場の純度

純度というものがあります。それは純粋さの度合いのことです。その中にある成分がどれだけそれだけのものかということでもあります。合わせて、人の想いや志なども純度のことを言うことがあります。どれだけ曇っていないか、透明度、クリアであるかということなども言われます。透徹された透明度でもあり、清廉で潔白、穢れがないことなどもいわれます。

私はこの純度には、密度というものもあるように思います。長い時間をかけて、水晶のように石化していくように密度を強めていくのです。時代と共に、その密度をどれだけ高められるか、そして磨き切るかでその純度は育っていきます。

これは文化の伝承でも同様です。

如何に伝える側と承る側が純度高く伝承していくか、その伝承の中にどれだけ曇りのない志で取り組むかというのが求められるように思うのです。

時には、時代と逆行しても、時代と迎合してもその芯の部分、核心のところは一切妥協しないで命がけで守り続けていく。そういう純度の高いものしか、遺ることはありません。

それは真心や祈り、そして願いなどいのちに繋がっているからだと私は思います。曇りがないものや純度の高いもの、清らかなものというのは魂のようなものです。形がないからこそ、空氣のように場に遺ります。私は場づくりを深めていますが、その人の純粋な祈りなどはその場にいつまでも宿し続けていくのです。

透明であればあるほど、透徹されればされるほどに場の純度はあがります。

場の純度こそ、私が暮らしフルネスで実践する一つの指針になっています。場を高めること、場を磨くこと、場を伝承すること。私が取り組んでいることは、その場の純度を甦生し続けることかもしれません。

先祖からの伝承を忘れず、初心を大切に子孫のために純度を大切にしていきたいと思います。

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