士魂商才

戦争というものがあります。この戦争というものはよく観察すると何が戦争で何が戦争ではないかが観えてくるものです。そもそも戦争の始まりは何か、それは利害であろうと私は思います。

太古の人類もまた、土地の境界や水、あるいは食料の確保で争いがはじまりました。縄張り争いなどもその一つです。生きるために仕方がないものであったものが、味をしめた人間が無限にその欲望を拡大してきて歴史は何度も同じ過ちを繰り返します。

どちらかに利益があればどちらかが被害を受ける。利害が一致したものたちが徒党を組んで争うことで戦いは続きます。日本では古来、そこから武士道という精神が生まれました。ただ利害を争い合い、修羅のようになるのならお互いに武士道を保って自律していこうと戦う相手を自己の修養に根差したのです。

そもそも平和というものはどういうことか。それは他者と利害を争うことはではないことはすぐにわかります。

現代では経済戦争といって、武器をお金にして争います。お金がもっとも利害と影響が深いからです。世の中のマーケティング用語やビジネス用語はほとんどが戦争用語と同じだといわれます。先にどれだけ市場を獲得するかや、独占権を与えないか、権利の主張なども戦争のやり取りと酷似しています。武器でいえば最終兵器は核兵器、お金であれば最終兵器は世界恐慌ということでしょう。どちらも使っていないだけで、使うとそこで終わるということだけがわかっています。

かつて商人の中には、士魂商才といって武士道精神のままで商売をするという人たちがいました。江戸時代、戦国時代が終わり刀を仕舞い自立していく道を求めました。上杉鷹山や二宮尊徳、石田梅岩や三浦梅園などそれぞれに平和を願い道を歩みました。

結局、戦争は巻き込まれれば誰かのせいだといっていますが本当は誰にでも自分の中に戦争の火種はあるということです。人類はそれを運命だとわりきって文明が消滅するのを何度も繰り返していくのも宿命だという人もいるかもしれません。

しかし子どもたちのことを思うと、何かそれを少しでも調和できないか。もっともバランスのよいところはどこかと考えるのが政治でもあり、生き方でもあると私は思います。

利害を誰かがいいだしたら、みんなそれを言い出します。誰かが律してお手本を見せれば、みんなが律してお手本をしようと試みるものです。先祖の中には、長老と呼ばれる人格を磨いている人をリーダーにして群れを纏めてきたという実績もあります。これもまた人類存続の智慧の一つだったのでしょう。

やり方や工夫はまだまだたくさん地球に遺っていて、学ぼうとすればいくらでも学び直すこともできます。テクノロジーが進んだ今こそ、目覚める人も増えていくはずです。

引き続き、子どもたちの平和を願い挑戦を続けていきたいと思います。

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