在来種というものがあります。私は高菜の在来種を守っていますが、在来種の魅力や徳性を感じるとこれは必ず伝承しなければという使命感が湧いてくるものです。
その理由は、もともと農薬や肥料が必要にならずその土地の力を最大限に引き出す種であるからです。とても不思議ですが、在来種の種は場所を変えれば形も姿もまったく変わります。味も変わり、育ち方すらも異なります。まるで土地と一体になっているようです。
その土地の持っているそのもののあるがままの徳の姿になるように種が順応するのです。まるで依り代のようです。その反対に種を加工されいるものは、どこでつくって育てていても同じような姿形、味になります。これは別の観点で観れば、土地とは関係がない、その場所の影響も受けないということでもあります。極端に言えば、その土地の力などではなく養分さえあればある程度育つということでしょう。先ほどの依り代のようにはなりません。
これは誰でもできるように、すぐに簡単に育つように、 病気や使い勝手が悪くないようにと人工的に便利に品種改良したということです。これも決してただ一概に悪いとはいいません、使いやすい野菜になったり、甘くて今の人たちに美味しく感じられるようにもなったでしょう。それにお金になります。結局、売られて買われるものを追及すると、舌先で美味しいと感じたり視覚で美しいといわれるものの方が消費経済を活性化させるのです。
しかし私のように暮らしの方などを優先し自然にこだわっているタイプだとそれがいいとはなかなか思えないものです。いのちが一緒に生きる喜びや、どの場所で誰とやるか、ご縁のお導きかどうかなどとやっていると判断基準がお金から遠ざかっていくからです。
そうしていると在来種の高菜であれば、元氣がありハリやツヤがあり個性が溢れてそれぞれに徳性を遺憾なく発揮している扱いづらいものの方が洗練されているように観えるのです。味も色もまた独特で、同じ高菜などありません。
畑にあるすべての高菜がそれぞれの個性が出ます。あるものはトゲのようなものがあったり、またあるものは紫になっていたり、肉厚だったり、細くて高さがあるものになったり、面白いくらい同じものはありません。
在来種の魅力はまさにその種に具わった「徳」にこそあります。
そのような畑には百花繚乱の花々のように美しい種の個性が充ちて、居心地がよい場が産まれます。その場にいるだけで、そこで作業するだけで元氣をいただけるのです。私が見守る保育や子どもたちの発達のことに半生以上関わってきたから特にそう感じるのかもしれません。
在来種を残すのは、一般的に滅んでいく伝統文化や古民家を補助金でアーカイブで残したり、見世物にしたりして文化を守ろうとしているわけではありません。むしろ、むかしの暮らしを今の実践していくのと同じで在来種の方が仕合せや豊かであり、一緒に生きる時を刻むのに楽しく安心で幸福になるからです。
私は在来種を守っていますが、それは種だけでなく古樹や場所も含みます。英彦山の枝垂れ桜も柚子の木もまた在来種です。引き続き、在来種のように私も生きて歩んでいきたいと思います。
