物語の意味

物事には必ず物語がついてきます。その物語は、短期的にはわからないものですが長期的になればなるほどその物語の本質が現れてくるものです。

これをご縁ともいいます。

そのご縁は決して偶然ではなく、先祖代々、長い時間をかけて刻まれてきたもので同時に結ばれてきたものです。それを時空を超えて、今の私たちが体験してつながりを確認するとき物語が現れてくるのです。

なぜこの人と出会うのか、なぜこのような体験をするのか、突き詰めて深めていけばその原因は必ず過去の何かに行き当たります。だいぶ前、つまり生まれる前のこともありますから思い出すのは難しいものがあります。しかし辿っていけば、偶然とは呼べないあまりにも不思議なことに巡り合うのです。

まさにここに物語があります。

物語があるということは、ご縁があるということです。だからこそ大事なのは、物語があるということを感じる感性を磨いていくことです。その感性が磨かれている人は、ご縁を大切にします。そしてそのご縁の意味を時間をかけて丁寧に紡いていきます。そして現れた意味に対して素直に従い、結実させていくからです。

良いか悪いか、正しいか間違っているか、メリットがあるかどうかなどは物語においてはたいした問題ではありません。物語があることにこそ意味があり、物語を紡いでいくことこそが人生の意味になる。

一期一会というのは、その時に生まれた言葉なのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にして子どもたちに繋がりを託していきたいと思います。

人道間具

情報化はいよいよ進み、5Gの時代が到来します。すでにスマートフォンでさえもそんなに速度の遅さを感じませんが、さらにこれよりも1000倍以上の情報量が短時間でやり取りできるようになります。

人工知能は、ディープラーニングによってほとんど人間の認知に近づいてきています。人間の持つ能力にどれだけ科学は近づけてきたか、まさにこのディープラーニングこそもっとも人間が智慧や法則を編み出すための仕組みの源泉です。人工知能にその仕組みを持たせるというのは、これで誰でも簡単便利に知恵を発見できるようになります。

そもそも人間と道具の関係性を歴史から紐解けば現代に起きていることも不思議なことではありません。どの時代も時代の最高の哲学者であり達人たちが、その時代の至高の道具を生み出してきたからです。

つまりその時代、その道を究めた人が、その道に必要な道具を発明するからその二つが相まって科学は進歩してきたのです。人間と道具の質が一致したということです。これは伝統文化の甦生をはじめ、様々な古い道具に触れている中でまさに道具を知れば、その使い手の力量を知ります。つまりその使い手次第で、その道具は人間の叡智にもっとも近づく存在になっていくということです。それだけ人と道具の智慧は一致するということです。

そしてここで重要なのは、何よりその「使い手」次第であるということです。いい使い手は、いい道具を使う。この使い手は、まさに人間と道具の一体、「人道間具」と言ってもいいかもしれませんがそれくらい切っても切り離せない関係なのです。ここからいい人間にしかいい道具が使えないのも自明の理です。

現在は、脳が急速に発達していますからそれに合わせてもちろん人工知能も追いつきます。そして人工知能は人間の知能を超えるほどに近づいています。しかし、それを使うのはあくまで人間です。使う側が人間だからこそ、人間が人工知能よりも深く学び、感じる力を高めなければいくら高度な人口知能があってもそれを活かすことはできません。

人間のディープラーニングとは何か、それは先人たちが私たちに譲り遺してきた「直観」のことだと私は思います。私は特に直観に従うタイプですから、事物を深く感じ取り、内省し、遠くからの先祖のご縁を感じ、世界のあちこちで起きることを自然から感得します。この直観は、時代を超え、場所を超え、空間を超え、叡智としてビジョンが現れます。それを結ぶことで新たな直観と出会うのです。

こういう人間自然の叡智、ディープラーニングを信じることなしに、この先本当の意味で人工知能は活かすことはできないと私は予見しています。だからこそ、日々にあるがままの自分の天与の才を信じ、自分の持っている持ち味に磨きをかけ、運命を面白がっていくことで学びはより深くなっていきます。人間はもう一段、学び直す必要があることが科学の進歩によって提言されているのです。

時代が変わっても、変わらないものは常にあり、変えていく必要があるものは常に自分自身であることは変わりない真実です。どんな天命があるのか、子どもたちの道筋が示せるように楽しみながら歩んでいきたいと思います。

働くということ

現在、世の中では働き方改革など声高に取り組まれていますが本来の人間らしい暮らしは何かということは議論されていないように思います。日々に忙しく、只管に仕事三昧の日々を送ることも一つの豊かさかもしれませんが同時に豊かさとは自然を味わうことであったり、繋がりやご縁を愛おしむことであったり、暮らしを楽しむことであったりも人生の豊かさです。

働くことだけにフォーカスするのではなく、もっと人生の豊かさについて考えることが具体的な働き方改革になるのではないかと私は思います。

仕事は人生を豊かにしていくものの一つ、そして仕事で出会った仲間たちや同志たちがより一層人生の彩りを美しくしてくれるものです。

私の人生を振り返ってみても、人生で出会ったご縁ある人たちが私の人格を形成するのに大きな影響を与え、一つ一つの思い出が今の私の価値観を育ててくれました。

様々な種と出会い、実り豊かになることで私たちは次の種を蒔いていきます。

社會はそのように、豊かさの種子をみんなが蒔いていくことで多様な花々や実をつけて自然の森のように育っていくものです。

貨幣経済ばかりを追い求め、国家のGDPに貢献するためだけに息抜きもできないくらい働くなかでそもそもの働く目的を忘れてしまえばそれは働くということの根本的な改善になることはありません。

何のために働くのかは、その人の初心であり目的であり動機です。それがまずちゃんと根本や原点に帰れるものかどうか。そしてそれをみんなが忘れないで大切に働けているかどうか。

お互いに見守り合うことで助け合い、認め合い、働き合う。人生を共に生きる仲間としてお互いに豊かにしていくことが働くことの本質だと私は思います。

子どもたちが大人たちの働き方をみて、自分たちの未来の働き方の参考にしていきます。より豊かに仕合せに生きていくためにも、ご縁を大切に一度きりの人生を多様な人たちと初心を忘れないで働いていきたいと思います。

前人未踏

先日、故郷の古くからの同志であり戦友から「前人未踏」というエールをいただきました。改めてこの言葉を噛みしめていたらとても感慨深い気持ちになりました。この前人未踏とは、辞書には「今までだれも到達していないこと。また、だれも足を踏み入れていないこと。 」と紹介されています。

到達できなかったのか、到達しなかったのか、神秘的な場所はこの地球上にもまだ存在します。人類は、進化の偉大な道程の中でその前人未踏の場所へ踏み込み道を切り拓いていきました。数々の困難や恐怖があっても、持ち前の好奇心と勇気で新しい一歩を踏み出したことで今の私たち、つまりは未来があります。

その未来に向かう途中には、それまで誰かが通ってきた道、誰もが通る道、また誰も通らなかった道、そしてまだ誰も到達していない道があります。どの道を往くのか、それはその人の生き方が決めます。

最近、息子のバスケットボールの練習を一緒にやっていますが前人未踏といえばバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダン選手がいます。まさに優勝、MVP、得点王で前人未踏、その生き方が言葉に現れます。

「何かを始めるのは怖いことではない。怖いのは何も始めないことだ」

「私は失敗を受け入れることができる。しかし挑戦しないことだけは許せないんだ」

「あることを夢見る人もいれば、やりたいと思う人もいれば、それをやってみようとする人もいるんだ。」

「気持ち半分でやることなんて出来ない。結果も半分になってしまうからね。」

「仕事をこなすからこそ報酬が得られる。人生にショートカットなどない。」

「自分に期待することではじめて物事は可能になる。」

挑戦するということは、成功失敗に関係なく成長するためには必要です。人間は挑戦し続けたものだけが、その前人未踏への道を切り拓いていきます。大切なのは、最後の最期まで挑戦し続けたかどうか。

わからないこと知らないこと、そしてやったことがないことが続きますが自分の直観と信念、真心や子ども心、好奇心と初心を守るために前へと足を踏み出し続けて周囲の勇気になれたら仕合せです。

ありがとうございます。

 

面白い人

先日、天神祭でご縁のあった逆手塾の和田芳治さんがお亡くなりになりました。昨年お会いしてからまるで流れ星のようにあっという間に光り輝いていなくなられました。私にとっては、とても大きなご縁になりあの唄声や温かい励ましの眼差しや声が心に響き続けています。

いつかは私も天に帰る時が来ますが、その時までいただいた言葉を大切に胸にしまいその言葉をお守りにして歩み切っていきたいと思います。

今回、弔辞の中で「時が過ぎてみて時がわかり、友が去ってみて友がわかる」という言葉を知りました。いるときはあたりまえだと思っていたものが、いなくなってはじめてその存在の大きさを知る。

本来、私たちはいかに大切なものに囲まれて生きてきたかそれを忘れるものです。あるのものがあたりまえになって、それ以外のものを追い求めようとする。しかし本来は、あるものは得難いものばかりであたりまえではないことに気づけばそこに確かな仕合せや幸福はあります。

ないものねだりではなく、あるものに感謝するから「面白い」と感じるように私は思います。和田芳治さんは、私に面白いことをやること、自分が楽しいことをやることの価値を見せてくださいました。あの頃より、今はその意味が確かに観えています。

人生というものは一度きりなのは誰もがあたりまえに知っています。しかしそのあたりまえに気づいているか、なくなってみてわかるでは遅すぎるのです。二度とないからこそ、如何にその人生を喜びに満たしていくかは生き方次第、自分次第なのです。

悔いのない人生を送ろうとするのは、挑戦を続ける人生を送り続けるのはきっと、私の中にそのあたりまえがあたりまえではないことに気づいている自分というものがあるからかもしれません。

先に逝った同志を偲びつつ、私も今回の人生でやるべきことをやり切ってからまたお会いしたいと思います。ご指導ありがとうございました、ご冥福を心よりお祈りいたします。

和のまま

一つ一つの日本の古来の伝統文化を深めながら本物を学んでいくとそこに共通している「和」というものを学びます。頭で見知っている和ではなく、日本の古来から大切にしている確かな「和」というものを学び直すことができます。

この「和」は、自然と一体になった人間の智慧の結晶の姿であり私たちの先祖は自然のままに暮らしてきた歴史を道具からも感じることができます。

最近では、和風といって和ではない和っぽく見えるものが当たり前に流通していますが和と和風は完全に異なるものです。

和風は見た目だけ和っぽく見せることができるのなら、それは和風ということになります。和ではない和風に、日本人がなってしまうことはとても残念なことです。特にインバウンド熱が高まり海外から大勢の方が日本の文化に学びに観光に来る中で、どこもかしこも和風のものばかりを見せて本物だと信じ込ませてもそこに価値を感じてくれるのだろうかと疑問に思います。

何が和で何が和ではないかがわからない人が和風という言葉で都合よく取り繕ってもメッキは必ず剥がれていきます。何を変えて何を変えてはならないか、まさに温故知新を実践する人だけがその本質が理解できているからです。

明治以前の先祖たちは、和風にしたりすることはありませんでした。すべて和のままでした。和のままだから、その時の道具や建造物もまた和のままです。さらには生き方も、働き方も、そして衣食住すべてが和のままでした。だからといって時代に流されて和風にしたりすることはありませんでした。あくまで和にしたのです。

その証拠に明治のころの建造物や様々な道具は、和のままで存在しています。現在のように洋でもなく和でもない、洋風、和風のようにそれっぽく見せる大量生産消費型の手間暇がかからない便利なものはありませんでした。

和がわかるというのは、日本人として生きるための何よりの前提です。そのために、幼少期から和の家に住み、和の文化に触れ、和の生き方を学び、和の精神を身に着ける。和というのは何かというのを、空間や場所、先人たちに触れてその感覚を伝承していくことです。

何でも早く便利に海外の技術を持ち込んでくれば進歩になるわけではありません。本来の和で調理し、和の文化に昇華していかなければ本物の進歩ではない。和のままであることにこだわることは、この時代を生きる世代の責任だと私は思います。

引き続き子どもたちの未来のためにも、取捨選択し、和風ではなく和の生き方を貫いていきたいと思います。

新しい日本民家

伝統的な日本家屋というものは、高温多湿の夏が過ごしやすいようにできています。高温多湿というのは、身体への影響が大変多く熱射病をはじめ喘息、リウマチ、むくみ、下痢、食欲不振、倦怠感などから様々なカビ類などの雑菌の病気、ダニの繁殖による皮膚病、また水虫など問題が発生してきます。漢方でいうところの水毒という問題が発生します。

それに食べ物が腐りやすく食中毒の原因にもなったり、さらには木材が腐り白蟻が来たりと水による問題をどう乗り越えるかは日本の風土の課題でした。そのため日本の家屋は夏仕様になって建てているとも言えます。

徒然草の中で吉田兼好も「家の作りやうは、夏を旨(むね)とすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり」と言っています。つまりは、夏仕様ではない住居は決して耐えることができないほどに不快であるといっています。

現代では、夏は涼しく冬は暖かい家屋を建てようとします。日本の風土が夏が蒸し暑く、冬も寒いですからもし両方快適にするのなら自然を無視して建てるしか方法はありません。

自然を無視して建てるというのは、自然をシャットアウトした建物にするということです。高気密高断熱の住宅にするということです。これは夏は涼しく、冬は暖かいことをウリにしていることでもわかります。私は東京で住んでいる家はマンションですが、完全にこの高気密高断熱です。ですから、空調や床暖房がないとまったく生活することができません。なぜなら気密性が高すぎて夏の暑さは殺人的であり、冬の寒さは凍てつく大地のようです。魔法瓶のように熱しているものが冷めにくく、冷めたものが温まりにくいというものがこの高気密高断熱です。

そのためには常に電力や機械を用いて、熱をコントロールし夏は除湿器を、冬は加湿器を使わないといけません。その時は一時的に快適に感じても、体は自分で体温調節したり調湿したりすることをしなくなっていきますからそのうち次第に弱い体になっていきます。健康というものを優先するとき何をもっとも大切にするか、それは家の建て方次第で多大な影響を与えるのです。

本来、自然と調和する生きものである私たち人間もまた風土の気候にDNAも合致して健康は維持されていくものです。何百年も砂漠で暮らしてきた人が、いきなり日本に来ると大変ですしまたその逆もしかりです。

つまり生き物はその自然に適ったものが健康にも適っているということですから、如何に日本の風土に適しつつ、どこまで便利なものを導入するかというバランスが住まいをデザインするときに求められるのです。

私は偶然にも運がよく、田舎の日本の伝統家屋での暮らし、都会の近代住宅の暮らし、そしてその両方を併せ持つエコログハウスでの3つ巴の暮らしを今でもしています。そのことからそれぞれのメリットデメリットを知りつつ、暮らしに最適なバランスがどこにあるのかというその中心を掴むことができています。

これはメリットもデメリットも活かすという発想で、伝統職人さんが道具を使い分けるように今の時代の日本民家を甦生するのです。これからやってみたいことは色々とありますが、今は一つ一つのご縁を感じながら丹誠と真心を籠めて「家が喜ぶか」を基本に据えて学び直しを続けていきたいと思います。

自他一喜福

昨日は43歳の誕生日を無事に迎えることができました。生まれてから15695日経ったことになります。平均の人生が80歳であると仮定すれば、人生は約30000日ということになります。実際には、それぞれに寿命がありますから何歳で死ぬのかは誰も正確にはわからないものです。

もしこの30000日だとするのなら、私は半分残っていないくらいです。もちろんまだこれだけ残っていると楽観的に生きてはいますが悔いのない人生を送りたいと誕生日のたびに自分のこの一年の生き方を見直しています。

有難いことに充実した日々を過ごせ、素晴らしい方々のご縁に恵まれ、自分自身を大切にしながら夢に向かって挑戦を続けることができてとても仕合せです。みんな私に「悔いのないように頑張ってね」と励ましてくれる言葉をたくさん頂けます。

今まで悔いたことが今の挑戦にもなり、失敗したことがすべての成功になり、耐え忍んできたことで情熱が強くなり、辛酸をなめ苦労してきたことで智慧を蓄えてきました。

人生というのは、偉大な問題を解決したいと強く願うことでそれ相応の出来事が舞い込んできます。そしてきっと善くなると信じ切ることで様々な奇跡やご縁を呼び込んでいきます。さらに理想は高くても足るを知りすべての存在に感謝していくことで運を引き寄せていきます。

あと7年で今の会社の代表を引退することを決心し公表していますから残り私が社長をさせていただくのは2555日です。この期間に、どれだけ理念を文化に昇華し、長期的に成長し続ける体制を設け、人財が働きやすく多様性を保ち、変化し続けることをお面白がるようにし、生き方と働き方と経済と道徳の一致ができるのか、果たして可能なのかと思うと戦々恐々として薄氷の上の歩くがごとしの心境でもあります。

しかし、人生はいつか誰にも終わりがきます。

後悔していい、しかしこの悔いが残らないように生ききる事が人生の真の喜びであり、世界人類の平和や幸福へのお役立ちだと私は信じています。

ここにきて自他一体が成長し、自他一喜福に転換です。

変化を求めて、変化を愉しみ、成長の仕合せをかみしめながら神人合一に随神の道を邁進していきたいと思います。

心の太陽

人間は振り返ることで、自分というものに出会います。自分のことを知るもっとも有効な手段は、この振り返りをするという習慣を持つことです。1日にたとえ5分でも、10分でも振り返る人は、自分を見失うことはありません。

私はこの日々のブログは振り返ったことを深めたものを綴っています。振り返りの時間は、もっともゆっくり振り返れる深夜に行います。そのほかにも、朝起きてからの日記や夜寝る前、他にも日中でも少し時間があれば振り返ります。

いつから振り返りオタクのようになったのか、それはメンターの影響が大きいと思います。

私のメンターは、「省みる」ということを何よりも重要にする生き方をなさっています。論語の三省を人生の自戒のようにされておられます。この三省は、一日に三回省みるという意味ではなく、漢字の三は、無限に広がっていく三ですから何度も何度も振り返るということです。

孔子は、論語で自分のことを三省で語ります。

「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」

毎日、孔子は自分の初心を失っていなかったか、自分を見失っていなかったかと、動機はどうだったかと、3つの軸によって自分自身を振り返っていたのです。

例えば、ご縁を大切に生きていきたいと願ったなら、自分はご縁に対して誠実だったか、活かしきったかと、ご縁あるたびに自分の動機や初心を確認していかなければなりません。そのうえで、安易なことをやっていたらすぐに反省し、ただちに修正できるものはし、できないものは次に活かし改善する必要があります。

こうやって習慣を持つことで、次第に自分を見失うことなく心のままに生きていくことができるようになるのです。

人生は自分自身との対話です。

自分がどう生きたか、納得のいく人生だったか、それは自分にしかわかりません。自分の心を無視して誰かのせいや環境のせい、言い訳をしてそのまま終わるのも一つの人生、それをすべて自分を磨く機会であり砥石だと福に転じて自分を味わい盡していくのもまた人生。

選択するのは常に自分自身の心です。

決心するというのは、その心を最期まで維持し続けるということです。そうい意味でこの維持こそが習慣であり、継続が力そのものである由縁なのです。

心は常に存在し、消えることはありません。脳の作用や感情によって霧がかかり曇ってしまっているだけです。どんなに曇ってもどんなに嵐がきても、太陽がまた出てくるように心も同様に風がやみ穏やかになれば澄んだ空気と共に太陽は現れます。だからこそ、私たち人間は心にいつも太陽を持ち続ける必要があると私は思います。

この振り返りの習慣は、心の太陽を確認する習慣です。

自分を見失わず、子どもたちが自分の人生を生ききることができるように私自身の背中を通して子どもたちに伝承していきたいと思います。

居場所

先日、居心地について改めて考える機会がありました。この居心地という言葉は、居と心地からできた日本語です。居は落ち着く場所のこと、そして心地は仏教語であり、心を大地から支えるものとあります。心が落ち着き心の支えになっている居処ということになります。

この居場所というものは、改めて考えてみるととても大切なものであることがわかります。人間は何をして誰といてどこにいてどうしていることがもっとも気楽にいられるか、この居場所とは自分の心が安らぐこと、常に落ち着いている空間や関係ができていることをいいます。

つまりは日本文化でいうところの場と間と和が存在し、心がそのものと一体になって自然に解けこんでいるようなものをいうように思います。

そして居心地が悪いとは何か、それは自分が無理をして自分本来の心が落ち着かないこと。この無理をするというのは、素の自分の価値を否定し自分を偽っている状態になっているということです。言い換えれば、素を出せないということです。この時の素とは何か、それは素心のことで素直でいられない状態になっているということです。

素直になれないのはなぜか、それは自分の感情に囚われたり、相手を勝手に思い込んだり、自分が他人にどう見られているかばかりを気にして本音を誤魔化していたりという状態のことを言います。

本人にとっても居心地が悪いと思いますが、周囲の人たちもそのような人たちがいることで居心地が悪くなるものです。居心地の善さというのは、みんなで協力して居心地を善くしていく必要があります。

それはどのようにしていけばいいか、それは本音の対話を通じて行われていきます。本音の対話とは、心音の対話です。心がどのように感じたかを素直に言える関係、お互いに素心のままで尊いと思いやれる関係、そういう絆を結び合っている居場所は居心地が善いと感じるものです。

人間は色々な価値観の人がいます、生まれながらに異なれば育った環境でも異なります。そういう人たちを同一の価値観で同一の環境下で管理することは不可能です。特に現代は多様性が尊重され、人口減少の中でより協力して助け合って生きていく時代に入っていますから余計に居心地を気にすることが増えています。

だからこそ居心地がよくなるための努力を、みんなで一緒に取り組んでいく必要があります。一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う関係を築き、役割や力が発揮できるような場や空間を環境に創りこんでいくこと。

これからのリーダーは、この「居場所」の価値に気づけなければ人々の調和や協働を引き出していくことはできません。今の職場や日本の環境を見つめ直し、何の刷り込みを取り払い、何をどこから改善するのか、そのプロセスを経て本物の居場所を創造うのが私たちの会社の本業の一つです。

子どもたちが安心して自分らしく生きて、自己を発揮していけるように見守る環境を弘げていきたいと思います。