自然に手入れして共生するからこその循環の豊かさであり、それがなくなれば単なるコンクリートジャングルのようになってしまうか、いつかは人も住めないような廃れ荒れた土地になってしまいます。

暮らしというものの本来の価値は、自然と共生して多様な生き物と一緒に豊かに生きてきた先人の叡智を子孫へつなぐことです。その象徴を守るというのは、私たちの暮らしの原点を思い出すということでもあります。そして本来の場づくりというのは、暮らしあってのものなのです。

カグヤではここ数年間、ずっと暮らしに力を入れてきました。それは子どもたちの未来のためであり、誰かがこの伝統文化をつなぎ、そして紡いでいく役割が必要だからと誓ったからです。文化は途切れればそこで失われてしまいます。たとえ小さな細い糸であれ、誰かが子どもにつなげばそこから復活することもできます。しかし、切れてしまえば二度と伝承できないのです。先人の智慧とはそういうものなのです。

この取り組みは確かにお金にはなりません、どちらかといえばお金ばかりを使っていることで会社の利益であれば損をしているばかりの事業でしょう。いや、事業と呼ばれるものでもないかもしれません。

しかし子ども第一義の理念を本質的に磨こうとしたら、子どもに遺し譲りたいものを守ることは私たちの本業であり使命ですからなんの迷いもありません。私たちは子どもの事業で収益をいただいている企業だからこそ、その御恩を未来の子どものためにできる限り還元していくことは当たり前のことだからです。

生き方と働き方の一致、他にもカグヤでは色々なことを掲げていますがそれが単なるお題目にならないように真摯ににこにこ顔で命懸けの取り組みに邁進していきます。今年も、理念研修が藁葺の甦生ではじまれることを有難く思います。

草原を守り、里山を守り、文化を守り、子どもを守っていきたいと思います。

 

自己免疫

コロナウイルスがあることが当たり前になっていく世の中になってきましたが、これからは温暖化も進み、第2第3の疫病が訪れることがあるかもしれません。その都度、ワクチンが開発されるかもしれませんがそれがすぐに追いつくわけでもなく、それにワクチンが効かないものもでてくるかもしれません。

そう考えていけば、自ずから何をすべきか。それは人間の持つ自己免疫を高める暮らしを行うしかないことはわかります。この自己免疫を高めるとはどういうことか。

現代人は、この自己免疫を高めるということをあまり学んできていないようにも思います。それは食生活が乱れていたり自然と共生する暮らしから離れていることでもわかります。

本来、先人たちはどのように免疫を向上させてきたのかをもう一度学び直す必要を感じます。

例えば、伝統食というものがあります。

今ではあまり人気がない食事になっていますが、実はこの伝統食こそが長く生き残るために編み出された先人たちの智慧の結晶であることはわかります。玄米、味噌、梅干し、鰹節、そのほか、その土地で産み出された数々の旬の郷土料理。まさにこれが一物全体、身土不二の原理原則に適っているのも明白です。

むかしの人の食、特に主食とは健康を維持するために摂取されてきたものです。今のように、人間の都合で快適な生活、大量の薬やサプリなどがなかった時代、私たちは病気になるということを非常に恐れました。病を得るというのは死に至る直前であり、如何に病にならないような暮らしをするか、つまり未病ということに全神経をとがらせて対策を講じてきました。

未病とは、病にならない、もしくは病を初期の状態で恢復させて健康にする。つまりは健康というものは病と行き来しますからバランスが病に偏らないような生活を維持していくことに注力したということでしょう。

そしてもう一つ、気づきにくいことですが大切なことがあります。それは笑うことです。むかしの日本人は、日々にニコニコと豊かに楽しく仕合せな雰囲気をみんなで醸し出していました。そういう生き方を大切にしてきたのです。

中村天風さんにこういう言葉があります。

「どんな名医や名薬といえども、楽しい、おもしろい、うれしいというものに勝る効果は絶対にない。」

これは笑うことこそ、免疫を向上させるもっとも大切なことであることを証明しているのです。自分自身が楽しく、嬉しく、面白く生きている人は、若く見えます。若く見えるだけではなく、まさに若々しく瑞々しいいのちが躍動しているのです。そしてそういう人はよく笑います。毎日が、イキイキし、いのちが輝くからです。

人間は必死ですからいつかは死にます、だからといって死ぬまで暗くなって生きるのか、それともイキイキと楽しく生きるのか、それは心掛け次第です。先ほどの中村天風さんは、末期の肺結核を自力で平癒されました。この自力というもの、真の主体性こそが免疫を向上させる秘訣なのでしょう。

免疫を如何に高めていくか、これからの時代はまさに人間の暮らしの原点回帰です。私の取り組む暮らしフルネスはその原点を学び直し、もう一度、先人のDNAを甦生させて現代の人たちが安心して仕合せに暮らせるような智慧を復古起新することのためにも必要です。

今年も、日々の暮らしを見つめ直しながら子どもたちにつなぎ譲り結びたいことを実践していきたいと思います。

 

先人の智慧

新年に入り、神棚や御守りに感謝し新しくしています。本来は、信仰のカタチですから信心していることが大切でありそれぞれの家ではそれぞれの信仰があるように思います。

古来からの書物や文化を深めていると、信仰の伝説や物語が地域地域にたくさん残っています。そのどれもが、私達に信仰することの大切な意味を問いかけるものが多く、まさに信じる者だけが救われるということを教え諭しているものです。

今日は、ちょうど正月三日目ですが平安時代に天台宗の座主を務めた慈恵大師良源という方の命日です。そこから元三大師(がんざんだいし)と呼ばれています。この方は角大師(つのたいし)と呼ばれていて、疫病を退散させる護符として有名です。

今のコロナウイルスのように永観2年(994)の頃も、疫病が猛威を振るいました。日本ではウイルスも神様の一つですから、その疫病神が角大師にとりついたときその疫病神の姿を鏡に写しその姿を弟子に描き写させて、お札にしたものが効果があると信じられ疫病よけの護符になって今でも家々に貼られているといいます。

科学的にはとても信じがたい話で、そのような護符に何の意味があるのかと思うのかもしれません。しかし、自らが疫病に罹りそれを退散させ人々の苦しみを一身に受け容れて引受け、人々を救済したいと祈る真心にその当時の人たち、またそののちの人たちも感動したのかもしれません。

そしてその真心に見守られていることに感謝していると不思議と免疫が高まったりする効果もあったのかもしれません。信仰や信心というものは、不思議なものがあり病気や治癒に大きな影響を与えることは科学で証明されなくても様々な実証事例で証明されています。

人間は自己免疫がありますから、免疫を高めるような暮らしを行い、運を善くするような日々を丁寧に用心深く紡いでいくのなら難を避け、禍を転じる力を得るように思います。

これは一つの智慧であり、知識では及ばないものです。

私たちは古来より智慧というものを大切にしてきました。その智慧は理屈では到底及ばない世界のものを奇妙な仕組みで道理に結ぶことです。智慧を得ることができる人は、先人の遺徳を偲び、真摯にその教えや導きに感謝して学び、実践によって心魂を磨き続けている人です。

智慧は知識ではないというのがポイントで、何回も何回も一生懸命に日々の実践を積み重ねて磨き続けている中で直観して感得するものです。そしてそれが信心や信仰の本質であり、その日々の実践が深い人ほど信心と信仰が深いということになります。

私のこのブログもまた、一つの信心や信仰のものです。子どもたちの未来のためにと、信じて続けて綴るだけです。いつの日か、この慈恵大師のように真心で磨いた智慧を子どもたちの未来を目覚めさせるようにできればと祈ります。

コロナウイルスはまだまだ猛威をふるいます。禍転じてどう福にするのか。私たち人類は真摯に歴史に学び、先人たちがどのように乗り越えて今があるのか。よく観察し反省し、これからの未来へ挑戦していく必要があります。

その自戒を籠めて、今年も実践を削っていきたいと思います。

育徳

先日、訪問したある学校の校庭に「育徳」という言葉を見かけました。これは四書五経の一つ、易経の中で使われている有名な言葉です。

「彖曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。」(山下に出(いずる)泉(いずみ)あるは蒙(もう)なり。君子もって行(おこない)を果たし徳を育(やしな)う。)の中にこの育徳があります。

文章の意味は直訳ですが最初に山から出てくる湧き水はとても小さくか弱いものでも次第に他の大きな流れが入ってきて合流し、それがやがて大河のようになり大海になっていくという意味です。大器晩成と似ていますが、時間をかけてじっくりと徳を涵養していくことの大切さを説いたものです。

この育という字は、子どもがお母さんのお腹の中にいる象形文字です。自然にお母さんの中で育っていきカタチになっていく。まさに小さな存在からあらゆる徳をいただき大きな存在になっていく、つまり自然に大人になっていくということです。

徳は自然に存在しているもので、空気や太陽な水のように私たちにとってはなくてはならない偉大な存在です。その存在の中で、私たちはじっくりとゆっくりと成長していきます。息を吸って吐いているだけでも私たちは徳によって育まれているともいえるのです。言い換えるのなら、まさにこの呼吸こそが徳のなすことの意味を顕しています。

何度も何度も丁寧に呼吸をすることで私たちはその空気によって徳が涵養する。だからこそ私たちは呼吸を日々にととのえて丁寧に暮らしを紡いでいく必要があります。空気が化学物質に汚染され、感染症でマスクをして、閉塞感がある息苦しい世の中だったとしても、敢えて丹誠を籠めて呼吸を整えて徳を養うのです。

私たちはこの世にいるだけで、徳を磨いています。なぜなら徳を磨くために生まれてきたのが私たちの使命の本懐だからです。そうやって徳は日々に育てられていますからどのような一日であったとしても、私たちは呼吸を已めるその日まで徳に見守られ育てていただいているのです。

この徳に見守られているこの世界で自分らしく自分のいのちを存分に心のままに生きていくことが恕されているのです。無条件に自然が私たちを育ててくれるように、この世は無条件に偉大な愛情を与えてくれます。その中で、いのちが「育つ」ということの側面に常に「徳」があるということなのです。まさに天の無限の慈悲慈愛を頂戴しているのです。

そしてこの天の真心は決して已むことはありません。この今も、私たちのいのちを支えて見守り続けてくださっています。だからこそその徳に報いていこうとするところに、私たちが人間として真に学び育つことができるのです。それが育徳の本質だと私は思います。また同時に徳を磨くというのは、徳に磨かれているということです。

畢竟、人は真に徳に感謝できる人になるとき、私たちの人格はある処の高みにまで磨かれたと言っていいかもしれません。

玉磨いて光るとき、徳もまた薫ります。

来年もまた、偉大な徳に見守られながら子どもたちを見守っていく一年にしていきたいと思います。

ありがとうございました。

原点回帰

人は何かの判断をするとき、もっとも大切になるのは原点回帰です。そもそもの原点は何だったのか、複雑に広がり分類分けられていく繁栄のなかでその根に回帰するということでしょう。

私たちは根本というものを忘れると、迷うようにできている生き物です。枝葉末節にこだわっているうちに肝心要を手放して滅んでいくのは、歴史が証明しています。時間が経つと陳腐化したり執着したりするのは、私たちはそれくらい原点から遠ざかっていることを示すものです。

例えば、経営においても理念や初心というものが本来存在します。つまり何のためにそれをやるのかという原点です。その原点からはじまり時間の経過とともに、少しずつ原点からあらゆるものが派生して増大していきます。本来は、増大するとき同時に削り取りながら磨きあげていく中で本来の存在は強く逞しくシンプルになっていきます。

会社であれば、別に社員が大勢いる必要もありませんし売り上げ規模や利益が拡大すればいいわけではありません。どれだけ本質を磨き続けているか、時代の篩にかけられても変化し続けているかが原点を守るための試金石になっているのです。

時代の面白さというものは、変化できる豊かさです。今ならこうやればいいという具合に、原点さえ忘れていなければ多様な選択肢があり組み合わせを楽しんでいくことができます。そして、ご縁によってあらゆる人たちとの組み合わせを味わいながら豊かに創造を刷新していけます。

原点と志さえあれば、根っこが養分を吸い上げて甦生していくようにまた元氣を取り戻してその時代を華々しく輝かせていくことができるのです。

人間はいのちを輝かせていくことで仕合せを感じます。だからこそ、温故知新や原点回帰は人間の真理であり法理そのもので揺るがないものです。

来年は、さらに原点回帰を楽しみ子どもたちにその生き方を伝承していけるように維新の実践に取り組んでいきたいと思います。

心の鎮座

来年の歳神様をお待ちする室礼も無事に終え、聴福庵も場もすべて整って鎮まっています。あとは、後回しになっていた自分の書斎だけですがこの場もここ数日で清浄にしていくのがとても楽しみです。

今年は、場づくりに真摯に取り組んだ一年になりました。場づくりは土づくりと同じで、作物があろうがなかろうが、収穫があろうがなかろうが、丁寧に丹誠を籠めて整え続けていかなければなりません。

庭の草取りや、古い物の手入れのように、すぐに効果が出ないようなことであっても根気強く真心で取り組んでいく必要があります。それは心や気持ちの整理でもあり、そういう暮らしを通して人ははじめて人として落ち着いてくるものです。

この落ち着いた暮らしというものは、心の静寂と共にあります。聴福庵は私の人生の実践道場ですから特に凛とした空気がいつも流れていてそこには永遠の時が沈んでいます。この時の沈みとは、常に静寂を保っている時が場に深く鎮まっているということです。イメージでわかりやすくいえば、海の深いところに沈殿している動かない闇のようなものです。

先日、先祖が代々霊感の強い家系に生まれて貢献されてこられた方が來庵され「ここはまるで神社そのものであり神々が鎮座している場所でずっと鳥肌がおさまらない」と仰っておられました。そう考えてみると、今年は霊感の強い方がたくさん來庵され皆さんが一様に神々が鎮座されていると仰っていただいた一年でした。

私は特別何かのスピリチュアル的な活動をしているだけではなく、新興宗教をしているわけではありません。会社に神家総本家と和名をつけていることと、私に固定概念が少ないことから一部の人たちからは変人や狂人、怪しい教祖ではないかと言われたこともあります。

しかし、この神々の鎮座においては私が言っているわけではなく周囲が言っているだけで私本人は暮らしフルネスの実践を淡滔滔と続けているだけです。それが結果として心の静寂を場に投影させ、それが何かしらの存在や気配を感じさせその鎮まった場所で心が落ち着いて何かを感じられているように思います。

この「心の鎮座」というのは、本来は日々の暮らしの中でととのえていくものです。

心が荒廃し、乱雑になっていけば静寂はありません。静寂は、清浄と共にあり、場を清め続けることで鎮座します。人間は精神性を研ぎ澄ませていけば自ずからその真っ白で純粋な境地、また透明なセンスを身に着けることができるように思います。

冬の澄み切った夜空の月の光のように、私たちはその心を内面に持っています。その月を曇らせているものを取り払うことが私たちの暮らしの原点であり、暮らしを充実させていく原理原則なのです。

来年は、暮らしフルネスを知ってくださる方が増えていくように思います。どのように伝わり弘がっていくのか、日々に法螺貝を立てながらじっくりと静かに出る月を待ってみたいと思います。

徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。